バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

オネシモをよろしく

2020-01-26 16:59:17 | 礼拝説教
2020/1/26 礼拝説教
【テーマ】  主に仕える者
【説教題】 「オネシモをよろしく」
【聖書箇所】 ピレモン 8-16
1:8 ですから、あなたがなすべきことを、私はキリストにあって、全く遠慮せずに命じることもできるのですが、
1:9 むしろ愛のゆえに懇願します。このとおり年老いて、今またキリスト・イエスの囚人となっているパウロが、
1:10 獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。
1:11 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています。
1:12 そのオネシモをあなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。
1:13 私は、彼を私のもとにとどめておき、獄中にいる間、福音のためにあなたに代わって私に仕えてもらおうと思いました。
1:14 しかし、あなたの同意なしには何も行いたくありませんでした。それは、あなたの親切が強いられたものではなく、自発的なものとなるためです。
1:15 オネシモがしばらくの間あなたから離されたのは、おそらく、あなたが永久に彼を取り戻すためであったのでしょう。
1:16 もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。特に私にとって愛する兄弟ですが、あなたにとっては、肉においても主にあっても、なおのことそうではありませんか。

○ ピレモンへの手紙は今日のテキストが本題です。私たちも手紙で大事なことをお願いする時、最初に手紙の挨拶だけでなく、いかに自分が相手の人を信頼しているかを書くものです。2回に分けてその挨拶部分を見てきましたが、いよいよパウロがピレモンに願うことが出てきます。

Ⅰ.役に立たないオネシモ
A.奴隷であったオネシモ
1.ここにオネシモという人物が登場しますが、オネシモとピレモンの関係はどういうものだったかというところから見ていきましょう。ピレモンは金持ちで、大きな家に住み、奴隷を持っていました。その奴隷がオネシモでした。
2.オネシモはフルギヤ地方出身の奴隷であったようです。奴隷は人としてではなく、道具としての扱いを受けていました。優しい主人の下では家族のように扱われたり、自由人になることもできました。しかし、多くはミスをすれば主人に殺されても仕方のない存在でした。

B.犯罪人となったオネシモ
1.このオネシモ、何があったのかわかりませんが、どうやらご主人ピレモンの何か、財産の一部を盗んだようです。奴隷は主人に忠実でなければなりませんが、彼は主人を裏切ったのです。仕えることをやめたオネシモです。全く役に立たないオネシモとなってしまいました。彼は奴隷ですから盗人ともなれば殺されても仕方がない状態です。
2.オネシモはローマへと逃げました。犯罪人は都会に逃げ込むなどと言われますが、オネシモもローマという都会に逃げ込んできました。あるいは、オネシモは奴隷から自由の身になってローマで生活したいと思ったのかも知れません。ローマという大都会は彼に自由を与えるはずだったのです。
3.オネシモは奴隷ではなくなったのですが、犯罪人、罪人となりました。ローマで自由に生活したいと思ったであろうに、ピレモンに仕えていた時より自由を感じられなくなったのではないでしょうか。

Ⅱ.役に立つオネシモ
A.オネシモがパウロに出会う
1.そんなオネシモがこれまたどういうわけかわかりませんが、投獄されていたパウロに出会います。投獄されているといっても、比較的ゆるい投獄であって、一軒家に番兵付きで生活していたと言われています。そこに来る人にパウロは福音を語ったり、励ましを与えたっりできたようです。
2.大都会ローマで自由に生きようとしたオネシモはきっと放蕩息子のようにどうにもならなくなっていたと思います。そこでクリスチャンと出会い、パウロを紹介されてパウロから福音を聞きました。伝道は獄中でもできるということです。

B.オネシモは変えられた
1.パウロの元でオネシモはイエス・キリストを信じてクリスチャンになりました。彼は自分がいかに罪人であるかということを示され、主人ピレモンに対しても悔い改めの気持ちが高まったことでしょう。そして、どれくらいの期間かパウロの元で信仰を学び、クリスチャンとして成長していきました。きっと彼はパウロに仕え、神に仕えることをも学び、もう一度ご主人ピレモンに仕えるべきだと反省したと思います。
2.オネシモという名前は「役に立つ」という意味です。そこで、パウロは 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが とその名にふさわしくない者だったというのです。しかし、その彼が 今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています と、その名の通り、役に立つ人、真にオネシモになったのだというわけです。
3.私たちはどうでしょうか? イエス・キリストを信じる前から人間的に立派な人だったという人もいるでしょう。確かにこの世で役に立つ人というのも大事ですが、神にとって役に立つ人はもっとすばらしいのではないでしょうか?

