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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

惜しげなく献げる心

2020-02-23 16:39:58 | 礼拝説教
2020/2/23 礼拝説教
【テーマ】  イエスを愛する
【説教題】 「惜しげなく献げる心」
【聖書箇所】 マルコ14:1-9
14:1 過越の祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていた。祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた。
14:2 彼らは、「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない」と話していた。
14:3 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。
14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。
14:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして、彼女を厳しく責めた。
14:6 すると、イエスは言われた。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。
14:7 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。
14:8 彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。
14:9 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

○ 今週水曜日から受難節(レント)が始まります。これは4世紀頃の教会が定めた期間で四旬節(40日)とも呼ばれます。復活日(イースター)の前の6主日を除く40日なので、実質46日になります。今年は今週2月26日(水)からです。この最初の水曜日を「灰の水曜日」と呼び、キリストの受難を覚えて頭に灰をかぶったことに由来しているそうです。さて、そういう期間ですので、説教も十字架と復活に向かったテキストを選んでいます。

Ⅰ.愛の無い世界
A.二日後とは?
1.ユダヤ人にとってとても大事な祭が迫ってきました。 過越の祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていた。 と。二日後というと私たち日本人から考えると「明後日」となるのですが、ユダヤではその日を一日目と数えるので、実質「明日」となります。
2.イエスの復活が十字架から「三日目」とういうことでよく悩む方がいますが、これも同じです。金曜日がすでに一日目なので三日目は日曜日なのです。しかも、私たちは夜中の12時から新しい日が始まりますが、ユダヤでは夕方から新しい日が始まるのでこういう感覚の違いが私たちを悩ませるものとなっています。

B.殺害計画
1.その祭の日にはあちこちからユダヤ人が集まってきますので、エルサレム周辺には200万人近く集まったとさえ言われています。渋谷のハロウィーンがピーク時100万人と言われますが、これ以上の人が集まるので、ユダヤ当局も、ローマ側も厳重体制に入ったそうです。
2.そんな時ですので、ユダヤの指導者達はイエスの殺害計画をこの祭りの後にしようと考えていました。しかし、話は急展開し、この後イエスを捕まえて一気に十字架刑に持っていくことになってしまいました。
3.こんな人達のために、この愛の無い世界のために、イエスは十字架にかかって死のうとされていたのです。その愛もわからず、人々はイエスを着々と十字架に向かわせました。

Ⅱ.愛は気づく
A.弟子とマリヤの大きな違い
1.そんなユダヤ当局が着々とイエス殺害の計画を進めていた時、多くの弟子も離れていきました。12弟子と言われる弟子の中からも裏切りが発生したような大変な時に、今日のテキストに出てくる女性が登場します。
2.イエスはベタニアのシモンの家におられました。そこに登場した女性です。ヨハネの福音書によれば、ベタニア村のマリヤです。彼女は高価なナルドの香油を捧げましたが、イエスの死をわかってしたことだと思われます。彼女は自分の持っているものでイエスの葬りに一番ふさわしいものを献げました。しかし、弟子達は 何のために、香油をこんなに無駄にしたのか と、その行為を無駄なことと言うのです。この行為に対して捉え方がどうして違うのでしょうか? それは愛で気づくか、世的な思いで気づくかの違いでしょう。
3.弟子達はイエスが語っておられる死の予告を知的に受け止められない、あるいは自分の価値基準に合わないということでまともに向かい合いませんでした。しかし、マリヤはそうしたものを越えて、イエスの死に気付き、自分のできる最大のことをしたのです。

B.最大のささげ物
1.イエスがこのマリヤからのささげ物を喜んで受けられたのはそれが高価なものだったからでしょうか? イエスは私たちに高価なものを献げるように言われているでしょうか?
2.確かに高価なものを献げるように言われています。それは世のものではなく、私たち自身を献げることを願っておられるのです。私たちは最高に高価なものだからです。 イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。 という言葉は大変有名です。

