バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

接ぎ木された枝

2015-09-27 17:51:03 | 礼拝説教
2015/9/27礼拝説教
【テーマ】  神につながって生きる
【説教題】 「接ぎ木された枝」
【聖書箇所】 ローマ11:17-24
11:17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、
11:18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
11:19 枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。
11:20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。
11:21 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
11:22 見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。
11:23 彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。
11:24 もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。

○ 前にテレビで、一本の木にレモンや夏みかんなど7種類の柑橘類の実がなるミカンの木が紹介されていました。毎年違う枝を接ぎ木したのだそうです。すると色々な実が付いたのです。もちろん、種(しゅ)が同じなのでできたのだそうです。今日のテキストにはオリーブの接ぎ木の話が出て来ます。

Ⅰ.あわれみで接いでいただいた
A.接ぎ木された異邦人の枝
1. 11:17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ というのは、ユダヤ人が神様に対して頑ななので折られたということ、そして野生種である「異邦人」がイエス様を信じて、その信仰の系譜の中に接ぎ木されたということです。
2.選ばれた特別なオリーブの木に野生種の枯れそうなオリーブの枝が接ぎ木されると、本体がしっかりしているので、どんどん栄養をもらって成長していくというわけです。

B.誇ってはならない
1. 11:18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。 とあるように、いくら異邦人クリスチャンが成長しても誇ってはならないのです。接ぎ木された枝というのはもとは根が無いのですから、放って置かれたら枯れるしか無かったのです。
2.それを接いでくださる方があったから生きる事ができたのです。私たちは枯れかけていた枝に過ぎません。そのままだと枯れたのです。地獄だったのです。ところが、神様はイエス様に私たちを接いでくださったのです。
3.接いでくださる方と幹があることで死にかけた枝は接いでいただくことで生きるのです。私たちは人間ですので、私たちの意志も無視されていません。「接いでください」という気持が神様の心を動かし、イエス様に接いでくださるのです。誇れるようなものではありません。神様のあわれみのお陰で助けていただいたのです。

Ⅱ.つながっていれば実を結ぶ
A.台木は完璧
1.ユダヤ人は完璧な台木から直接育ってきた直系の枝です。ヨハネの福音書15章「ぶどうの木の章」を思い起こします。 15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 と、イエス様がぶどうの台木です。
2.刈り込みをされる話を厳しく受け止めますと、神様に対して不従順となってしまうと切り取られてしまうのです。それは決して実を結ぶことが無いということです。
3.しかし、接ぎ木はすばらしいです。枯れないばかりかいずれ実を結びます。接ぎ木をするとき、接いだところを離れないように縛っておくのですが、しばらく経ってそのヒモを外すと台木と一体化しているのを見るのです。

B.枝はつながっていればよい
1.異邦人は離れていた枝に過ぎません。ヨハネ15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 とあるように、枝だけでは実をつけられないのです。イエス様に密着した人生こそが実を結ぶ人生なのです。
2.実とは何でしょうか? 自分の財産、経歴、栄誉、そんなものではありません。神様の栄光です。その栄光のひとつに、自分の家族を救いに導くというのがあるのです。家族が救われるのは「実」です。
3. ヨハネ12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 という有名な御言葉がありますが、その地に落ちた一粒の麦はイエス様ですが、イエス様に倣う者として、私たち死ぬまでに自分の家族や親族を救いに導くという「実」を結びたいものです。

Ⅲ.福音はユダヤ人、異邦人を通して広がる
A.ユダヤ人が悔い改めれば実を結ぶ
1.よくない枝が切り取られるというのが、不信仰になったユダヤ人であるとすれば、ユダヤ人の失敗は私たち異邦人を接ぎ木していただくために必要だったとも言えるのです。私たちは高ぶってはいけないですね。
2. 11:23 彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。 11:24 もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。 とあるように、もともと台木にあった枝・ユダヤ人が悔い改めれば、本来の台木に最もふさわしいのですから、しっかり接がれて、実を結ぶのです。

B.イエス様に繋がり続ける人生を送ろう
1.また、接ぎ木をするためには台木は傷をつけられるのです。ふとイエス様の十字架を思い出しました。イエス様が傷つけられなかったら、私たちは救われなかったのです。台木が傷つけられて枝がつけられるように、私たちはイエス様の十字架の傷のお陰でいに繋げていただいたのです。
2.接いだ部分がしばらくすると台木と枝が一体化するように、私たちもイエス様と一体化します。一体化しなければならないのです。一体化しないのは枯れるのです。しかし、繋がり続けていれば必ず実をつけるのです。

● 最初に7種類の柑橘類がなる木を話しましたが、台木から養分をもらいますが、枝特有の実をつけるのです。私たちもイエス様につながっているということはイエス様から養分をいただいて、自分の枝に用意された実をつけるのです。

★ イエス様につながって実を結ぶ人生を送らせていただこうではありませんか。

つまずいても大丈夫!

