西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

ドイツ旅行 ライプツィヒ(続々)

2020-02-13 22:55:30 | 音楽一般
この当時のライプツィヒはヨーロッパで有数の音楽的伝統を持つ都市であった。この都市には、1409年創立のライプツィヒ大学があり、ワーグナーもそこに在籍したが、後に音楽家として名を馳せる人物がここの大学に法律を学びに近郊の町ツヴィッカウからやって来た。ローベルト・シューマンである。1828年5月のことであった。ここでシューマンは、重要な人物に出会う。ピアノの教師のフリードリヒ・ヴィークである。そしてその次女をクララ・ヨゼフィーネ(1819年生)という。クララは5歳から父親からピアノ教育を受けた。そして1828(1827?)年には、ゲヴァントハウス管弦楽団と共にモーツァルトの「ピアノ協奏曲 変ホ長調」を満員の聴衆の前で演奏したという。(9歳である。何たる天才!)


クララが当地に生活していたことを示す銘板。
 
シューマンは、ヴィークからピアノの教授を受け、また和声と対位法も学んだ。その後、シューマンは、父親ヴィークの反対を受けながらも、1840年に娘のクララと結婚した。この年は、シューマンの「歌曲の年」と言われている。多くの歌曲を生み出した年であった。

ワーグナーに話は戻るが、1832年、19歳の時、ワーグナーは1曲の交響曲を書き上げた。ワーグナーに交響曲が、と思う人もいるかもしれない。「交響曲 ハ長調」である。私の知る限りこの曲は、日本のワーグナーのスペシャリスト若杉弘氏の録音があるだけだ。ワーグナーにはもう一つホ長調のものがあるが、こちらは1(あるいは2)楽章しかない未完である。しかしこちらは若杉氏のを含め3種のCDが出ていて、所持している。(若杉氏のだけ2楽章あり、他の2種は1楽章のみ。)このハ長調の交響曲について結婚前のクララ・ヴィークがシューマンにあてた手紙(1832年12月17日)の中で「ベートーベンのイ長調交響曲にそっくりだそうですわ。」と噂を伝えたという話が残っている。

ライプツィヒにはもう一人語るべき音楽家がいる。メンデルスゾーンである。


ハンブルク生まれのこの作曲家を語る時、まず第一に言われることは、そう、1829年3月のバッハの「マタイ受難曲」の蘇演であろう。この年を持って、バッハは復活したのであった。現代から見ると何たる不思議と思わざるを得ないが、バッハは死後ほとんど忘れ去られた状態にあったのだ。それはさておき、メンデルスゾーンは1835年にライプツィヒにゲヴァントハウス管弦楽団に指揮者として招待された。この時、ワーグナーはさきほどの「交響曲 ハ長調」の総譜を様々な思惑からメンデルスゾーンに渡した。しかしなかなか色よい返事がないまま、メンデルスゾーンは亡くなってしまった。1847年のことである。楽譜は一時紛失状態になってしまったが、後に1877年、ドレスデンで発見されて、ワーグナーの亡くなる前年に再度演奏されたということである。あの誰しもを魅了させるホ短調のバイオリン協奏曲を書いたメンデルスゾーンですが、このようなことがあったのですね。

このライプツィヒには、若き日の森鴎外が、医学研究のため行っている。鴎外が通ったところとして有名なAuerbachs Kellerアウアーバッハス・ケラーがある。その前にはこのような像が立っている。ファウストとメフィストフェレスである。



鴎外はここで一緒に行った哲学者の井上哲次郎にゲーテの「ファウスト」の翻訳を勧められたということだ。

次回から、今回の旅行の最終地ドレスデンについて語ります。

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