バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

共に泣いてくださる方

2016-04-24 16:45:06 | 礼拝説教
2016/4/24礼拝説教
【テーマ】  愛の行い
【説教題】 「共に泣いてくださる方」
【聖書箇所】 ローマ12:15
12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。

○ 「傾聴」という言葉をご存知ですか? 今日の御言葉を読んだ時にふと思い出した言葉です。これは、耳を傾け、心も傾けてその人の話を聞いてあげることだそうです。そして、それが多くの人を慰め、励まし、助けるそうです。

Ⅰ.喜ぶ者と共に喜ぶ
A.喜び合う幸せ
1.喜んでいる人と共に喜ぶのは簡単だと言う人もいますが、反対にそれは難しいと言う人が多いです。というのは、喜んでいる人の話を聞いていると、かえってねたましく思うことがあるからです。喜んでいる人の話を聞いて、一緒になって喜んであげることができたら、私たちは一人前かも知れません。
2.私たちは神様と共に喜ぶことができると幸いです。 ルカ 15:7 ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。 とあるように、人が救われることは人生で最高の幸せなのです。

B.喜び合えない不幸せ
1.イエス様の誕生の時、マリヤとヨセフは大喜びでした。その喜びを共にしてくれたのは、羊飼いや東方の博士たち、聖書には書かれていないけれども多くの人がいました。
2、しかし、喜んでくれなかった人がいました。ヘロデ王です。彼はイエス様を殺そうとしました。そして、ヘロデ王のそばにいたユダヤの指導者達です。聖書をよく知っている彼らこそ喜ぶべきなのに、政治的な問題を感じ、喜ぶことができなかったのです。イエス様のことを共に喜べないのは残念ではないでしょうか。

次に 泣く者といっしょに泣きなさい を見ますが、最初にイエス様が泣かれたところを見てみます。
Ⅱ.イエス様も泣かれた
A.涙を流された
1.聖書にはイエス様が涙を流されたところ、泣かれたところが2箇所あります。その一つは ヨハネ11:35 イエスは涙を流された。 です。ここはマリヤとマルタの弟ラザロが死んでしまったところにイエス様が来られた時のことです。人々の涙に共に涙を流してくださったのでしょうか。
2.イエス様が泣かれたもう一箇所は ルカ 19:41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて です。ここはイエス様が十字架にかかられる前、いよいよエルサレムへと入ってこられた時、エルサレムを見て泣かれたところです。美しいエルサレムがAD70年に滅ぼされることを思って泣かれたといいます。

B.生き返ることを知っていても
1.イエス様はラザロが危ないと聞かれた時、 ヨハネ11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」 と言われました。その後、イエス様はラザロを生き返らせました。生き返ることがわかっていて泣かれたのはマリヤ達のためでしょうか?
2.マリヤ達が弟ラザロのことで泣いているのを見て、人間にもたらされた罪の結果の「死」に心を痛められたのではないでしょうか? エルサレムもそのために滅びるのですから、イエス様は人間の罪の悲惨な結果に涙されたと思うのです。

Ⅲ.泣く者と共に泣く
A.悲しみが人を成長させる
1.喜ぶ者と共に喜ぶより、泣く者と共に泣くほうが簡単だと言われます。悲しんでいる人に対してあわれみが伴い、時には共に涙します。事実、共に泣いてくれたり、悲しんでくれる人がいることで悲しみが早く癒えたり、元気を取り戻せるのです。
2.伝道者の書には 伝道者 7:2 祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。 という言葉があります。結婚式より葬式に行く方が良いという言い方です。それは、その悲しみを通して、人生を、死後を考えるからだというわけです。悲しみというものは人を成長させるようです。

B.泣く者が喜ぶ者となる
1.「泣く」という言葉では、詩篇に有名な御言葉があります。 詩篇 126:6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。 です。福音の種を蒔く私たちは往々にして涙するものです。語っても語っても聞いてくれない、聞いてくれないばかりか迫害まがいのことをされる。福音宣教は決して楽なものではありません。
2.しかし、聖書は非常に楽観的です。必ず収穫があるというのです。この収穫は人々の救いです。福音宣教には涙がつきものですが、結果は神様の祝福です。人々の救いです。この福音宣教のために共に泣く者こそ同労者で、共に喜ぶ者となるのです。

● 泣きながらの種蒔きをしたことがありますか。

★ イエス様は私たちのことをとことん心配してくださるお方で、私たちの涙を理解してくださるお方です。このイエス様に救われた私たち、今度は私たちがイエス様の涙を理解したいものです。イエス様の涙は滅び行く人々にあります。私たちも涙して福音の種蒔きをしようではありませんか。

