バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

よろしく!

2016-10-30 18:45:59 | 礼拝説教
2016/10/30礼拝説教
【テーマ】  主のために働く人々
【説教題】 「よろしく!」
【聖書箇所】 ローマ16:1-16
  16:1 ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。
16:2 どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。
  16:3 キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。
16:4 この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。
16:5 またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。
16:6 あなたがたのために非常に労苦したマリヤによろしく。
16:7 私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。
16:8 主にあって私の愛するアムプリアトによろしく。
16:9 キリストにあって私たちの同労者であるウルバノと、私の愛するスタキスとによろしく。
16:10 キリストにあって練達したアペレによろしく。アリストブロの家の人たちによろしく。
16:11 私の同国人ヘロデオンによろしく。ナルキソの家の主にある人たちによろしく。
16:12 主にあって労している、ツルパナとツルポサによろしく。主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。
16:13 主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。
16:14 アスンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマスおよびその人たちといっしょにいる兄弟たちによろしく。
16:15 フィロロゴとユリヤ、ネレオとその姉妹、オルンパおよびその人たちといっしょにいるすべての聖徒たちによろしく。
16:16 あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。キリストの教会はみな、あなたがたによろしくと言っています。

○ いよいよローマ人への手紙も最後の章となりました。 基本的に15章で終わっているので、この16章は結構長い挨拶になっています。 皆さんは手紙を書き終えたら、最後に何を書かれますか? 「在主」「平安」などの前に、「ご健康をお祈りしております」「御教会の祝福を祈っています」などの他に、「●●さんによろしくお伝えください」といったような事を書くのではないでしょうか。

Ⅰ.たくさんの同労者
A.たくさんの人に「よろしく」と
1.このローマ人への手紙ではパウロは多くの人を思い起こして、それぞれの名を挙げて「よろしく」と書いています。名前が挙がっているだけでも25人もの人に「よろしく」と伝えています。その上、名前の挙がっていない人々も含めると相当数の人に「よろしく」と言っています。
2.パウロが知っている人ももちろんいますが、知らない人もあるようです。しかし、そこがクリスチャンの良いところです。同じ信仰に生きるので、親しい気持ちが起こってくるのです。パウロの挨拶は単なる儀礼的なものでは無く、心から彼らに会いたい気持ちがこもっています。

B.フィベ
1.1-2節に紹介されているのはフィベという女性ですが、彼女はケンクレヤの教会の執事、つまり新中野教会で言えば役員さんです。新中野教会でも女性役員がいらっしゃいますが、その当時は珍しかったかも知れません。そして、このフィベ姉がこの手紙を届けるのでしょう。歓迎して欲しいと言っています。
2.フィベ姉のことを、パウロは この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です と紹介しています。慈善の賜物、分け与える賜物、教える賜物などを持っていたのでしょうか。役員にもなり、多くの人、パウロをも助けてきたというのです。このような紹介のされ方をされるというのは嬉しいものです。

C.プリスカとアクラ
1.次はプリスカとアクラ夫婦に「よろしく」と言うのですが、先に書かれているプリスカが奥さんです。この二人はローマ教会からコリント教会に来てパウロと出会っているようです。この夫婦は使徒18:2,18,26にも見られ、パウロの伝道を助けたことがわかります。何と彼ら夫婦は 自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです と、命がけでパウロを助けた夫婦です。
2.この夫婦は使徒18:24-26を見ると、こう書いてあります。使徒18:24 さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。 18:25 この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。 18:26 彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。 と、アポロに対して信仰を教えることができたようです。つまり、自ら献身的に信仰に生きた夫婦です。

Ⅱ.同労者に「よろしく」の挨拶
A.最初に救われた人
1.5節から多くの人に『よろしく』との挨拶を送っていますが、エパネトは アジヤでキリストを信じた最初の人です と紹介されています。最初に救われた人がいたからこそ、福音は一気に広まるのです。
2.あなたも、あなたの一家の最初に救われたとすれば、それは実にあなたの一族にとってすばらしいことなのです。あなたの救いが福音の広がりになるのです。

B.神のために働く人々
1.その後に続く人々は 16:6 あなたがたのために非常に労苦したマリヤ、 16:7 私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアス、 16:9 キリストにあって私たちの同労者であるウルバノ、 16:10 キリストにあって練達したアペレに、 16:12 主にあって労している、ツルパナとツルポサ、主にあって非常に労苦した愛するペルシス、 16:13 主にあって選ばれた人ルポス というような言葉が続きます。
2.このような人に会いたいですね。いや、この教会で私たちは会っているのです。色々な紹介をされた彼らも罪人に過ぎないのです。しかし、神のために人生を献げたのです。新中野教会の皆さんも同じです。