Ⅲ.兄弟オネシモ
A.福音に仕える人
1.役に立つオネシモはパウロにとってもそばにいてくれる方がありがたかったでしょう。しかし、オネシモの主人はパウロではなく、ピレモンです。本来オネシモはピレモンに仕える人でなければなりません。そこで、ピレモンの元に返そうとするのです。
2.オネシモの回心が本物でなければ、ピレモンのもとに帰るようにしたところで彼はまた勝手に逃げるでしょう。しかし、彼は変わっていました。それはパウロが 私は、彼を私のもとにとどめておき、獄中にいる間、福音のためにあなたに代わって私に仕えてもらおうと思いました と言うほどに、オネシモは役に立つ人になっていたからです。
3.オネシモは福音のために役に立つ人になっていたのです。福音に仕える人になったわけです。イエス・キリストに仕える人になったのです。私たちも福音に、イエス・キリストに仕える、福音のために役立つ人になることが目標です。

B.奴隷から兄弟に変化
1.オネシモが主人ピレモンの何かを盗んで逃げたのはもちろん悪い事なのですが、このことも神の摂理的に考えて、パウロは オネシモがしばらくの間あなたから離されたのは、おそらく、あなたが永久に彼を取り戻すためであったのでしょう と言うのです。
2.オネシモは罪を犯した奴隷ですからピレモンに殺されても文句が言えないのです。しかし、オネシモはそれでもピレモンに仕える気持ちを持って帰る決断をしました。だからこそ、パウロは「オネシモをよろしく」とピレモンに頼むのです。
3.「奴隷オネシモ」ではなく、「オネシモ兄弟」と呼べる関係になったのですから。立場としてはオネシモはピレモンの奴隷ですが、クリスチャンとしては「兄弟」なのです。仕える者に変わったのです。

● パウロが「オネシモをよろしく」とピレモンに言ったように、イエス・キリストは私たちのために十字架にかかり、父なる神に私たちのことを赦すことを願ってくださったのです。「○○(私たちの名前)をよろしく」とイエス・キリストは父なる神に言ってくださったのです。

★ 私たちは罪人で、キリストに仕えていませんでしたが、今は仕える者になりました。今度はオネシモを生み出していきたいですね。


喜びと慰めを与える人

2020-01-19 16:18:32 | 礼拝説教
2020/1/19 礼拝説教
【テーマ】  主に仕える者
【説教題】 「喜びと慰めを与える人」
【聖書箇所】 ピレモン 1-7
1:1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンと、
1:2 姉妹アッピア、私たちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ。
1:3 私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
1:4 私は祈るとき、いつもあなたのことを思い、私の神に感謝しています。
1:5 あなたが主イエスに対して抱いていて、すべての聖徒たちにも向けている、愛と信頼について聞いているからです。
1:6 私たちの間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。
1:7 私はあなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました。それは、兄弟よ、あなたによって聖徒たちが安心を得たからです。

○ 先週に続いて同じ箇所ですが、その後半を中心に見ていきましょう。パウロがピレモンにオネシモという奴隷のことでこの手紙を書いていますが、奴隷オネシモの主人ピレモンは犯罪人オネシモを受け入れてくれると信じています。どうしてか? それはこのテキストにあるようなピレモンだからです。

Ⅰ.パウロがピレモンを思って
A.祈り合える関係
1.私たちは色々な方のために祈ります。祈り合える関係というのはすばらしいです。パウロとピレモンの関係もそういう関係です。パウロは彼を思うと感謝の祈りが出てくるのです。
2.ピレモンはパウロをその愛によって励ましてきた人で、パウロは「同労者」と言っています。その彼を思うと感謝が湧いてくるというのは何とも麗しい信仰者としての関係じゃないでしょうか。
3.私も毎日、誰かを思い出す度に短いですが祈ります。歩いている時に表札を見てふと思い出すとその人のためにも祈ります。

