サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

東京人/安西水丸(イラストレーター)/71歳

2014年03月25日 | 毎日がメメント・モリ

安西水丸氏死去=イラストレーター、作家

時事通信 3月24日(月)15時44分配信

 安西 水丸氏(あんざい・みずまる、本名渡辺昇=わたなべ・のぼる=イラストレーター、作家)19日午後9時7分、脳出血のため神奈川県鎌倉市の病院で死去、71歳。東京都出身。葬儀は近親者で行った。喪主は妻満寿美(ますみ)さん。後日送る会を開く。
 日大卒業後、ニューヨークのデザインスタジオ、平凡社などを経て81年フリーのイラストレーターに。優しいタッチの作風で人気を得た。作品に、絵本「ピッキーとポッキー」や漫画「青の時代」などがあるほか、小説やエッセーでも活躍。作家の村上春樹さんとの共著「村上朝日堂」や、彼の作品のイラストも多数手掛けた。87年日本グラフィック展年間作家優秀賞。東京イラストレーターズ・ソサエティ理事長。

水丸さんが『ガロ』に連載を始めたのは、1974年からだ。
僕は、この頃大学新聞の編集長をしていたが、『ガロ』は1年生の頃から毎月購読していたので、すぐに水丸さんの
独特の線に、惹かれることになった。

『ガロ』での画風は大きくふたつに分かれる。
ひとつは、「テンテン天丸のドロン漫遊記」のようなちょっと杉浦茂を思わせるような軽いイラスト物語風のもの。
もちろん、電通ADを辞めてアメリカに渡り、日本に戻って平凡社ADとなり、『太陽』の編集者であった嵐山光三郎にイラストレーターへの転進と『ガロ』への寄稿も勧められたわけだが 、その嵐山さんが「なんとかでアール、エヘン!」などというR文体を開発していた頃だったから、そこへのヤンチャぽいイラストもそのタッチだった。
もうひとつは、自分の少年時代を回想しての叙情的な作品群。ほとんどは幼少の頃、喘息を患っておられた水丸さんが、母上の実家である佐倉で育った頃の体験をベースとしている。
このあたりの抒情的なタッチが80年に刊行された『青の時代』や82年の『東京エレジー」につながっていく。
あと、もっと童画風のものがあり、最初の著作は、福音館から出版された嵐山さんとの共著『ピッキーとポッキー』(76年)だった。

70年代半ば、僕たちの大学新聞は活版印刷だった。
そこでいろいろ遊んでいたのだが、「遊び」特集とかやったときに、カットをほとんどただみたいな料金で何点もお願いした。
活版印刷だから、その原画は、鉛の型として出てくるのだ。
それを十何点、僕は宝物のように持っていた。

大阪に来ていただいたこともあったし、どこか旅行先でドッキングしたこともあったし、原宿の家や仕事場でお会いしたこともあった。
ほとんど20代から30代にかけての頃だったから、ずいぶん昔のことだが、それからも水丸さんのお仕事はいつも楽しみに見させていただいていた。

水丸さんは、スノーグローブのファンであり、コレクターだったが、町で散歩中にスノーグローブを見かけたりすると、水丸さんの笑顔がさっと浮かんでくるのだった。

東京人の感性的なものがあるとしたら、少し年上だが、僕にとっては水丸さんがそうなんだよな、と小声で言ってみたい気がいつもしていた・・・合掌!
 

 


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