バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

インマヌエル

2015-11-29 16:46:07 | 礼拝説教
2015/11/29礼拝説教
【テーマ】  共におられる神
【説教題】 「インマヌエル」
【聖書箇所】 イザヤ7:14,マタイ1:23
イザヤ7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

マタイ1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

○ 今日からアドベントに入ります。アドベントとは、クリスマスを待ち望む期間と思ってください。
  どんなに偉い人でも、誕生日が祝われるのは、普通生きている間だけです。亡くなっている人の誕生日会ってしないものです。クリスマスはイエス様の誕生日です。約2千年も前に誕生したイエス様の誕生日は、毎年毎年世界中でお祝いされています! それは、イエス様が今も生きているからなのです。

Ⅰ.預言されたイエス様
A.イザヤの預言
1.今から2700年ぐらい前、イスラエルにイザヤという預言者がいてました。彼は、BC742年、長くユダ王国の王位にあったウジヤの死んだ年に、神の召命を受け預言者として立ちました。
2.当時、アッシリア帝国によって、ユダ王国も苦しい目に遭わされていました。イザヤは神の言葉を語り、真の神に従い続けることを促すのですが、アハズ王は政治的策略を巡らし、神に従わず、人に従ってしまいます。イザヤは従わないユダ王国は滅びるが、必ず救い主が来られることも語ります。
3.イザヤは救い主がどのようにして生まれるのか、そして救い主の生涯について(イザヤ53章)も神様から預かった言葉を伝えていたのです。神様は永遠のお方なので、過去・現在・未来のことを全て知っておられるのです。

B.待ち望む人々
1.イザヤは実際にイエス様が誕生する700年も前にそのことを預言したのですが、その時にメシヤが来られるという嬉しい言葉を聞いた人たちは、どう思っていたのでしょうか?
2.BC586年にユダ王国がバビロン帝国に滅ぼされました。捕囚の民となった人たちはこのイザヤの預言を思い起こしたでしょう。そして、国を離れて、長い間救い主を待ち望むのです(ダニエルもその一人です)。イエス様は待ち望まれた救い主でした。

Ⅱ.マリヤから生まれるイエス様
A.信じられないような預言
1.イザヤが救い主について預言した一つが今日のテキストです。 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。 です。私たちはもうそんなに問題も無く読んでいることと思います。
2.しかし、イザヤからこの預言を聞いた人々は何と思ったでしょうか? 救い主の誕生そのものは嬉しいことですが、結婚していない、男性を知らない女性が男の子を産むというあり得ない話に驚いたか、何かの比喩と思ったかも知れません。
3.現代人も処女マリヤがイエス様を生んだと信じる人はどれくらいいるでしょうか? 世の終わりが来ること、死後の世界があることを信じているでしょうか?

B.マリヤの身に起こった
1.救い主誕生の預言が700年後のマリヤの時代まで聖書として語り伝えられていました。マリヤはこの御言葉を知っていたと思います。しかし、我が身にこのことが起こるとは思っていなかったでしょう。
2.私は何人かの知り合いが牧師になっていくのを見ました。「どういう風にして牧師になる決断をするのだろう? まあ、自分は学校の先生が神様から与えられた職業だから、自分には関係無い」くらいに思っていました。ところが、それが私にも起こったとは・・・!!
3.私たちはイエス様と無関係では無いのです。イエス様は私たちの生活に積極的に介入されます。それがインマヌエルなのです。

Ⅲ.私たちと共に住む神
A.人となった神
1.イザヤは その名を『インマヌエル』と名づける と預言しました。「インマヌエル」とはマタイ1:23の( )にあるように (訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。) です。、もちろん救い主には、「イエス」という名前がつけられました。救い主の名前は「イエス」ですが、その救い主は私たちと共におられるということなのです。
2.「神は私たちと共におられる」とはどういうことでしょうか? イエス様は神様です。常に父なる神と聖霊なる神と共におられた三位一体の神様です。天地創造の時、イエス様は共に働かれたのです。
3.しかし、罪を犯した人間は神と遠い存在になってしまいました。離れて住む神でした。その神が私たちの生活に介入して来られたのです。まず、神の性質のまま人間として生まれて、一緒に生活してくださいました。