B.感謝できる人、心痛む人
1.パウロがピレモンのことで感謝の祈りができるのは、5節の あなたが主イエスに対して抱いていて、すべての聖徒たちにも向けている、愛と信頼について聞いているからです ということで、ピレモンの持つ愛と信頼のためです。愛と信頼を持つ人というのは幸せな人です。ピレモンがそういう人なので、彼を思うとパウロは喜べたのです。
2.しかし、私たちも誰かを思い出した時に心が痛むこともあるでしょう。信仰の自立していない人のために祈る、教会を離れている人のために祈る、信仰を捨てた人のために祈るのは心痛むものです。そのような人のために私たちが祈れるのは自分の愛の力ではなく、聖霊の「愛」によるのです。
3.「サタンは、信仰が最も弱々しい信徒がひざまずく時、震えあがる(Satan trembles when he sees the weakest saint upon their knees.)。」(ウイリアム・クーパー)という有名な言葉があります。私たちの弱いと思える祈りが最も強いのです。この祈りで私たちはお互いに支え合うのです。

Ⅱ.信仰と愛の人になる
A.ピレモンは信仰と愛の人
1.リビングバイブルでは5節を それは、主イエス・キリストに対するあなたの信仰と、すべてのクリスチャンに対するあなたの愛をいつも耳にしているからです としています。ピレモンの信仰がパウロには安心できるものであり、それは他の人にも良い影響を及ぼす信仰であることを認めているのです。また、人に対する愛も同様だということです。
2.投獄されて自由に伝道できないパウロにとって、自分のできない働きをピレモンがしてくれているという安心であり、感謝であるのです。今年、新中野キリスト教会の標語を「互いに仕え合う」としましたが、それは互いに祈り合える関係でもあります。

B.私たちも信仰と愛の人に
1.祈り合えるのが理想ですが、祈ってくれない人のためにも祈るのが「仕える人」だと思います。仕えてくれない人には仕えないというのは愛の姿ではありません。イエス・キリストのなさったように、正に十字架の姿のように、全ての人に仕えるのは私たちの目標でしょう。
2.そして、仕え合う姿は他の人々にも良い影響を与えます。ピレモンやピレモンの家の教会の人々の交わりがますます生き生きとしてくれば近隣の人、未信者にも大きな影響を与えるのです。私たち新中野キリスト教会の愛の交わりは周りにも影響を与えるということです。

Ⅲ.この手紙の本題に入る前に
A.あなたの愛によって
1.パウロはこの手紙の本題に入る前に、ピレモンのことをかなり持ち上げているように見えます。それは、これからお願いする話がとても受け入れがたいことだと思っていたからです。(その本題は次回です)
2.この挨拶の締めくくりに、パウロは 私はあなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました。それは、兄弟よ、あなたによって聖徒たちが安心を得たからです と言います。 喜びと慰め を与えることのできる関係は何とすばらしいかと思うのです。私たちもお互いにそのように言い合える仲になりたいものです。

B.人間的な力だけではない
1.パウロを助け励ましたピレモンは、その当時、貧困や迫害のために苦しみ疲れていたクリスチャン達をも励まし助けてきたといいます。ピレモンがパウロに 喜びと慰め を与えることができたのは、常に人々に 喜びと慰め を与えてきたからです。
2.それはピレモンの人間的な力だけではありません。確かに彼はわが家を教会とするほど大きな家と財産を持ち、それを教会のため、人のために使う、「仕える人」でしたが、その前に彼は聖霊に導かれ、祈りの人、愛の人となってきたからでしょう。
3.つまり、神の力を体験してきたのです。人は「愛を受けることで愛する人になる」と言われるように、ピレモンは神に愛され、 喜びと慰め をいただいてきたのです。だから彼は自分の内なる人が他の人にも 喜びと慰め を発動してきたのです。

