西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

再び、先祖を辿って

2008-05-01 10:04:57 | ベートーヴェン
ベートーヴェンの様々な伝記本を読んでみると、その祖先は15世紀末にフランドル地方に生活していた人物にまで辿れるということです。系図を作成してみると、この人は楽聖ベートーヴェンの9代前の人物であることがわかりました。名前は、ヤン・ファン・ベートーベン(Jan van Beethoven)と出ています。一世代を30年として、1770年生まれのベートーヴェンの9代前ですから、1500年生まれとなり、ほぼ当てはまると言っていいでしょうか。アクメ(acme)を40歳頃と考えると少しずれもありますが。(もちろん、このようなことは当然ありうることです。)
フランドルFlandre(英語では、フランダースFlanders)は、フランス北西端部からベルギー西部にかけての地方、と地名辞典に出ています。中心都市はリール(フランス領)・ヘント(ベルギー領)です。ヘントは、ベルギー西部の商工業都市で、仏名ガン(Gand)、英名ゲント(Ghent)で、13世紀に自由都市となり、ヨーロッパ最大の織物工業都市として繁栄をみました。ゴシック式大聖堂や市庁舎が16世紀にかけて建てられています。当時話されていた言語は、中期低地ドイツ語(現代のオランダ語の前身)でしょうか。
このヤンの孫がアールトです。その妻の名がヨジーネ・ヴァン・ヴレセラールとありますが、この女性は、1595年秋、「魔法使い(魔女)」として焼き殺されたとありました。この言葉からは、私などは、魔法の杖だか、箒だかに乗って空を飛ぶイメージを持っているので、少し驚きましたが、これらは後の研究者が知ったことでベートーヴェンには関係なかったことでしょう。
「魔女狩り」を事典(ブリタニカ)でみると、「12世紀末頃から、カトリックの異端者追放の手段として行われた宗教的迫害行為。・・・16~17世紀には西ヨーロッパ全域に、また新大陸アメリカに及んだ。したがってその裁判はきわめて残酷、不条理なもので魔女旋風はヨーロッパを暗黒化し」と出ています。おそらくは、この女性は当時として進んだ考えの持ち主だったのかも知れません。
この夫妻の孫がマルクで、ルーベン(Leuven)(仏語ルーヴァンLouvain)に移り住みます。その子がコルネリウスで、メケレン(Mechelen)(仏語マリーヌ(Malines))にやはり移り住みます。その孫が、このメケレンに生まれた我が楽聖の祖父にあたるルイス・ファン・ベートーベン(1712-73.12.23)です。彼はあることから、21歳の時1732年にボンに移り住みます。ここでは、ルートヴィヒと名乗ったことでしょう。その翌年1733年9月7日、彼はマリア・ヨゼファ・ポールと結婚し、3人の子が生まれましたが、1人だけが成人しました。これが楽聖の父ヨハンです。祖父ルートヴィヒは、バス歌手で、1763年には楽団指揮者になるほどの才能を持った人物で、ベートーヴェンは、ウィーンに移り住んでからもその肖像画を取り寄せるほどの尊敬すべき人でした。祖父ルートヴィヒ以前には、音楽家は見当たらず、彼から音楽の血筋は始まったようです。妻のマリア・ヨゼファ・ポールは、ケルンの施療院でアルコール中毒で死んだということです。父ヨハン、それにベートーヴェン自身のアルコール好きは、この祖母から来ているのでしょうか。一人成人した第3子のヨハン(1740頃―。12.18)は、1767年9月12日に父ルートヴィヒの反対を受けながら結婚したのが、楽聖の母親にあたるマリア・マグダレーナ・ケフェリヒ(1746-87.7.17)です。エーレンブライトシュタインに生まれた、料理人の娘であるこの女性との結婚が反対されたのはおそらくマリア・マグダレーナが寡婦だったからでしょう。彼女は、19歳の時に、ヨハン・ライムという宮廷の使用人と結婚しましたが、短い結婚生活で夫と死別しました(1765年)。その2年後に、ヨハンと結婚したことになります。母マリア・マグダレーナは、ベートーヴェンは「母は善良な、愛すべき、私の最も良い友人でした。」と亡くなった後、手紙で書いています。私は、ベートーヴェンは祖父からその音楽家としての才能を、またこの母親から人間の優しさを受け継いだのだと考えます。そしてそれがあのような人類史に残る偉大な作品を生み出したのです。母親のあり方は、大きなものだと思う次第です。