B.内住のキリスト
1.しかし、インマヌエルの本当の意味、もっと大事な意味は、地上で一緒に生活するだけの神ではなく、私たちの内に住むことです。本当に、一人一人と共に住まわれるのです。私たちの最も大事な心の内にあってです。
2.よく「内住のキリスト」と言います。「イエス様は歴史的な人物だ」と信じる人は多いです。「イエス様は十字架にかかって死んだ」と信じる人も多いです。「イエス様は処女マリヤから生まれた」「イエス様は復活した」「イエス様は神様だ」と信じる人は少なくなります。
3.「私の内にイエス様はおられる」と信じて言う人はどれくらいいるでしょうか? インマヌエルの大事なところはここです。内住のキリストです。

● 私はクリスチャンになって、教理を教えられて、私の内にイエス様がおられるということは信じました。頭で信じました。でも、頭の信仰は弱いものです。伝道にも奉仕にも力が無いのです。イエス様は存在するのですが、私とちょっと離れたところにおられるような感じでした。
ある日、自分が罪深い人間だということが心にガーッと迫ってきて泣きました。洗礼を受ける前に、いやイエス様を信じた時に、私は悔い改めの祈りもしたのですが、心の奥深いところにはまだまだ罪が眠っていたのです。もちろん、その罪も赦されているのですが、それが示された時、新たなる悔い改めが起こりました。その瞬間一気に十字架が近づいたのです。
それでも、私はイエス様がわからなくなっていきました。もうクリスチャンをやっていられないと思い、教会をやめるつもりである祈り会に出た時、今度は聖霊が一気に私を支配しました。聖霊のバプテスマを受けたのです。その瞬間から今まで,私はイエス様を疑うことができません。イエス様は私の内におられるという信仰が頭ではなく、心の奥底にまで染み込んだのです。インマヌエルの神です。

★ イエス様はあなたの心の中に住むためにこの地上にお生まれになって、十字架で罪を解決し、天に帰り、聖霊を送ってくださったのです。あなたの心の中にイエス様をお迎えください。

困難を打ち破る祈り

2015-11-22 18:05:33 | 礼拝説教
2015/11/22礼拝説教
【テーマ】  ネヘミヤの祈り
【説教題】 「困難を打ち破る祈り」
【聖書箇所】 ネヘミヤ1:4-11
1:4 私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、
1:5 言った。「ああ、天の神、【主】。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜る方。
1:6 どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。
1:7 私たちは、あなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった命令も、おきても、定めも守りませんでした。
1:8 しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを、思い起こしてください。『あなたがたが不信の罪を犯すなら、わたしはあなたがたを諸国民の間に散らす。
1:9 あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとい、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住ませるためにわたしが選んだ場所に、彼らを連れて来る』と。
1:10 これらの者たちは、あなたの偉大な力とその力強い御手をもって、あなたが贖われたあなたのしもべ、あなたの民です。
1:11 ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」そのとき、私は王の献酌官であった。

○ 今日は音楽神学校ワーシップ・ジャパンの皆さんもお出でくださり、午後にはセミナーと聖会が持たれることを嬉しく思います。
今日は先週に続いて、神殿再建の続きです。
私たちは困難に出くわすと当然祈ります。そして、事実祈りによって困難を乗り越えてきたのではないでしょうか。

Ⅰ.祈りが道を開いた
A.悲しむネヘミヤ
1.神殿が再建されてからすでに50年以上経ってもまだエルサレムの街は荒れたままでした。ネヘミヤはそのことを悲しんでエルサレムに戻ることを決意しました。
2.ネヘミヤもまた捕囚となった人たちの子孫で、今はペルシャの国に留まってアルタシャスタ王のそばで仕える大切な仕事をしていました。