★ 私たちもピレモンのように神に仕え、人に仕え、愛の祈りをもって人々に 喜びと慰め を与えるようなクリスチャンに成長したいものです。

囚人パウロから

2020-01-12 16:49:26 | 礼拝説教
2020/1/12 礼拝説教
【テーマ】  主に仕える者
【説教題】 「囚人パウロから」
【聖書箇所】 ピレモン 1-7
1:1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンと、
1:2 姉妹アッピア、私たちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ。
1:3 私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
1:4 私は祈るとき、いつもあなたのことを思い、私の神に感謝しています。
1:5 あなたが主イエスに対して抱いていて、すべての聖徒たちにも向けている、愛と信頼について聞いているからです。
1:6 私たちの間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。
1:7 私はあなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました。それは、兄弟よ、あなたによって聖徒たちが安心を得たからです。

○ 今日から4回「ピレモンへの手紙」から語ります。「ピレモンへの手紙」は、パウロがローマの獄中で書いた「獄中書簡」と呼ばれます。獄中書簡には他にエペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙があります。また、この手紙は短く、章として分けられていません。

Ⅰ.パウロの挨拶
A.ピレモンの家は集会所
1.今日のテキストは、この手紙の最初の挨拶の部分と言えます。差出人は キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから とありますが、基本的にはパウロからです。そして、受取人は 私たちの愛する同労者ピレモンと、姉妹アッピア、私たちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ となっていますが、特にピレモンに対してです。
2.この手紙はイエスの十字架から30年経った頃、紀元61-62年頃に書かれたと言われています。宣教が爆発的に進み、各地に教会ができましたが、同時に福音宣教に対して妨害も多数起こっていました。
3.そんな中、ピレモンというのは自分の家を集会場として提供していたと思われます。アッピアは妻、アルキポが息子という説、あるいは牧師という説があります。彼は裕福で大きな家を持っていたようです。集会場として家を提供し、奴隷をもっていたこと、パウロが来たときには泊めることができたからです。

B.パウロは囚人
1.パウロは自分のことを キリスト・イエスの囚人 と書いています。パウロはよく「使徒パウロから」と書き出していますが、ここでは「囚人」と言います。今、彼は福音宣教のことで投獄されています。ですから、彼はローマの囚人というのではなく、 キリスト・イエスの囚人 という誇りを持っています。
2.パウロのような人物が投獄されることなく宣教できたらどんなに良かっただろうかと思うのです。しかし、神はなぜか投獄されることを許されるのです。私たちの周りにもなぜかこうした不可解なことがあるのではないでしょうか? ところがパウロは決して悲観していないように見えます。

Ⅱ.パウロの感謝
A.思うことは祈り
1. 私は祈るとき、いつもあなたのことを思い との言葉は私たちに祈りについて教えてくれる箇所です。パウロは Ⅰテサロニケ5:17絶えず祈りなさい と教えた人です。祈りが時々であったとは思えません。その彼はいつもピレモンを思ったのです。
2.祈りという時、誰かのために祈るとしても、なかなか祈りの言葉が出てこなくて、「祝福してください」で終わることも多いかと思います。それで良いのだと思います。大事なのは「思う」ことだと思うのです。「思う」には「思い出す」だけでは無く、その人の必要やその人について考えることもあると思います。

B.感謝に満ちた祈り
1.また、パウロは いつもあなたのことを思い、私の神に感謝しています と神への感謝を献げています。ピレモンを思う事で神に感謝するのです。わが家を集会場として提供し、福音宣教に励む一家なので、そのような働きに対してパウロは感謝しています。
2.私たちは祈りというと願いが多いのではないでしょうか。感謝はどのくらいあるでしょうか? 祈りの内容は色々あるのは確かですが、神を讃えることと、神に感謝することが少なくはないでしょうか。

