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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

神に忠実なノア

2021-10-30 07:12:31 | 礼拝説教
2021/10/31 礼拝説教
【テーマ】  救いと裁き
【説教題】 「神に忠実なノア」
【聖書箇所】 創世記6-9章
6:5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。
6:6 それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
6:7 そして【主】は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」
6:8 しかし、ノアは【主】の心にかなっていた。

6:14 あなたは自分のために、ゴフェルの木で箱舟を造りなさい。

6:18 あなたは、息子たち、妻、それに息子たちの妻とともに箱舟に入りなさい。

7:16 入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であった。それらは、神がノアに命じられたとおりに入った。それから、【主】は彼のうしろの戸を閉ざされた。

8:16 「あなたは、妻と、息子たちと、息子たちの妻たちとともに箱舟から出なさい。

8:20 ノアは【主】のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜から、また、すべてのきよい鳥からいくつかを取って、祭壇の上で全焼のささげ物を献げた。

9:13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである。
9:14 わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。
9:15 そのとき、わたしは、わたしとあなたがたとの間、すべての肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い起こす。大水は、再び、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水となることはない。

○ とんでもない大雨が降る度、ノアの大洪水を思い出します。何らかの災害が起こると「神の怒りだ」という人がいたり、「あの地域には悪が満ちたのだ」とまで言う人がいますが、そういうものではありません。神は私たちにはイエス・キリストという「虹」をくださったのですから。さて、ノアの話です。
 
Ⅰ.神に従う人、従わない人
A.地上に悪が増え広がった
1.アダムの後、どれ位の年月が過ぎたことでしょうか。何代も積み重ねて人は良くなったかというとそうではなく、罪に罪を重ね、悪に満ちたというのです。それは聖書の表現が 【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。 というほどです。
2.そこで、神は人を消し去ることをお考えになりました。アダムとエバがエデンの園を追い出されるという罰を受けましたが、今回は生き残ることを認めない死の裁きをくだされるというのです。罪の結果はいずれにしても「死」です。

B.ノアは神の言葉に従った
1.神は裁きを考えられましたが、その中でノアという人物はこの「死」の裁きに値しないと神は思われました。罪人という点ではノアだって罪人です。 しかし、ノアは【主】の心にかなっていた。 と言える人物でした。
2.そこで、神はこのノア一家を救うことを考え、あの有名な箱舟を造ることを命じられました。あらゆる種類の動物を入れることを命じられたので、その大きさは、1キュビトを45cmとして計算すると、長さ135m、幅22.5m、高さ13.5mという大きなものです。その神の言葉を信じてノアは箱舟を造りました。
3.神は人を滅ぼしたいわけではありません。神の言葉に従う人を求めておられます。

Ⅱ.裁きから救う箱舟
A.箱舟に入った
1.神に命じられた通りに箱舟を造ったノアは、神が連れてこられた動物を見るのでした。そして、神に命じらた通り、箱舟に入りました。 【主】は彼のうしろの戸を閉ざされた。 と、箱舟の扉は神が閉められました。ですから、外から助けを求めて来た人があってもノアには開けることができませんでした。人が裁くことはできません。神のなさることです。
2.箱舟に入るということは神の裁きを免れることです。正にイエス・キリストの十字架の救いを表しています。イエス・キリストの外側にいては罪の裁きを受けるしかありません。イエス・キリストの言葉に従うことです。

B.箱舟を出た
1.約1年間の箱舟生活を終えて、箱舟を出る時が来ました。ノアは烏や鳩を飛ばして出られるかを調べました。その後、 8:16 「あなたは、妻と、息子たちと、息子たちの妻たちとともに箱舟から出なさい。 と、箱舟から出るように言われました。
2.箱舟を出たノアは 8:20 ノアは【主】のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜から、また、すべてのきよい鳥からいくつかを取って、祭壇の上で全焼のささげ物を献げた。 と、神に礼拝を捧げました。救われた人は神を礼拝するのです。また、神を礼拝する人だから救われるのだとも言えるでしょう。

