バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

続々とやって来る

2018-07-29 18:45:39 | 礼拝説教
2018/7/29礼拝説教
【テーマ】  リバイバル
【説教題】 「続々とやって来る」
【聖書箇所】 マルコ3:7-12
【新改訳2017】
3:7 それから、イエスは弟子たちとともに湖の方に退かれた。すると、ガリラヤから出て来た非常に大勢の人々がついて来た。また、ユダヤから、
3:8 エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうや、ツロ、シドンのあたりからも、非常に大勢の人々が、イエスが行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。
3:9 イエスは、群衆が押し寄せて来ないように、ご自分のために小舟を用意しておくよう、弟子たちに言われた。
3:10 イエスが多くの人を癒やされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押し寄せて来たのである。
3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るたびに御前にひれ伏して「あなたは神の子です」と叫んだ。
3:12 イエスはご自分のことを知らせないよう、彼らを厳しく戒められた。

【新共同訳】マルコ
3:9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。

○ 現代は何千人、あるいは何万人のコンサートや大会が持たれる時代です。しかし、昔もたくさんの人が集まることがあったようで、ローマ時代のコロセウムには5万人が収容できたようです。イエス様のところにもたくさんの人が来たようですが、どれ位の人が来たのでしょうか。

Ⅰ.非常に、おびただしい
A.群衆が迫ってきた
1.今日のテキスト最初は それから です。つまり、この前は安息日に会堂で片手の萎えた人を癒され、パリサイ人達に安息日に病気を癒したことで問題視され、殺害計画が始まったところです。
2.一方、イエス様のうわさは各地に拡がり、イエス様の元に癒しを期待したり、イエス様見たさ、あるいはイエス様のお話を聞きたくて人々が集まって来ました。それが群衆となっていたのです。

B.すごく大勢の人たち
1.今回の新改訳2017では 非常に大勢の人々 と訳されているのは新共同訳では おびただしい群衆 と訳されています。口語訳では単に 群衆 、新改訳の前の版では 大勢の人々 でした。
2.つまり、聖書協会訳は 群衆おびただしい群衆 新改訳聖書では、大勢の人々非常に大勢の人々 と、人の多さを強調している事がわかります。この方がより原文に忠実だというわけです。

C.異邦人もいた
1.またマルコは人々がいかにあちこちから来たかを書き記しています。 ガリラヤから出て来た非常に大勢の人々がついて来た。また、ユダヤから、3:8 エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうや、ツロ、シドンのあたりからも 人々が来たというのは、相当の広範囲からということです。
2.しかも ツロ、シドンのあたり というのはは異邦人の町です。イエス様を求めてやって来たのは何もユダヤ人だけではなく、異邦人もいたということです。短期間の間にイエス様のうわさはあちこちに広まり、大勢の人がやって来ました。リバイバルです。

Ⅱ.押し寄せてこないように
A.逃げ道を用意された
1.そのすごい人がイエス様に押し寄せてくるのをご覧になったため、 3:9 イエスは、群衆が押し寄せて来ないように、ご自分のために小舟を用意しておくよう、弟子たちに言われた のです。イエス様に癒していただきたくて、イエス様に触ろうとして多くの人が詰めかけたからです。
2.その数はあまりにも多くて、イエス様は人々から逃れる方法も考えなくてはならなかったようです。湖に出てしまえば人々も近づけませんから。

B.どうしてもイエス様に触れたい
1. 群衆が押し寄せて来ないように のところが、新共同訳聖書では 群衆に押しつぶされないためである とあります。それほどにまでイエス様に迫ってきているのです。どうしてもイエス様に触りたいのです。触れば癒やされるかも知れないと思ってのことでしょう。
2.実際、マルコ5:25~に登場する12年間長血を患っていた女が 5:28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。 とあります。イエス様に触れば癒やされると信じる人が多くいたのです。そして、聖書では多くの人が癒やされ、イエス様に従っています。リバイバルです。

