2019/10/27 礼拝説教
【テーマ】 信仰と祈りの関係
【説教題】 「不信仰な私をお助けください」
【聖書箇所】 マルコ9:20-29
9:20 そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。
9:21 イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。
9:22 霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」
9:23 イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
9:24 するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
9:25 イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
9:26 すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。
9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。
9:28 イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」
9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」
○ 13日の続きになります。口をきけなくする霊につかれた男の子をイエスは わたしのところに連れて来なさい。 と言われました。そこからが今日の話です。
Ⅰ.できるなら
A.辛くてたまらない
1.イエスの元に連れて来られたその男の子は イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。 とあります。悪霊はイエスが嫌いですから彼がイエスと親しくならないように、近づけさせない、あるいはイエスの言葉を信じないように働きかけます。
2.案の定、イエスの前でもこの息子は酷い様子を示しました。この状況で一番辛いのは父親です。どこにも解決がなく、遂にイエスの所に来た。何とかして欲しい!という辛く熱い思いがあるのです。
3.赤ちゃん・子連れのお母さんが電車に乗っていて、子どもが大きな声でなく、のけぞると言うような光景をよく目にします。「うるさい」と感じる大人達が辛いのでしょうか? そのお母さん達が一番辛いのです。
B.私たちをあわれんでください
1.そういう辛い辛い気持ちで父親は 9:22 霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」 と。 私たち とは、この父親と息子のことでしょう。父親は自分の辛さを解消して欲しいと言っているのではなく、息子と一体となって辛いといことを訴えているのです。
2.親というのは子どもの辛さを感じないはずがないのです。ましてや神が私たち神の子達の辛さを感じないわけがない。だからイエスを十字架につけてでも私たちを救ってくださる道を開かれました。あわれんでくださったのです。
Ⅱ.信じます
A.不信仰の流れ
1.これに対してイエスは 「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 と言われました。不信仰な人々の集まりの中では、律法学者が弟子達をやり込めるような議論ばかり。周りを取り巻く群衆はワイワイ観ているだけの総評論家。
2.この父親は不信仰の流れの中に流されているのです。そこで、イエスはこの不信仰の流れに巻き込まれている父親を「信仰」へと導くために逆流していくようなこの言葉を語られたと思います。
3.私たちも不信仰の流れに流されていますと何てことは無い、楽にただ流れていけるのです。不信仰は楽なのです。そして、いつしか行くべき所に着くでしょう。
B.信仰の力
1.一方、信仰は激しい流れを遡上する鮭や鮎などの魚のようにその流れを駆け上がっていくものです。そして、目的地に天国に着くのです。
2.父親は 「信じます。不信仰な私をお助けください。」 と叫びました。イエスの言葉に反応したのです。周りの不信仰な世界から目を背け、イエスを見たのです。そして、父親が生き返ったのです。遡上する力をもったのです。
3.すると、イエスの言葉は力強く働き、息子から悪霊は出て行きました。
Ⅲ.祈りによらねば
A.祈れていない
1.弟子達の疑問は当然です。 「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」 イエスの答えは明快でした。 「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」 しかし、弟子達だって祈ったはず。ということは彼らのは祈りになっていないということです。厳しいですね。
2.また、苦しむ親子を横に律法学者と弟子達は論じ合っていました。この間、彼らは祈っていなかったのです。私もこのように言われたら隠れたくなります。どれくらい祈ったらよいのか、多くの人の疑問ではないでしょうか。
3.本当に「祈りとは何か?」と悩ませられます。弟子達はイエスがいないのだから余計に祈ったはずなのです。でも独りよがりの祈りだったのかも知れないと感じるのです。
B.信仰へ導く祈り
1. 信じる者には、どんなことでもできるのです。 とイエスは言われましたが、聖書の中にでも弟子達の殉教や、パウロ自身自分のために祈ったけれど癒されていない記事を見るのです。最たるものはイエスのゲツセマネの祈りです。十字架を取り除けてもらえなかったではないですか。
2.しかし、イエスはそれで平安を得ています。パウロも納得して平安を得ています。祈りは私たちの願いを訴える道具ではありません。どうやら不信仰から信仰への切り替え(スイッチ)が祈りにあるのではないでしょうか。
● 私がクリスチャンになって間の無い頃、やはり祈りに悩みました。その時、E先生の講話をテープで聞いていた時、先生は「祈りたいと思っても言葉も出てこない。そんなことがあるじゃないですか。でもその苦しみから『主よ』と言う言葉だけしか出てこなくてもすばらしい祈りです。あるいは何も言葉が出てこなくてただ主のそばにいる。それもすばらしい祈りでは無いでしょうか」というようなことを語られたのを聞いてスカッとした経験があります。
★ 信仰は私たちをこの世と向きを変えるものであり、そのために祈りが不可欠なのです。祈りは神のそばに留まり続けるものなのです。神のそばに親しく留まるので、語り合いもし、時には見つめ合っているだけでもあるのです。
「信じます。不信仰な私をお助けください。」 が私たちの祈りの言葉なのかも知れません。
