けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

集団的自衛権の憲法解釈をゲリラ戦で阻止しようとする矛盾

2013-08-25 23:46:20 | 政治
最近、集団的自衛権の憲法解釈に関する話題が紙面を賑わせている。山本庸幸最高裁判事の異例な意見表明の是非の問題や、憲法解釈を担う内閣法制局長官に、集団的自衛権の行使容認派の(どちらかと言えば異例の)外務省出身の小松一郎氏を起用したことの是非の問題など、色々話題になっているが、私にはイマイチ良く分からない部分があるのでそれを単純に今日は整理してみたいと思う。個人的な意見は最後に書かせて頂く。

まず分からないのは、マスコミなどが問題視しているのが何処なのか、そしてそれの何処に問題があるのかが良く分からない。内閣法制局というのは内閣に置かれた行政機関のひとつだから、内閣が向かおうとする方向に向けてその地ならしをするのは行政機関の役割だし、その役割を効率良く執行できる人材を適材適所で選ぶのは、その人事権を抑えている時の政権の責任者にとって当然の行為である。内閣法制局長官は憲法の番人とも言われているから、ある意味では政権が暴走して道を踏み外すことをたしなめる役割をある部分では担っているが、しかし、少なくともマスコミも良識がある人ならばその役割が限定的であることは分かっているはずである。法律については素人だから間違っていたら申し訳ないが、内閣法制局の人事権を内閣側が持っている以上、その人事権を最大限に活用すれば如何様にでも解釈など変えることはできるはずで、そんなことで憲法という法治国家日本の根底となる憲法を自由に弄ぶことが出来るような単純なシステムになっているはずがない。つまり、三権分立が確立しているということは、行政が憲法を捻じ曲げるという暴走を司法が食い止めることが大前提であり、内閣法制局(長官)は本来、その様な役目的で設置されたものではないはずである。私の知る限り、内閣法制局の役割は政府が国会に提出する法案ないしは閣議決定などにおいて、既存の法律との整合性を確認するのがその役割であり、憲法を守ることは直接的な目的ではない。憲法や法律などには、時としてその解釈が人により分かれる場合があり、往々にしてその解釈を適切に行う必要がある。しかし、例えば学会やその分野の有識者における多数意見というのは、時代の変化に合わせて変わり得るものである。法律というものは、コロコロ変わられてはたまらないので法の安定性が求められる一方、時代の変化に伴いその法解釈の妥当性をも加味しながら、ある段階では解釈の変更も余儀なくされる。勿論、過去の議論との整合性も必要になるので、解釈の変更に伴ってはそれなりの手続きや説明は必要になるのであろうが、その手続きなどは内閣法制局が行うべきものではなく、何らかの諮問機関などで検討した結果などの答申を受けて、矛盾なく説明が出来れば手続き上は問題がないはずである。適正な手続きをして行われた行政行為に対し、自らの主義主張と一致しないから気に入らないというのであれば、内閣法制局やその長官を責めるべきではなく、最終的な判断の是非を正面切って議論すればよいだけのことで、手続き論でお茶を濁そうとするのは「憲法解釈反対派」の行動としては極めて手抜きの行動だと言わざるを得ない。だから、内閣法制局長官を中心に批判が高まるのは理解できないし、退任した後の元内閣法制局長官が現在の内閣の判断を批判するのはますます筋違いだと感じる。もっと正面切って、安倍総理を批判すればよい話である。

次に分からないのが、今回批判的な新聞などのメディアが、これまで内閣法制局が行ってきた憲法解釈を支持している点である。支持していると書くと「そんなことはない!」と言われそうだが、「解釈の変更は許さん!」というのだから現状を支持しているのは事実である。しかし、私の感覚では、これほど重要でこれほどクリアな議題の判断結果が憲法上では明確ではなく、それを三権分立的には行政に属するたかだか内閣法制局が判断したことが世の中では大腕を振って正しいものと追認されている現状は甚だ不自然であると感じる。もしそれが事実なら内閣法制局が憲法の解釈を判断する権限があるかのような現状を否定するべきだし、さらにはその判断結果の妥当性を疑ってかかるべきなのではないかと思う。しかし、マスコミは現状の判断は絶対的に正しいものと追認し、そこからの変更をケシカランとして批判している。つまり、法的ないしは制度的には誤っているのではあるが、結果オーライで自分の意図に合致しているから非難するのはやめておこう・・・というのは、ジャーナリズムとしては怠慢この上ない。この様な現状になったのは原因は明らかであり、現在の日本国憲法に不備があるからである。もう少し具体的に言えば、国際的な解釈としては、各国の国内法よりも国際法(厳密に明文化されたものとは限らず、一般化された慣習や学説のようなものも含む)の方が上位にあり、憲法は法律としては最上位のものではないから、この国際法と憲法の間に何らかの乖離があるのであれば、その乖離を国内の法解釈や法の変更により対処しなければならない。憲法改正が事実上、実行不可能な日本では仕方がないから憲法解釈を繰り返して対処してきたが、ここまで小学生が読んでも矛盾に感じる憲法第9条を放置し、解釈だけで何とでもなると考えることの方が問題である。仮にこの現実を受け止めるのであれば、今回の安倍内閣による集団的自衛権に関する憲法解釈の変更の動きは、少なくとも手続き的には妥当であると認めるべきであり、これまた話が戻るが内閣法制局などを引き合いに出して非難する話ではない。あくまでも筋論で議論するのであれば、「憲法を行政機関が解釈しなければならない現状を変えるべき」という議論があって然るべきである。

しかし、現在、この内閣法制局がらみで批判的な主張をする団体(朝日新聞など)は全て、揃って護憲派を自認しており、日本国憲法そのものを「解釈など必要のないものにしよう」という動きに後ろ向きである。つまり、本来、法律や原理原則にのっとって議論すべき問題に対し、自分に都合が良いポイントだけ切り取って、議論を骨抜きにしてこう着状態を作るだし、現状維持を図ろうとしているようにしか見えない。

最後に私の主張としては、まず最初に「内閣法制局がこの様な憲法判断をすることの是非」を議論すべきだと思う。私は、小学生レベルの国語能力をもった日本人に理解不能な結論を、憲法の行間のそのまた行間から読み取って、しかもそれを解釈して日本の行く末を決めていくという現状をまずは否定すべきであると考える。つまり、優先順位として憲法96条を先行するとかそんな話はどうでもよくて、「少なくとも、憲法9条はこのままでは大問題だよね!」という国民のコンセンサスをまとめることを行うべきで、それと同時に具体的な9条の条文のあるべき姿を広く議論すべきであると考える。そして、次に議論される内容は、その様な憲法改正の手続きは少なくとも今後数年を要するという現状を踏まえた上で、緊急避難的な措置と今回の事態を捉えた上で、内閣法制局などどうでも良いから、集団的自衛権の議論をもっとストレートに行うべきだと考える。もし集団的自衛権の容認に国民の意見が傾くなら、多分、心配することなく内閣法制局は適切に事務処理をするだろうから、その先の手続き論はひとまず置いておいて差支えない。

少なくとも、枝葉の問題で議論している場合ではない。ジャーナリズムを自認するなら、もう少し正攻法で正面から論理的な議論を吹っかけて頂きたいと願う。

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