C.私たちもイエス様に触れよう
1.「この時代の人はいいなあ」と思う人がたくさんいます。イエス様に直に触れたのですから。私たちだって直に触って癒やされたいですよね。そのため今も癒しを求めて大勢の人がキリスト教の大集会に集まります。
2.それはイエス様に替わって聖霊がイエス様と同じように働かれているからです。私たちも聖霊に触れればいいのです。聖霊は癒し主です。イエスの名によって癒してくださるのです。

Ⅲ.愛の服従を
A.悪霊もひれ伏す
1.こういう状況の中で悪霊がまたしても イエスを見るたびに御前にひれ伏して「あなたは神の子です」と叫んだ のです。ひれ伏すというのは自分より権威のある方に対してです。悪霊はイエス様の権威に服しているのがわかります。
2.悪霊を無力にさせ、病を癒やすイエス様はまさしく、私たちの王の王、主の主です。悪霊の働きに服していてはならないのです。また、罪の支配のままに過ごしていたもならないのです。

B.信仰告白かどうか
1.私たちは悪霊のようにではなくイエス様にひれ伏すべきです。イエス様は私たちの王ですが、そのイエス様から私たちは「友」と呼ばれています。そのような近しい関係にしてくださいましたが、イエス様は神様です。愛の服従をすべきです。
2.そういう私たちが「あなたは神の子です」と言うのは悪霊の 「あなたは神の子です」 とは全く違うのです。私たちのは信仰告白であり、その告白は人々をイエス様に向かわせる言葉です。

C.人々は求めている
1.今も人々は癒しを求めて癒し主を捜し求めているのです。そして見つけたらそこに続々とやって来るのです。しかし、癒やしだけを求める人、問題の解決だけを求める人がいます。しかし、イエス様の救いというのは罪の解決です。私たちが悔い改めて神に立ち返ることが大事です。
2.世界に起こったリバイバルは様々な苦しみ、病等から救ってくれる宗教としてキリスト教こそ真実だと知って続々と集まってきて起こったものでした。

● 今の時代、イエス様が目に見えないために、癒しの賜物を持っていると言われる人のところに大勢の人が集まります。確かに癒しの賜物はあります。しかし、癒やされるだけで満足してしまうとリバイバルは起こりません。罪を自覚し、悔い改め、さらに聖霊を受けることでリバイバルは起こるのです。

★ リバイバルを求めるクリスチャンは大勢います。リバイバルのために祈っている教会がたくさんあります。祈っている人がいる以上神様はリバイバルを起こしてくださり、続々とイエス様のところに人がやって来る日が来ます。

癒しが行われる日

2018-07-22 18:43:53 | 礼拝説教
2018/7/22礼拝説教
【テーマ】  イエスによる安息
【説教題】 「癒しが行われる日」
【聖書箇所】 マルコ3:1-6
新改訳2017
3:1 イエスは再び会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。
3:2 人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
3:3 イエスは、片手の萎えたその人に言われた。「真ん中に立ちなさい。」
3:4 それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていた。
3:5 イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。
3:6 パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。

○ 今日のテキストも先週に続いて安息日のことでもめる話です。この前は安息日にイエス様の弟子達がいわゆるユダヤ人の律法を破るような行為をして、イエス様は人々の反感を買うことになりました。そして、また安息日に問題が起こったのです。

Ⅰ.癒しが裁かれるとは
A.裁きの目で見ていたパリサイ人
1.片手のなえた人が会堂にいましたが、イエス様は苦しんでいる人を放っておけない方です。 人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。 と、またもやイヤな目つきで見ています。
2.その目はイエスを訴えるためだったというのです。律法学者達は自分たちの決まりを守ることだけを考えており、苦しむ人の痛みや苦しみを考えていません。彼らがイエス様を見る目は決まりを破るのを見つけて訴えてやろうとする裁きの目です。

B.イエス様の癒しは仕事なのか
1.ユダヤの律法というよりもパリサイ人の律法といった方がいいのかもしれませんが、彼らの決まりでは安息日に病気を治してはいけなかったのです。仕事になるからです。
2.では、イエス様のなさることは彼らの言っているような「仕事」なのでしょうか? 医者が仕事として病人を診るのは仕事なのかも知れませんが、イエス様のなさるのはどう見るべきでしょうか?

