喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

手紙

2010-05-05 | ブログ
 太平洋戦争で亡くなった祖父金太郎は、
ふるさとの愛する人たちに向けて何通かの手紙を書いていました。

 写真は、妻ミチエに向けて書かれたものです。
裏の差し出しは、
 北海道室蘭市海岸町22番地 栗林商船株式会社 海南丸
となっています。

 手紙は見つかっていませんが、
写真といっしょに入っていたのでしょう。
 祖母ミチエが晩年入院中、お見舞いに来ていた孫の美智子に、
金太郎から贈られた句をすらすらと口にしたそうです。
60年近く経つというのに。

 「踏まれても 踏まれても
    耐えてよ忍べ 道芝よ
      やがて花咲く 春も来るらん」

「道芝」を妻「ミチエ」にたとえて言っています。
愛する妻を気づかう気持ちが、痛いほど胸に伝わってきます。

 祖父金太郎は、海軍の物資を運んでいた海南丸に乗り込み、
宮城県塩竃から山形県酒田をめざしていました。
 そして運命の昭和20年、5月13日。
どこのあたりで、どんなふうに撃沈されたかはわかっていませんが、
最後の時をむかえました。

 定かではありませんが、父の予想によると、
津軽海峡付近で、潜水艦の魚雷で沈められたのではないかと言っています。
当時、津軽海峡付近でアメリカの潜水艦が多く目撃されていたそうですから。

 浅野金太郎27歳。

 終戦8月15日まで、あと3ヶ月、初夏のころでした。

                   岬人(はなんちゅう)

 
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4 コメント

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ありがとうございます (三代目)
2010-05-05 14:21:38
「踏まれても 踏まれても
    耐えてよ忍べ 道芝よ
      やがて花咲く 春も来るらん」

心に響く、いい句ですね。
金太郎さんのいろんな思いが伝わってきます。

祖先のこと、ルーツをたどるのは大事なことだと思います。三代目も2歳の時に亡くなった初代の祖父のことをいろんな人に聞いて、記録を残しています。ご先祖様あっての今の自分ですものね。
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二人を想う ()
2010-05-05 17:33:01
在りし日の二人の姿を見て、嬉しい反面胸が締めつけられる思いもしました。

自分の死を覚悟していたのであろう金じいちゃんはばあちゃんにこうも言ったそうです。

「(自分亡き後)子どもらを置いて里に帰っても笑ろて暮らせる日はないぞ」と。

金じいちゃんはどんなに無念だったことでしょう。そして、その無念さが痛いほど分かったからこそ、ばあちゃんはどんな苦労にも耐えたのだと思います。

子の親となった今、この言葉の重みをより強く感じます。

二人のことを想い、先祖に恥ずかしくない生き方をしていくことが一番の供養かな…と思います。
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ご先祖さま (岬人)
2010-05-06 07:48:07
 さすが、よっくん。
ご先祖さまのことをすでに記録に残しているんですね。
 ふりかえることで、自分の立場や生きている意味・生き方について考えなおす機会になっています。
 地域ぐるみでそんな取組をすると、地域の結びつきやつながりがよりよいものになるかもしれませんね。
 少しずつやってみます。
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我が生き方 (岬人)
2010-05-06 20:05:25
 橘さんは、どなたでしょうか?
先祖の生き方にふれ、自分の生き方の指針とし、ふり返ることができる。
これは、本当に大切なことだと思います。
 生き続けているのですね。
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