バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

名は体を表す

2022-05-26 06:38:55 | 礼拝説教
2022/5/29 礼拝説教
【テーマ】  第三戒・御名を大切に
【説教題】 「名は体を表す」
【聖書箇所】 出エジプト記20:7
20:7 あなたは、あなたの神、【主】の名をみだりに口にしてはならない。【主】は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。

○ 今日は午後に4人の方の納骨式を行います。この方々とはもう地上で会うことはできません。しかし、私たちは天国で再会できることを信じています。何と幸いなことでしょう。全く新しい痛みも痒みもなく元気な体を持ち、聡明で愛に満ちた頭脳をいただくのです。仮にこの地上で不仲であったとしても天国では全くそれは無いのです。戦争もありません。全く新しくされたので、新しい名で呼ばれるようです。名前はその人だけを表すのです。
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イザヤ62:2 そのとき、国々はあなたの義を、すべての王があなたの栄光を見る。そのとき、あなたは新しい名で呼ばれる。【主】の御口が名づける名で。
黙示録2:17 勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。また、白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が記されている。』
 
Ⅰ.名前の重要性
A.ヤハウェ
1.主の祈りの最初は 天にましますわれらの父よ。 と、父なる神に呼びかけて、 御名をあがめさせたまえ です。「神の名前を崇めさせてください」と祈るのは神の名前が神ご自身を表しているからです。
2.「名は体を表す」ということわざがありますが、私たちには時としてそれが当てはまらない場合もあります。しかし、神は「私はあるというものである」と言われました。そこから「ヤハウェ」と呼ばれたようです。神は全世界の存在する前からおられた永遠のお方です。つまり全てをお造りになったお方です。

B.アドナイ
1.ユダヤ人はこの第三戒を大切にするあまり、神の名前を呼ぶことを恐れ、「主(アドナイ)」と呼ぶようにしていました。そこで、長い間に「ヤハウェ」という呼び名がわからなくなっていました。その理由はヘブル語は子音だけなので「YHWH」の読み方がわからなくなったのです。
2.今も私たちは「ヤハウェ様」と呼びかけることはまずありません。「神様」とか「主よ」というように、「主」という言葉を使っています。祈りは神との対話ですから、誰に対して話しかけているかわかるように「神様」「主よ」と呼びかけています。我が家で子ども達が私のことを「敬朗様」とは呼びかけず、「お父さん」と呼びかけます。
3.イエス様は主の祈りを教えてくださった時、 マタイ 6:9 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように と教えてくださいました。「お父様」「お父さん」という呼び方です。それは私たちと神様がとても近しい親子関係であることを示してくださったのです。

Ⅱ.みだりに口にしてはならない
A.「みだりに」の問題
1.子どもの時に流行ったことにこんなのがありました。友達が私に「おい、藤井、藤井」と呼びかけてきて、私が「何?」と聞くと「何でもなーい」とか、「ただ呼んだだけ」と言うのです。はじめは面白がってみんな言ってましたが、本当に呼びかけているのに、「またあれだ」と思って返事しないということが起こったのです。全く同じではありませんが、神様の名前を本当に必要もないのに呼ぶのはどうでしょう? 
2.「みだりに」というヘブル語「ラシャブ」は、「シャアー(むだにする)」という語から来ています。この「シャアー」は「軽々しく行う」「偽って行う」「呪って行う」という意味を持っています。昔、イスラエル人は神の名によって誓いました。神の名によって呪うというのはいかがなものでしょう。こういうことは神の名を汚すことになるのです。

B.愛をもって神の名を呼ぼう
1.子どもが「お父さん」と呼びかけてきて、たわいもないことを話してもそれはそれでとても楽しいものです。神様もそういう会話を喜んでくださると思います。ですからそれは みだりに ではないと思われます。
2.私たちは神様のお名前を呼んでもよい関係に入れていただきましたが、私たちが汚れを行っているとすれば神の名前を汚すことにもなるわけです。神の名を呼べる関係である以上、私たちも神の聖さに与りたいものです。