【テーマ】 信仰と祈りの関係
【説教題】 「不信仰な私をお助けください」
【聖書箇所】 マルコ9:20-29
9:20 そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。
9:21 イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。
9:22 霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」
9:23 イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
9:24 するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
9:25 イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
9:26 すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。
9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。
9:28 イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」
9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」
○ 13日の続きになります。口をきけなくする霊につかれた男の子をイエスは わたしのところに連れて来なさい。 と言われました。そこからが今日の話です。
Ⅰ.できるなら
A.辛くてたまらない
1.イエスの元に連れて来られたその男の子は イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。 とあります。悪霊はイエスが嫌いですから彼がイエスと親しくならないように、近づけさせない、あるいはイエスの言葉を信じないように働きかけます。
2.案の定、イエスの前でもこの息子は酷い様子を示しました。この状況で一番辛いのは父親です。どこにも解決がなく、遂にイエスの所に来た。何とかして欲しい!という辛く熱い思いがあるのです。
3.赤ちゃん・子連れのお母さんが電車に乗っていて、子どもが大きな声でなく、のけぞると言うような光景をよく目にします。「うるさい」と感じる大人達が辛いのでしょうか? そのお母さん達が一番辛いのです。
B.私たちをあわれんでください
1.そういう辛い辛い気持ちで父親は 9:22 霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」 と。 私たち とは、この父親と息子のことでしょう。父親は自分の辛さを解消して欲しいと言っているのではなく、息子と一体となって辛いといことを訴えているのです。
2.親というのは子どもの辛さを感じないはずがないのです。ましてや神が私たち神の子達の辛さを感じないわけがない。だからイエスを十字架につけてでも私たちを救ってくださる道を開かれました。あわれんでくださったのです。
Ⅱ.信じます
A.不信仰の流れ
1.これに対してイエスは 「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 と言われました。不信仰な人々の集まりの中では、律法学者が弟子達をやり込めるような議論ばかり。周りを取り巻く群衆はワイワイ観ているだけの総評論家。
2.この父親は不信仰の流れの中に流されているのです。そこで、イエスはこの不信仰の流れに巻き込まれている父親を「信仰」へと導くために逆流していくようなこの言葉を語られたと思います。
3.私たちも不信仰の流れに流されていますと何てことは無い、楽にただ流れていけるのです。不信仰は楽なのです。そして、いつしか行くべき所に着くでしょう。
B.信仰の力
1.一方、信仰は激しい流れを遡上する鮭や鮎などの魚のようにその流れを駆け上がっていくものです。そして、目的地に天国に着くのです。
2.父親は 「信じます。不信仰な私をお助けください。」 と叫びました。イエスの言葉に反応したのです。周りの不信仰な世界から目を背け、イエスを見たのです。そして、父親が生き返ったのです。遡上する力をもったのです。
3.すると、イエスの言葉は力強く働き、息子から悪霊は出て行きました。
Ⅲ.祈りによらねば
A.祈れていない
1.弟子達の疑問は当然です。 「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」 イエスの答えは明快でした。 「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」 しかし、弟子達だって祈ったはず。ということは彼らのは祈りになっていないということです。厳しいですね。
2.また、苦しむ親子を横に律法学者と弟子達は論じ合っていました。この間、彼らは祈っていなかったのです。私もこのように言われたら隠れたくなります。どれくらい祈ったらよいのか、多くの人の疑問ではないでしょうか。
3.本当に「祈りとは何か?」と悩ませられます。弟子達はイエスがいないのだから余計に祈ったはずなのです。でも独りよがりの祈りだったのかも知れないと感じるのです。
B.信仰へ導く祈り
1. 信じる者には、どんなことでもできるのです。 とイエスは言われましたが、聖書の中にでも弟子達の殉教や、パウロ自身自分のために祈ったけれど癒されていない記事を見るのです。最たるものはイエスのゲツセマネの祈りです。十字架を取り除けてもらえなかったではないですか。
2.しかし、イエスはそれで平安を得ています。パウロも納得して平安を得ています。祈りは私たちの願いを訴える道具ではありません。どうやら不信仰から信仰への切り替え(スイッチ)が祈りにあるのではないでしょうか。
● 私がクリスチャンになって間の無い頃、やはり祈りに悩みました。その時、E先生の講話をテープで聞いていた時、先生は「祈りたいと思っても言葉も出てこない。そんなことがあるじゃないですか。でもその苦しみから『主よ』と言う言葉だけしか出てこなくてもすばらしい祈りです。あるいは何も言葉が出てこなくてただ主のそばにいる。それもすばらしい祈りでは無いでしょうか」というようなことを語られたのを聞いてスカッとした経験があります。
★ 信仰は私たちをこの世と向きを変えるものであり、そのために祈りが不可欠なのです。祈りは神のそばに留まり続けるものなのです。神のそばに親しく留まるので、語り合いもし、時には見つめ合っているだけでもあるのです。
「信じます。不信仰な私をお助けください。」 が私たちの祈りの言葉なのかも知れません。