Ⅲ.パウロの同労者
A.イエスに捕らえられたパウロ
1.パウロはイエスを宣べ伝えたがために囚人となってしまいましたが、それは彼にとって決してイヤな言葉ではなかったのです。ローマの囚人になっているとはいうもののその理由はパウロがイエスの囚人、つまりイエスに捕らえられてしまったからだと誇るのです。
2.パウロはユダヤ教の指導者になるはずのエリートでしたが、ダマスコ途上でイエスに出会い、目が見えなくなって正にイエスに捕らえられてしまいました。そこからの彼はイエスを迫害する側から、180度向きを変えてイエスを伝える人になったのです。

B.同労者と戦友
1.ピレモンはパウロの同労者でした。パウロと同様主に仕える人でした。そして、妻アッピアもその夫を支えている人であったでしょう。の家を集会所にするには奥さんの働きが相当のものであったことは考えられることです。
2.また息子かもしれないアルキポ。彼に対してはパウロは「戦友」と言っています。福音宣教を共に戦ってきた人なのです。ピレモン一家はまさに主に仕える一家です。こういう家族が増えることを私たちも祈りたいものです。

● パウロはピレモン一家を思って感謝の祈りをしています。私たちも互いのことを祈っていると思います。私も毎日、皆さんのために祈っています。皆さんを思って感謝しているのです。が、とりなすこと、願うことも多くあります。ある人に関しては信仰のリバイバルを祈っています。心痛めて祈ることも多々あるのです。

★ 私たちは互いに主の囚人として祈り合い、感謝し合いたいものです。それはまず、私たちが主に仕える者であるということからです。

互いに仕え合う

2020-01-05 18:30:59 | 礼拝説教
2020/1/5 礼拝説教
【テーマ】  へりくだり
【説教題】 「互いに仕え合う」
【聖書箇所】 ガラテヤ5:13
5:13 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。

○ 2020年を迎え、私たちも新しい歩みを開始しました。元旦礼拝で出エジプトしたイスラエルが40年の荒野の生活の後、約束の地・カナンに入ったところを見ました。荒野で毎日与えられていたマナはもう降らなくなり、自分たちの手で作物を手に入れる段階に来たという話でした。私たちも次の段階へステップアップです。

Ⅰ.ガラテヤ書が書かれたのは?
A.ガラテヤ教会の問題のため
1.ガラテヤ書はパウロがガラテヤ地方の教会に書き送った手紙でAD53年頃のものと言われています。パウロ達は使徒の働き15章のエルサレム会議で、異邦人で救われた人には 使徒15:28-29 聖霊と私たちは、次の必要なことのほかには、あなたがたに、それ以上のどんな重荷も負わせないことを決めました。 すなわち、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けることです。これらを避けていれば、それで結構です。 と決めたのです。
2.ところがこのガラテヤ地方の教会では何人かのユダヤ人教師達が、モーセの律法を押し付けてきて、救われた異邦人にも割礼などの儀式を要求してきたのです。
3.福音は律法の行いによるのでは無く、信仰によって救われるということです。この根本的なことがゆがめられてしまったので、パウロはこの手紙でもう一度福音を教えています。

B.律法でなく福音に戻るため
1.せっかくイエスの十字架によって、ただ信じるだけで救われるという「信仰による救い」が実現したのに、律法を守ることで救われるというような教えが出回ってきたのです。ステップアップでは無く、ダウンです。
2.キリスト教会も「○○しなければ救われない」というようなことを言って、間違った教えをしてきたこともあります。確かにその方がわかりやすいのです。特に「洗礼を受けなければ救われない」とか「伝道しないと救われない」というものは確かに勘違いしやすいところです。
3.洗礼を受けなくても、イエスを信じれば救われます。しかし、洗礼は受けるべきなのです。また、伝道しなくても救われます。しかし、伝道しなければいけません。

Ⅱ.真の自由とは何か?
A.救われたこと
1.私たちはイエスを信じる信仰によって救われました。救われたということは、完全な自由をいただいたことになります。ところが、「自由」という言葉は大変勘違いされやすい言葉です。
2.自由とは自分勝手、自己中心ではありません。それはむしろ罪です。その罪から救われたのですから、自分勝手、自己中心を捨てて、「キリストに従う」ことに徹するのです。そこで得られるのが真の自由です。パウロは あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。 と言っています。