Ⅲ.愛は献げる
A.自分を献げる
1.マリヤが献げたナルドの香油はとても高価なもので、人はそれをお金に替えて価値を判断しようとします。彼女だってそのナルドの香油の高価なことはわかっていました。だからこそその香油を献げたのです。それは「香油」というよりも、「自分」を献げたということなのです。
2.しかし、イエスご自身が自分を献げるという世界史上最大のささげ物がなされていることを見失うわけにはいきません。マリヤのささげ物もイエスの命には当然かないません。が、彼女もそのナルドの香油をもって自分を献げたのです。
3. 14:9 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。 とイエスが言われるのは、彼女の価値判断がお金とか世ではなく、「愛」だからです。それはイエスの行動と同じです。イエスは愛で働かれたからです。

B.最高の礼拝を献げる
1.私たちは今こうして礼拝しています。人によってはここに来るまで本当にきつい思いをして来られています。体のきつさ、心のきつさ、あるいは経済的なきつさなどを抱えて来られます。ここに来て献金するまでにもうすでに多くを献げておられるのです。そうした方々によって礼拝は守られていますから、自ずと最高の礼拝となっていくのです。
2.イエスがご自分を十字架にかけられたのは、私たちを愛する愛からです。そのため、最高の場所である天国からこの低き地に降りて来られました。イエスが低きに降って来られた、今ここにも来られているのです。だから最高の礼拝になるのです。あのマリヤのようにイエスの心を感じながら礼拝しようではないですか。

★ 私たちのナルドの香油は何でしょうか? 高価なものを献げればイエスが喜ばれるわけではないのはおわかりでしょう。私たち自身を献げる礼拝こそ、主に仕える最高の礼拝なのです。互いに最高の礼拝を献げようではありませんか。

 

イエスの模範に倣って

2020-02-09 16:26:53 | 礼拝説教
2020/2/9 礼拝説教
【テーマ】  仕える者になる
【説教題】 「イエスの模範に倣って」
【聖書箇所】 ヨハネ13:4-15
13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
13:6 こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
13:12 イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。
13:13 あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。
13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。
13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

○ 今日お読みしましたこの「洗足」、足を洗うというと何か悪い事をやめる話のように聞こえますが、ここはそういう話ではありません。新中野キリスト教会では「洗足」の儀式をしていませんが、している教会があります。それは 13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。 をイエスの命令として受け止めておられるなどの理由からです。今日は、この「洗足」を儀式としてではなく、イエスの願われた「仕える姿」として受けとめて見ていきます。

Ⅰ.イエスが弟子達の足を洗った
A.イエスの不思議な行動
1. イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 と、突然イエスは何かを始められたようです。弟子達にはイエスがどうなさったのかと疑問に思ったことでしょう。
2.次に たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。 と、思いがけないことが始まりました。普通、このように足を洗うのはしもべの仕事であったからです。
3.しかし、ある意味最後の晩餐は秘密裏に行われた食事の時で、集まった場所にしもべはいなかったと思われます。かといって弟子の誰も足を洗ってあげようとせず、食事の席に着いたと思われます。そこでイエスが洗い出したのですからみんなも驚きです。

B.足を洗う意味
1.この時代、友人宅に食事に出かける時には、招かれた人はまず自分の家で水浴してきれいにするのです。これは宗教的な意味合いが当然あります。友人宅に行くと、その途中で足は土埃などで汚れます。宗教的にも「汚れる」わけです。ですから、相手の家に着くと、その家のしもべが足を洗ってくれます。
2.日本で言う「足を洗う」という語源がここにあるという人もあるらしいですが、どうやらこれは仏教から出た言葉のようです。裸足で修業に出てあちこち歩いた僧は寺に帰り、泥の付いた足を洗います。それがまた宗教的意味合いをもっていて、泥足を洗うことで俗世の煩悩を洗いきよめるという意味合いをもっていたのです。
3.ここに使われている「水浴」の原語ルーオーも「洗う」で、新共同訳では「既に体を洗った者は」と訳されています。そして「足を洗う」の「洗う」はニプトーで、違いがあります。前者は「体全体を洗う」という意味で、後者は「体の一部を洗う」という意味です。