祝福しましょう

2016-04-17 18:19:46 | 礼拝説教
2016/4/17礼拝説教
【テーマ】  愛の行い
【説教題】 「祝福しましょう」
【聖書箇所】 ローマ12:14
12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。

○ 今日の聖書の言葉から思い出す言葉はありませんか? マタイ 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 の、イエス様の言葉ではないでしょうか。

Ⅰ.迫害の背後にうごめく力
A.迫害、いじめ、虐待
1.迫害というと「ユダヤ人迫害」が思い浮かんできます。「アウシュビッツの強制収容所」、杉原千畝さんの「6000人のいのちのビザ」という話で、ユダヤ人迫害の恐ろしさを知らされてきました。ユダヤ人に対する迫害は一時期なものでは無く、長い歴史をもっています。背後に大きな力を感じます。
2.迫害の大きなものは宗教的な迫害、人種的迫害です。しかし、子どもたちの世界にある「いじめ問題」も私には迫害に見えます。いじめのために自殺してしまう子ども、事実殺されてしまった子どももいます。また、虐待もそうなのかも知れません。これも背後に何かあるのでしょうか?

B.イエス様の受けた迫害
1.イエス様はまだ生まれて間もなくのこと、ヘロデ王によって殺されそうになります。そのことを夢で知らされたヨセフはマリヤとイエスを連れてエジプトに逃れました。その間にヘロデは2歳以下の男の子を虐殺しました。ヘロデ王の背後に働く力があるのでは・・。
2.大人になったイエス様は十字架にかけられることになります。イエス様は全く罪を犯したこともなく、悪いことを何一つなさらなかったのに、鞭打たれ、殺されるのです。キリスト教への迫害はここから始まったと言えるでしょう。

C.人間の恐ろしさ
1.このようにして見ていくとなんと人間の恐ろしさ、迫害する人の悪魔のような心に許せない思いが満ちてきます。そして、その迫害者に対する怒りの心を持つ自分は果たしてどうなのだろうと思うものです。私の中にも迫害する人と同じような悪があるのではないかと。
2.悪魔はイエス様に関して完全な知識を持っていませんが、私たちより知っていることもあるようです。何としてもキリスト教を無くしたい、救われる人を無くしたい、神様が苦しむ顔を見たいのです。悪魔はキリスト教の根絶のためならあらゆる方法を取ります。その一つが圧力的なこの迫害でしょう。

Ⅱ.パウロを動かした力
A.迫害したパウロ
1.パウロは迫害した経験のある人です。彼は悪魔のような人だったのでしょうか? いえ、彼は宗教的にとても真面目で、知識豊かな人で、ユダヤ教の指導者となるべくエリートでした。
2.イエス様を殺すことに奔走したユダヤ人指導者達と同じように、ユダヤ教の異端者であるイエスを信じる者達を許すことができず、パウロはクリスチャン迫害に燃えていました。彼は自分の信念において実に真面目な人だったのです。

B.迫害されたパウロ
1.そのパウロがダマスコ途上、突然イエス様の声を聞き、目が見えなくなりました。彼は混乱しましたが、自分が迫害していたイエス様こそメシアであり、神であることを信じたのです。
2.信仰をもち、イエス様の弟子として働くようになったパウロですが、今度は彼がユダヤ人から迫害を受け、何度も殺されそうになりました。しかし、彼はユダヤ人を敵視しなかったのです。
3.それは、イエス様を迫害していた自分をイエス様が赦して救ってくださったからです。「目には目を、歯には歯を」という生き方が正しいと思い込んでいた彼が、イエス様の言われたように「迫害する者を祝福する者」に変わったのです。

C.迫害する者を祝福するイエス様
1.神様は迫害者パウロをも愛されました。彼は正しい知識が無かったので、神様のためにとイエス様を迫害したのです。神様はパウロの「神様のために」という心をよくご存知なのです。そういう人を神様がほおっておかれるはずが無いということです。
2.悪魔はこういうパウロを用いようと努力しましたが、パウロは自分の間違いに気付き、イエス様を信じたのです。そして迫害されても、何としても同胞ユダヤ人の救いのためにと、愛をもって宣教していくのです。

Ⅲ.私たちを動かす力
A.イエス様の言葉を生きる
1.パウロが、このローマ書で あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。 と言うのは決して彼の教えではありません。彼はイエス様が語られたことを語って、それを実行しているのです。
2.私たちもイエス様の言われたことを語っていきたいのです。イエス様の語られた マタイ 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 を実行し、語っていきたいのです。

B.最高の人生は神の言葉にある
1.迫害を仕組んできたのは悪魔かも知れませんが、だからといって迫害する人が悪魔ではありません。悪魔に取り憑かれているのかというと、そうでもないでしょう。正しい知識が無いので、悪魔に利用されているのです。だからパウロも救われたのです。
2.悪の力によって動く人生は最悪です。人の言葉に動かされる人生も決して最高ではありません。イエス様の言葉で動かされる時、私たちは最高の人生をいただくのです。