B.肉の働く機会としないこと
1.パウロは続けて ただ、その自由を肉の働く機会としないで と言うのです。私たちは救われても肉を持ったまま救われています。いつしか、この肉を離れますが、しばらくの間は肉と新しい霊は同居しています。そのために肉の力も働いてしまいます。
2.この肉の力を制御するのは人間にはできないことで、聖霊によってしていただくのです。つまり、聖霊に満たされることで世的な満足ではない、神とともにある満足をいただくのです。

C.イエスのようにあること
1.肉の働きは罪から出ていて、自分勝手、自己中心です。それは今までの世界の歴史にあったように、一大権力を持つ者が、自分に仕えさせることで喜びを感じていたことと同じではないでしょうか。
2.しかし、パウロが言うのはそれとは正反対の「人に仕える」ということでした。それはイエスがなさった十字架の死というへりくだりでした。イエスが人に仕えられたのです。

Ⅲ.霊的な人とは誰か?
A.肉的な人、霊的な人
1.このガラテヤ書でパウロが教えるように、クリスチャンでも肉的な人(神より世を愛する人)もいれば、霊的な人(神と共に生きる人)もいるということです。
2.クリスチャンとしてより良く成長していくためにはもちろん霊的な人になることですが、その一つとして、今日の聖句があるのです。
3.私たちはイエスによって罪から解放された自由人です。ですから解放してくださった神、イエスの喜ばれる生き方を心がけるのです。ただ、それが律法的になるとき、このガラテヤ教会のようなことが起こるのです。

B.聖霊によって克服する
1.ですから、律法的では無く、聖霊による自由で働くのです。それが 愛をもって互いに仕え合いなさい という言葉になってくるのです。互いに仕えることができるのは聖霊の愛によるのです。
2.私たちは人間的な努力では仕え合う力を持っていません。自分が仕える努力をすると、仕えていない人の批判をしたくなるのが肉です。ここの克服が聖霊によるのです。

★ 「互いに仕え合いましょう」と言うのは簡単ですが、実際に仕え合うというのはそう簡単ではありません。肉と霊の戦いが起こるかも知れません。しかし、それを乗り越えることこそ大事なことなのです。


マナは終わった

2020-01-02 10:57:02 | 礼拝説教
2020/1/1 元旦礼拝説教
【テーマ】  新しい事が始まる
【説教題】 「マナは終わった」
【聖書箇所】 ヨシュア5:12
5:12 マナは、彼らがその地の産物を食べた翌日からやみ、イスラエルの子らがマナを得ることはもうなかった。その年、彼らはカナンの地で収穫した物を食べた。

○ あけましておめでとうございます。今年も神様の恵みと祝福が満ちますように! イエス様は昨日も今日もいつまでも変わることがありません。その恵みは豊かです。

Ⅰ.ヨシュアの時代に入った
A.荒野の40年間
1.今日お読みしました箇所は、出エジプトをしたイスラエル人がその不信仰のため40年間荒野での生活を強いられて、遂にその40年が終わり、約束の地へと入っていった時のことです。
2.エジプトで奴隷生活を送ってきたイスラエルは、神様に対する信仰があやふやになっていた人が多かったようです。そこでこの荒野での40年間は神様からの信仰の訓練を受ける場ともなったわけです。

B.マナで養われた40年間
1.荒野の40年間、不思議なことがありました。食べ物や水というのは命に関わる大事なものです。荒野にそんなものは無いのですが、神は岩から水を湧き出させ、天からの「マナ」をいただいて、それを食べて過ごしました。
2.マナは不思議な食べ物で、安息日には探しても見つからないのです。平日6日間、彼らは野でマナを集めることができ、安息日の前日には2日分集めることができたのです。こんな不思議な食べ物を40年間食べ続けて守られてきたイスラエル人です。

C.マナが降らなくなった
1.それが、ヨシュアをリーダーとして代替わりして、荒野の生活が終わり、約束の地に入ると、マナが降らなくなりました。食料集めという新しい仕事が入ってきたというわけです。
2.そして、食料集めだけではなく、イスラエル人がエジプトにいる間にカナンの地に入り込んで偶像礼拝をしている民がたくさん住むようになっていました。この人々からこの地を取り戻し、聖い国を造るという大事業が始まるのです。