Ⅲ.すばらしいお名前
A.インマヌエル
1.私たちは唯一の神を信じているわけですが、その神は三位一体という不思議な神です。第二位格の子なる神は「イエス」という名で呼ばれました。この名前に力があります。 ヨハネ1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。 というすばらしい名前です。
2.また イザヤ 7:14 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。 マタイ 1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。 と、「インマヌエル」という呼び名を持っていました。名は体を表すの如く、私たちと共にいてくださる神です。

B.イエスの名によって祈る
1.私たちはイエス・キリストの名によって祈ります。イエスがゲツセマネの園で十字架を前に祈られた祈りは マタイ26:39 「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」 でした。この あなたが望まれるままに つまり「みこころのままに」が「主の御名によってお祈りします」の意味するところなのです。
2.私たちは本来神に祈れる者では無かったのですが、イエスのお陰で神の子としていただきました。だから「お父様」と言ってよくなったのです。そこで、近しい関係、祈れるようにしてくださった「イエス・キリストのお名前によって」祈るのです。

★ 神の名前、イエスのお名前には力があります。全ての被造物はそれにひざまずきます。悪魔も例外ではなく、イエスの名によって退散します。この名前によって祈れる私たちはイエスのお名前を大切にしたいものです。

神を心から礼拝しよう!

2022-05-19 07:45:42 | 礼拝説教
2022/5/22 礼拝説教
【テーマ】  第一・二戒 他に神は無い
【説教題】 「神を心から礼拝しよう!」
【聖書箇所】 出エジプト記20:1-6
20:1 それから神は次のすべてのことばを告げられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、【主】である。
20:3 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
20:4 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

○ ある方が会堂に入って来られて「ご本尊はどちらにありますか?」と尋ねられました。それに向かって祈りたかったみたいなのです。「うちの教会にはそういうものはありません」というと驚かれたような顔をなさり「どちらにお祈りすればよろしいでしょうか?」と言われました。すると、十字架を見つけてそこに向かって手を合わされていました。もしかすると、この方にはこの十字架は偶像ではないかと思えたのです。十戒の最初に わたし以外に、ほかの神があってはならない。 偶像を造ってはならない。 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。 とあります。
 
Ⅰ.ほかの神があってはならない
A.果たして神はたくさんいるのか?
1.十戒が与えられたのは、イスラエルがエジプトで奴隷となっている間にエジプト文化がかなり染みつき、神観も崩れてきていたからです。エジプトにはいくつもの神がいたようです。それは偶像ですから「あったようです」と言った方がよいのかも知れません。
2.神がたくさんいて、ファラオが「エジプトの神はイスラエルの神よりはるかに強い」と思っていました。そういう神なら、神々は仲が良くないことになり、神の愛が信じられなくなります。また、世界には調和がなくなるはずです。ですから神はお一人のはずなのです。

B.神はお一人だと信じ切ること
1.日本では「〇〇の神」として、例えば「商売の神」「学問の神」「健康長寿の神」「交通事故から守る神」等々色々な神がいて、人間すら「神」になり得ます。子どもの時からそれらを「神」と教えられるとそう思い込んでしまうものです。実はこうしたことは何も日本だけでなく世界各国にあることです。
2.しかし、聖書は神は一人で、他に神は無いと教えています。そしてそのお方は全知全能のお方です。だから全てをお造りになることができました。そしてあまりに偉大だから私たちには理解できないのです。私たちに理解できるような神ならすでに神ではありません。

Ⅱ.偶像を造ってはならない
A.偶像とは何か?
1.私は「偶像」と言われると真っ先に思い出すのは仏像です。皆さんは何ですか? 「お地蔵さん」と言った人もいます。「奈良の大仏」とか。木や石、金属で造られた像に神が宿ると考えられたようです。「お守り」はどうでしょうか? 
2.また、偶像というのは英語の「アイドル」で賞賛を浴びるもののようです。そのように自分の心がそれで満ちるものが偶像になる可能性があります。ということは現代ではスマホが偶像になってもおかしくないということです。クリスチャンにとって神以上に大切なものがあるとするとそれは偶像化しているのではないでしょうか。