● 私はキリスト教を嫌っていたのに、神様は愛し、救ってくださいました。祝福し、祈ってくれた母に感謝しています。また、迫害者のような父さえ神は救ってくださいました。母は父をも祝福しました。私は少々反省しています。祝福が足りなかったと思っているからです。

★ 神様は迫害者であったパウロさえ救い、祝福されました。同じく、私たちも救い、祝福してくださっています。私たちもイエス様のお言葉に倣おうではありませんか。そして、みんなを祝福しようではありませんか。 Ⅰペテロ3:9 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

キリストの弟子の行い

2016-04-10 17:47:17 | 礼拝説教
2016/4/10礼拝説教
【テーマ】  愛の行い
【説教題】 「キリストの弟子の行い」
【聖書箇所】 ローマ12:13
 12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

○ 久しぶりにローマ人への手紙を見ることになります。12章はクリスチャンとしての生き方が教えられています。しかし、それは決して律法的ではないということをお伝えしてきました。今日のところも聞き耳を立ててみましょう。

Ⅰ.聖徒
A.聖徒とは
1.聖徒とは誰のことでしょうか? 皆さんは自分は何だと言いますか? 「クリスチャン」ですか? 「キリストの弟子」ですか? 「聖徒」ですか? この言葉全てがイエス様を信じる私たちのことです。
2.当時のイエス様を信じた信者は、周りの人々から「クリスチャン」と呼ばれるようになりましたが、自分たちは「キリストの弟子」と呼んでいました。救われた人はみんな「弟子」なのです。私たちはみんな「キリストの弟子」です。自覚はありますか?
3.パウロはクリスチャン達を「聖なる(信)徒」と呼びました。イエス様によって罪無き者とされた聖なる者だからです。

B.弟子とは
1.使徒の働きには 2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。 や、 6:7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。 というように、信徒の数が増えたとか、教会員が増えたとか書いていません。
2.教団への報告書に、教会員の人数というように書きますが、「キリストの弟子」の人数という書き方はしていません。しかし、イエス様を信じた人はみな「弟子」なのです。

Ⅱ.聖徒の入用
A.共に恵みに預かる
1.この箇所は新共同訳聖書では 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け となっています。当時も貧富の差は激しく、クリスチャンの中にも大変貧しい人がいました。その彼らの入用に協力しましようとしたのです。単に持つ者が持たない者に一方的に恵んであげるということでは無く、 協力 であり 貧しさを自分のものとして なのです。共に神の恵みに預かるということです。つまりささげることで喜びを共にするのです。
2.私たちは献金をすることで、このことを世の人々よりかなり学んでいるはずです。世の人々から見ると、あんなに多くのお金、もったいないのになぜ献金するのだろうと思うはずです。神社などでお賽銭をしてもワンコインでしょうから、ビックリされるものです。
3.しかし、クリスチャンは献金を「もったいない」と考えてはいません。これは神様のため、教会の必要のために使っていただくのであり、共に神の恵みに預かることと理解しているからです。

B.私たちの入用
1.私たちはクリスチャンになる前、何が入用だったでしょうか? 罪の赦しです。永遠の命です。その私たちの入用はイエス様によって成し遂げていただいたのです。イエス様が私たちの 貧しさを自分のものとして くださり、身代わりの十字架にかかり、私たちの入用をくださったのです。イエス様はご自分の命さえもったいないとは思われなかったのです。
2.ですから、仲間の中で困窮している者にあわれみの手を差し伸べるというよりも、その人を助けるということで共に神の恵みに預かっているのです。
3.互いに「聖徒」であり「弟子」である私たちはイエス様の心を心として入用に協力するのです。

Ⅲ.旅人をもてなす
A.旅人の危険
1.当時、ローマ帝国の首都や港町は結構いかがわしい宿泊所が多かったようです。クリスチャンの旅人がそういうところに泊まることになるというのは、罪の誘惑が多く非常に危なかったのです。クリスチャンの旅人に安心できる宿を提供することは緊急課題であったのです。
2.私たちはこの地上にあっては旅人です。罪赦された「聖徒」とはなっていますが、罪は犯します。私たちも常に罪の誘惑の多いこの世の中に生きているのです。危険だらけです。

B.もてなす
1.ある英語の聖書には「ホスピタリティ(hospitality)」とあります。これは「思いやり」「心からのおもてなし」という意味です。当時の旅行者には巡回伝道者たちもいたわけで、そういう人たちをもてなすのはクリスチャン達の特権であったと言われています。
2.現代、この世の旅人である私達は互いにもてなし合うべきなのではないでしょうか。キリストが私たちをもてなしてくださったように、私たちイエス様の弟子達がもてなし合うことが、神様の願いなのです。

● 現代は子どもたちも危険だらけではないでしょうか? インターネット、携帯、ゲーム、薬物、性的問題、現代の子どもたちはかつて無いほどに人格をゆがめるような危険が一杯です。その子どもたちの入り用とは何でしょうか?