2015-09-20 16:56:52 | 礼拝説教
2015/9/20礼拝説教
【テーマ】  偏り見ない神様
【説教題】 「つまずいても大丈夫!」
【聖書箇所】 ローマ11:11-16
 11:11 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
11:12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
11:13 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。
11:14 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
11:15 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。
11:16 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。

○ 「つまずいても たおれても たたかれても はなれられない あなたがいちばん 十字架がほこり どこまでもついてゆく キリストいのち」というノアの賛美があります。この賛美はどんなことがあってもイエス様に着いて行くという賛美ですが、今日のテキストにはユダヤ人がイエス様につまずいたことが書かれています。つまずくというのは大きな壁にぶつかってそこから先に行けないというようなものでは無く、道に頭を出している石にけつまずくようなことです。これは体勢が立て直せるということではないでしょうか。

Ⅰ.つまずいても大丈夫
A.ユダヤ人は何につまずいたのか?
1.ユダヤ人はイエス様の何につまずいたのでしょうか? それはイエス様が御自分を聖書に預言されたメシヤだと言って登場されたのに、ローマ帝国から独立するように王としての働きをされなかったことが挙げられます。
2.弟子たちにとっては、イエス様がメシヤであって、みすみす字架にかけられて殺されるような方では無いと思っていたのに、いとも簡単に十字架刑にされたことがつまずきでした。
3.ユダヤの指導者たちはどうだったでしょうか? イエス様の教えがあまりに自分たちのものと違うため、つまずく以前にイエス様を亡き者としようとしたのです。イエス様が御自分を神と等しくされた辺りは、ユダヤ人にとっては許せないほどの神への冒涜と捉えたことでしょう。

B.私たちはつまずいたのか?
1.私たちはイエス様の何かにつまずいたでしょうか? つまずきは人それぞれでしょう。私はつまずいたというより、クリスチャンになったのに、神がいるのかどうかわからなくなったということがあります。神が私と共にいてくださるという実感が無い、祈っても病気が治らなくて、辛くて大変な状態が続いたりしたからです。
2.多くの場合、イエス様につまずくというより、クリスチャンにつまずくのですね。「あの人はクリスチャンなのに、愛が無い」等々と。クリスチャンといえども同じ罪人なんですけどね。
3.つまずいてもいいのです。倒れていたらダメなのです。立ち上がればいいのです。私は神がわからなくなって、教会もクリスイチャンも辞めようと思ったのですが、真剣に祈る時があって、その日に変わってしまったのです。だから、クリスチャンとしての自分が今もあります。

Ⅱ.ユダヤ人の回復のために
A.ユダヤ人がつまずいたので
1.パウロはユダヤ人がイエス様に対してつまずいた事が無駄だったとは言わないのです。それによって異邦人に救いが及んだからです。
2.異邦人はつまずく以前にすでに神がわからなくなっていました。そこで、勝手に神を考え出していたのです。異邦人は自分勝手な神を作り出したわけです。
3.しかし、異邦人はわからなかっただけなので、イエス様による救いを知ると一気に救われていったのです。まさにユダヤ人のように律法を知っているとか、行うとかでは無く、信じるだけで救われるということが実現していったのです。

B.ねたみから神様を求める
1.ユダヤ人にしてみれば変な話です。ユダヤ人は良い民族だから神に選ばれて救いの道が用意されたと思い込んでいたのに、その自分たちがはじかれ、何もしない、下劣な異邦人が神様の恵みをいただいているのですから。
2.当然そこにねたみが起こるのです。「私たちの神だったはずのお方が、あんな下劣極まりない異邦人を愛するなんて!」というわけです。妬んだ結果、ユダヤ人もイエス様を求める事になるのです。すると救われるのです。イエス様を求めれば救われるのです。

C.ユダヤ人は回復できる
1.神様がユダヤ人を捨てたのではありません。ユダヤ人が神様のお心を理解せず、勝手に自分たちで律法を作っていってしまい、言うならば新たな宗教を生み出したわけです。
2.その間違いに気付き、本来の神様のみこころに沿う生き方を求める事でユダヤ人も回復するのです。