B.祈るネヘミヤ
1.ある日、ネヘミヤの所に親戚の人やエルサレムに戻った人々がやってきました。ネヘミヤがエルサレムに戻った人々の様子を尋ねると、エルサレムはひどい状態で、城壁は崩れたまま、門は焼かれたままで、人々の生活も苦しい状態だと知りました。
2.ネヘミヤは同胞が苦しんでいることを思って悲しくなり食事もしないで泣きながら祈りました。「ああ、神様、私達はあなたに罪を犯しました。不信仰を赦してください。イスラエルを憐れんでください」ネヘミヤは熱心に祈り続けました。

C.エルサレムに帰るネヘミヤ
1.ある日、王はネヘミヤの悲しんでいる姿を見て、事情を聞いてくれました。そして、王はネヘミヤの気持ちを理解して、ネヘミヤが安全に帰れるように、また、必要な材料も手に入るようにすべて手配してくれました。
2.現場を遠く離れている時、私たちの心は辛いものです。しかし、祈りはすでに届いており、神様がネヘミヤの祈りを聞いて王の心を動かされたように、私たちの祈りも誰かを動かすものです。

Ⅱ.祈っていても困難はある
A.一時は順調に進んだ
1.ネヘミヤはエルサレムに着くと早速城壁を再建するために、誰にも邪魔されることがないよう、密かに調査を始めました。そして人々を集めて、みんなを励ました。
2.王の許可もありますが、神様がここまで導いてくださったのです。ですから、必ず工事は完成すると信じたのです。人々はネヘミヤの声に励まされて早速工事に取り掛かり、工事は順調に進んでいきました。

B.妨害が続く
1.ところが、イスラエル人が自分たちより強くなることを恐れて工事を妨害する周りの人たちがいました。その中のサヌバラテやトビヤ達は様々な妨害をしてきました。
2. 4:3 彼のそばにいたアモン人トビヤもまた、「彼らの建て直している城壁なら、一匹の狐が上っても、その石垣をくずしてしまうだろう」と言った。 というようなひどいことを言ってユダヤ人をバカにしたのです。
3.順調に進むのを好まない人は私たちの周りにもいます。ところが、妨害や困難というのは私たちの祈りを強めるものとなるものです。

C.内側にも問題発生
1.妨害の中にも神様は守りを与えてくださいました。また、ユダヤ人はやる気に満ちていましたから工事は進みました。敵が攻めてきた場合に備えて、半分の人が工事をし、残りの半分の人は見張りをするように工夫もしました。
2.こうした工夫のお陰で工事は進んだのですが、現実は厳しく、今度はユダヤ人同士の問題が起こってきました。この城壁再建の仕事に来たために生活は苦しくなり、命の危険も感じてストレスを感じながら生活しなければならないからです。
3.教会は外側からの攻撃、妨害もありますが、大変なのは内部の問題です。それが一致を失わせるとガタガタになってしまいます。音楽も一致が無いとガタガタになるのと同じです。

Ⅲ.祈りが完成を導いた
A.祈りで守られたネヘミヤ
1.神様が導いてくださったのだから何の問題も起こらないというわけではありません。敵の妨害、身内のギスギスした状態。そして、ネヘミヤの殺害計画も起こりました。これはネヘミヤの心をどれほど苦しめたでしょう。
2.しかし、ネヘミヤは祈りの内にその策略を見抜くことができ、いのちを守ることができました。ネヘミヤはどんなことがあっても神様に祈ることをやめなかったのです。自分には力はないけれど、神様には力があると信じて頼り続けたのです。