Ⅲ.契約のしるしとしての虹
A.虹
1.神は神の言葉に従ったノアを祝福されました。天地創造の時に神が人も動物も地に満ちるようにと言われたことをここでも言われています。正にこれが祝福なのです。
2.この契約として 9:13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである。 と、言われました。そして、 大水は、再び、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水となることはない。 と、最後の裁きの日まではこのような裁きは無いと言われました。
3.私たちは虹を空に見ると「あ、虹だ!」と言って喜びます。中にはスマホで写真を撮ってSNSやブログにアップする人もおられます。なぜか嬉しいのです。できるなら、神の救いを喜んで欲しいです。最初に虹を見たのは神の言葉に従って箱舟を造り、そこに入ったノア一家だけなのです。

B.十字架
1.イエス・キリストの十字架の血は契約の血です。イエス・キリストは神の子ですが、同時に神の言葉です。 ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。1:2 この方は、初めに神とともにおられた。1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。 とある通りです。この言葉に従うならノアと同じように救われるのです。
2.つまり、人は自分で自分を罪から救うことができませんから、イエス・キリストがその罪の身代わりとなって死んでくださったことにより私たちも救われるという道ができました。そのことを信じる者はノアの方舟に入ったようなものです。
3.今、私たちは「箱舟を造れ」などというようなことは言われません。イエス・キリストが自分の救い主であることを信じるだけで救われるようにしてくださいました。

★ 神のご計画はアダムの時代から一貫して変わらず、神の言葉に従う者が救われるということです。ノア一家が救われたように!

世界初の殺人事件から学ぶ

2021-10-09 07:31:44 | 礼拝説教
2021/10/10 礼拝説教
【テーマ】  罪人と礼拝
【説教題】 「世界初の殺人事件から学ぶ」
【聖書箇所】 創世記4章
4:1 人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は、【主】によって一人の男子を得た」と言った。
4:2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。
4:3 しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを【主】へのささげ物として持って来た。
4:4 アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物に目を留められた。
4:5 しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。
4:6 【主】はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。
4:7 もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」
4:8 カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した。
4:9 【主】はカインに言われた。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」カインは言った。「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」
4:10 主は言われた。「いったい、あなたは何ということをしたのか。声がする。あなたの弟の血が、その大地からわたしに向かって叫んでいる。

○ 日本の治安は世界でも大変よいと評価されています。なぜなら殺人事件は他国と比べてずば抜けて低い数値です。しかし、どうして人が人を殺すのでしょうか? 今日は人類初の殺人事件をから考えてみたいと思います。
 
Ⅰ.子育てと礼拝
A.子育ての喜び
1.前回、罪の無かった人間に罪が入ってきた話をしました。そのためにアダムとエバはあの快適なエデンの園を追い出されてしまいました。エデンの園での仕事は楽しいものだったと思います。しかし、そこを追い出されて、果たして仕事はどういうものと化したのでしょうか。
2.それでも子どもが生まれたことはとても嬉しかったでしょう。子育ての本やYouTubeも無い時代に初めての子育てをして、子どもが大きくなって仕事をするようになるのを見るのは楽しいことだったと思います。
3.アダムとエバにとってカインは当然喜びの子です。親が子どもを喜ばないはずがありません。それは単に赤ちゃんでかわいいというだけではありません。赤ちゃんを見ていると、神様と共に過ごした時を思い起こしたのではないでしょうか。全く親に依存しきっているカイン。親の働きかけ無しに生きていけないカイン。子育てはまさに神と人との関係を教わっている気がします。

