バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

今日から始めます

2008-04-25 11:03:07 | Weblog
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず

 聖書では すべての人は、罪を犯したと言っています。
 この世の法律でも犯罪を犯せばそれに対して罰があります。聖書は罪の結果は「死」だと言うのです。

 犯罪者に対しては罰がありますが、また被害者に対して償いをするものです。償ったからといって全てが解決するわけではありません。しかし、もう元に戻せないから何らかの償いをして赦しを得ようとするのです。人間は赦されないと心が死ぬのです。お互いの心を生かすためにも「赦し」が必要になるのです。

有名な言葉に「目には目、歯には歯を」というのがあります。「やられたら、やりかえせ」というのではないのですが、基本的に同じもので償うのです。目をやられたら相手の目をやるのです。いのちにはいのちです。
 明らかに人を傷つけたとかいう法的な罪なら償いもわかりやすいのかも知れませんが、表面には見えないような罪の場合(心の中で人の悪口を言ったなど)、誰にもわからないのですから償いの必要はないことになります。でも、聖書はそうした心の中の罪も罪と言っているのであり、それは神様に対して償わねばならないと教えています。

 私は小学6年生の時に自宅の窓ガラスを割ってしまったことがあります。その時、両親は「いいよ」とは言いませんでした。私はガラス屋さんに行って、ガラスを入れてくれるように頼みました。そして、その代金も貯めた小遣いから払いました。
でも支払えない失敗をしたことがあります。大事な盆栽の枝を折ってしまったのです。ガラスのようにはいきません。必死でつなごうとしますが無駄な努力です。何もできない自分を見つけるのです。叱られましたが、赦されました。しばらく形の悪い盆栽がそこにありました。何もできない私でしたが、赦されたので心は楽になったのです。

 神様に対して私たちは罪の償いなんてできるものではないのです。何もできず、アダムとエバみたいに隠れるくらいしか考えつかないのでしょう。そんな時、神様の赦しをいただくことができたらどうですか?死から命に変えられるのです。イエス様が十字架で身代わりの死を遂げることで神様は罪を赦すと決めてくださったのです。私たちは、自分の罪を悪いと感じ、イエス様によって赦されることを信じ感謝するなら、罪は赦されるのです。

● 水野源三さんの詩「十字架の愛」

主イエスが歩まれた道は
昔も今も誰も歩いたことがない
主イエスが歩まれた道は
私を誠の道へ導くため
歩まれた十字架の道

主イエスが語られた言葉は
昔も今も誰の語ったことがない
主イエスが語られた言葉は
私を罪の中から救うため
語られた十字架の言葉

主イエスが示された愛は
昔も今も誰も示したことがない
主イエスが示された愛は
私の心を満たすため
示された十字架の愛

 十字架は私たちのために示された神様の愛です。私たちを赦すために神様の愛の計画がイエス様の十字架です。



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