Ⅱ.拒んでいたペテロも
A.意味のわからない弟子達
1.弟子達の足を洗うイエスが シモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」 と。ペテロの前に足を洗ってもらった弟子がいたのですが、ペテロは最後まで拒んでいたのかも知れません。
2.ペテロは 「決して私の足を洗わないでください。」 と言っています。「先生に足を洗わせるなんてとてもできない」と思ったのです。反対に自分の方がイエスの足を洗いたいと、まさにイエスのしもべになろうとしたのです。イエスが死ぬと言われるけれど、ペテロは自分がイエスの身代わりになって死ぬ覚悟でいたのです。
3.しかし、ペテロにはこのイエスのなさっていることの意味がわかっていませんでした。ですからイエスは 「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」 と言われました。その意味とはイエスが全ての人のしもべ(身代わり)となって十字架で死ぬことを表しているということです。

B.イエスに洗っていただく
1.イエスはペテロに 「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」 と言われました。イエスと関係がなくなったのでは困るとばかり、今度は 「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」 と言うのですから、ペテロはおもしろい人ですね。
2.イエスに洗ってもらっては困るというのは、「私はイエス無しで救いを完成させることができると」言っているようなものなのです。十字架無しでも自分は大丈夫という人はいません。ここでイエスは、十字架による救いをこの洗足で示されたのです。

Ⅲ.イエスを模範として生きる
A.イエスのようにしもべとして生きる
1.洗足が十字架を表しているのですが、イエスはこうも言われました。 13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません と。この仕事は確かにしもべの仕事ですから弟子達もお互いへりくだって他の人に仕えることを示しているわけです。
2. 13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです と、イエスの行動は私たちの模範なのです。「だから私たちも足を洗い合おう」ということではなく、「互いに仕え合う」ということなのです。

B.イエスのようにきよく生きる
1.私たちを真にきよめることができるのはイエスの血ですがそれは一度で完了しました。しかし、しもべが足を洗うのがずっと続くように、私たちは洗い続ける必要があります。なぜなら私たちは罪を犯し続ける者だからです。
2.なぜ、教会があるのでしょうか? 救われるためだけなら、イエスを信じるだけで完成します。しかし、私たちはこの地上で聖化されていく必要があります。その働きをするのが御言葉であり、聖霊です。それを励ますのが教会です。そして、模範者イエスのように生きていけるのです。

★ イエスに倣って生きるのがクリスチャンですが、十字架にかかることはできません。その十字架による救いを受けた者としてお互いに仕え合うのです。


私が償います

2020-02-02 18:41:17 | 礼拝説教
2020/2/2 礼拝説教
【テーマ】  主に仕える者
【説教題】 「私が償います」
【聖書箇所】 ピレモン 17-25
1:17 ですから、あなたが私を仲間の者だと思うなら、私を迎えるようにオネシモを迎えてください。
1:18 もし彼があなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください。
1:19 私パウロが自分の手で、「私が償います」と書いています。あなたが、あなた自身のことで私にもっと負債があることは、言わないことにします。
1:20 そうです、兄弟よ。私は主にあって、あなたの厚意にあずかりたいのです。私をキリストにあって安心させてください。
1:21 私はあなたの従順を確信して書いています。私が言う以上のことまで、あなたはしてくださると、分かっています。
1:22 同時に、私の宿も用意しておいてください。あなたがたの祈りによって、私はあなたがたのもとに行くことが許されると期待しているからです。
1:23 キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています。
1:24 私の同労者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカがよろしくと言っています。
1:25 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。

○ 今日はウエルカムサンデーです。ピレモンへの手紙を4回に分けて語っていますが、今日はその最後です。そこで、少しこの手紙の内容を説明して今日の本題に入ることにします。

