渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

羽田空港飛行機衝突事故

2024年01月02日 | open
 












大惨事だ。
滑走路に着陸した千歳空港から
JAL516便が新潟への支援
を運ぼうとしていた海上
保安
の飛行機と滑走路上
で衝突し
た。
旅客機の乗客乗員は全員が脱出
したが、海保の飛行機は機長の
みが脱出、他隊員5名は行方
明となっている。
19時20分現在、まだ海保飛行
機は炎上を続けている。
 
 

新年初乗り

2024年01月02日 | open



出来上がって来たオリジナルの
カドヤ・ニューコンセプター
着て新年初乗り。

北峠を2本、南峠を1本走った。
旋回中はあまりタコは見ないが、
南峠では見るとコーナーにもよ
るが、開けて行くレイアウトの
コーナー後半は概ね3速8500rpm
で旋回している。
ノーマルの2速ギヤ比1.777、
3速1.380。2-3のギヤ比がやや
離れているので、2速10500rpm
で旋回するよりも、同速度なが
ら3速選びでパワーバンド底辺
の9000rpmよりちょい下の低い
回転で旋回したほうが公道では
ぎくしゃくしない。といっても
トルクは太ってくる領域だ。リ
ニアでレスポンスもとても良い
エリアなのだが、シビアにスト
ットル操作しないと飛ぶ。
コースならばもっと一次減速比
をクロスさせて組むので、また
乗り方は異なる。当然、クロス
レシオのほうがいろいろな事が
できる。
公道の峠で使うのはロードにも
よるが、2-3-4速。フルスロッ
トル。
ただ、公道でもパワーバンド
まで回して車種の最大パワー
を使ってキープ
ライディング
できるから、ゼファー
χあたり
の400クラスは面白い。
2スト250だと、さらに面白い。
2スト125だと、もっと面白い。



このカワサキの400はヒラヒラ
を自由自在にラインで描ける
のがとても
面白い。


カワサキは良いオートバイを
作ったなぁと感じる。


このシーサイドラインは景観が
心地よい。



向かいの島は三原市内から高速船
とフェリーが出ている三原市の島。
三原湾沖に浮かぶ佐木島(さぎしま)
という島。陸路では繋がっていない
離島だ。分葱(わけぎ)の出荷量
が日本一の場所。


東を見ると、景色全体が茜色
に染まっている。そんな時間。


三原の海は綺麗だ。
かなり下まで透けて見える。


ここは広島県三原から呉まで
続くシーサイドロード。
国道185号線だ。
海沿いをずっと走って行く。
なかなかいいよ。
特に春先の菜の花が咲く頃や
真夏は景観が最高だよ。
遠方から広島県を走る方には
オススメ。


沈む太陽に向かって走るのも、

また、落日を背に受けて走る
のもよし。青春チック(笑
そいうのは、どうにも湘南海岸
高校生たちが夕陽に向かって
走れ、みたいな感じだけどさ(笑
「いやしかしだなぁ。おい、

吉川くん」とか言ったりする
小林君(森田健作)とかさ(笑


おれは男だop

【YAMAHA XSR125】ずっとこんなバイクを探してた!

2024年01月02日 | open

【YAMAHA XSR125】ずっとこんな
バイクを探してた!
もう他のバイクに乗れない…


もはや原付とはいえないかも。

しかし、動画の作り方上手いなぁ。
まるで「孤独のグルメ」みたい。
東海大附属福岡高校の裏手の子供
服屋から通りに出て宗像市内の道
路をゆっくりと走る。
いい感じ。

XSR125、ゼファーχよりもかなり
シート高が高い(笑


女の時代、時代の女

2024年01月02日 | open

 




すげえバブル時代の象徴的な
女たち(笑
1980年代末期、手作りチョコ
や手編みのマフラー消滅と共に
女性たちが解き放たれて遊びま
くり始めた。
女性の社会的進出としては良い
事ではあるとは思うが、全体像
としては失ったものも多かった。
 
その最大な事が、何でも金が
第一、享楽的である事が第一
となった事だった。
バブル経済は日本人に大変化
をもたらした。
今に続く「おいしいとこだけ
を」「楽して自己利益を」と
いう日本人の軽薄さはバブル
時代に始まった。
 
一度崩れた価値観はなかなか
変わらない。
売春は芸能界で闇で広く行な
われていた。それはえっ?と
思う大物女優でも。芸能人の
女性は高級コールガールでも
あったし、今もそうだ。
人を金で売り買いする。
だが、今は一般人もお手軽金
稼ぎで売春をしている。
大久保の立ちんぼだけでなく、
パパ活や出会い系でのお小遣
いは、あれは全て売春である。
バブルまではそれらを為すの
は玄人、つまりプロだけだっ
たが、今はプロも素人も無い。
 