Ⅱ.神の思いを考えない人達
A.怒りによる一致
1.パリサイ人はイエスを憎んだのです。なぜ憎んだのか。彼らが大切にしている律法を平気で破るからです。そこで、彼らはイエスに怒りを覚えました。怒る人が自分を支えるのは正義心と言われます。自分が間違っていると思いながらも怒ることは簡単にはできません。自分は正しいと信じ込んでいるから怒ります。
2.その結果、 ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた のです。ヘロデ党の人というのはユダヤ人ではあるけれども、ローマ権力と結びついて地位や権力を確保した人達です。パリサイ人はそういう権力などを嫌い、貧しくとも律法に厳しく生きようとした人達で、この二つのグループは仲が悪かったのです。それなのに、不思議に結託したのは、イエスを殺すということにおいてでした。人は殺意を抱くと手段を選ばなくなるそうです。このような一致は困ったものです。

B.神の律法を曲解していないか
1.パリサイ人のように安息日に病人を治してはいけないというと、目の前に急患がいても医師は何もしてはいけないことになるのでしょうか? 苦しむ人を目の前にして放っておくのでしょうか? 神様はそういう方でしょうか。
2.神様の思いを理解しないということは自分たちの決まりを守ることに必死になり、人のことを考えず、人をも苦しめることになるのです。

Ⅲ.安息日に癒される
A.イエス様の安息日理解
1.パリサイ人の怒りはイエスを殺さなければ消えないわけで、イエスを死にまで追いやったことになります。しかし、神様は安息日をそのような裁きの目で監視し合うような日として造られたのでしょうか?
2.イエス様は 3:4 「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」 と言われています。そして、この人の手を癒されたのですから、安息日に癒しを行うことは善であり、律法にかなっているというわけです。

B.日曜日は霊・肉リフレッシュの日
1.前回語りましたように、安息日は人のために設けてくださった神様の愛から造られた日です。この日に人は霊・肉共にリフレッシュされる日であり、それは神を礼拝することで与えられるのです。ですから、この手のなえた人は「安息日」に癒されたのです。
2.ここのところ、礼拝の最初に癒しを祈っています。「日曜日=ユダヤ人の安息日」ではありませんが、この日は主の日です。主の復活された日です。この日にすばらしい癒しが行われることは当然あってよいことです。

★ 安息日は私たちが真にリフレッシュする日です。それは神との交わり、そして、兄弟姉妹との愛の交わりによって生み出されるすばらしい霊的エネルギーを回復する日でもあるのです。

安息日は何の日?

2018-07-15 16:31:57 | 礼拝説教
2018/7/15礼拝説教
【テーマ】  イエスによる安息
【説教題】 「安息日は何の日?」
【聖書箇所】 マルコ2:23-28
【新改訳2017】
2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは、道を進みながら穂を摘み始めた。
2:24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
2:25 イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが食べ物がなくて空腹になったとき、ダビデが何をしたか、読んだことがないのですか。
2:26 大祭司エブヤタルのころ、どのようにして、ダビデが神の家に入り、祭司以外の人が食べてはならない臨在のパンを食べて、一緒にいた人たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」
2:27 そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。
2:28 ですから、人の子は安息日にも主です。」

○ ユダヤ人にとって安息日を守ることはとても大事なことになっています。では、クリスチャンにとってはどうでしょうか? まず、安息日とは何でしょうか? 