C.思い浮かべる祈り
1.パウロがこうして多くの方々に「よろしく」と言い、彼らの顔を思い浮かべているのです。それはすでに祈りです。とりなしの祈りを難しく感じる人も多くいますが、確かにその人に代わって神に祈るにはその人をよく知っていないと祈れないからです。
2.しかし、パウロもよく知らない人がいっぱいいて、顔を思い浮かべることもできないのです。しかし、すでにそれが祈りなのです。その人を思うだけで、私たちの内におられる聖霊はとりなしてくださるからです。それが同労者に対する愛です。

● 皆さんがどこか地方に転勤なり、引っ越して新中野キリスト教会を思い起こして手紙を書いたらどんな手紙になりますか? 色んな人を思うのではないでしょうか? それが祈りです。

★  16:16 あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。キリストの教会はみな、あなたがたによろしくと言っています。 私たちもまた主にあって励んでいる教会に聖なる挨拶を交わし、祈っていきたいものです。

とりなしの祈りのすばらしさ

2016-10-16 18:03:52 | 礼拝説教
2016/10/16礼拝説教
【テーマ】  祈りの応援
【説教題】 「とりなしの祈りのすばらしさ」
【聖書箇所】 ローマ15:30-33
  15:30 兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。
15:31 私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、またエルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなりますように。
15:32 その結果として、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところへ行き、あなたがたの中で、ともにいこいを得ることができますように。
15:33 どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。

○ 長かったパウロのローマ教会への手紙もいよいよ終わります。今日のテキストにはパウロの祈りのリクエストがあります。私もたくさんの手紙を書きましたが、親しいクリスチャンには祈りのリクエストを書くものです。私もその人のために祈っているけれど、私のためにも祈って欲しいからです。祈り合える関係はとてもすばらしいと思います。

Ⅰ.共に祈って欲しい
A.イエス・キリストによって
1.私たちは祈りの最後に「イエス・キリストのお名前によってお祈りします」と言いますが、それは、どうしてでしょうか? 本来私たちは天の神様に祈ることもできないような者だったのです。それが、イエス様の十字架のお陰で私たちの罪は赦されて神の子とされました。ですから天の神様を「お父様」と呼んで、親しくお話しすること(祈ること)ができるようになったのです。
2.しかし、今日のテキストでパウロが 私たちの主イエス・キリストによって というのはそういう祈りの最後の言葉ではなく、ローマ教会の人達に自分のことを祈って欲しいと願っているわけで、その願いはイエス様の願いでもあるのだというほどに強くお願いしている言葉です。
3.私たちは自分の願いが単に自分の欲から発していることなのか、イエス様の導きによって起こった願いなのかわかっているでしょうか?

B.聖霊の愛によって
1.また彼は また、御霊の愛によって切にお願いします と彼らの祈りを期待しています。私たちの祈りは自分勝手な思いで祈っていることもありますが、私たちの内に住んでおられる聖霊は、私たちの思い以上に祈らせてくださるお方だということもご存知と思います。
2.パウロはローマ教会の人達がそのように聖霊に導かれて祈ってくれることを願っているわけですが、同時にパウロ自身も聖霊の愛でローマ教会を愛してこの祈りのリクエストを出していることを言っているわけです。

C.ともに力を尽くして
1.「祈ってくれ!」とだけ言うのは無責任でもあります。しかし、自分だけが祈るのもまた教会として不健全です。 私とともに力を尽くして神に祈ってください という祈りこそ健全な教会の祈りではないでしょうか。
2.パウロは会ったこともないローマ教会の信徒達を愛しているのです。信頼しているのです。祈り合えるのはそういう仲間だからです。とりなしの祈りを共にすることができる関係、それこそ教会なのです。

Ⅱ.とりなして欲しい
A.不信仰な人々から救い出され
1.パウロにはエルサレムに献金を届ける仕事がありました。その大事な献金を盗まれないことももちろんですが、エルサレムやその周辺にはパウロを嫌うユダヤ人もいたわけです。クリスチャンとなったパウロを殺そうと狙う人達もいたわけです。こういう人達から守られるようにと願っています。
2.福音宣教の大事な仕事をする時に必ずといってよいほどそれを妨げようとする働きがあります。それは不信仰な人からであったとしても背後には悪魔が働いていることが多いのです。私たちのとりなしの祈りはそうした悪の力をイエス様の血潮で阻止するための祈りなのです。