Ⅰ.ピレモンへの手紙のいきさつ
A.ピレモンとオネシモ
1.パウロの同労者であったピレモンは裕福な人で自分の家を教会として提供していました。また奴隷を使っていましたが、その奴隷のオネシモが主人のものを盗んで逃亡しました。そしてどういうわけか彼はパウロの元に行き、悔い改めてイエスを信じてクリスチャンになったのです。
2.オネシモという名前は「役に立つ」という意味で、パウロは 1:11 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています。 と言っています。役に立つ人となったオネシモは獄中のパウロにとって良い働きをしてくれたようです。

B.オネシモをよろしく
1.ところが奴隷というのは物扱いされていましたから、主人の物を盗むなどすれば殺されても仕方のないことでした。また、パウロにすればピレモンのもの・奴隷であるオネシモをピレモンの了解無しに使うのもまた犯罪です。
2.そこで、パウロはオネシモをご主人ピレモンの元に返すことにするのです。しかし、ピレモンがその盗みのことでオネシモを殺してしまったのでは困ります。パウロはオネシモを温かく迎え入れて欲しいと願ってこのとりなしの手紙を書いているのです。

Ⅱ.パウロがオネシモをとりなす
A.パウロはピレモンを信じている
1.パウロは 1:17 ですから、あなたが私を仲間の者だと思うなら、私を迎えるようにオネシモを迎えてください。 と言って、ピレモンがオネシモを受け入れてくれることを信じています。そうでなければオネシモをピレモンの元に返すことはできなかったでしょう。
2.自分がついて行ってピレモンに事情を説明できるのなら簡単なのですが、パウロは投獄の身ですから付き添えないわけです。もちろん前もって電話をするなんていうこともできないわけですから、オネシモ自身に持たせた手紙とオネシモ自身のへりくだった姿を見せるしかないわけです。

B.パウロはオネシモを信じている
1.パウロはピレモンがオネシモを受け入れてくれることを信じてオネシモを送り出します。もしオネシモの悔い改めが不確かで、救いが不確かであったなら、オネシモはまた逃げたかも知れません。しかし、彼は逃げず、命がけで主人ピレモンの元に返りました。帰ったからこそこのパウロの手紙は今も残っているわけです。
2.パウロがオネシモを信じることができたのは、オネシモが自分の罪をしっかり悔い改めたからです。つまり、オネシモの信仰告白をパウロもしっかり受け止めたからです。

Ⅲ.イエスが私たちをとりなしておられる
A.神に受け入れられた私たち
1.このピレモンとパウロとオネシモの関係は、父なる神とイエスと私たちの関係に似ています。私たちもオネシモと同じ罪人でした。オネシモがそのままでピレモンのところに帰ったなら即刻殺されたのです。私たち罪人もそのままで神の元に帰るなら即刻殺される運命でした。
2.ところが、パウロによってオネシモが救われ、そのとりなしによってピレモンの元に返ることができたように、私たちもイエスを信じて変えられ、イエスのとりなしによって父なる神に受け入れていただけたのです。

B.イエスの十字架が赦しのカギ
1.パウロは 1:18 もし彼があなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください。1:19 私パウロが自分の手で、「私が償います」と書いています。 と言っています。オネシモの負債をその身に背負うと言っているパウロの言葉はイエスの十字架上の ルカ23:34「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」 と同じ意味合いをもっています。イエスが十字架で身代わりになるので、彼らをお赦しくださいということです。
2.この十字架上のイエスの祈りは私たちにも有効なのです。オネシモのためにパウロが言った言葉は、私たちに言われたイエスの言葉なのです。私たちは何もお返しできないのに赦されたのです。いや、赦されたばかりかオネシモを「奴隷」ではなく「兄弟」として受け入れているように、私たちも「神の子」として受け入れていただいているのです。

★ パウロが言った 「私が償います」 はイエスが私たちに言われたことでもあります。これによって救われた私たち、今度は私たちが誰かに対して 「私が償います」 と言うべきではないでしょうか。それはとりなしの祈りではないでしょうか。