Ⅰ.イエスと弟子達
A.安息日の制定
1.安息日は金曜日の日没から土曜日の日没までですが、まず創世記を見てみましょう。  創世記2:1-3
2:1 こうして天と地とその万象が完成した。
2:2 神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。
2:3 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。
 と、神様が第七日目を祝福して聖なるものとされたのです。
2.次に十戒の安息日に関するところを見てみましょう。
  出エジプト記20:8-11
20:8 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。20:9 六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。
20:10 七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。
20:11 それは【主】が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。
 と、神の創造の業が終えられたときに神が決められた安息日を人間も守るようにと言われました。

B.安息日の重大性
1.出エジプトをしたイスラエルに十戒が与えられ、安息日の重要性は語られましたが、神様が毎日マナを与えられたことでもその重要性がわかります。マナは毎日与えられたのですが、七日目には無かったのです。その代わり六日目に二倍集めることができたのです。七日目に集めに出た人を神は罰しておられます。(出エジプト16章)
2.こうして安息日の重大性はイスラエルに浸透していき、バビロン捕囚時にはユダヤの祭りよりも規則正しく守られたそうです。中間時代にはシナゴーグの確立により安息日はしっかり守られるようになっていました。

Ⅱ.安息日問題
A.何が問題なのか
1.今日のテキストで問題になっているのは何でしょうか? 弟子達が安息日に麦の穂を摘んで食べ始めた事が パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか。」 というところです。人の畑のものを勝手に食べたから問題なのでしょうか? しかし、これは 【新改訳2017】申命記23:25 隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない。 とあるので問題ではありません。
2.ひっかかるのは「安息日にそれをした」ということです。十戒自体にはそれが書かれていませんが、「仕事」という中にこれを考えていたからです。パリサイ人はこんな事をしなかったのに、イエスの弟子達は何ていうことをするのかということです。つまり、イエスの教えはどうなっているのかということです。「自分の弟子をも指導できないのか!」と、イエスの宗教的指導性の無さを見下しているわけです。

B.イエス様の答え
1.このパリサイ人のイエスを陥れようとする質問に対して、イエス様はまずⅠサムエル21章の話をし、祭司しか食べてはいけないパンをダビデは部下のためにいただいたという話をなさいました。
2.このパンは新共同訳や前の新改訳では「供えのパン」と訳されていますが、新改訳2017では「臨在のパン」と訳されています。これは「神が見ておられるパン」と訳せるのだそうです。ですから、本当にそれが罪なら神が罰を与えるはずだということです。
3.そして、ここで「ダビデ」を出してこられたのも、イエスが「ダビデの子」と呼ばれているからです。王になるダビデが許したように神の国の王になるイエスが許されたのです。

Ⅲ.安息日は誰のもの
A.安息日は人のため
1.さらにイエス様は 安息日は人のために設けられたのです。 と言われました。誰が設けたのか? 神様です。何のために? 人のためです。人が生きるためだというのです。
2.安息日には自分だけが休むのでは無く、奴隷も家畜も休ませるのです。それは自分たちのために働いてくれている者をゆっくり休ませる時だという意味が込められているからです。

B.安息日の主、イエス
1.そして、イエス様は 人の子は安息日にも主です と言われました。つまり安息日の主人公はイエス様であり、私たちはこの主であるイエス様に徹底して従うのです。
2.イエス様は マタイ 11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 と言われたように、私たちはみんな安息のために主の所に行くのです。

● 安息日と日曜日を同一視するのは難しいですが、人々にとってイエス様との時間が必要です。それは厳しく安息日が規定されたほどに、それを破った者は罰を受けたほどに必要なものです。ただ休むだけでは無く、イエス様と共に過ごし、心身の安らぎ、霊的な満たしをいただくときです。