金が全て人を狂わせる。
暴力団と縁切れしたそぶりを
見せる芸能界が、実は裏では
今でも太い売春組織と関与し
ているなどとは、年末紅白を
観て喜んでいる国民は知らな
い。
 
だが、芸能界において、かわ
いい子が大量に登場したのも
1980年代初期の時代の特徴
だった。
そして、中末期以降のバブル
時代には、けばい派手女と
お嬢様タイプにきっかりと
二分されたのも80年代の
特徴でもあった。
ケバいのは、かなりバッチィ
のとも共通項が多かった。
それらがのちのギャルや汚
ギャルの原型となった。
 
かわい子系の代表。
決して美人ではない。
むしろファニーフェイス。
だが、この人のかわいらしさ
は異様だった。透き通るよ
な清楚さがあった。


原田知世さんの意外な傑作は
『満月 Mr.MOONLIGHT』
(1991松竹)だ。
タイムスリップファンタジー。



世界一のライダー、ケニーロバーツ

2024年01月02日 | open

ケニー・ロバーツ|”革命家キングケニー”
が築き上げてきた伝説の数々


世界で初めてスリックタイヤを
テスト走行したのはケニーだ。
彼の偉業は多くあり過ぎて、
語りつくせない。
彼こそがレースそのものを変えた。
彼がキングと呼ばれるのはロード

でのみ速かったからではない。
AMAで5種のレースカテゴリーで
すべて同一年にチャンピオンにな
っている。

そのような人間は地球上にケニー
一人しかいない。
間違いなく、ケニーロバーツこそ

が歴史上世界一の偉業を成し遂げ
た人間だ。
アメリカ人の妻と長い離婚協議
成立後に、日本人の女性と再婚
した。
ただ、動画の解説にあったハング

オンを考案、というのは間違いだ。
ハングフォームはケニーのはるか
以前から存在した。それは1960
年代から。
膝をすりはじめたのは1972年
250チャンピオンのヤーノサー
リネンだった。
ヤーノは1973年のGPレース中
に死亡した。路面オイルによる
複数台の大事故で、頭部が消滅
する悲劇が彼を襲った事故だった。
ヤマハは1973年シーズン途中だ
ったが、GPから撤退した。
ケニーはヤーノ亡きあとの1974年
からアメリカヤマハの選手として
世界グランプリに参戦した。
その後、500クラスで3年連続
チャンピオンとなった。
伝説の1983年の若きフレディ
スペンサーとの一騎打ちは
グランプリ史上に残る名勝負
のシーズンとなった。
シーズンを通して優勝したのは
ケニーとフレディしかいないと
いう年が1983年だった。
勝負の行方は最終戦までもち
こまれ、最終戦でケニーは優勝
するも、フレディが重要ポイント
圏内につけてフレディがチャンピ
オンになった。
ケニーロバーツは、その年を以て
世界グランプリからは引退した。
1985年に、日本の平忠彦と組んで
鈴鹿8時間耐久にヤマハワークス
から参戦し、予選1位なるもマシン
トラブルで決勝17位。

その翌年の8耐がケニーのラスト
レースだっ
た。(予選2位、決勝
リタイア)

以降は1984年から始めたGPチーム
監督としてチーム・ロバーツで
数々
の世界チャンピ
オンを育て上げた。
親日家でもあり、阿蘇にあるケニー
ロードは彼の名が冠されたもので、
阿蘇は世界最高のロードだとケニー
は紹介している。
毎年日本の阿蘇に走りに来ていた
が、招待するのに費用が2000万円
以上かかるため、主催者の負担も
大きく、数年で継続招待は終了し
た。
トムクルーズを呼ぶよりは遥かに

安いのではあるが、二輪界、特に
個人
企業の資金は潤沢ではない。
ロードレースも、ワークスなどは

1シーズンで数十億円が必要だ。
メーカーの撤退や縮小理由の殆ど
は資
金が続かないからだ。
そのあたりは、アメリカのメジャー

リーグのような巨万の富を生む
プロモートは、日本のモーター
ポーツの世界には成立していな
い。






2ストGPレーシングマシンと一般車の違い

2024年01月02日 | open

Freddie Spencer GP bike Vs Street Bike Vs Car


ちょうど40年前の映像である。
これほど2ストグランプリマシン
は一般車は違う。
NSR500は車重130kgほどで150

馬力を超えた。普通の人間は
乗って走らせる事すらできない。

暴れる84タイプ1から熟成させた
85タイプは圧倒的な速さで世界
チャンピオンマシンとなった。
かつて存在した日本の2スト250
レーサー
レプリカでさえ、純
レーサー250
に比べると「もっ
さり」している
ように感じる。
レーシングマシンの250は車重