B.悪霊がそこに存在するか?
1.こうした偶像は神ではないのに、人は偶像を造り、拝みたがるのは自分以上に力のある存在を認めているからなのですが、それを上手く利用しているのがサタンです。偶像の背後には往々にしてサタン・悪霊が存在すると思われます。気をつけなければならないですね。
2.では、日本人がお墓に手を合わすのは偶像礼拝でしょうか? ある外国人の方が日本人のお辞儀を見て「人を礼拝している。偶像礼拝だ」と言ったそうです。本当にそうでしょうか? このあたり文化として考えるべき事と宗教をごっちゃにしてはいけないかと思います。まさにその人の心がどこにあるかでしょうね。ですから人によってはお墓も偶像になってしまいます。仏像も芸術作品としてみる人と偶像として拝する人があるということです。

Ⅲ.偶像を拝んではならない
A.なぜ拝むのか?
1.拝むというのは自分以上の存在に対して敬意を払い尊重することであり、祈ることです。ですから、偶像を拝むというのは、偶像が偉大な方であり、それを信じ、祈ることです。多くの場合、自分の願いをかなえてもらいたいので、かなえてくれる偶像・神を求めます。自分の方から神の教えに従う、仕えるより、自分に神が従う・仕えることを願っているのです。
2.また、偶像を拝する背景には拝まないと祟りがあるのではないかという恐れや、自分にはできないことをこの神にはしてもらえるのではないかという期待があるからでしょう。私たちが真の神を信じる、礼拝するというのはもちろん恐れからではないですし、神は必ず最善をなさると信じているからなのです。

B.この方以外にいないことを確信する
1.聖書はこう言っています。 使徒 4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」 私たちの信じる神は三位一体の神であり、ペテロの言うようにイエスによってしか救いは無いのです。つまり、神はお一人なのです。
2.また、 Ⅰコリ 8:4 さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。 とパウロが言っているとおり、偶像の神というのは本来存在しないのです。

● この戒めは「〇〇してはならない」という禁止命令として聞こえますが、これは「私は、あなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。もしあなたがそのことを本当に知っているなら、あなたは私のほかになにものをも神とするはずがない」次も、「私はあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。もし、あなたがその私の愛を知っているのであれば、あなたは自分のために偶像を造るはずがない」というように訳せるとも言います。この訳ですと神は私たちに積極的に神を愛して礼拝することを望んでおられることがわかります。

★ 私たちはもちろん偶像礼拝してはならないのですが、それよりも私たちの神はお一人で、イエスによる以外救いはないことを確信して、神を愛することなのです。「神を心から礼拝しよう!」という意気込み、意志決定が大事なのではないでしょうか。




祈りはサタンを打ち負かす

2022-05-14 07:10:49 | 礼拝説教
2022/5/15 礼拝説教
【テーマ】  支え合う教会
【説教題】 「祈りはサタンを打ち負かす」
【聖書箇所】 出エジプト17:8-18:25
17:8 さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。
17:9 モーセはヨシュアに言った。「男たちを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。私は明日、神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」
17:10 ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。
17:11 モーセが手を高く上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になった。
17:12 モーセの手が重くなると、彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いた。モーセはその上に腰掛け、アロンとフルは、一人はこちらから、一人はあちらから、モーセの手を支えた。それで彼の両手は日が沈むまで、しっかり上げられていた。
17:13 ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で討ち破った。

