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タンゴは男女の「間合い」にも似て、眠っていた感情に官能の火を着ける。
哀愁、孤独、情熱、官能・・・タンゴはさまざまに形容されるが、その本質は、男女の「間合い」のように思われる。
もともとは130年ほどまえ、アルゼンチンはブエノスアイレスの港町で生み出されたというタンゴ。
世界から集まった単身の男たちの寂しさの発散のような踊り。
いつしか、酒場の娼婦たちと絡み合って踊るようになり、男女のペアリングが普通となった。
タンゴの特徴は、アストル・ピアソルの演奏に代表される3:3:2のリズムと、ロマンチックとでもいうしかない主旋律である。
アルゼンチン・タンゴは華やかなりしパリで大ブームとなり、ヨーロッパ経由のそれはコンチネンタル・タンゴといわれた。
互いの距離を確認するかのように、視線を合わせる。
音楽とともに、手を合わせ、接近し、また離れ、相性を確認しあうかのように、再び体を寄せ合う。
音楽とともに、戯れあい、肉体を絡ませながら、互いの荒げる呼吸と身体の火照りを探り合う。
リズムが速まるとともに、踊りも加速する。
旋律が高揚するとともに、息遣いも激しくなる。
動作は、性撫にも似て、きわめてエロティックだ。
踊るのは対なる男女であるが、観客の視線を激しく感受し、それがまた演じるふたりを過激にしていく。
呼吸の合った踊り手たちになると、身体をこれ以上ないほど密着させ、見ている側まで、胸が詰まってくる・・・。
「愛されるために、ここにいる」は「小さな宝石のような映画」といわれ、半年以上も本国フランスでロングランとなった作品である。
ほんとうに、なんということもない、退屈な日常の中にポッと秘めた情熱が花開いたような佳品なのだが、たしかに心に残る。
父から継いだ「執行官」という職業を続けているジャン=クロード(パトリック・ジュネ)。執行官とは日本で言えば「日本における独立単独性の司法機関で、地方裁判所に置かれる。裁判判決の執行や、民事執行手続における執行機関としての業務や訴状等の送達(執行官送達)を職務として行う。」(WiKipedia)ということだが、フランスでも似たような職能なのであろう。
裁判所管轄の役人のようでもあるし、この映画のように親子に継承され、事務所のような拠点でワークをしているところをみれば、司法からの委託業務先のようにも見える。
この映画のシーンでもみかけるが、たとえば立ち退き命令を相手先に届ける。あるいは半強制的に職員を従えて、立ち退き手続きを見守る、といった働きをしている。
誰がどう想像しても、ストレスの多い、どこかで淡々と感情のないマシーンのように振舞わなければ、やっていられないような気さえするような仕事である。
父親(ジョルジュ・ウィルソン)はもう高齢で施設に入っているが我儘で職員を手こずらせている。
ジャン=クロードは、定期的に父を見舞い、モノポリーに付き合ったりするが、父親は感謝の言葉一つなく、むしろカリカリするような嫌味を投げかけてきたりする。
温室で花栽培を趣味にしている別れた妻との一人息子も、なかなか定職に就けず、事務所で助手をさせることになるが、頼りなくて見ていられない。
そんなこんなで50歳を迎えた。変わらぬ日常。気付いたら、一人ぼっち。
ある日、通りをはさんだ建物の一室で開かれている、タンゴ教室に見入る。
なんだか、身体が自然に動き出す。
その教室で出会ったのがフランソワーズ(アンヌ・コンシニ)。
作家志望の男性と婚約しているが、一緒に通おうと誘った教室にも、男性は仕事を理由に来てくれない。周囲は、結婚式を待望しているが、どこか迷いも捨てきれない。勝手に式の準備に奔走する母を見ていると、苛立ちも湧いてくる。
そんな二人が、教室で出会い、互いにタンゴを踊る中でその「間合い」が心地よく、無意識に相手を捜し求めるようになっていく・・・。
主人公は愛することも、愛されることも知らない(と、どこかで思い込んでいる)。
だけど、フランソワーズとタンゴを踊る何分間かは、魂が高揚する。
少年の日に帰ったかのように、ウキウキしてくる。
フランソワーズは自分に気があるのだ。
もしかしたら、自分の日常は、変わるかもしれない。
父親のように施設で鬱屈し他人に毒舌をはいているような人生になりたくない。
息子のようなおどおどした身振りには耐えられない。
俺は変わるんだ!