100kg程で70~90馬力だ。
リッター換算360PSになるが
原付自転車ほどの車重なので、
その加速と最高速は、2スト
500モンスター程ではなくとも、
とてつもないものだった。
純レーサーよりも公道市販車の
ほうがシビアではなく乗りやす
いのだが、やはり公道市販車は
「レプリカ」
でしかないのは
明白だった。

ただし、まるっきり構造を変更
してF3マシンのステージⅢまで
チューンした車は、レーサー
レプリカがベースだろうと、か
なり純レーサーに近くなった。
それでも、同排気量ならば、純
レーサーには動力性能は叶わな
い。
レーシングマシンは走る為だけ
に作られたサラブレッドだから
だ。公道車両とはすべてにおいて
全く異なる。


400の時代再来か ~オートバイ~

2024年01月02日 | open


【新春コラム01】400ccの時代が来る!? CB400 vs Z400に期待 | Webikeプラス

【新春コラム01】400ccの時代が来る!? CB400 vs Z400に期待 | Webikeプラス

251~400ccまでの400ccクラスはガラパゴス区分と言われ、長らくラインナップは下火になっていた。ところが近年は逆に活発化してきており、2023年はZX-4Rや新型エリミネータ...

Webikeプラス

 

元々400ccクラスというのは世界的
には存在しなかった。
同クラスで存在したのは、世界グラ
ンプリ純GPレーサー350ccクラスの
人気を受けてライトウエイトミドル
クラスとしては350ccがメインだっ
た。
日本製オートバイも、それに倣って
公道市販車のミドルクラスは350cc
クラスを各メーカーが意識してライ
ンナップしていた。
だが、スズキが371ccの3気筒市販車
を出し、ホンダはマルチとして408cc
の市販車を出して対抗した。
カワサキとヤマハは世界GPのカテゴ
リーを背景に350以下にしていた。

ところが、日本での自動二輪免許
取得制度が1975年に改変された。
自動二輪の中に排気量で運転の
可否を決める区分を初導入した
のだ。
そして、自動二輪は400cc以上も
乗れる排気量限定無しの免許条件、
400cc未満までしか乗れない中型
二輪限定条件付という2種類分け
に改定した。
同じ自動二輪でも、限定無しの
免許は教習所での取得ができない
ようにし、公安委員会での一発
実技試験のみにした。
「免許を取らせない」為の免許制
度なので、一発合格は非常に狭き
門となった。5回10回受験はあたり
前、という時代になった。
その不合格理由は、返事が悪い、
ヘルメットの色がいけない、服装
がよろしくない、きをつけの姿勢
が悪い、印象が悪い、等々であり、
そうやってどんどん検定不合格に
された。ウインカー出すのが1秒
遅いとかも。後方確認の首の回す
度合いが少ない、とかでも。
結果、二輪車新規ユーザーの殆ど
が中型限定二輪免許となった。
限定解除は不合格にさせる為の
制度だったので、受験を続ける
人たちも、諦めて中型限定で
我慢する人も多かった。
気合入れて8回で取ったとかは
まだ受験回数少ないクチだった。

そして、日本国内は二輪車製造
メーカーも新免許制度に合わせ
て400cc以下のオートバイ開発
製造にシフトした。
ホンダは408ccで発売していた
CBをスケールダウン改造して
新免許制度に適合する車種に
したし、逆にカワサキは350ク
ラスから400クラスにボアを
上げて来た。
ヤマハも350から400クラスに
ボアアップ、スズキも続いた。
1975年から1995年までの20
年間は、日本独自のカテゴリー
である400クラスがオートバイ
の中心軸となった。
世界規模ではミドルクラスは350
が中心だったが、WGPでは350が
廃止された。
ロードレースはそれまであった
50、80、125、250、500、750
が125、250、500の3カテゴリー
のみに絞られた。
日本の大型車の自主規制の750
以下という排気量規定もWGP
750を意識したものだったが、
それも意味を為さなくなった。
WGPでの350は市販車の750を
遥かに超える高性能高速二輪
で、最大排気量のWGPクラス
に350で参加する事も可能だ
ったほどだが、やがてそれら
のカテゴリールールも排気量が
固定化されていく。