B.城壁が完成した
1.そして、あれほど妨害が激しかったにもかかわらずネヘミヤが城壁の再建を初めてなんと52日目には城壁が完成してしまったのです。みんな大喜びでした。
2.工事を妨害した人々も神さまの力を認めざるを得ませんでした。 6:16 私たちの敵がみな、これを聞いたとき、私たちの回りの諸国民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が、私たちの神によってなされたことを知ったからである。 と、あるとおりです。祈りは困難を打破し、城壁を築き上げたのです。

★ 私たちの人生には試練は必ずあります。しかし、それは信仰の成長のためだと知れば決して苦しみだけで終わるものではありません。祈らずにいると苦しみだけになります。しかし、祈ると困難が打ち破られていくのを現実に見るのです。


エルサレム再び

2015-11-15 17:45:00 | 礼拝説教
2015/11/15礼拝説教
【テーマ】  神への熱い思い
【説教題】 「エルサレム、再び」
【聖書箇所】 エズラ記1:1-4
  1:1 ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた【主】のことばを実現するために、【主】はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。
1:2 「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、【主】は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。
1:3 あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、【主】の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。
1:4 残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」

○ 今日は、いつもと違って、幼い子どもも共に礼拝し、この礼拝の中で子どもたちのために祝福の祈りをしたいと思います。
そこで、今日の聖書のお話は子どもたちに継続されてお話しされている、私たちの教団の教会教育部の教案・ホームページ「こひつじ」にアップされている今日の箇所を取り上げます。それが、エズラ記です。

Ⅰ.希望に満ちて
A.エルサレムに戻れる
1.ユダヤ人は神様を正しく礼拝しなくなり、何度も注意を受けたのですが、聞き入れませんでした。礼拝しなければイスラエルは滅びると言われた神様の言葉の通り、ユダヤ人は当時のバビロン帝国の奴隷となり、イスラエルの国は無くなってしまったのです。
2.そして、長い年月(50年ほど)が過ぎました。ユダヤ人は悔い改めて神様の助けを祈り待つ人たちがいました。神様は必ずもう一度エルサレムに戻れるという預言を与えてくださいました。


B.神様はクロス王を用いられた
1.時代が変わってペルシャの国がバビロンを征服しました。神様はペルシャの王になったクロス王の心に働きかけてイスラエル人がエルサレムに戻って神殿を建て直すように導かれました。クロス王は前の王がエルサレムから奪ってきた神殿の道具や宝物を調べて持って帰るように準備して送り出したのです。
2.そして、多くのユダヤ人がエルサレムに戻って行きました。それは神さまの不思議な導きでした。エルサレムに戻る一団のリーダーはゼルバベルと言います。ゼルバベルと共に4万人以上の人たちがエルサレムに帰ることになりました。もう一度エルサレムに宮を建てるためです。

C.エルサレムに戻った
1.長い長い旅をして、とうとうエルサレムに帰って来た時、人々は喜んで、自分から進んで神様に捧げものをしました。祭司ヨシュアが中心になってまず神様に礼拝を捧げました。自分の国で自由に、喜んで礼拝できるとは何と幸せなことでしょうか!
2.これから神殿を建てます。働く人が集められ、必要な材料もそろいました。そしてついに土台が完成したとき、人々は喜びと感激で神さまを賛美しました。ボロボロに壊された神殿を見て、泣いて悲しむ人もいました。でもみんな、もう一度神殿を建てることができるので、大喜びです。人々の賛美の声が遠くまで響き渡りました。

Ⅱ.困難を乗り越えて
A.神殿再建の妨害が入る
1.いよいよ神殿を建て始めしたが、そのことが気に入らない人たちがいたのです。そしてその人たちは「私達も手伝いましょう」と言ってきました。でも、それは嘘です。工事を手伝うふりをして邪魔をしようとしていたのです。
2.ゼルバベルとヨシュアはそのことを見破りました。そこで、「これは私達の神さまの神殿です。自分たちでやりますので大丈夫ですよ」と、断りました。
3.すると、今度はいろいろな手を使って工事を邪魔してきました。おどかしたり、役人にこっそり贈り物をしてやめさせようとしたり、悪口をたくさん書いた手紙を王様に送りつけたりもしました。あまりにも妨害がひどいので神殿の工事はついに止まってしまいました。

