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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

不信仰な私をお助けください

2019-10-27 18:06:42 | 礼拝説教
2019/10/27 礼拝説教
【テーマ】  信仰と祈りの関係
【説教題】 「不信仰な私をお助けください」
【聖書箇所】 マルコ9:20-29
9:20 そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。
9:21 イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。
9:22 霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」
9:23 イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
9:24 するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
9:25 イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
9:26 すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。
9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。
9:28 イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」
9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」

○ 13日の続きになります。口をきけなくする霊につかれた男の子をイエスは わたしのところに連れて来なさい。 と言われました。そこからが今日の話です。

Ⅰ.できるなら
A.辛くてたまらない
1.イエスの元に連れて来られたその男の子は イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。 とあります。悪霊はイエスが嫌いですから彼がイエスと親しくならないように、近づけさせない、あるいはイエスの言葉を信じないように働きかけます。
2.案の定、イエスの前でもこの息子は酷い様子を示しました。この状況で一番辛いのは父親です。どこにも解決がなく、遂にイエスの所に来た。何とかして欲しい!という辛く熱い思いがあるのです。
3.赤ちゃん・子連れのお母さんが電車に乗っていて、子どもが大きな声でなく、のけぞると言うような光景をよく目にします。「うるさい」と感じる大人達が辛いのでしょうか? そのお母さん達が一番辛いのです。

B.私たちをあわれんでください
1.そういう辛い辛い気持ちで父親は 9:22 霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」 と。 私たち とは、この父親と息子のことでしょう。父親は自分の辛さを解消して欲しいと言っているのではなく、息子と一体となって辛いといことを訴えているのです。
2.親というのは子どもの辛さを感じないはずがないのです。ましてや神が私たち神の子達の辛さを感じないわけがない。だからイエスを十字架につけてでも私たちを救ってくださる道を開かれました。あわれんでくださったのです。

Ⅱ.信じます
A.不信仰の流れ
1.これに対してイエスは 「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 と言われました。不信仰な人々の集まりの中では、律法学者が弟子達をやり込めるような議論ばかり。周りを取り巻く群衆はワイワイ観ているだけの総評論家。
2.この父親は不信仰の流れの中に流されているのです。そこで、イエスはこの不信仰の流れに巻き込まれている父親を「信仰」へと導くために逆流していくようなこの言葉を語られたと思います。
3.私たちも不信仰の流れに流されていますと何てことは無い、楽にただ流れていけるのです。不信仰は楽なのです。そして、いつしか行くべき所に着くでしょう。

B.信仰の力
1.一方、信仰は激しい流れを遡上する鮭や鮎などの魚のようにその流れを駆け上がっていくものです。そして、目的地に天国に着くのです。
2.父親は 「信じます。不信仰な私をお助けください。」 と叫びました。イエスの言葉に反応したのです。周りの不信仰な世界から目を背け、イエスを見たのです。そして、父親が生き返ったのです。遡上する力をもったのです。
3.すると、イエスの言葉は力強く働き、息子から悪霊は出て行きました。

Ⅲ.祈りによらねば
A.祈れていない
1.弟子達の疑問は当然です。 「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」 イエスの答えは明快でした。 「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」 しかし、弟子達だって祈ったはず。ということは彼らのは祈りになっていないということです。厳しいですね。
2.また、苦しむ親子を横に律法学者と弟子達は論じ合っていました。この間、彼らは祈っていなかったのです。私もこのように言われたら隠れたくなります。どれくらい祈ったらよいのか、多くの人の疑問ではないでしょうか。
3.本当に「祈りとは何か?」と悩ませられます。弟子達はイエスがいないのだから余計に祈ったはずなのです。でも独りよがりの祈りだったのかも知れないと感じるのです。

B.信仰へ導く祈り
1. 信じる者には、どんなことでもできるのです。 とイエスは言われましたが、聖書の中にでも弟子達の殉教や、パウロ自身自分のために祈ったけれど癒されていない記事を見るのです。最たるものはイエスのゲツセマネの祈りです。十字架を取り除けてもらえなかったではないですか。
2.しかし、イエスはそれで平安を得ています。パウロも納得して平安を得ています。祈りは私たちの願いを訴える道具ではありません。どうやら不信仰から信仰への切り替え(スイッチ)が祈りにあるのではないでしょうか。

● 私がクリスチャンになって間の無い頃、やはり祈りに悩みました。その時、E先生の講話をテープで聞いていた時、先生は「祈りたいと思っても言葉も出てこない。そんなことがあるじゃないですか。でもその苦しみから『主よ』と言う言葉だけしか出てこなくてもすばらしい祈りです。あるいは何も言葉が出てこなくてただ主のそばにいる。それもすばらしい祈りでは無いでしょうか」というようなことを語られたのを聞いてスカッとした経験があります。

