喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

親子の最後の別れ

2010-05-05 | ブログ
 5月4日の祖父母の合同法要に先立ち、父に祖父のことを聞いてみました。

 父武久は、金太郎とミチエの長男として昭和15年に生まれ、祖父鶴松からもたいへんかわいがられたようです。
 翌年1941(昭和16)年、12月8日の真珠湾攻撃で、太平洋戦争が始まります。
すでに始まっていた日中戦争は、泥沼化しており、日本はさらに苦難の道を歩みます。
 
 金太郎のもとにも召集令状(赤紙)が届き、出征することになります。
生まれたばかりの娘(千鶴子)と3歳になった父、妻(ミチエ)そして体の弱い鶴松をのこしての出征は、
どんなに辛かったことでしょう。
 
 当時3歳の父には、自分の父金太郎の記憶はほとんどないそうです。
ところが、今回の聞き取りで新たなことがわかりました。
出征の日の記憶が、断片的にあるというのです。

 出征の日、平礒の村をあげて高台にあるお墓の四辻(よっつじ)まで見送られました。
 親族や親交の深かった人たちは、さらに峠を越えて、
三崎の港まで行きます。
 幼き父は、肩車をされて三崎港まで見送りに連れて行ってもらったそうです。
沖には、八幡浜から九州別府行きの繁久丸が止まっており、
そこまでは、はしけという小舟に乗って行くのです。

 ほとんどは、港の岸壁から見送るところを、
父は、「いっしょに行く。いっしょに行く。」
と言ってきかず、はしけに乗らせてもらい、繁久丸まで連れて行ってもらったそうです。
 父の記憶には、この時のはしけから繁久丸に乗りこむ金太郎の姿がやきついているそうです。
 
 これが、親子の最後の別れとなりました。

 この当時の日本には、同じような別れがたくさんあったことでしょう。
それから67年が過ぎました。
 私たちは、こんな日本があったことを、
決して忘れてはいけません。

 写真は、唯一残っていた家族写真です。
祖父金太郎が、父武久を抱いており、
祖母ミチエが、千鶴子おばちゃんを抱いています。
                     
                       岬人(はなんちゅう)
           

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