一方、世界的なロードレースの
人気上昇に伴い、日本でも爆発
的なロードレースブームが1980
年代に発生した。
市販車改造クラスの日本独自の
カテゴリーが新設された。
それはF3(フォーミュラ3)と
いうカテゴリーで、ハイパワー
の2ストは250ccまで、4ストは
400ccまでの排気量の車両が
出場認可された。
2スト250と4スト400はほぼ
同等の性能だったからだ。
コーナーは2ストが速く、最高
速は4ストが高かった。
ほぼ全車両近くがホンダの2スト
で埋め尽くされた時代が1年のみ
あったが、基本的には4スト400
と2スト250はほぼ互角だった。

アメリカ政府の圧力で日本は
日本人自身が作った免許制度
を改変せざるを得なかった。
アメリカの脅しはヤクザな手口
で、日本の免許制度によって
米国製二輪が日本市場で売れな
い、二輪免許制度を改変しない
ならば四輪車や二輪車の日本車
の自動車関税を大幅に引き上げ
るぞ、と脅してきた。
日本政府は親方アメリカの鶴の
一声でアッという間に折れた。
日本という国はそれ。
そうした米国の要請に逆らうと
米国特殊機関によって暗殺さえ
される。これは戦後直後からの
多くの暗殺事件の実例がそれ。
「事故死」や別な狙撃者を犯人
と仕立てられての「銃撃死」等。

日本の二輪免許制度は1995年に
大幅に変更された。
自動二輪枠を小型、普通、大型
に分けた。
それまでの小型二輪、自動二輪
(限定付、限定無)を廃止した。
そして、排気量無制限の大型二輪
免許をかつての自動二輪免許の
ように教習所で取得できるよう
にした。
ただし、教習所の講習内容は
大改編され、極めて簡単な検定
内容に改変した。
例を挙げると自動二輪限定解除
時代の一本橋通過時間は15秒以
上だったが1995年以降は10秒だ。
それはかつての自動二輪中型
限定付免許のタイムだ。
車両の引き起こしも現在は超
簡単になっている。かつては
どこも「引き起こし専用車」が
用意されていた。タンクには
砂が満タンの不動車だ。
そして、教習所では不思議な
現象が登場した。
限定解除が存在した時代まで
は、乗車姿勢は背筋は伸ばさ
ず、背骨の力を抜いてごく自然
に軽く丸くなるような指導だっ
た。肩は落とし、両肘も張らな
い。
だが、それがどうした事か、
直立硬直乗車姿勢を教習所で
指導するように変化した。
一般公道で、二輪運転者の乗車
姿勢を見れば、即いつ免許を
取ったのか判別がつく。
硬直カカシ固まり石仏載りを
している人たちは、全員がも
れなく新免許制度以降に初め
て二輪に乗った人たちだ。
だが、しかし、それは二輪の
乗車操縦には完全に不適合な
姿勢なのだが、乗っている人
たちは人間が世の中盲目的従順
さを持つのみの人々になったの
か、その誤謬について自己検証
しようとはしていない。
物理的にも医学的にも間違った
方法を洗脳されたままでそれを
鵜呑みにして危険な運行を続け
ている。
限定解除時代には、たとえ大型
だろうと中型だろうと、立ちゴケ
をする人間などは今のように
蔓延していなかった。
しかも、Uターンがまともにでき
ないというのなどは二輪に乗る
資格さえ認められなかった。
理由は、「それは運転ができ
ない事」だから。
だが、今の時代は違う。
二輪に乗れない人たちでも公道
通行許可証として免許証が取得
できるのだ。

数年前、乗り屋の若者二人と
峠を降りて昼食に行った時、
速い乗り屋の子から言われた。
「乗れてますね。Uターンも
普通にできてたし」と。
一瞬意味不明だった。
免許持ってるのだから、Uターン
できて当たり前だし、できない
と免許は取れないでしょう、と
思ったが、現代はどうやらそう
ではないらしい。
そういえば、その日、一緒に
走っていたそこそこ速く走れる
若者も、400のネイキッドの車
Uターンさせられず、途中で
何度も切り返していた。
それか、と食事中に分かった。
今の時代
の一般的な趨勢を。
オートバイが運転できなくとも
免許が取れてしまう時代なのだ。
特に新規大型免許を取得した人
たちは、無理して大型車に乗っ
ているので、なおさら全く運転
おぼつかない。そういう人たち
だらけだ。今の日本国内の公道
は。残念な現実として。