★ 私たちは「聖徒」です。「キリストの弟子」です。イエス様の愛を受けて、今、私たちがイエス様のなさりたい愛の行いをすべきなのです。

イエス様の不思議な体

2016-04-03 17:18:57 | 礼拝説教
2016/4/3礼拝説教
【テーマ】  復活
【説教題】 「イエス様の不思議な体」
【聖書箇所】 ルカ24:36-49
  24:36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。
24:37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
24:38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
24:41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
24:42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、
24:43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
  24:44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。
24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

○ 先週はイースターでした。イエス様が復活されたのは日曜日の朝で、多くのプロテスタント教会はその日を記念して、「主の日」と呼び、「主日礼拝」と言ったりしています。日曜毎にイエス様の復活を感謝するのです。さて、そのイエス様の復活から、「復活の体ってどんな体なのだろう」と考える人は少なくありません。私たちもいずれ復活の体をいただけるというのですから、無関心ではいられません。

Ⅰ.霊とは?
A.幽霊と思い込んだ
1.復活されたイエス様が弟子たちの真ん中に立たれた時、弟子たちは 24:37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った とあります。彼らの言うこの「霊」は何でしょうか? 日本人的に言えば、「幽霊」でしょうね。つまり、イエス様が死んで幽霊となって出て来たということでしょうか?
2.弟子たちがイエス様より先に舟で向こう岸に行こうとしていた時、向かい風でなかなか進めませんでした。そこにイエス様が登場した時のことです。 マタイ14:26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。 とあります。幽霊を信じていたのでしょうか。

B.霊には肉や骨はない
1.復活のイエス様を見て、取り乱している弟子たちに対して、イエス様は 24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています と言われました。霊には肉や骨はないのです。その考えは当たり前かも知れません。
2.霊は原語では「息」とも「風」と訳せる言葉です。アダムは神の息を吹き込まれて生きるものとなりました。(創世記2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。) 霊は見えないのです。復活のイエス様は幽霊ではありません。

Ⅱ.復活の体とは?
A.私たちの体とは全く違う
1.では復活されたイエス様の体はどのような体なのでしょうか? イエス様は弟子の差し出した焼き魚を食べられました。明らかに霊ではないということです。霊なら食べることはできないのです。
2.しかも 24:36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた ということが気になります。弟子たちのいた家というのは、ユダヤの指導者達を恐れて誰も入って来れないようにしっかり戸締まりしていたのです。突然、彼らの真ん中に立たれたのです。そういう体です。私たちの体とは全然違いますね。

B.死なない体
1.今までに生き返った人はたくさんいるそうですが、みんな死にましたし、死にます。しかし、死なない体に生き返った人はイエス様だけです。それが復活です。
2.イエス様が単に生き返っただけなら、十字架の釘の跡、鞭の傷、茨の冠の傷、とてもではないですが、元気でいられるはずがありません。ということは、復活の体というのは痛みも無く、時空間にも支配されない体であり、しかし、食べたりすることができるとは、私たちの次元も問題無く生活できるからだということでしょう。

Ⅲ.私たちはどうなる?
A.私たちもイエス様と同じようになれる
1.イエス様は私たちのひな型ですから、私たちもイエス様と同じ復活の体をいただけるのです。痛みや苦しみも無い体をいただき、脳までが新しくなるというのは、悪しき判断も無くなるということです。
2.前に語ったことですが、罪を犯さなければ死ぬことはなかったのです。イエス様の復活の体は死なない体です。つまり、罪とは無関係になった体です。それが私たちの体となるのです。

B.私たちは証人になる
1.イエス様を信じてすぐに復活の体、完璧な体をいただくのではありません。しかし、それまでの間、私たちは不完全なこの体に完璧な神様「聖霊」をいただくのです。
2.私たちがもしクリスチャンになった時点で復活の体をいただければ、人々はビックリして、見て信じるかと思います。しかし、それは「信仰」ではないようです。この不完全な体、クリスチャンであろうとなかろうと同じです。しかし、両者には大きな違いがあります。「聖霊」が内住されているか、されていないかです。

● キリスト教信者を増やしたければ、イエス様は復活した時、あちこちにその体を見せて回ったでしょうし、神としての性質も見せて回られたでしょう。しかし、それは「信仰」にはならないのです。

★ イエス様が復活してくださって、弟子たちにその体を見せてくださった。その不思議な体が私たちにも与えられるとはははなんと幸いでしょうか。