けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

民主主義の限界

2013-08-19 23:30:01 | 政治
昨日のブログに対し、コメントとして以下の朝日新聞が相変わらず反日報道を繰り返しているとご指摘を受けた。

朝日新聞デジタル2013年8月18日「(ザ・コラム)フィリピンとの戦後 赦しの文化に甘えて良いのか
朝日新聞デジタル2013年7月27日「フィリピンで元慰安婦らがデモ 安倍首相訪問に合わせ

会員でないと全文が読めないので詳細は分からないが、私としては短絡的ながらそれほど悲観的なイメージは持たなかった。というのも、慰安婦問題や靖国問題などでは韓国や中国国内では当初はそれほど問題意識を持っていなかったところを朝日新聞などが強引に日本国内で炎上させ、その炎上が韓国、中国に燃え移るという展開であったのに対し、今回は韓国や中国での炎上状態を見て「それなら私たちも賠償金が貰えそうだ!」と感じた人が押しかけているという現地での展開を淡々と事実として日本国内で報道している様に見えるので、新聞報道としての悪意はそれほど強くは感じない。勿論、その様な賠償騒動の背景に怪しい反日の日本人や韓国人が関与していないかは、報道機関で細かくチェックして欲しいとは思うが、それを朝日新聞に期待するのは無理があるのでそこまでは期待しない。ただ、韓国や中国内での過激な反日行動を寛容に控えめな表現で扱うのに、相手が日本政府となると糾弾の厳しさが2桁ほど上がる状況は確かに相変わらずの状況であり、はなはだ不愉快と言う意味ではご指摘の通り私も同感である。

以下、話は変わって「民主主義の限界」について考えて見たい。

我々、民主主義国家では民主主義は人類が到達した絶対的な真理と考えている。多分、この考え方は正しいことに疑いは無いのだが、この処方箋は万能でないことも最近痛感させられている。この限界の背景にあるものは、民主主義の前提が「基本的な人権」や「自由」を人々が生まれながらに持っている絶対的な権利と考えているのに対し、そこに宗教が入り込むと、簡単にこの最上位のはずの前提条件が崩れてしまうことにある。最近のエジプト国内の内乱を見ていれば、1年前にアラブの春によって勝ち取った民主化の波が、完全に後戻りして思いっきり遠のいてしまった。何が問題かと問えば、キリスト教系とイスラム教系の間の宗教的なバックグラウンドの対立が、その主導権争いの中で最上位のはずの前提条件を簡単に否定してしまい、民主的な手続きで選ばれた政権を軍事的にひっくり返してしまったのである。もし「自由」や「人権」を大切に扱うのであれば、宗教に関係なく「それは間違いだ!」と人民が声を上げるのであろうが、その「そもそも論」を超えて宗教的な視点で自らの立ち位置を決めてしまうがために、事態はより複雑化してしまう。

この絶対的なはずの最上位の「自由」や「人権」をひっくり返す根拠は、必ずしも宗教だけではないことは注意すべき点である。つまり、ナショナリズムも同様の可能性を秘めている。言ってみれば、「自らの国家が唯一、絶対的な真理・価値」と信じだしてしまうと、それは「自由」や「人権」の上位を占めてしまう。中国、韓国の現状がそれであろう。権力サイドの人間は、「自由」や「人権」の更に上位概念として国家が存在することは好都合なので、このナショナリズムに火をつけようと試みる。それが徹底されてしまうと、いつしか中国国民も自らのことを「良識ある指導者の下で実現された民主主義」と勘違いし出すのかも知れない。

また、民主主義の原理原則によれば、手続きとしての公平性(選挙や国会における多数決の原理)は担保されているが、公平・公正な思想を強要したりはしない。極端に偏った思想は思想信条の自由で保証されており、その考え方が多数派を占めれば不公平・不公正な政策や判断がまかり通る。司法の世界では、本来は解釈の余地のないはずの明文化された法令に従い公平・公正な判断が下されるはずであるが、憲法を遥かに凌駕するナショナリズムの価値観により、裁判官の多数が「それで良し」と言ってしまえば何でもまかり通る。民主主義からの逸脱に対するブレーキになるはずの3権分立も、燃え滾るナショナリズムの火の前では無力なのである。そして、それが如何に怖いものであるかを実際に韓国は世界に知らしめた。日本国内では明治時代に、ロシア皇太子に対する暗殺未遂事件の犯人に対し、「処刑してしまえ!」という国内での圧倒的な民意や政治的な圧力に屈せず、裁判所では法律に基づき無期懲役の判決を下した大津事件という歴史がある。しかし、かの国ではそうはいかないのである。

このナショナリズムであるが、一部には日本も同様にナショナリズムの火が燃え滾っているいう意見もあるが、韓国、中国との決定的な違いは教育の中で火に油を注いでいるか否かの違いである。日本国内では、徹底的に反ナショナリズム的な平和教育を徹底しているが、中国、韓国ではその間逆である。特に、そのターゲットを日本に絞っているから、事態は更にややこしくなり、その他の国には比較的穏やかなのに日本にだけはナショナリズムの闘志を燃え滾らせる。

だから、我々は民主主義の幻想に惑わされてはいけない。韓国においても手続き的には確かに民主主義なのであるが、その民主主義は我々の知る民主主義とは明らかに異なるものである。つまり民主主義は万能な処方箋ではなく、ある種の条件が整って初めて我々の知る民主主義に辿り着くのである。我々の常識が世界の常識とは限らない。民主主義と言う、当たり前すぎる価値観も、意外に共通認識・常識を共有することはそう簡単ではない。多分、欧米諸国の人々であれば理解できるのであろうが、韓国や中国の人たちにはその違いが到底理解できないのだろう。

マスコミはこの点を買い被ってはいけない。現実の世界では、民主主義にはおのずと限界があるという現実が目の前にある。そして、それを丁寧に国民に伝えて行かなければならない。そして、その限界を打破するためには、その国内における「教育」が非常に重要な鍵を握ることも忘れてはならない。

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