B.神様はダリヨス王を用いられた
1.それから18年…神さまは預言者ハガイとゼカリヤを通してもう一度工事を始めるようにと励まして下さいました。ゼルバベルとヨシュアも神さまのみことばを聞いてもう一度奮い立ちました。
2.クロスの次にペルシャの王になったダリヨスはエルサレムの神殿を建て直すことは前王クロスの命令であったことを調べてくれました。
3.ダリヨス王はイスラエルの神殿工事が前王クロスの命令であったことを知りその工事を、全面的に応援してくれることになりました。神様は神様を信じていない王をも用いてご自身の神殿を建てさせて下さったのです。

C.神殿完成!
1.ついに、エルサレムの神殿が完成しました。エルサレムに戻ってきたイスラエル人たちはみんな喜んで、出来上がった神殿を神さまに捧げる盛大なお祝いをしました。そこにはイスラエル人ばかりでなく、まことの神さまを信じるようになった外国人たちもいました。

● 誰が言ったのかわかりませんが、アブラハム・リンカーンも使った言葉 “Where there's a will, there's a way.”「意志あるところに道あり。」ですが、神様の神殿を建てたいという熱い思いは、神様に届きました。異教の王をも神様は動かして、神殿が再建されたのです。神様の業は私たちの熱い思いによって実現するのです。

★ 神様は必ず、聖書の言葉、神様の計画を実現されます。でも、そのためには神様を愛して、心燃える人たちが必要なのです。あなたの心は神様に燃えていますか!


心配ご無用

2015-11-01 17:37:16 | 礼拝説教
2015/11/1WS礼拝説教
【テーマ】  神の国とその義を第一に
【説教題】 「心配ご無用」
【聖書箇所】 マタイ6:25-34
6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

○ 「心配するな」と言われて、「はい、心配しません」と言えたら幸いですね。心配にも色々な程度があるでしょうから、一概に言えませんが、イエス様が「心配するな」と言われた意味を考えてみましょう。

Ⅰ.神様が養ってくださる
A.食べるものに悩んだ時代
1.現代の日本ではほとんど 何を食べようか、何を飲もうかと心配 することはありません。むしろ、たくさんある中から何を食べようか、何を着ようかと悩むのです。ところが、イエス様の時代には主の祈りでも語ったように「次のパン」が問題だったのです。
2.現代でも、少し目を他に向けると、食糧難の国、ホームレスの方、本当に命の心配をされている方々がおられます。戦時中の話を何度も聞いたことがあります。草をも食べたという話などを。もっと昔は貧しい庶民は大変だったのです。

B.イエス様は心配するなと言われる
1.イエス様の時代のそんな飢えを体験している人々のいる時に、イエス様は 心配したりしてはいけません と言われました。普通無理でしょう。心配しますよ。ここのところ、「心配」という言葉は「思い煩う」ということで、病気になるような深刻な悩みをするという意味です。色々なことが気になって心が裂かれるという意味なのです。
2.イエス様がヨセフとマリヤのごく一般的な貧しい家庭に生まれたので、次のパンを心配する気持ちも理解されていたはずです。そのイエス様が「心配するな」と言われるのです。

C.心配しない理由
1.心配しなくてよい理由を、イエス様は空の鳥、野の花を例に出して説明されました。鳥も花も明日のことを心配しているわけではない、神様が養ってくださっているのだ、というのです。
2.ましてや私たち人間は神様に特別に造られた存在です。私たちのことを神様が守らないわけがないと言われるのです。
3.しかし、私はそれでも飢えで死んでしまう人があることが気になります。