Ⅲ.つまずくことは問題では無い
A.イエス様は異邦人を愛された
1.イエス様はユダヤ人のためにお出でになって、ユダヤ人のところに救いを広めに行かれました。ところがユダヤ人はなかなかイエス様を受け入れません。そんな中、マタイ8章に出てくる百人隊長が自分のしもべの癒しを願ってイエス様のところに来ますと、イエス様は百人隊長の信仰を見て、しもべを癒されました。
2.また、マタイ15章に出てくるカナン人の母親は娘の癒しを求めて必死でイエス様に願うのです。やはり、イエス様は彼女の信仰を見て、娘を癒されました。
3.イエス様はすでに異邦人を顧みておられました。その頃からユダヤ人は、異邦人や、罪人と呼ばれる人達のところに行かれるイエス様につまずいていたのです。

B.イエス様はユダヤ人を愛しておられた
1.ユダヤ人は選民意識、エリート意識のために、イエス様を信じるだけで救われるということを受け止めようとしませんでした。しかし、現実に異邦人にすばらしい救いの出来事が起こり続けると彼らにねたみが起こり、自分たちこそ救いや恵みを受けるべきだと求め出すのです。
2.イエス様は本当に神様です。イエス様は私たちの救い主です。ですからつまずいても、求めればしっかりイエス様の手を握ることになります。
3. 11:16 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。 とあるように、もともとアブラハム、イサク、ヤコブに働かれた神は信仰による義を示しておられ、彼らユダヤ人を通して異邦人を救おうとされたのです。その神様の救いの根本は変わりません。

● 今日のテキストから思い出すのは、イエス様のたとえ話にある「放蕩息子とその兄」ではないでしょうか。放蕩の限りを尽くしてボロボロで帰ってきた弟息子を父親は大喜びで迎え入れましたが、兄はそれを見て妬みました。しかし、父親の兄に対する愛はずっと変わっていなかったのです。

★ 神様はユダヤ人を愛しています。つまずいても愛しています。決してユダヤ人を捨てたりなさいませんでした。むしろ、ユダヤ人がつまずいたことで異邦人に福音が伝わるようになさったのは、神様が異邦人も愛しておられたことをはっきりと語っています。神様は偏り見ない方です。


イエスに会った老人達

2015-09-13 18:32:18 | 礼拝説教
2015/9/13礼拝説教
【テーマ】  老人を祝福する神
【説教題】 「イエスに会った老人達」
【聖書箇所】 ルカ2:25-38
  2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
2:26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
2:27 彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。
2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
2:33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」
2:36 また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、
2:37 その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。
2:38 ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。

○ 今日はシルバー祝福式の礼拝です。どこの国かのことわざに「一人の年寄りが亡くなる事は、図書館が一つ焼けるに等しい損失である」というのがあります。ただ長く生きたのでは無いのです。

Ⅰ.シメオン
A.正しい、敬虔な老人
1.シメオンという老人は、若いときから正しく、敬虔だったかどうかはわかりません。若いというのは色々無謀なことをしたり、血の気が多かったりするものです。彼も普通の人間ですから、失敗などもあったことでしょう。しかし、そうしたことも真摯に受け止めて、シメオンは知識を蓄え、歳をとっていったのではないでしょうか。
2.歳をとって犯罪を犯す人、人に迷惑をかける人、ますます信仰に対して頑固になる人もあります。しかし、柔和になったり、見識が広くなる人の方も多いのではないでしょうか。シメオンは歳をとるにつれてますます神に対して正しく生きたと思われます。歳をとるにつれてどう変わるか、大きいことだと思います。

B.聖霊のお告げを受けた老人
1.シメオンのすばらしいところは人目に正しい、敬虔な人というだけではなく、神の目にも正しいことです。 聖霊が彼の上にとどまっておられた とあるからです。ペンテコステより前の時代、つまり聖霊の働きが顕著でなかった時代に、聖書で 聖霊が彼の上にとどまっておられた と伝える人物なのです。
2.彼は 主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた のです。当時の人々は救い主を待ち望んでいました。誰だってキリストに会いたかったのです。それがシメオンはできると言われたのですからすばらしいことです。

C.神をほめたたえた老人
1.当然かも知れませんが、シメオンは神様をほめたたえたのです。救い主イエス様を見て抱っこしたからほめたたえたのも事実ですが、もともと彼は神をほめたたえて生きる人だったのです。
2.色々な人、老人がいますが、幸せな人というのは神様をほめたたえて生きる人です。