★ 主の日の礼拝を軽んじてはならないのです。私たちは世との関わりで確実に霊的エネルギーの更なる必要性を感じているはずです。主日礼拝はそれを満たすものです。


神に怒る人

2018-07-08 16:47:06 | 礼拝説教
2018/7/8礼拝説教
【テーマ】  神の思いと人の思い
【説教題】 「神に怒る人」
【聖書箇所】 ヨナ4:1-11
新改訳2017
4:1 ところが、このことはヨナを非常に不愉快にした。ヨナは怒って、
4:2 【主】に祈った。「ああ、【主】よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。
4:3 ですから、【主】よ、どうか今、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましです。」
4:4 【主】は言われた。「あなたは当然であるかのように怒るのか。」
4:5 ヨナは都から出て、都の東の方に座った。そしてそこに自分で仮小屋を作り、都の中で何が起こるかを見極めようと、その陰のところに座った。
4:6 神である【主】は一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上をおおうように生えさせ、それを彼の頭の上の陰にして、ヨナの不機嫌を直そうとされた。ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ。
4:7 しかし翌日の夜明けに、神は一匹の虫を備えられた。虫がその唐胡麻をかんだので、唐胡麻は枯れた。
4:8 太陽が昇ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は弱り果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」
4:9 すると神はヨナに言われた。「この唐胡麻のために、あなたは当然であるかのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」
4:10 【主】は言われた。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。
4:11 ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」

○ 先週のウエルカムサンデーの説教ではヨナがニネベに行って滅びを預言したためにニネベの人々は悔い改め神を信じたことを語りました。神は誰も滅びて欲しくないからです。今日は、誰も滅んで欲しくない神とは反対に、ニネベが滅びるのを見ようとしているヨナと、そのヨナに神様の思いを教えるところです。

Ⅰ.神とヨナの思いの違い
A.滅ぼすことをやめた神
1.ノアの大洪水、ソドムとゴモラの滅びをはじめとし、聖書には神が人を滅ぼされる場面が何度となく出てきます。神はどのような基準で裁きを行われるのでしょうか? それは神のなさることなので私たちにはわかりません。
2.ただ言えることは、どんな罪も神は許さないということであり、罪人は皆裁かれるということです。ところが、神の憐れみにより、罪人であるにも関わらず救いの道を用意して下さったのです。
3.そういう神の裁きと救いの計画の中で、ニネベの町は神に裁かれ、滅ぼされようとしていました。神の目に彼らの悪は満ちたからです。しかし悔い改めたニネベは赦されたのです。

B.滅ぼして欲しいヨナ
1. 4:3 ですから、【主】よ、どうか今、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましです。」 「死んだ方がまし」というのはよく聞きます。神がニネベを救われることがなぜヨナにとって死んだ方がましなのでしょうか?
2.それは、アッシリアが存続することでイスラエルが脅かされるのが耐えられないからです。イスラエルに神の祝福を語りたい預言者として、イスラエルの脅威を許すことができなかったのです。
3.ヨナ書を読む私たちは神様の愛を知っているので「死んだ方がまし」とは思えないはずです。

Ⅱ.ヨナの怒りと神の優しさ
A.自分の願いの実現のために怒る
1.ヨナは神に怒っています。ヨナの願いは(つまり祈りは)ニネベが滅びることです。そのために自分は最善を尽くして、ニネベに神の裁きの預言も語らず、タルシシュにさえ逃れようとしたというのです。
2.ヨナは神がどのようなお方か知っていたと言っています。 4:2 ・・・あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。 と。このようなすばらしい神を知っていながら、ヨナは神に従わず、自分の願いが叶うように、ニネベに預言を語りたくなかったのです。
3.私たちも神様がどのような方か結構知っていて、その神様に祈るのですが、みこころよりも自分の願いが実現することを期待して祈ることがあるのではないでしょうか?

