サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

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mini review 09401「ダウト ~あるカトリック学校で~ 」★★★★★★★☆☆☆

2009年10月04日 | 座布団シネマ:た行

オスカー俳優のメリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンが、鬼気迫る演技でぶつかりあ合う心理サスペンス・ドラマ。1960年代のカトリック系学校を舞台に、神父と児童との関係への強い疑惑を募らせていく女性校長の姿を描く。トニー賞と、ピューリッツアー賞を同時受賞した舞台劇を原作者のジョン・パトリック・シャンレー自身が映画化。善良や正義が深く掘り下げされ、観る者を人間の心の闇へと誘う意欲作。[もっと詳しく]

たぶん日本に住む不信心な僕たちには、とてもわかりにくい主題なのかもしれないが。

出演しているメリル・ストリープ、フィリップ・シーモア・ホフマン、エイミーアダムス、ヴィオラ・ディヴィスの4人が、それぞれ数多くの映画祭で、この作品で主演賞や助演賞を獲得している。
たしかに、演技達者な役者たちの、丁々発止を見ているのは、観客としては楽しいものがある。
ヴィオラ・ディヴィスは出番はそれほど長くないし、残りの3人はそれぞれ司教でありシスターでありという役柄だから、衣裳もきわめて地味であり、もともとはトニー賞とピューリッツァ賞をW受賞している「密室」舞台劇を映画化したものであるから、ほとんどのシーンは教会やカトリック系のスクールという閉ざされた空間の中で、息詰まる心理劇が進行するという、静かなドラマとなっているにもかかわらず・・・。



ニューヨークはブロンクスの街角に実際にあったスクールをモデルにしたセント・ニコルス・スクール。
演劇でももちろん台本を書いたわけだが、監督・脚本・原作のジョン・パトリック・シャンリィが、生まれ育った街角を舞台にしている。
中西部の敬虔な保守的な中産階級が通う、教会やスクールとは異なっている。
イタリア系やヒスパニックや、もちろん黒人も多く、白人も下層階級が中心を占めている町である。
たぶんそういう町だからこそ、歴史あるカトリック教会あるいはカトリック系スクールという古典的な倫理や規則や価値観が支配する空間であっても、時代の変化に浸潤される度合いが大きいのではないか、という推測が出来る。



ことに、時代は1964年、公民権運動が大きなうねりを巻き起こし、前年にはケネディ大統領の暗殺事件もあった。
新しい権利意識は、無意識に、旧態的な世界を揺さぶっていくことになる。
この作品では、ホフマン演じるフリン神父はある意味で、カトリックの世界も個人や人種に開かれていかなければならないという進歩派のように設定されている。
一方で、ストリーブ演じるシスター・アロイシスは、人間の欲望は限りなく、それはサタンの誘惑であり、あくまでも規律を尊重しながら禁欲的な環境を守らなければならないという、保守を代表するかのような存在に設定されている。
エイミーアダムズ扮するシスター・ジェイムズは、ただただ純粋で善意で無垢で希望に満ちたシスターに同定されている。



ほんとうは、日本に住むしかも信仰心の薄い僕たちにとっては、この登場人物たちのせめぎ合いは、わかるようでわからない世界である。
もう僕たちの世代にとって見れば、厳格な権威や不可侵の階級性というものが、どこにも存在しないような、良いも悪いものんべんだらりとした世界に馴れ親しんでいるからだ。
だから、逆に、フリン神父のような「説教」というものを聞いてみたい気にもなるし、シスター・アロイシスのような骨董品のような頑固な保守性に呆れながらもどこか懐かしさを感じたり、シスター・ジェイムズのような使命感に燃えた無垢な存在を、天然記念物のように珍種として見做さざるを得ないような位置にいる。
別に「聖書」に典拠するかどうかは別として、人間というもののおそらく歴史や国境をこえたところにあるであろう普遍性のようなものを、わかりやすい比喩で説諭してくれる存在など、身近なところではまず誰もいない。
人生の達人はどれほどもいるかもしれないが、それはやはり「言葉」によって現れることになるからだ。
イエスを信じるか否かにかかわりなく、僕たちは本質的な「言葉」を望んでいることは疑いようがなく、けれどもそんな言葉は、日常の中で(もちろんあふれる情報テキストのなかで)、ほとんど立ち現れることはない。