400の時代がまた来るかも、と
二輪メディア関係者たちは口を
揃えて言う。

来るかも知れない。
ヨーロッパのメーカーも日本市
場をあてこんでか、400のライン
ナップを展開し始めた。

400の時代が来るのもいいかも。
なぜならば、パワーを国内道路
では出しきれない現在の大型
二輪は、見栄とステイタス感の
自己満足だけの事物になって
しまっているからだ。
だからこそ、そういう族がいる
から排気量マウントなどという
かつては存在しなかったねじ曲
った人間も大量発生している。
それが誤解も呼び、単純に車
に興味を持って排気量を尋ねた
だけで「ナンシーおじさん」とか
普通二輪免許の若者たちに毛嫌い
される事態を引き起こしている。
マウントなどを取る脳足りんが
いる状況が情勢を作った。
ステレオ
脳の若者も若者だが。

二輪の最高速は人間が出すので
はない。車両が出す。
そこも大型車乗りたちは勘違い
と心得違いをしている人間が
今は非常に多い。

速度が出たのは自分の腕かと
大きな勘違いをしているのは
ごまんといる。
だが、それらは峠などの曲線路
連続の場所に行くと自分より
小排気量車にぶち抜かれたり
する。
いわゆる「直線番長」だ。
そうやって二輪に接するのは
くだらない事だ。

私個人は、今のカブブームは
大型車の現状の使用のされ方
何か釈然としない人たちが
新たな二輪の楽しさの原点を
振り返る要素が強いのではと
思っている。
そうした背景があるならば、
これから始まる400ブームは
一つの日本人の原点回帰、
本当の二輪の楽しさを見つめ
なおすある種のムーブメント
の起爆剤になるかも知れない。
400クラス復活にはそうした
未来への可能性がある。
ガソリンエンジンの歴史の
最後の一期間として。
閉じる未来の展望だが、閉じる
事から始まる新たな未来もある
かも知れない。
400クラスの二輪の人気復活に、
私は日本の二輪のモーターリ
ゼーションの発達の観点から、
大いに期待したい。

何かしら、1990年代初期のレー
サーレプリカからネイキッド
人気に移行した時と同じ空気
と予感を感じるのよね。
今後始まる400クラス人気の
高まりと、日本人の大型二輪
離れ
という傾向は。
大型車には大型車の魅力がある
のに、それを「ステップアップ」
として、大型車が最上位で中排
気量や小排気量を格下に見下す
感性などは日本人の中から消滅
してしまえばいいと私は思って

いる。
世界グランプリライダーには
そうした詮無きさもしい感性
の人は一人もいない。
500ccチャンピオンだろうと
125ccチャンピオンだろうと、
同じ同格チャンピオンとして
互いに敬意を示していた。
何か、学ぶものが日本人には
あるのではないかな。
彼らスポーツマンから。

 


座頭市(1989)に見る活劇性

2024年01月02日 | open

弥勒"菩薩"に守られ続けた"闘神"!!
-勝新太郎-座頭市-1989年-最後の闘い!!
-The last battle in Shintaro Katsu-
1989 of the Zatoichi.


勝新太郎自身の監督主演作品。
活劇というのはこのように撮る。
これは剣戟であっても銃撃戦で
あっても。
大川監督の『クライムハンター』
シリーズがドB級であるのは、
役者が静止して待っていて、監
督のアクション発声指令が出て
から役者が間を置いて動き始め
て、そこにガンアクション(被弾
や射撃シーン)が開始されると
いう「間抜け」の映像となって
いるからだ。
映像が切り替わって次のカット
が始まる時に静止状態から
はい、よーいドン、というの
が見えすぎるのだ。
そして、やたらと銃や被弾の
アップを出すが、そのような
ちぐはぐな間抜け静止から始
まるのでてんでダメ。
クロサワや勝新や三隅監督や
深作監督の活動写真を観た事
がないのかとさえ思う。
このラスト座頭市もクライム
ハンターも
同じ1989年公開だ
が、活劇表現技量に差があり
すぎる。


要するに映画人とそうではない
ライターが撮った映画の違いか。
大川監督は有名人気アニメの
製作に多く関わった腕利きの
シナリオ
ライターだが、実写の
映像作品
については、もしかす
るとあまり
映画そのもののを
観込んではないのかも
知れない。
撮りが全然駄目なのだ。
比較しては悪いが、勝新と新人
初映画監督の力量の差が歴然す
ぎて、今さらながら驚くと同
に納得もする。
映画は恐ろしい。


クライムハンター