B.ヨナの機嫌を直そうとされる神
1.ヨナはそれでもニネベが滅ぼされると思っていたのか、都の東の方に小屋を作って見ていたというのです。差し込むような日差しの地方なので、神様は唐胡麻を生えさせ、日陰を作ってくださいました。
2. 4:6 神である【主】は一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上をおおうように生えさせ、それを彼の頭の上の陰にして、ヨナの不機嫌を直そうとされた。ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ。 と、あります。そういう神様の優しさに触れて、「神様がこんな自分のことを愛してくださっているのだなあ」「神様はニネベの人達をも愛しておられるのだなあ」と思えれば良かったのです。

Ⅲ.みこころを教える神
A.再び怒るヨナ
1.しかし、彼はずっと自分の願いが叶うことだけを願い、ニネベが滅びるのを見ようとしていました。そこで、神様はこの唐胡麻を枯らしてみこころを教えようとされます。
2.唐胡麻の日陰を失ったヨナは暑さのため死にそうになりました。そしてまたもやヨナは神に怒るのです。ここまで神に怒れる人というのは逆にすごいと思いました。 4:9 すると神はヨナに言われた。「この唐胡麻のために、あなたは当然であるかのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」 怒るのは当然だと思っているのです。
3.私たちは神に怒ることができるような存在でしょうか? 

B.神のみこころを共有する
1.神様はご自分の生み出された人々、たとえ神様を礼拝しない人達であっても、愛して、立ち返ってくるのを待っておられることを語られました。 4:10 【主】は言われた。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。4:11 ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」 人間だけで無く、家畜まで神様は惜しんでおられるのです。
2.この気持ちをヨナが共有してくれることを願って、唐胡麻を通して教えようとされるのですが、ヨナはどこまで神様の気持ち、みこころを理解したのでしょうか? 
3.では、私たちはどうでしょうか?

★ 私たちもみこころを求めているというものの、果たしてどの程度神様のお気持ちを理解しているのでしょうか? 神様の教えに従順になりたいものです。


魚に飲まれた人

2018-07-01 18:44:57 | 礼拝説教
2018/7/1礼拝説教
【テーマ】  イエスを信じる者は救われる
【説教題】 「魚に飲まれた人」
【聖書箇所】 ヨナ1:-3:
新改訳2017
1:1 アミタイの子ヨナに、次のような【主】のことばがあった。
1:2 「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
1:3 しかし、ヨナは立って、【主】の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。彼はヤッファに下り、タルシシュ行きの船を見つけると、船賃を払ってそれに乗り込み、【主】の御顔を避けて、人々と一緒にタルシシュへ行こうとした。
1:4 ところが、【主】が大風を海に吹きつけられたので、激しい暴風が海に起こった。それで船は難破しそうになった。

1:12 ヨナは彼らに言った。「私を抱え上げて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。私は分かっています。この激しい暴風は、私のせいであなたがたを襲ったのです。」

1:15 こうして、彼らはヨナを抱え上げ、海に投げ込んだ。すると激しい怒りがやんで、海は凪になった。
1:16 人々は非常に【主】を恐れ、【主】にいけにえを献げて誓願を立てた。
1:17 【主】は大きな魚を備えて、ヨナを?み込ませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。

○ 昔から時々クジラに飲まれた人の話があります。今日は今から2800年以上も前に大きな魚に飲まれた預言者の話です。

Ⅰ.魚の腹の中に行くヨナ
A.ヨナが逃げる
1.ヨナというイスラエルの預言者が神様から大事なお言葉をいただくのですが、それはアッシリア帝国の中心都市ニネベが滅びるという預言でした。
2.当時勢力を伸ばしていたアッシリア帝国によってイスラエルは大変苦しめられていました。神様はこのアッシリア帝国の中心都市ニネベの悪が大きくなってしまったためにニネベを滅ぼすと言われたのです。
3.しかし、預言者ヨナはニネベに行きませんでした。ヨナはニネベが悔い改めたら神様は滅ぼすことを止めるお方だと知っていたからです。イスラエルを愛するヨナはニネベが滅んだ方がイスラエルのためになると考えたのです。「自分さえニネベに行かなければイスラエルは助かる」と。

