喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

四国最西端の三崎小中学校合同運動会 2014

2014-09-13 | ブログ
 明日、9月14日(日)は、四国最西端の三崎小学校・三崎中学校合同運動会。

 今日、その準備が終わり明日の本番を待つばかり。
翌日の運動会ができるかどうか、天気の心配をした年が続いていた。
こんなに何の心配もいらないのはめずらしい。


                                「三崎中学校 校舎」


                           「夕日に映える きれいに張られた万国旗」

 今日は明日に備え、早目に家路を急ぐ。
途中、ヒラバヤから神崎の番匠鼻を望む。
海の向こうには、九州の大分県国東半島が見える。



 オレンジ色のきれいな夕日が沈んでいった。



 家に帰り着くと、澄んだ夜空には天の川などたくさんの秋の星が輝いていた。
明日は、最高の1日になりそうだ。

                  岬人(はなんちゅう)

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9.11.2001 アメリカ同時多発テロと平和なふるさとの暮らし

2014-09-13 | 社会
 一昨日、9月11日は忘れられない日。
今から13年前の2001年、航空機を使った4つのテロ事件は突然起こった。


 
 『世界貿易センタービル・ツインタワーの北棟は、8時46分にアメリカン航空11便の突入を受けて爆発炎上した。
続いて、9時3分に南棟がユナイテッド航空175便の突入を受け、爆発炎上した。

 2機目の激突は1機目の激突後に現場のテレビ中継を行っていた際に発生し、
世界各国に1機目の衝突を臨時ニュースとして国際中継していた間に起こった事件であったため、
前代未聞の衝撃的な映像を多くの人たちがリアルタイムで見る事になった。

 ツインタワーは、建設当時の主力ジェット旅客機のボーイング707が突入しても崩壊しないよう設計されていたはずだった。
だが、実際に高速で突入した同サイズのボーイング767によってビル上部は激しく損傷、
漏れ出したジェット燃料は縦シャフトを通して下層階にまで達し、爆発的火災が発生した。

 火災の熱による鉄骨の破断でタワーは強度を失い、9時59分に南棟が突入を受けた上部から砕けるように崩壊した。
北棟も10時28分に南棟と同様、砕けるように崩壊した。

 ツインタワーは、特に北棟で人的被害が大きく、死者は約1,700人(救護活動中の消防士を含む)であった。
特に突撃を受けた92階以上に被害が多く、この階以上の在館者全員が死亡したと言われている。
それは航空機に突入されたフロアの階段が大きく破壊され炎上し、避難経路が遮断されたためである。
 
 南棟も同様に激しく炎上したが、こちらは旅客機が外側に少し反れて激突し、反対側の階段が損壊や延焼を免れたため、
突入フロア以上でも延焼の少なかった部分にいた十数名は無事避難することができた。
 また、突入前の未然避難者も含めると約7割の人が生還している。

 ただしこの時、炎上部より上にいた人の一部が、煙による苦痛や絶望感から飛び降りを行い、
消防士や避難者の一部が落下してきた人の巻き添えになり命を落とした。
 また崩壊時の破片や煙により、ビル外でも数人が命を落としている。
一方、タワー崩壊後も館内で奇跡的に生き残っていた人も数名おり、それらの人々は当日夕方に救助された。

 北棟および南棟の崩落による影響で、敷地内の他の4つのビルも崩落・炎上し、
8時間後に敷地北隣の高層ビル・世界貿易センター7号棟もともに崩落。
 道路は完全に封鎖、世界貿易センターの地下をターミナルとしていた地下鉄やパストレインもトンネルの崩落で走行不能に陥った。
これらのことからニューヨークでは合計で2749人が死亡するという大惨事になった。

 この事件以降、世界貿易センタービル跡地は「グラウンド・ゼロ(爆心地)」とも呼ばれている。』

                                      (ウィキペディアより)


 それから2年後の2003年(平成15年)9月17日、文部科学省主催の「日米国民交流・若手教員の米国派遣」に参加し、
帰国間近の12月10日に「グラウンド・ゼロ」を訪れ、黙祷を行った。







 グラウンド・ゼロは、さら地になり、新しい施設の建設はまだ始まっていなかった。
崩れた鉄骨で作られた十字架のモニュメントが目に焼きついている。
 摩天楼がそびえ立つニューヨークのど真ん中に、ぽっかりと空いた空間。
テロが起こった当時のことを想像すると、足が石のように固く重たくなり、立ちすくんだことを思い出す。

 この日のことを忘れずにいたいと思い、ありし日のニューヨークを描いた作品を買った。



 これは、今も我が家に飾られており、見るたびに当時のことを思い出させてくれる。


 平和な日本、しかも田舎に住んでいるとまるで映画に思えてならない出来事が世界のあちらこちらで起こっている。
そのことを自分に引き寄せて考えることは、あまりの違いゆえ難しい。

 でも人間には想像力がある。
ジョン・レノンの「イマージン( Imagine )」のように争いのない世界を想像したい。

 そのジョン・レノンは、1980年同じニューヨークの自宅マンションの前で、
精神疾患のファンに狙撃され40歳という若さで亡くなった。

 田舎者の自分にとってニューヨークは、イマージン( Imagine )の街となっている。


                                       岬人(はなんちゅう)

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