B.礼拝の喜び
1.カインもアベルも大きくなってそれぞれに仕事をするようになりました。そして、神にささげ物をするということがいつしか行われていました。それは礼拝です。アダムとエバはエデンの園にいたときから自然な礼拝、つまり神との親密な交わりを体験してきました。しかし、神と断絶しエデンの園を追い出されてからは礼拝のスタイルも変わったでしょう。
2.彼等はあの 3:24 こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。 という場所に来て祭壇をつくり、自分たちの罪の赦しを願って神が動物の毛皮で作ってくださったことで思いおこされる動物の身代わりから、生贄を捧げる、あるいは地の産物を与えられたことを感謝してその産物を捧げて礼拝を行ってきたのかも知れません。
3.そうしたアダムとエバの礼拝行為はカインとアベルにも引き継がれ、罪が入り込んだ問題を辛い思いを込めて子どもに語ったことでしょう。しかし、またエデンの園での楽しかった生活、神様との親しい交わりのことも喜びを持って語ったのではないでしょうか? 罪を犯した辛い話と、神と共に過ごした喜びの話を語るような礼拝ではなかったでしょうか。

Ⅱ.妬みの恐ろしさ
A.カインの怒り
1.どれほどの期間をアダムとエバは幼い子達と過ごしたのでしょうか。大きくなったカインとアベルはそれぞれに仕事をしてその得たものから神様に捧げ物をする礼拝の時を持ちました。しかし、その捧げ物で問題が起こりました。アベルの捧げ物は神に受け入れられたのに、カインの捧げ物は受け入れられなかったのです。
2.その理由が聖書からわかるのは、3-5節の カインは大地の実りを【主】へのささげ物として持って来た。アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物に目を留められた。しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。 です。どうやら捧げ物というより、彼等の神への思いにあったのではないでしょうか。アベルは神様に最高のものを献げようとしたようです。一方カインはそのようには考えなかったようです。このことでカインは神に申し訳なく思ったのではなく、 カインは激しく怒り、顔を伏せた とあります。
  (参照 ヘブル11:4、Ⅰヨハネ3:12)

B.カインの妬み
1.神はアベルを喜ばれカインを喜ばれなかったので、カインは腹を立てますが、同時にそれは妬みでした。アベルが神に喜ばれていることで妬んだのです。さらにその思いはアベルに対する怒りになり、殺人へと発展しました。
2.Ⅰコリント13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 とあるように、妬みは神の求める姿ではありません。弟の方が神に愛されているように感じ、その弟に腹を立ててしまうのです。自分の側の問題なのに、弟を憎んでしまうというカインの罪です。

Ⅲ.悔い改め
A.即座に罪を認めること
1. 「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」 一瞬、神から身を隠したアダムとエバに語られた言葉のように聞こえます。罪を犯したために隠れてしまったアダムとエバ。しかし、アベルは隠れてはいません。アベルこそしっかり神の前に出ていました。一方、カインが隠れているのです。
2.ここでカインは神に即座に謝るべきだったのです。悔い改めるべきだったのです。神はすぐに罰を下したのではなく、カインから悔い改めの言葉が出る時間を用意されていたのです。私たちも罪を犯した時、悔い改める時間が与えられています。

B.良きものを献げよう
1.人の心は神の前に正しく歩もうともし、また反対に悪への道を歩もうともします。悪しき道に行かないように自制すべきなのですが、人は楽な楽しいと思える悪しき道に行きやすいようです。それは罪人となったからです。ですから、神の前に出て礼拝し、感謝を捧げ、神第一の生き方をしようと努力すべきなのです。
2.悪しき方向に流れるのではなく、神に喜ばれる正しい道を歩もうではありませんか。アベルが最も良き生贄を献げたように、私たちも良きものを献げましょう。生贄は犠牲です。献金は私たちにとって犠牲です。しかし、神との良き礼拝を守っているときにはそれが喜びとなります。

★ 人は何と悪しき方向に流れやすいのでしょう。私たちは常に自己吟味が必要です。そして、日々、悔い改めるべき事を見出したら即座に悔い改めるのです。そして、喜びの礼拝を、最高のものを献げる礼拝をしようではありませんか。


あなたはどこにいるのか?