Ⅱ.新しい時代に入った
A.訓練と実践
1.私たちは今日から新しい年に入りました。荒野の生活は信仰の訓練の場でもありましたが、いつまでも訓練だけで過ごしていてはなりません。神学校も3年間学んで卒業し、それぞれの現場へと向かいます。訓練には必ずその次の実践が待っているのです。
2.スポーツでは、1回の大会に向けて長い期間のそれも大変な練習を続けて、大会の当日に最高の体調で取り組めるようにと調整します。また、シミュレーションもして最高の成績を出せるようにと臨むのです。

B.何かが始まる
1.私たちの働きも、パウロの言葉を借りるならば Ⅰコリ9:25 競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。 ということでしょう。
2.昨年までが訓練でこれからが実践というものではありませんが、昨年蓄えた力をこの新しい年に発揮し、さらに今年の恵みを受けながら新しい働きへと入っていくのだと思います。

Ⅲ.私たちの新しい土地
A.私の証
1.大変個人的な証ですが、私は子どもの時からあまり体は丈夫で無く、度々高熱を出していました。アトピーでひどい痒さに苦しんでも来ました。中学3年生から検診でひっかかって大学卒業まで運動制限などをされてきました。しかし、教師採用試験の身体検査では全てクリアし、教師になれました。その上、教師生活6年間はほとんど病気らしい病気をしないで過ごしたのです。
そして神学校入学と同時に体を壊してしまったのです。それでも高槻に赴任したときはかなり元気を取り戻していましたが、はーどわーくのために遂に胃潰瘍寸前になって数年がかりで体調を整えていきました。
2.かなり良くなったところで新中野に転任。たった3年で腰の手術、さらに内科的なことで入院、退院後不調続きのために鬱に。ここで急に鬱が癒されてからも、体のあちこちに痛みが起こり、痛みとの格闘、父の死、義父の死、母の介護、義母の死、母の死、振り返ってみると大変なことだらけなのですが、その一つ一つが誰かの苦しみを感じるものとなったのです。今から何年前だったでしょうか? 私の体が痛むと同じ痛みを体験している人がいて、その方の癒しを祈ると癒されるという体験が次々ありました。その後、私の痛みも消えたのです。
3.私は高槻で牧師をしていた期間が17年でした。そして新中野キリスト教会に来てこの3月末で17年になります。期間としては同じですが、色々な違いがあったのは当然です。高槻にいたときは私は若かったです。そして、私は高槻にいた時、よく幻を見せていただきました。それによって励まされて伝道・牧会をしてきました。が、新中野に来てからはこの17年間、一度も幻が与えられないのです。

B.新しい土地に入る
1.エジプトを出て、約束の地に入ったイスラエルは40年間いただいてきたマナを見ることができなくなったのです。そして、自分たちで食料を確保しなければなりませんでした。楽では無いけれど、奴隷でも無く、約束の地での生活に入った喜びがあります。
2.私たち新中野キリスト教会は、今年という新たな地に入っています。昨年とは同じではありません。何が起こるのでしょうか? 神からいつものように与えられていたマナが降らなくなるかもしれません。自分の手で収穫しなければならないということに直面するかもしれません。しかし、そこに神の恵みを発見して歩んで行くのです。
3.今まで与えられていただけの信仰生活から与える信仰生活を神様は望んでおられるように思います。

● 多くの青年は学生時代から社会人になった時、そのギャップにしばらく悩みます。長期休暇も無く、学生時代の楽しさも無く、仕事に追い回されて苦しさを感じる人もいます。親に養ってもらっていた楽なところから、自分の手で稼いで自らの人生設計をしていかねばならないのです。しかし、それは恵みです。

★ 新しい年、私たちは その年、彼らはカナンの地で収穫した物を食べた。 のように、大変かもしれないけれど新しい地の恵みを体験させていただけるのだと思います。今年も一緒に収穫していこうではありませんか。