冷徹で粗暴な借金取りの男が、勝気で男勝りの女子高生と運命的に出会い、互いに過去のトラウマから解放されていく姿を描く純愛ストーリー。俳優としてキャリアを重ねたヤン・イクチュンが、若手注目株のキム・コッピを相手役に迎え、パワフルな演出で初監督と主演とを務める。強権的で絶対的な存在の父親から逃れられないという似たようなトラウマを抱えた男女が、魂の交流を重ねることで心情が変化していく解放のドラマに注目だ。[もっと詳しく]
ヤン・イクチュンが「自分」を吐き出した、剥き出しの暴力の痛みが突き刺さる。
冒頭からサンフン(ヤン・イクチュン)は荒れている。
取立ての仕事で、高校生ぐらいに見えるファンギュを引き連れて、支払いが遅れている相手を、どつきまわす。
ボコン、バコン。平手ではなく、握りこぶしで、本当に殴っているかのようだ。
蹲った相手に、容赦なくケリを入れる。
サンフンは傷ついた獣のように、心を開かず、世界に対して吼えまくっている。
先輩のマンシクが社長である取立て屋の事務所でも、若い連中をこづきまわす。
銀行通帳も、携帯電話も持たず、報酬を渡されても、たいして面白くもなさそうな顔でパチンコ代に消えてしまう。
そんなサンフンがちょっと違った表情を見せるのは、甥っ子ヒョンインをかまっている時や、母子家庭だが母親違いの姉と顔を合わすときや、先輩のマンシクに憎まれ口を叩いている時ぐらいだ。
チンピラであるサンフン(ヤン・イクチュン)は、幼い頃、家庭で暴力を振るい、その結果として妹と母を死に追いやった父スンチョルを憎悪している。
そしてその憎悪をどこに向けていいかわからない。
取立ての相手を追い詰めたり、生意気そうな男に殴りかかったり、公道でペっと唾を吐いたりして、肩を怒らして歩いている。
そんなサンフンがある日、唾を吐きかけてしまった相手が女子高校生のヨニ(キム・コッピ)。
普通なら「危うきに近づかず」となるのだろうが、ヨニは「謝んなさいよ!」と食ってかかり、平手をかます。
サンフンはそんな自分に刃向かうような相手に慣れていない。
思わず、拳骨でヨニの顔面にパンチを見舞う。
ヨニも家に帰れば、ベトナム戦争帰りの父親の異様な振る舞いと不良がかっている弟ヨンジェの世話に、途方に暮れている。母はもうこの世にはいない。
お互いの名前も知らないサンフンとヨニは、「おい、チンピラ」「なんだ、女子高生」と互いをけなしあいつつも、どこかで不思議な親愛感のようなものを醸成していくことになる。
製作、監督、脚本、編集、出演の五役をこなしたヤン・イクチュンの、もちろんインディーズであるが、初の長編映画作品である。
撮影当時32歳であった「自分のすべてを叩き込んだ」作品は制作費が足りず、自分の家を売り払うことまでした。
そしてロッテルダム国際映画祭でグランプリを獲得したのを皮切に、国際映画祭などで25以上もの賞を獲得し、第十回東京フィルメックスでは史上初の最優秀作品賞と観客賞をダブル受賞した。
僕たちは荒削りなこの作品に、ヤン・イクチュンの表出したかったものを、十分に感じ取ることが出来る。
場末のなんの感傷も入り込むことができないような取立て屋の日常に、サンフンがその拳を振り上げれば振り上げるほど、ずしりとくるような痛みが観客を襲う。
殴られるものも殴るものも、なんの解放もなく、ただただ暴力が剥き出しになり、切れたサンフンの獣のような孤独だけが伝わってくる。
あるいは本当なら「普通」の女子高校生であろうヨニの突っ張った言動に、年には似合わない疲労感のようなものが痛々しく伝わってくる。
サンフンもヨニもお互いに自分のことを相手に語るわけではない。
けれども罵倒しあいながら不思議とウマが合うのはなぜか、自分たちが自覚しているわけでもない。
「教えてくれよ、女子高生。どう生きりゃいい?」
そして漢江の川べりで、深夜に並んで座り、サンフンはヨニの膝に頭を乗せて嗚咽し、ヨニもやさしく手を添えながら、号泣するのを必死で堪えている。
この美しいシーンだけで、この作品は長く記憶されてもいい。
ヤン・イクチュン監督は、そんなサンフンの再生を用意した。
「もうこの商売は辞めるよ」。
ヨニという存在ができたからか、甥っ子との日々に楽しさを感じるようになったのか、殺してやりたかった父が手首を切り、その父を担いで病院に運び自分の血を提供して、なんとか一命をとりとめたからか・・・。
先輩のマンシクは「俺も辞めて焼肉屋でもやるか、おまえの退職金も用意してあるよ」と言ってくれる。
そしてヨンジェを連れて最後の取立てに行くことになる。
早く終わって、甥っ子の幼稚園の学芸会を見に行こう。
そこにはヨニも姉もマンシクも来ている筈だ。
もしかしたら父親も来るかもしれない・・・。
けれども、若いヨンジェはそんなことは知らない。
かつてのサンフンのように、切れて暴走する。そして彼の収まらない憤怒は、サンフンに向かうことになる。
ヨニ、サンフン、ヨンジェのトライアングル構造を、本人たちは気づいてもいない。
救いのない結末のようにも見えるが、ヨニやサンフンが父親との葛藤をようやくのように止揚しかかったこと、そして自分にもかつては幸福な時代の片鱗があったことを思い出せたこと、血のつながりの有無とは無関係に心を許せる「他者」もいることに気づいたこと・・・そこにこの映画の「愛」がある。
もちろん、ヨンジェはかつての荒れるサンフンのように、取立て屋の仕事に自分の孤独を発散させるしかなくなっている。
そしてヨニは、またそんなヨンジェに、付き合っていかなければならないのだとしても。
これが事実ならば、まさしく神話的構造になるのですが。
>ヨニの母親を殺したのは、サンフンであることを
そうなんですか。ヨニの実の母親は、娘を心配して飛び出て車にはねられたんですよね。
ヨニの母親は屋台をやっていたんでしょうが、どういういきさつで死んでしまったのか、僕は見落としているかもしれません。
サンフンと関連付けては、見ていませんでした。
このシーンは、名シーンでしたね。私ももらい泣きしてしまいました。
ところで、上でお話されていますが、ちらっとですが、ヨニ母を死に至らしめたのが、サンフンだった・・って感じのシーンがありました。
ラストシーンで、ヨニが屋台にいる兄の姿を、昔のその母が亡くなるシーンに重ねて、あっ!と思い出す(あれはサンフンだったと、ハッと気がついた?)という、非常に残酷とも思える処で終わっています・・・。私もここ、ハッキリ確信が持てないでいたのですが、友達ブロガーさん(真紅さん)がハッキリそう書かれていたので、そうなのか・・・と。
屋台のラストにしたのは、そういう意味だったかもしれませんね。
罪の輪廻のようなもの、業の深遠のようなものにつながっていきますね。
いやあ、僕もうっかりしていて、そこまで思いが至りませんでした。
KUMA0504さんと真紅さんの炯眼に感服致しました。
そうして神話的にドラマはヨニの姉弟を中心にまた紡がれるんでしょうかね。