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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

人知をはるかに超えた愛

2020-10-10 06:46:36 | 礼拝説教
2020/10/11 礼拝説教
【テーマ】  神を知る喜び
【説教題】 「人知をはるかに超えた愛」
【聖書箇所】 エペソ3:17-21
3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、
3:21 教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

○ パウロの祈りは14節から始まっていますが、その後半を観ていきます。パウロがエペソ教会の人々、さらに全てのクリスチャンに対して祈る力強い祈りの中身です。祈る私たちの参考にもなり、何と言ってもこの祈りで私たちが励まされます。
  どなたかの祈りを聞いていると心から「アーメン」と言いたくなる祈りの言葉があります。時には自分の祈りの足りない部分を祈ってくださっているような言葉に出会うこともあります。また、祈りを聞いて励まされたりもします。説教ではないのに、人の祈りなのにそれを聞いているだけで励まされるのです。パウロの祈りの言葉にもそういうものを感じます。
 
Ⅰ.神を理解する力を得るように
A.キリストに住みついていただくよう祈る
1.パウロが信徒のために祈るのは、まず 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように です。イエスを信じる人には誰にでもイエスはその人のところに来てくださいます。聖霊はその人の内に住まわれます。全ての人がまずイエスを宿すというのは私たちの祈りでもあります。
2.この キリストを住まわせてくださいますように はキリストを「住みつかせてくださいますように」という強い言葉です。私たちは自分の内にキリストに住みついていただいているでしょうか? 

B.愛を実践できるように祈る
1.キリストが私たちの内に住みついてくださったら、私たちは神を慕い求めるのです。それがパウロの祈りです。 その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つように と願っています。「すんばらしき主イエスの愛は広く、深い、お!」という賛美がありますが、神の愛はすごい愛です。その愛は理屈では無く、実践です。
2.ユダヤ人は異邦人を蔑んだけれども神はユダヤ人も異邦人も同様に愛されるまさに広い愛をお持ちでした。そして、その愛の永遠さという長さにおいても、その愛の高尚さにおいても、私たちを真に愛してくださるその深さにおいても実感できるものです。神を知ることはまず、この神の愛を理屈では無く、実感として味わうことでしょう。私たち異邦人も愛されているんだと。
3.親の愛、夫婦の愛は聖書の中で神の愛を現すことに用いられています。それは理屈を超える愛であることは誰もがわかることです。子どもは「愛されている」という意味がわからなくても親の愛を感じています。私たちは未熟な内は神の厳しさに「愛されていない」と思い込んだりすることがあるかもしれませんが、信仰が成長してくると不思議なまでに神の愛がわかってくるではありませんか。

Ⅱ.人知を超えた愛を知る
A.聖霊によって知ることができる
1.パウロの祈りはさらに 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。 です。が、人知を超えたものをどうして人間が知ることができるでしょうか? それが聖霊によるのです。聖霊によらなければ神の愛、キリストの愛はわからないのです。
2.神の愛がわかってくる時というのは自分の罪がわかる時でもあります。こんな罪深い自分がイエスの十字架によって赦していただいたということに感動するのです。それは時にはイエスを信じた時に起こるだけでは無く、信じてしばらくして自分の罪深さを感じることがあったりするのです。それは聖霊の働きなのです。そして改めて十字架による救い、イエスの命が自分のために捨てられたことをズッキーンと感じて神の前にひれ伏してしまうのです。

B.なおも深い愛を知ることができる
1.こうしたところに 人知をはるかに超えたキリストの愛 を覚えるのです。そのような感動は自分の知恵や知識で感じたりできるものでは無いのです。聖霊によって知るのです。
2. そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように と祈るパウロの祈り。私たちは満たしていただけるのです。パウロは満たされたのです。少し前の彼が知っていた神の愛よりもなお深い愛を、また新たに知ったのです。歳をとったからといって神の愛に満たされるのが終わったわけではなく、さらに深い神の愛が感じられて驚き、感謝したのです。その喜びを人々が得ることができるようにとパウロは祈ります。私たちも祈るのです。

Ⅲ.神を讃えるのは教会だけ
A.頌栄としての祈り
1.20,21節は頌栄。神を讃えています。祈りは願い事と思っている人はこういう祈りが無いのかも知れません。たとえ願いであっても、自分の願いが神の御心にかなっているかどうかもわかっていないことが多く、自分のわがままを願っているかも知れないのです。そういう時にも聖霊は働いてくださって、私たちに「みこころを行ってください」と言わしめるのです。
2.そして更には祈っていくうちに喜びと感謝が湧いてくるのです。そして神を讃えるようになるのです。「この願いを聞いてくださいよ。でないと恨みますよ」じゃないのです。あるいはそこまで言わなくても「頼みますよ。じゃ!」というような祈りは何ら神社で鈴を鳴らし賽銭を投げ入れるのと変わらないのではないでしょうか? 

B.真に神に感謝する者の祈り
1.マルコ12:41-44 あのレプタ銅貨2枚を献げたやもめは何を祈ったのか知りませが、彼女の中にはすでに神への感謝が沸き起こっていたのではないでしょうか? 彼女は 私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方 を信じていたのです。
2.それに対して金持ち達はたくさん献金していることを見てもらうようにと、お金に目が行っています。彼らには神を見ようとする目が無く、神の愛の広さも長さも高さも深さもわからないのです。
3. 教会において とパウロが言うように、神の栄光を表すのも、神を讃えるのも、この地上においては教会だけです。教会は地の塩、世の光ですから、教会はこの世に神の栄光を表し、人々にまことの神を示すことができるのです。私たちの集まりはそのようなものなのです。

★ パウロの祈りから祈りの知識を学ぶだけでは無く、彼が神に触れ、聖霊に満たされ、感謝に溢れて祈りが溢れてきたことを私たちも実体験したいのです。祈りは聖霊が助けてくださいます。

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