ある日、フランソワーズが婚約していることを知ってしまうや、主人公は子供のように唐突に拗ねてしまう。
フランソワーズにも当り散らし、父親や息子にも癇癪をぶつける。
勝手に、自分が、舞い上がっていたに過ぎないのに・・・。
けれど、ジャン=クロードの絶望は、痛いほどわかる。
青春時代なら、「ふられちゃった」で済ませられるかもしれない。
でも、もう自分も初老を迎えている。
もしかしたら、最後のチャンスだったかもしれないのに。
結局、俺なんか、誰にも愛されることはないんだ。今までも、これからも。
こんなつまらないように見える人生を送ってきたジャン=クロードにも、監督の優しいまなざしが向けられる。フランスでロングランをはたしたのも、なるほどという気にもなる。
父が死に、鍵のかかった施設の箪笥を開けると、主人公の青春時代のスポーツで活躍したトロフィーや切り抜き記事が大切に保存されていた。
先日、喧嘩したときには、「あんなもの、全部捨ててしまったさ」と、毒づいていたくせに。
観客は知っている。
いつも、言い合いになって、施設から帰る主人公を、そっと病室の窓からみつからないように見送っていた寂しそうな父を。
息子も、執行官の仕事は辞める、と主人公に宣言する。
仕事もそうだが、父のつまらなさそうな姿をみるのが、耐えられなかったのだろう。
不器用な息子は息子で、親を気遣ってもいる。
そして、フランソワーズは、子供のようにわめき散らした主人公が、また恥ずかしそうに教室に戻ったとき、にっこりと微笑んで、迷わず前に立ち、情熱的に心から身を任せたかのように、タンゴを踊りはじめるのである。
この人とは、これからも、このタンゴのように、いい「間合い」で付き合っていける。
彼女の思いは、ストレートに伝わっている。
大丈夫。ジャン=クロードは、しっかりと愛されている。
そして、彼はようやく、自分自身を、ちゃんと愛そうと、し始めるのだ。
TBありがとうございました。
地味な映画でしたが、とても心に沁みました。
若くないから子供のように癇癪を起す。。
そうなんですね。
そういうことなんですね。
kimion20002000さんの説明で、ジャン=クロードの
あの大人気ないような行動が、すとんと納得できました。
僕、この主人公とほぼ同世代ですから。
勝手に心のうちを、類推しているだけですけどね。
ちなみに、僕はタンゴは踊れません(笑)
こういう小品がロングランヒットするフランスって、いいなぁ~と思いました。
大人な国なのでしょうか。
あの香水、プレゼントしたのでしょうか?
ではでは、失礼します。
いいですよね。
こういう映画は、見終わった後、ワインバーにでも行って、語りたくなりますよね。
静かなトーンのなかに、官能的なタンゴがするりと入り込む。
不思議な感情のかき立てられ方をする映画だと思います。
おっしゃるとおりですね。
静かなのに、官能的ですね。
愛情を表せない父親が痛々しく思えました。
「小さな宝石」のネーミングも素敵ですよね。
TBさせて頂きました。
さんざん、憎まれ口をたたきながら、寂しそうに息子が車に乗り込むのを、カーテンに隠れながら見送るシーンには、心を打たれました。
それから、ジャン=クロード1人が
舞い上がってた訳でなく、フランソワーズは
自分を偽ってましたが、盗み聞きが趣味の秘書が
見破ったように相思相愛でしたよね。
素直に生きなきゃと思いました。
ちょっと、日本では人情モノは多いんですが、中年を主人公にしたお洒落劇は、なかなか見当たりませんね。