フリン神父の説法は人を惹き付けてやまない。
そこには、たぶん「欲望」に正直であろうとするフリン神父の人間性のようなものが、滲み出ているからだろう。
けれど、スクールの校長であるシスター・アロイシスは、どこかでそんなフリン神父に警戒心を持っている。
自分の「経験」からくる、危険信号のようなものである。
一方で、新米シスターで教師のジェイムズは、アロイシスの「ほっておけば人は悪に染まる」といったような性悪説に窮屈さを感じている。
いま目の前のこどもたちに愛情をもって接したい、けれど、「神」に仕えることはわたしの使命だ。



閉ざされた関係世界の中で、このスクールとしてははじめての黒人の生徒であるドナルド・ミラーに対して、ひとつの疑義が持ち上がる。
フリン神父と密室でふたりの時を過ごし、しかもドナルドの様子がおかしく、アルコールの匂いもしたというものだ。
もちろん、「性的嗜好」に対する疑惑に他ならない。
アロイシスはここぞとばかり、フリン神父を糾弾することになる。
フリン神父もアロイシスを、立証も出来ないくせに人を疑うのかと、激しく応答することになる。
返す刀で、アロイシスの頑固な旧弊性を非難する。
この「疑い」の種を蒔いてしまったジェイムズは、おろおろするばかりである。



結局のところ、フリン神父は、この教会を去ることになる。
結果として、アロイシスはフリン神父を追放することによって、自分や教会・学校を「守った」ことになるのだが、ジェイムズの前で、いきなり激しく「慟哭」することになる。
人を「疑い」罵ることでたとえ神から離れててでも、自分の務めを果たすこと、そう思い決め、ミラの母親の懇願も聞かず、フリン神父追放の急先鋒を演じたが、しかし、フリン神父に「嘘をついて」まで、追い込むという行為をしてしまった。
そんな不寛容な行動は、ほんとうは「神」に背いた行為ではないか。
そして、人を赦すことも、自分はできなかった。
時代は変わっている。その時代の変遷に対して、いつまで自分の価値を貫き通せるか、そのことの不安が、あのような激した行動に自分を駆り立てたのではなかったか。
「神」はそんな自分を視ている。自分の行いを恥じて、ロザリオを隠そうとも、「神」に嘘はつけない。



原作のジョン・パトリック・シャンリィは、9.11の混乱したアメリカで正体の見えない「テロリスト」という幻想に怯え、イラン戦争でもありもしない「大量破壊兵器」を果てしなく疑っていく社会を批評的に観察する中で、このカトリック教会を舞台とした「疑い」の物語劇を、書き下ろしたのだという。
世界のあらゆる現象に、「疑惑」や「陰謀」は実際に、存在するかもしれないし、それは穿った見方かもしれない。
けれど、本当に怖いのは、隣人に対する果てしない「疑い」が、とめようがなく生じてしまうということだ。
自分が信じるものを守ろうとすれば、どこかで仮想の「敵」をつくることになる。
その仮想の「敵」と闘うことで、自らのアイデンティファイを担保しようとする。
けれど、ほんとうは、そうした「疑い」は、自分の統御できない恐怖心の代替に過ぎない。
そのことは、内心、自分自身が一番よくわかっているのではないか。
神は「隣人を愛せよ!」と言う。
けれど、私は「隣人」を追放することで、自分を保守したのかもしれない。
そのことに、「疑い」の余地はない。


 

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4 コメント

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TBありがとうござました (かめ)
2009-10-05 10:46:26
こんにちは、
テロリストやイスラムに対する「疑い」は、確かにアメリカ人の中に、必要以上に根付いてしまいました。
いいテーマと役者がそろった作品でした。
かめさん (kimion20002000)
2009-10-05 11:30:02
こんにちは。

どこまでが、情報操作でどこまでが偏見と不安にねざす「疑い」なのかが判然としないところもありますけどね。

なかなか高度な作品であったと思います。
弊記事までTB&コメント有難うございました。 (オカピー)
2010-05-29 01:03:45
kimionさんの最後の一文と似た趣旨かもしれませんが、女校長は自分の弱さを厳しい戒律の中に押し込んでいたような気がしてします。
結局、自己撞着してあの幕切れになるのですが。

イラク戦争については、風刺ではなく、モチーフと考えた方が普遍的なお話になる為映画としては深いものになりますね。
オカピーさん (kimion20002000)
2010-05-29 02:45:32
こんにちは。
やはり映画は、脚本と達者な役者さんだなあ、とこういう作品を見ると思わせられますねぇ。

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