18:19 さあ、私の言うことを聞きなさい。あなたに助言しましょう。どうか神があなたとともにいてくださるように。あなたは神の前で民の代わりとなり、様々な事件をあなたが神のところに持って行くようにしなさい。
18:20 あなたは掟とおしえをもって彼らに警告し、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを知らせなさい。
18:21 あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たちを見つけ、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立てなさい。
18:22 いつもは彼らが民をさばくのです。大きな事件のときは、すべてあなたのところに持って来させ、小さな事件はみな、彼らにさばかせて、あなたの重荷を軽くしなさい。こうして彼らはあなたとともに重荷を負うのです。

○ 皆さんは祈る時、どんな姿勢で祈りますか? 目を閉じて、下を向いて、両手は組んで、静かに祈る、あるいは黙って祈るのが普通でしょうか? 絵画で「祈りの手」を見ると開いた手を合わせています。また祈る人の写真などを見ると両手を上げて、上を向いて祈っています。実際、イスラエルの祈りはこのような感じだったみたいです。また声に出して祈るのが普通だったみたいです。どうしてこうも祈りの形が変わったのかと思いますが、とにかく大事なのは形では無く、実際に祈るということです。
 
Ⅰ.祈り続けて勝利を得る
A.手を上げて祈る
1.旧約聖書には戦いが何度も出てきますが、それを今日の戦争と同等に扱わないでください。その大前提で、このアマレクとの戦いを考えてみましょう。
2.モーセが手を上げているときにはイスラエルが優勢になりました。手を上げるというのはイスラエルの基本的な祈りの形です。モーセが祈るとイスラエルが優勢になるということです。モーセが祈り続けていると勝利があるのです。あなたが祈り続けると勝利があります。
3.テモテへの手紙にこうあります。 Ⅰテモ 2:8 そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。 パウロは男性の祈りを求めています。男性が手を上げるというのは怒りの手が多く、げんこつを振り下ろして相手を殴るのですが、パウロはそういう手の上げ方を求めていません。「聖い祈りの手を上げよ!」と言うのです。

B.祈りを支える仲間がいる
1.また祈るモーセの手を支えたアロンとフルがいました。これがまた大事なのです。祈りを助ける仲間です。これが真の友であり、兄弟姉妹ではないでしょうか? このアロンとフルもかなりの年寄りだったらしいです。3人の年寄りが丘の上にいて、モーセは手を上げ、アロンとフルは両側でその手を支えていたのです。この二人のお陰でモーセは日没まで手を上げ続けることができました。
2.あの紅海を真っ二つに割り、エジプトの軍隊を海に飲み込ませることのできる神がここではイスラエル人が戦わねばならず、それも簡単に勝利を得さえるのではなく、年寄り3人に祈りの働きをさせられたのはなにか大きな意味を感じませんか。
3.私たちが共に集まって祈る祈祷会を持つ意味はこれです。また、集まれなくても祈りで支え合うのです。アガペー通信を見て祈ってくださるのもこれです。

Ⅱ.祈りのない信仰はない
A.祈っているか!?
1.皆さんは信仰を持っていますか? 「祈りのない信仰はない」と言われます。神を信じるということは神と常に交わることを意味しているわけですから当然祈るのです。「祈り」と一言で言いますが、その中身は濃厚で、賛美もあり、悔い改めもあり、また神の御声を聞くことも含まれています。聖書を読むのもそのためです。聖書を読まない、祈らないとすればそれは不信者です。祈らない人生に勝利はないということです。
2.楽しく、嬉しい祈りですが、時に祈りは難しく感じたり、祈れないと思ったりすることもあります。その一つの理由にサタンの妨害があります。サタンはもちろん私たちを神から引き離したいわけですから、私たちに祈らないようにさせます。それは巧みに色々な方法をとります。それに対抗するために、私たちは「祈祷会」を設けて祈りを定期的に行うようにしているわけです。

B.祈りより大事と思うものは?
1.また、祈りにくくなる理由にはその時間がもったいなく感じるからです。つまり、祈りより大事だと思える仕事、楽しいことなどに心が奪われるからです。最近ではスマホに時間が奪われている人が多いといわれています。結果的にはこれもサタンの誘惑でしょう。
2.私たちはサタンに勝利をする必要があるのですが、それには祈ることなのです。祈らずしてこの世の誘惑に勝てるのでしょうか? サタンはとても手強い相手です。イスラエルにとってアマレクは大変手強い敵でした。その敵に勝つためにモーセは手を上げ続けたのです。私たちはサタンという敵に対して祈らずに勝てると思いますか?