2021-10-02 08:04:14 | 礼拝説教
2021/10/3 WS礼拝説教
【テーマ】  罪人を探す神
【説教題】 「あなたはどこにいるのか?」
【聖書箇所】 創世記3章
3:1 さて蛇は、神である【主】が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」
3:4 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」
3:6 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは、神である【主】が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」
3:10 彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」

Ⅰ.神の言葉を曲げてしまった
A.神の言葉に従わなかった
1.神様はアダムに 2:16 神である【主】は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。2:17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」 と言われました。やはり食べ物は人間にとって大きな誘惑となるのでしょうか。また、 その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ と言われたのですが、二人には「死」がどのようなものかわかっていたでしょうか?
2.先にこの言いつけを破って食べてしまったのはエバです。が、そのエバの誘いでアダムも食べました。しかも神様は二人を一体とみなされていますからどちらか一方が悪いという問題でもありません。二人とも神の言葉に従わなかったのです。

B.巧妙な悪魔の誘惑
1.一般的に禁断の木の実と言われている「知識の木の実」を食べてしまった背景には「蛇」の存在があります。 さて蛇は、神である【主】が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった とあり、この蛇がエバに語りかけてきています。その時の蛇はどのような動物だったのか? 人と話ができる存在だったのか? これはなかなかわからないことですが、ひとまずこれを悪魔ととらえてください。
2.つまり、悪魔がエバに巧妙に語りかけてきたのです。その誘惑の言葉は 「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」 でした。それに対してエバは 『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」 と神様が言われた 食べるとき、あなたは必ず死ぬ から 触れてもいけない 死ぬといけないからだ と神の言葉を少しですが、曲げています。
3.これを聞いた悪魔は「しめた!」と思って、一気にたたみ込んでいきます。 「あなたがたは決して死にません。3:5 それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」 と「死なない」「神のようになる」と全く変えてしまいました。悪魔の方法はこういうことが多いようです。詐欺師のようですね。

Ⅱ.神の言葉に従わなかった結果
A.死が入ってきた
1.悪魔の誘惑に遭い、神の言葉を無視したアダムとエバにやって来たのは何かといいますと、「死」でした。今、私たちが使っている「死」という言葉は医学的な肉体の「死」だけを考えがちになりますが、「脳死」のように肉体は生きていても実は死んでいるというように判断されるものも出てきました。
2.聖書でいう「死」は確かに「肉体の死」もそうですが、「精神的な死」つまり理性などがゆがんでしまうことも言います。また、神との断絶をも「死」と言います。
3.そして、この「死」が全ての人に入ったように全ての人が罪人と化しました。聖書は全ての人が罪を犯したと言っています。正しい人はいないのです。

B.三つの死
1.肉体の死について見ますと、アダムとエバには肉体の死はすぐにはやってきませんでした。アダムは930年生きたと書いてあります。でも死にました。
2.そして、精神的な死は ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った と、いう言葉で代表されるように人の心は安心して表すこともできなくなりました。その後、彼の子どもカインを見ると弟アベルを殺してしまうという行為に出ていますし、その後の人間の心の荒れようは言うまでもありません。
3.そして、神との断絶は、本来いつも親しく神様とお話しできていたのにも関わらず、 神である【主】の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した とあります。神に背を向けるようになってしまいました。これが第三の死です。

Ⅲ.それでも人を探す神
A.神から身を隠す人間
1.最大の問題である神との断絶という「死」。神の言葉を無にしたことで神との良き関係が切れました。人が神と親しく過ごせたエデンの園なのに、そこで神は 人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」 と人を探すことになったのです。それは二人が 神である【主】の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した からです。
2.先に言いましたように全ての人が罪人ですから、全ての人が神から身を隠しているということなのです。神に近づく者は神を礼拝する人です。あなたはどうでしょうか? 神に対して身を隠しているのではないですか? 

B.今も探し続けておられる神
1.神は全ての人をご存知です。全ての人の名前を知っておられます。あなたの名もご存知です。 「あなたはどこにいるのか。」 という神の呼び声はアダムとエバだけに語りかけられた言葉ではありません。あなたにも向けて語られている言葉です。
2.神は探し続ける神なのです。探すということは警察の捜索とは違って、親がいなくなった子どもを探すようなものです。愛から発することです。あなたは愛されています。

★ あなたは神様から身を隠してはいませんか? それが罪の結果です。神様はあなたのことを探しておられます。「ここにおります」と神の前に出ませんか。