★ 信仰は私たちをこの世と向きを変えるものであり、そのために祈りが不可欠なのです。祈りは神のそばに留まり続けるものなのです。神のそばに親しく留まるので、語り合いもし、時には見つめ合っているだけでもあるのです。
  「信じます。不信仰な私をお助けください。」 が私たちの祈りの言葉なのかも知れません。


イエスのところへ行こう

2019-10-13 14:44:38 | 礼拝説教
2019/10/13 礼拝説教
【テーマ】  イエスこそ救い主
【説教題】 「イエスのところへ行こう」
【聖書箇所】 マルコ9:14-19
9:14 さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。
9:15 群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。
9:16 イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか」とお尋ねになった。
9:17 すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。
9:18 その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」
9:19 イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

○ 感動の山、イエスの姿が変わったあの光景が生々しく目に焼き付いている3人の弟子達。そこから降りてくるとやはり下界の現実が待っていました。

Ⅰ.救われない議論
A.追い出せない
1. さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。 という現場に出くわすのですが、何を論じ合っているのでしょうか?
2. 口をきけなくする霊につかれた 男の子を連れてきた父親が弟子達に悪霊を追い出して欲しいと願ったのですが、弟子達にはできなかったというのです。
3.弟子達は前に悪霊を追い出し、病を癒すということをしてきたので、簡単にできると思ったのではないでしょうか。しかし、やってみたけれど全く出て行かないというのです。

B.論じ合っていた
1.そこで、男の子をほったらかしにして、大人達が議論していたのです。きっと律法学者達は「イエスを懲らしめるいい機会だ」とでも思ったのでしょう。
2.しかも、イエスがいないので、今までのようにイエスにやり込められることも無く、律法学者達が優位に立って議論が進んでいたのだと思います。

C.議論では救われない
1.みんなこの男の子を救いたかったのだと思うのですが、誰も救えませんでした。弟子達は「任せとけ」と言わんばかりに悪霊押し出しをしたのではないでしょうか? しかし、無残な結果に終わり、人々から「どうしたんだ!」とばかりやり込められていたと思います。
2.さらに敵対心を持っている律法学者はここぞとばかりに何か難しいことを言っているのでしょう。しかし、この子を救えない点では一緒です。議論はムダだとは言いませんが、救えない議論はいくらやってもムダです。

Ⅱ.不信仰を嘆くイエス
A.不信仰な人々
1.山から降りてこられたイエスはその事情を聞いて、 ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。 と言われました。こうは言われても、私たちもその現場にいたとしたら果たしてその男の子を癒すというか、悪霊を追い出すとことはできたのでしょうか?
2.また、議論してやり込めようとしている律法学者だって男の子を救えない不信仰者です。その様子を見てワイワイ言っているだけの人々も不意信仰です。愛のない人々の姿はみんな不信仰なのです。いったい信仰とは何か? と考えさせられませんか?

B.我慢するイエス
1.イエスは いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。 と言われています。ずっと我慢してきたのだと。それはイエスの願うように成長しないがため、彼らの自立を待って、我慢しておられるということではないでしょうか?
2.こういうことは子育てや教育によく見られることです。私は講演会でも「子育ては待つことだ」「忍耐だ」とよく言います。親はいずれいなくなります。その時に親がいなくてもしっかり生きていけるようになっていて欲しいわけです。同じく、イエスももうしばらくでいなくなるのです。その時、弟子達だけでしっかりやっていかねばなりません。

Ⅲ.イエスの所に連れて行く
A.子どもを愛されるイエス
1.イエスは その子をわたしのところに連れて来なさい。 と言われました。連れて行ってよいのです。「連れてくるな」とは言われない。イエスは子どものことを愛し気遣っておられます。苦しむ子どもを放っておかれません。
2.イエスの所に連れて行く、あるいは自らイエスの所に行くということはとても大事なことです。私たちも何才になっても神の子どもです。愛されています。イエスの所に行けばよいのです。いや、行かねば解決はないのです。
3.今、どこの教会も子どもが集まらなくて困っています。しかし、イエスは子どもを愛しておられます。私たちは子ども達をイエスの所に連れて行きたいものです。

B.希望はイエスにある
1.「イエスには解決がある」と信じるのは信仰だと思います。もちろん半信半疑なんかではない。信じきるということです。
2.父親はイエスには、あるいはイエスの弟子にはできると信じて来たのでしょう。しかし、弟子達には癒すことができない現実にガックリときたことでしょう。
3.しかし、イエスは私のところにと言われる。やはりイエスだ!ということです。