Ⅲ.仕事の分担をする
A.イテロの助言のありがたさ
1.さて、少し先に進みます。イスラエルがシナイ山の近くに来た時、久しぶりにモーセは愛する家族と会いました(しばらくは単身赴任状態でした)。そこに、しゅうとのイテロがいました。彼はモーセとイスラエルの民の光景を見て、このままではモーセは燃え尽きてしまうと感じたのでモーセに助言しました。ここでも年寄りの大きな助けがあるのです。
2.それが、 18:21 あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たちを見つけ、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立てなさい。 というものでした。このアドバイスによってモーセは楽になったのです。と言っても大きな問題はモーセのところに来るので、決して楽になったとは言えないでしょう。けれども以前に比べると段違いです。問題処理班がいくつもできたのですから。

B.教会の仕事分担
1.教会もこのイテロの助言に従って色々な形でグループ分けをして、それぞれにリーダーを置いています。教会はこのように支え合う仲間で形成されるのです。
2.このリーダーに要求されるのは 神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たち とあります。新約聖書からも見てみましょう。12使徒が忙しくなったときに執事7人を選びました。 使徒6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。 です。また、パウロがテモテに「監督・執事」のために求めたのは、Ⅰテモテ3:2-12にあります。
3.パウロがテトスに宛てた手紙では テトス1:7 監督は神の家を管理する者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、乱暴でなく、不正な利を求めず、1:8 むしろ、人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、1:9 教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。 とあります。

★ 祈りを励まし合い、祈り合う教会でなければ、神の教会ではありません。教会を立て上げる諸グループが、助け合い、励まし合い、祈り合い、祈りの手を支えるのです。

岩から噴き出す水

2022-05-07 06:09:09 | 礼拝説教
2022/5/8 礼拝説教
【テーマ】  いのちの水を求めよ
【説教題】 「岩から噴き出す水」
【聖書箇所】 出エジプト17:1-7
17:1 イスラエルの全会衆は、【主】の命によりシンの荒野を旅立ち、旅を続けてレフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲み水がなかった。
17:2 民はモーセと争い、「われわれに飲む水を与えよ」と言った。モーセは彼らに「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ【主】を試みるのか」と言った。
17:3 民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」
17:4 そこで、モーセは【主】に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」
17:5 【主】はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。
17:6 さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。
17:7 それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「【主】は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、【主】を試みたからである。

○ 「災害時に備蓄が必要な水の量は、大人1人あたり1日3リットル、3日分9リットルが目安とされています」と、ありました。これは飲み水としてです。水はとても大事だということは今さら言う間でもありません。前回、出エジプトしたイスラエルの民に食べ物が大事だということで、神がマナという不思議な食べ物を与えてくださったことを語りました。今日は「水」です。
 
Ⅰ.水を求める民
A.モーセに文句を言う人々
1.イスラエルの民はうずらとマナを体験したのですが、今度は水が無いと言って、モーセに詰め寄りました。モーセは 「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ【主】を試みるのか」 と言いました。うずらとマナをくださったのは神です。この方に水も求めれば良いのですが、人々はモーセに文句を言ってきたのです。
2.民は神を信じるべきだったのです。うずらとマナをくださった神が大事な水をくださらないわけはないのです。彼等はそれを信じる事ができなかったのです。この不信仰が人間の罪です。モーセに詰め寄るのでは無く、神に祈り求めるべきなのです。ところが、人というのは誰かに文句を言いたがるのかも知れません。神に求めるべきなのです。