B.嵐に遭う
1.ヨナはニネベとは反対方向の海側のヨッパという港に行き、タルシシュ(スペインの港町と思われる)行きの船に乗りました。これでニネベに行くことは無くなると思われたのです。
2.すると船は嵐に遭います。聖書はその嵐は神様がそうなさったと書いています。乗組員達はそれぞれ自分の信じている偶像に祈るのですが、何の変化も起こりません。船底で寝ていたヨナにも祈るように言います。
3.ヨナは神様の命令に従わなかったのでこのような嵐を与えられたことを知っていました。そこでヨナは嵐の原因である自分がこの船からいなくなれば乗組員は助かると考え、イスラエルの神がヨナの罪のために起こされた嵐だと説明し、自分を海に投げ込むことを提案しました。ヨナは自分が死ぬことで乗組員は助かると考えたわけです。

C.嵐が静まる
1.そして、そのように彼は海に投げ込まれました。彼の予想通り、嵐は止んで人々は助かったのです。この時、人々は自分たちの偶像にでは無く、聖書の神を恐れて礼拝をしました。
2.一方、海に投げ込まれたヨナは死ぬと思っていたのですが、神様は今度は大きな魚を用意されました。その大きな魚がヨナを飲み込んだのです。真っ暗で、度々海水が入ってくるし、泳ぎ回っていますからゆっくり安心できるところではありません。このままじわりじわりと消化されて死んでいくと思ったことでしょう(参照 2:5-6)。
3.しかし、彼はそこで祈りました。祈るうち、彼の祈りが神に届いているという確信に至るのです(参照 2:6-9)。ヨナは苦しい中にも祈りが聞かれている平安で満ちるのです。

Ⅱ.ニネベに行くヨナ
A.神を信じるニネベ
1.何と魚はヨナを陸地に吐き出しました。それで終わったのではありません。再度神はヨナにニネベに行って滅びを宣言するように言われました。神様は決して私たちの働きを無にされません。
2.ヨナはその神の言葉に従ってニネベに行って語ります。 3:4 「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」 と。 3:5 すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまとった。 と、ニネベの人々は、なんと神を信じて、悔い改めたため、滅ぶことはなかったのです。
3.神様は悔い改める者を滅ぼされません。私たちも同じです。神の言葉を信じ、神の喜ばれる生き方に方向を変えるならば私たちは救われるのです。
ヨナ 3:10 神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった。

B.ヨナを用いたい神様
1.ヨナは最初従いませんでしたが、神様は従わなかったヨナを嵐の海で殺してしまうことはなさいませんでした。神はヨナのことをとても大事に思っておられるのです。そして、ヨナが神の働きをすることをも願っておられるのです。
2.魚のお腹の中は決して楽ではありません。彼は三日三晩魚のお腹の中でその消化液で皮膚は相当ただれたかと思います。そういうヨナですから人々の目にも魚から出てきた預言者として一目瞭然だったのかも知れません。
3.ニネベには魚の神の偶像があったと言われています。魚の形の神。その口から出てきた預言者。正に神の言葉を語るというわけです。そのヨナがイスラエルの神の言葉を伝えるので、人々はイスラエルの神を信じたのかも知れません。

Ⅲ.私たちの所に来られたイエス
A.神様は待っておられる
1.ニネベはヨナが神の言葉を語らなかったら滅びたのです。誰かが日本の国にもキリスト教を伝えてくれたので、日本は滅びなかったのです。イエス様のことを伝えるというのはとても大事なことなのです。
2.神はニネベが大変悪に満ちていたというものの、すぐに滅ぼされませんでした。神は救いたいお方なのです。そのために神様は福音がその人に伝わるように待ち望んでくださっています。

B.イエス・キリストを信じる者は救われる
1.イエス様はヨナが魚の腹の中に三日三晩いたことを引き合いに出してご自分が救い主であることを語っておられます。つまり、十字架にかけられて死んだけれども三日目によみがえることを示唆されたのです。〈ただ、イエス様はヨナのように神に背くことは一度もありませんでした〉
2.ヨナの言葉を聞いて悔い改めたニネベの人々のように、イエス様の言葉を聞いて神を信じ、悔い改める人(神の方向に生き方を変える人)は滅ぼされない、救われるということです。

★ あなたも神の言葉であるイエス・キリストを信じてください。