● 病気の人はイエスであろうが誰であろうがとにかく癒してくれれば嬉しいのです。私も失明しかけたことがきっかけでイエスを信じたのですから癒しというのは大きな事です。その後も色々癒しの体験、奇跡の体験をしました。しかし癒されないことも多々あります。今、そういうのをいっぱい抱えてしまいました。痛くて、辛くて、「主よ!」とどれだけ叫んだでしょう。でも、とにかく、イエスのところに行けるのです。主はいつも共にいてくださるのです。これが感謝なのです。

★ 律法学者も弟子達も男の子を癒せませんでした。希望が無くなったかのような父親に、イエスは その子をわたしのところに連れて来なさい。 と言われたのです。イエスの所に行くことです。そこに解決があるのです。


道との遭遇

2019-10-06 18:18:40 | 礼拝説教
2019/10/6 礼拝説教
【テーマ】  イエスは天国への道
【説教題】 「道との遭遇」
【聖書箇所】 ヨハネ14:6
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

○ 東京に来て、道が複雑なのに驚きました。京都の町は道が縦横真っ直ぐなので迷わずに行けたのですが、東京は行き止まりもたくさんある上、北に向かって歩いているつもりがいつの間にか東に向かっていたというようなことが何度もありました。道に迷うというのはとても嫌なものです。ましてや天国への道に迷うというのは人生最大の失敗となると思います。イエスは「私が道だ」と天国への道そのものであることを教えてくださいました。

Ⅰ.神のことばに従ったモーセ
A.道が無い
1.旧約聖書の有名な人物はたくさんいますが、その中の一人にモーセがいます。彼はエジプトの奴隷とされて苦役に服していたイスラエル人をエジプトから連れ出し、彼らの祖国へと連れ帰る仕事を託されます。
2.エジプトを出るので「出エジプト記」というのですが、出エジプト、英語で Exodus エクソダス。神がモーセに導き出すように言われたのですが、決して楽に出ることはなかったのです。やっとエジプトを出て、故郷へと向かうのですが・・・。
3.気持ちを翻したパロ王は軍隊を仕向け、連れ戻そうとしました。そんな時、目の前に大河のような海が現れ、後ろにはエジプトの軍隊、逃げ場を失いました。

B.道ができる
1.その時に神はモーセに語られました。 出エジプト14:16 あなたは、あなたのつえを上げ、あなたの手を海の上にさしのばし、海を分けて、イスラエル人が海のまんなかのかわいた地をすすみ行くようにせよ。 と。モーセがその言葉の通りにすると、東風が一晩中吹いて海を分けて海底を乾かしたのです。今まで道が無かったところに道ができたのです。
2.古いカーナビを使っていると新しい道が出てきません。新道を走るとカーナビの地図に無いところを走っていることになります。まるでモーセ達はそのように道の無かったところを進んでいったのです。

Ⅱ.その力はどこから?
A.杖なのかモーセなのか
1.では、考えてみましょう。海に道ができたのはモーセの杖のお陰でしょうか? 杖に力があったのでしょうか? 私たちはつい杖や何か、お札とかお守りとかそういったもの、偶像に力があるかのように思いやすいのです。
2.では、モーセがすごかったからでしょうか? モーセに力があったのでしょうか? 私たちは「カリスマ○○」とかすごいことのできる人をあがめる傾向にあります。時としてそれが宗教的なカルトになるわけですが。

B.どちらでもない
1.当然、杖にもモーセにも特別な力があったわけではないことはおわかりだと思います。ではなぜモーセが杖を上げていると海が分かれるというような不思議が起こったのでしょうか?
2.モーセは偶像やお守りを信じたのではなく、神を信じたのです。神の言葉を信じたのです。信じたということは神の言われることを実行したということです。すると道ができるのです。

Ⅲ.イエスに従う時道が開ける
A.イエスは神の言葉に従った
1.人々は海の底にできた道を行くことで救われました。私たちも天国への道は一見どこにも無かったように見えて、なんとイエスが道だったのです。イエスの言葉に従えば救われるのです。
2.モーセが神の言葉に従ったとき(神に言われたとおり、杖を挙げたこと)、不思議は起こりました。道の無かったところ、いやむしろ「死」でしかなかったところに「いのち」の道ができたのです。

B.私たちはイエスに従うべき
1.私たちは全員死に向かって進んでいました。いのち、すなわち天国への道は無かったのです。ところがこの地上に送られた神の子イエスが父なる神の言葉に徹底して従ったので、旧約聖書に預言されたとおり、命の道が開けました。
2.それがイエスの十字架という道です。最初に読みました御言葉の通り、イエスが道となってくださいました。天国への道ができたのです。私たちはこのイエスを信じることで天国へと行けるという道です。

★ 神の言葉に従うとき海に道ができるような不思議さえ起こります。同じく私たちが神の言葉に従うとき、つまり神の言葉であるイエスを信じるとき天国への道ができるのです。このイエスを信じましょう。