B.本当に求めなければならないもの
1.人間は水無しでは生きていけません。それは誰もが知っている事実です。喉が渇くと必死で水を求めます。陸上部を指導している時、夏休み中の練習は過酷でした。すぐに喉が渇きます。休憩にするとみんなすごいスピードで水道のところに走ります。
2.体のために水は必要と知っていても、霊的な水に関して必要を感じる人は少ないのではないでしょうか。現代人は必死で情報・知識を得ようとします。もちろん知識は必要です。生きていく上で必要な知識、仕事をしていく上で必要な知識、自分の専門分野を生かしていく上で必要な知識、人生を豊かにするために必要な知識というものがあります。そして、永遠という霊的な世界に関して必要なものがあります。

Ⅱ.岩を打つと水が噴き出した
A.岩から水が吹き出る
1.水の無い荒野で200万人くらいのイスラエル人が飲む水の量はどれくらいだったのでしょうか? それこそ、枯れることの無い川や泉、井戸が必要です。それらのものが無い厳しい乾燥地帯で彼等は水を求めました。その求め方がモーセに文句を言って求めるというよろしくない求め方でした。その文句はさらに激しくなって、モーセを石で打ち殺そうとしているというのです。
2.そんなよろしくない求め方のイスラエルの民にさえ、神は水を与えると言われました。その方法が面白いのです。エジプトで奇跡を行うことに使われた杖を用いられたのです。その杖で「岩を打て」と言われたのです。モーセがそのようにすると、岩から水が湧き出して、大勢のイスラエルの民がみんな飲むことができたのです。

B.岩こそキリスト
1.普通、岩から水が出るでしょうか? 地面に杖を突き刺して水を湧き出させたという方があり得ると思うのですが、岩から出てきたのです。あり得ないところから最も大事な水を噴き出させてくださったのです。あり得ないところから必要なものが出てくるところが神の不思議です。
2.ユダヤ人にとってイエスという人間が神であるなんてあり得ない。このイエスを信じることで罪から解放されるなんてあり得ない話でした。しかし、神がこのイエスを打たれました(十字架です)。すると、全ての人を救う血が流れ、全世界の全ての人のところに流れていったのです。パウロは Ⅰコリント10:4 みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。 と、言っています。

Ⅲ.聖霊は岩の心から噴き出す
A.私たちの心は岩のよう
1.イエス・キリストの血が尊いのは当たり前ですが、この血が全世界の全ての人のために流されたのはなんとすばらしいことでしょうか。荒野の200万人ものイスラエル人全員が岩から吹き出た美味しい水を飲んで生き返ったように、私たちはイエス・キリストの血によって死から命に変えられました。
2.命をいただいた私たちの心は頑固な岩のように硬かったのではないでしょうか。神の前に心を開きたくてもなかなか頑固で開かない方もいます。そんな硬い心でもこの岩から水を噴き出させる奇跡を行うことができる杖があるみたいです。

B.その岩は破れ、聖霊があふれ出る
1.杖に力があったかというとそうではなく、モーセが神の言葉に従ったことにあるのです。岩から水を噴き出させるのは神の言葉、イエス・キリストなのです。イエス・キリストがあなたの硬い岩のような心に触れるといのちの水が吹き出ます。
2.モーセは人々から水を求められた時に神に叫びました。秘訣はここにあります。モーセにできるわけはないのです。民衆のようにモーセに文句を言ったところで解決しません。神に叫ぶのです。心の叫びは口のきけない人にだってできることです。心の奥底から叫んでください。
3.イエス・キリストを自分の神、罪からの救い主として心に迎えるなら、私たちがどんなに硬い岩のような心であっても、そこからいのちの水、聖霊は吹き出すのです。それはあなただけを潤すようなわずかな水ではなく、200万人を養い続けた水以上のものです。

● 有名な聖書の言葉 ヨハネ7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」 

★ イエス・キリストに触れられてください。あなたの頑固な岩の心にも奇跡が起こります。生ける水の川が流れ出ますから。