that blog-ish thingy

ブログ的なアレです。

ブログ考察

2009年01月21日 | なんとなくアレなやつ
今日は「ブログをどうやって書いているのか」について説明をしていきたいと思います。

◎ なんでブログを書き始めたのか。

学生の時にふとしたきっかけでHTMLを知る機会があり、以降、試験的にサークルのホームページを作ってみたり、個人的に日記を書いたりしていたわけです。

で、ちょうどHTMLでガリガリとタグを作りこむのがめんどくさいと思い始めていた時期に「ブログ」という媒体を発見して「もうこれでいいや」と思ってやり始めた次第です。その期間を含めれば、結構長い期間、日記を書いているわけです(HTMLで書いていた頃の記事は既に抹消しましたが)。



◎ なんでほぼ毎日書くのか。

習慣です。カルマです。
きっと前世で何かをやらかしたので、それを浄化するためにブログがあるんだろうな、ぐらいにカルマです。



◎ どういうブログにしたいのか。

ゴールは特に無いです、正直、「ただ書いているだけ」です。
ブログを起点にビジネスをしたいだとか、アフィリエイとで小遣い稼ぎたいだとか、何かを世界に発信したいだとか、そういうのも特に無いです。敢えて言うならば、たくさんの人に読んで欲しいという自己顕示欲が多少あるぐらいですかね。何かを書くからには、そういう「俺が!俺が!」みたいなのが多少無いと毎日は書けないというのが本音です。



◎ どういう記事を書こうとしているのか。

ここらへんは割りときまぐれですが、目安としては「どうでも良い:真面目 = 2:1」をいつも心掛けています。このバランスを保っていると皆さんが飽きることなく毎日読めるような気がしています、感覚的に。

ただ、ご存知のように熱くなってしまう(時にはヤカンのようにシューシュー沸騰してしまう)ことがあり、先日の(あまり反響のなかった)「峠」などの記事を連続で書くことがあります。ああいうのを書き終わると「そろそろどうでもいいくだらない内容を書かねばならないな」と焦ったりするわけです。

ちなみに、ついこの前、日本に帰省したときも、ハラケンに「何か旅行記みたいになってきたよね」と言われ、ちょっと反省をしてました。

そういえば「企画もの(エージェントスミスとか、スリーブとか)」は、それが当たりであれハズレであれ、割と反響が多いので、なるべく前向きにやるようには心掛けています。ただ、本当に正直なところ、あの手の活動は後で読み返すと、かなり恥ずかしいというか、必ず毎回猛省することになるので、心情的には色々と複雑です。



◎ ブログを書くのは大変じゃないのか。
大変な時とそうじゃない時と両方あります、当たり前ですけど。

ブログであれ、メールであれ、レポートであれ、何かを文章にする時というのは、全体像を把握しながら、詳細も把握している必要があるわけです。鳥の目、蟻の目ってやつですね。どっちかが欠落していると、文章がボンヤリし過ぎたり、局地的過ぎて独りよがりな文章になってしまうわけです。実際、過去の記事を読み返してもわけが分からないときもありますし、記事を書いている途中で「俺自身がまだよく分かっていないことを書けるわけがない」ボツにしてしまうこともよくあります。なので、そういう意味では結構大変です。

また、文章で伝えられることにはかなり限界がある。どんなに詳細を説明したとしても、それが万人に上手く伝わることはない。そういう意味では、読み手が自身の経験を元に理解できるような文章を書く必要があるわけです。

例えば、仕事の話なんかは書き手・読み手共に共通点が多い内容なので、そういう意味では書き易いです。変な話、読み手に行間を読んでもらうことも出来るので、書き手としては事実や個人的な意見をロジカルに組み上げていけば良いだけなわけです。

一方で、特定のマニアックな話しや、理解をするのにある程度のバックグラウンドを知っている必要がある記事(例えばグローバル云々など)になると、どんなに上手く説明をしたとしても反響が突如なくなってしまう、書き手と読み手の間に大きな溝が出来ていることにすぐ気付くようになる。

