
石垣と杉垣に守られた果樹園
ここは「クロチ」と称する場所ですが、どこまでがクロチなのかは知りません。
みかんが黄色に色づいて、そろそろ収穫時だと思います。
白や茶色に見えるのは、袋を被ったみかんです。
鳥に食べられるのを防ぐためでしょう。


【クロチ道】
あの稜線のくびれた箇所(峠)は、この尾根を向こう側に越える道があります。
中学生時代の3年間はそこを通って、学校に通ったものです。

今はこの尾根を通る人は誰もなく、草・低木が繁茂しております。

ですから、神社もそれぞれの集落に一つずつあったそうです。
その後、現在のように1箇所にまとまったようです。
ということなので、現在果樹園になっているこの一帯に、かつては集落があったのではないだろうかと思います。
たしかに、このあたりは南に宇和海を臨み、日当たり

では、いつ? なぜ? かつての集落がなくなったのだろうか?
現在のように、集落がひとつにまとまったのがいつの時代かは分からないのですが、『町誌』によれば、

名取の客神社は、『寛永年間(1624~1644)の創立であるという。当初の氏神は字黒内に鎮座の天満宮であったのを、寛永年間に客神社を創立し、氏神とした。』
とあります。
ここでの字黒内というのは、「クロチ」のことだろうと思われます(クロウチ⇒クロチ)。
ですから多分、この寛永年間頃に現在のようにひとつの集落にまとまったのでしょう。
では、なぜクロチ集落がなくなったのか?
??????
私は、自然災害が起こったのではないだろうか? と想像しております。
この地域は、住宅地とするには地盤が良くないと思われます。
僭越ながら、ここの地形はどう見ても地すべり地形です。

【海から見上げたクロチ周辺の地形】
といっても、誤解なきように申しますと、現在地すべりが起こっている、あるいは進行中、と言う意味ではなく、かつて地すべりが起こり、現在のような地形に至った、と言うほどの意味です。
ですから、ある意味現在は、“AFTER”ということで、それなりに安定していると思われます。
思い起こせば子供の頃、2枚目・3枚目の写真で見える峠付近には、粘土があって、それを取りに行った記憶があります。
あの粘土は、地すべり粘土だったのではなかろうか。