Ⅱ.アンナ
A.神の言葉を語る老人
1.アンナは84歳です。一般的に幸せな人生を送ったのでしょうか? 何も詳しいことはわかりませんが、彼女は「女預言者」と言われています。今では「女性教職(牧師)」と言うのかも知れません。彼女は夫と7年間過ごし、その後やもめになったので、長い間一人暮らしとなったのかも知れません。そうすると結構大変な人生を送ったのではないでしょうか。
2.しかし、彼女は「女預言者」です。預言者というのは「予言者」と違います。勝手にこれから起こることを語る「予め」語る人では無く、神の言葉を預かる「預言者」なのです。つまり、彼女はユタとか占い師のような人ではありません。聖書を語る人です。聖書を語る人は幸せな人です。

B.宮を離れない老人
1.アンナは宮を離れなかったとあります。宮と教会はもちろん同一ではありません。しかし、神を礼拝する場所としては同じように見ることができます。宮を離れないということは日々神を礼拝したということでしょう。
2.仕事の無くなった老人が色々なところに集まって老後を楽しんでおられます。良いことだと思いますが、かつては公園がゲートボールで占拠され、子どもたちが遊べなくなったという話も多々ありました。あるいはインターネットで株をやって儲けようとしたり、パチンコ、競馬等々に行く人もあるようです。しかし、日々神を礼拝する老後を送れる人は何と幸いでしょうか。

C.祈りを絶やさない老人
1.しかも、アンナは 夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた と聖書に紹介される人なのです。お葬式で故人のことを紹介するとき、このような紹介をされる人というのはうらやましくさえ感じます。
2.断食も基本的に祈りですので、彼女は祈りに徹した老後を過ごしたということでしょう。だからこそ「女預言者」たり得たのです。彼女は祈り待ち望んだイエス様を抱いて喜び、預言者として「キリスト」を待ち望んでいた人々に語ったのですから、彼女の晩年は最高だったと思います。

Ⅲ.弓山喜代馬先生と吉野道子先生
A.弓山喜代馬先生
1.シメオンとアンナを紹介しましたが、この二人は幸せな人でした。彼らはイエス様と直に出会って、幼子イエスを抱っこできたという点でも幸せな人でしたが、祈り待ち望んだことの実現を見たのです。
2.弓山喜代馬先生は「日本のリバイバルを見るまでは死ねない」と言っておられました。シメオンのように「日本のリバイバルを見るまでは、決して死なない」と神から言われていたなら、先生はまだ生きておられたかも知れません。弓山喜代馬先生は日本のリバイバルを祈っておられたのです。つまり、各教会のため、牧師、信徒のために祈っておられたということです。
3.ジョージ・ミューラーという伝道者は何十年も祈った友人がいましたが、友人の救いを見ずに死にました。しかし、彼の死後、友人は救われるのです。ジョージ・ミューラーは幸せな人生を送ったわけです。

B.吉野道子先生
1.吉野道子先生は73歳で召されましたので、老人と言うには若かったと思うのですが、肺高血圧症を患い、心臓も悪くされていました。心不全で今年2月に召された私の恩師です。
2.道子先生は全盲の吉野清一郎先生と結婚され、その生涯は清一郎先生の手足となっての文字通り献身的な生き方でした。清一郎先生の鍼の治療院を手伝いながら、伝道されてきました。特に道子先生は子どもたちに重荷をもっておられ、小学校での読み聞かせのボランティアをされていました。また、老人にも重荷を持ち、老人ホームに定期的に童謡を歌いに行っておられました。
3.派手な活動ではなかったですが、まさに 宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた 先生でした。亡くなられる数日前に2回もお電話をいただき、遺言のように言われたのは、「私の葬儀は家族と近所の子どもたちだけに来てもらいたいの」でした。事実、葬儀はご自宅で行われ、先生のことを慕う近所の子どもたちが大勢来たそうです。

C.神様は老人を祝福される
1.弓山喜代馬先生はリバイバルは見ることができなかったかも知れませんが、信仰によって見ておられたと思います。
2.吉野道子先生は本当に大変な生涯だったと思いますが、ご自身の3人の子どもさんと近所の子どもたちを抱きしめてこられたのは実に幸せな方だったと思います。
3.イエス様と出会う人生こそ本当に幸いなのです。他にありません。

★ あなたの老後を幸せにするのはイエス様です。イエス様を心に迎えてください。