というわけで、「あれだけ気合を入れて書いたのに・・・」という書き手の一方的な空回りも実は結構あったりするわけです。

ただ、そういう空回りが発生するかもしれないであろう中で、それでもどうしても何が何でも書きたいという場合もあるわけです。こういう記事に限定して言えば、書き終わった時点でボク自身が満足しているので、悔いは残らなかったりするわけです(共感してくれる人がいればなお良いけれど)。


◎ ブログのけんたは本当のけんたじゃないのでは。
そうですよ、ブログ上で表れているボクはボクじゃないです。リアルなボクは、そこまで真面目じゃないし、そこまで適当でもない、すんごく普通です。

だけれども、文章を書いている時点では、本当の自分とはちょっと違う自分を演じている部分がある・・・というか、正確には「ブログを書いている時は、ちょっと背伸びした自分を演じても良い、それが許される」でしょうか。

そういうこともあって、文章を書く時の書き手の判断基準というのは、他人からの評価ではなく、ボク自身のエゴであったり、モラルであったり、価値観であったり、そういう極めて主観的なものしかないわけです。つまり、ほぼ毎回、客観性を欠いた発言になってしまう。これはブログ・・・というか、文章そのものの性質なんじゃないかと。

そしてここがブログの難しいところ。きっと、ブログという媒体を経由して、ボクという人間像が間違って捉われてしまうこともあるんじゃないかと推測しているわけです。同様に他人のブログを読んで、その人の人間像を間違って解釈もしてしまう可能性もあるわけです。

つまり、リアルな世界の人間像と、それ以外の媒体(ブログ、手紙、電話など)を通して見た人間像には必ず隔たりがあるとも言えるわけですね。

まぁ、仮に読み手である皆さんとリアルな世界で会う機会があったとしたら、その時はあんまり落胆しないでくださいね、というのは今のうちお伝えしておきます。



◎ ブログという媒体についてどう思うか。

個人的には何とも思ってません、単に暇潰しの読み物ぐらいにしか思ってないというのが正直なところです。当ブログを読んでくださっている皆様も、多分、同じような目線で読んで頂いているんじゃないかと推測しています。

そんな淡白なことを言っている割には、毎回力を入れて色々と書いていますが。

ただ、真面目な話をすると「ただの暇潰しの読み物」とか「ただの情報媒体」でもないような気もします。特に、テレビのニュースや新聞などのいわゆる「メディア」とは一線を画すべき媒体なんだろうなと。何故ならば、多くのブログには必ず「書き手のユニークな主観」と、その主観に対する「読み手の好奇心」というものが介在し、そういった異質な要素が「メディア」とは違った様々な現象を生むので(例えば、ブログを通じて誰かと会うだとか)。

ここについては、とある作品からの抜粋が面白い表現をしているので、文末に添えておくことします。ただ、若干マニアックなので、興味がある人だけ読んで頂ければ幸いです。



◎ 何年もブログをやってきたのに、何で今さらブログそのものについての考察をチンタラと書いているのか。

ネタが枯れているからです。
以上、アレを色々とよろしくお願いします。



参考:某作品からの抜粋。
90年代に女性の間で流行った「すごく飛び出た奇抜な肩パッド」とかをイメージしてもらえると分かりやすいかと(例えが悪いですけど)。

全ての情報は共有し並列化した時点で単一性を喪失し、動機なき他者の無意識に、あるいは動機ある他者の意思に内包される。

(中略)

それ(動機ある他者)は、消滅することによって社会システムの導体を規定する媒体であり、最終的にはシステムの内側にも外側にもその存在の痕跡を留めない。

(中略)

言葉では知っていても実際に目の当たりにするまでは信じられなかった。(動機ある他者の)オリジナルの不在がオリジナルなきコピーを作り出してしまうなんてね。あなただったらあの現象を何と名付けますか?


スタンドアローンコンプレックス

Yes、スタンドアローンコンプレックス。案外、今の社会システムにはそういった現象を引き起こす装置が初めから内包されているんだ。ボクにはそれが絶望の始まりに感じられてならないけど・・・あなたならどう?

さあ、何とも言えないわね。だけど私は情報の並列化の果てに個を取り戻すための一つの可能性を見つけたわ。

ちなみにその答えは?

好奇心・・・多分ね。

コメント
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