Ⅱ.まず第一に求めるものは
A.心配するなと言われても・・・
1.6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。 6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。 思い煩うのは異邦人がすること、真の神を知らないので、偶像の神をしたてて、それらのものを求めるのだというわけです。
2.私はとても恐がりな性格です。だから、心配性なのです。イエス様を信じてすごくましになりましたが、それでもその性格は残っています。ですから、「神様が全部備えてくださることを信じて安心しなさい」と言われても心が勝手に心配するのです。その度に私は「あー、信仰の薄い人間だなあ」と嘆くのですが、同時にこんな信仰の薄い私を牧師にしてくださったとは・・・と神様に感謝もするのです。

B.求めるべきものは・・・
1.私たち神の子が求めるのは、33節 神の国とその義とをまず第一に求めなさい という有名な御言葉です。これを求めていれば、 それに加えて、これらのものはすべて与えられます というわけです。
2.ところが、私たちはすぐに身近なところを心配して、 これらのもの を第一に求めてしまうのです。優先順位というよりも、第一のものを求めさえすれば良いようです。
3.まず第一に求めるべき 神の国とその義 とは何でしょう? 前にも語ったかも知れませんが、神の国は神の支配のあるところです。神の義は完璧な正しさ、神様の真実さです(本当はもっと奥深いと思いますが)。神様の支配と神様のご人格の中に完全にはまり込むことです。そうした時、私たちは全てに満ち足りるのです。

C.満ち足りると心配しない
1.私たちの心配は「●●が足りない」と思うところから来るものです。「お金が足りない」「知識が足りない」「学力が足りない」「愛が足りない」・・・と無い無い尽くしで不安に、心配になっていくのです。
2.では、物に満ち足りると心配は無いかというと、人間的なものでは人間は最終的に満足できません。お金も持てば持つほどもっと欲しくなり、その欲求は留まるところを知りません。とすれば、満ち足りるべきは「心」の中です。
3.異邦人が偶像に求めるものようなものではなくて、真の神様ご自身を求める事です。すべて有限なものに頼ろうとするので、心配が絶えないのです。何しろそれらは必ず無くなる、滅びるからです。永遠なのは神様です。

Ⅲ.労苦の中を生きよう
A.明日は明日が心配する
1.さて34節ですが、 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。 の前半 だから、あすのための心配は無用です。 は神様を第一に求める事で必要は満たされるのだから、わかる話です。しかし、後半の あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。 は何でしょう?
2.明日のことを私たちが心配したところで、何かが変わるわけでもないのです。色々悩んでみたところで、次の日には新たな問題が起こっていて、新しい心配事があるかも知れません。

B.私の無謀な決心でも・・
1.しかし、明日のことを考えないわけにはいかないことが多々あります。計画を立てることは決して聖書に反するとは思えません。無計画で良いと言っているのでは無くて、明日の計画を立てても心配するなということです。
2.私が無謀なまでに明日を心配せずに出発したのは、教師を辞めて神学校に入った時です。教師の給料は安いとはいえ公務員ですから安定していますし、夫婦で勤め上げたら、家も買えると言われていました。それを辞めるということは将来の人生設計が無いようなバカな人間のすることでした。
3.しかし、それを決めた日、何の心配も無かったのです。現実はどうかと言えば、収入に関して言えば、完全に教師の方が良かったに決まっています。しかし、守られてきました。

C.今を生きる
1.現在の生活は明日の労苦を考えるまでもなく、その日に十分労苦があります。この聖書の言葉通りです。計画性をもって進めるのは大事ですが、心配ご無用です。大事なのは今与えられていることを忠実にこなすことでしょう。何しろ、いっぱいあるのですから。
2.苦労しながら生きる「今」。神様のことを思いながら、神様の助けをいただきながら、生き生きと働いてくださる神様を実感しながら生きることが大事なのです

★ イエス様は私たちを救うために労苦されたのです。私たちも今日、イエス様と共に人々の救いのために労苦すべきではないでしょうか。