B.奉仕が受け入れられるように
1.またエルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなりますように と、クリスチャンであってもパウロの働きを全面的に認めている人ばかりではありません。エルサレムを遠く離れて異邦人の地で伝道しているパウロを理解してくれているかわからないものです。
2.パウロはとても強い人のように思えますが、エルサレムの聖徒たちのことでさえ心配したのです。いかにとりなしの祈りが必要かということです。私たち弱い者が「頼む、祈ってくれ!」と言わずにおれないのではないでしょうか。

Ⅲ.共にいこいを得ることができるように
A.とりなしの祈りの結果を見る
1.最後にとりなしの祈りは必要だというだけで無く、とりなしの祈りをすることは その結果 があります。彼らのとりなしの祈りのおかげで、パウロが 喜びをもってあなたがたのところへ行き と、ローマに行けるようになるのです。この手紙の時には、パウロはローマに囚人という立場で行くことになるとは思ってもみなかったでしょうが。
2.もう一つの結果は あなたがたの中で、ともにいこいを得ることができますように と、ローマ教会の信徒との交わりで憩うということです。

B.教会は憩いの場
1.15:30 私とともに力を尽くして は「共に戦う」という意味でもあります。時に祈りは戦場です。命をかけた戦いでもあります。その戦いに共に加わって欲しいというのです。
2.そうした命をかけた戦いの中でも、神様のもとにあると私たちはいこいを得ることができます。教会はそういういこいの場であるということです。

★ パウロがローマ教会に願ったように、私たちも互いにとりなしの祈りをしあう仲です。

終末に向かってまっしぐら

2016-10-09 17:01:29 | 礼拝説教
2016/10/9礼拝説教
【テーマ】  世界宣教のために
【説教題】 「終末に向かってまっしぐら」
【聖書箇所】 ローマ15:22-29
 15:22 そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを幾度も妨げられましたが、
15:23 今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していましたので
15:24 ──というのは、途中あなたがたに会い、まず、しばらくの間あなたがたとともにいて心を満たされてから、あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです、──
15:25 ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。
15:26 それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。
15:27 彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。
15:28 それで、私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニヤに行くことにします。
15:29 あなたがたのところに行くときは、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと信じています。

○ かつてマクレン先生が日本各地で宣教してくださったのですが、先生は「自分は宣教師だから特に難しいといわれる地域に行く」と言うようなことを言われたことをお聞きしました。先生は「私はここにキリスト教という宗教を伝えに来たのではありません。宗教であるなら、日本にはすでに仏教という立派な宗教があります。そうではなく、救い主であるイエス・キリストというお方を知っていただきたいのです」と言われたそうです。
 福音が届いてないところに福音を届ける働きは実に尊いですが、楽ではありません。

Ⅰ.イスパニヤ
A.イスパニアに行く計画
1.パウロは 15:23 今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりました と、言っています。福音宣教で働く場所が無いというのは凄い話です。それは当時のクリスチャン達が世界宣教を自分の重荷としていたからです。
2.韓国ではクリスチャン人口が30%ほどあるために、もう宣教する場所もなくなり、あちこちに教会があるので、日本に宣教に来ている人達が増えた、という話を聞いた時は驚きました。
3.福音宣教でもう働く場が無いなどということはあり得ない話です。救われていない人がいる限り、そこはいつも宣教地です。しかし、パウロがここまで言えたのは、東地中海地域の教会、クリスチャン達が宣教の意欲に燃えていたからです。そこで一緒にパウロも働かなくてもその地域の教会が、クリスチャンが伝道してくれるからです。

B.ローマ教会に行く計画
1.パウロはそこで、まだ伝えられていないところに行こうとしました。イスパニアです。 15:28 それで、私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニヤに行くことにします。 とあるように、彼の目的地は地の果てイスパニヤでした。
2.イスパニヤに行くためには、力のあるローマ教会からパウロを送り出してもらう必要があったのです。そうです。世界宣教、いやどんな伝道でも、一人の力ではできないことが多いのです。むしろ、キリストの体として教会が一体となって行うのです。
3.パウロはローマ教会の助けをいただくことによってまだ救われていない人達の国イスパニヤに救いをもたらすことができると期待したのです。パウロは見たことのないイスパニアに伝道に行くにはローマ教会の助けが必要だと考えて、その方向で計画を立てたわけです。

Ⅱ.ローマとエルサレム
A.ビジョン実現が遅れても
1.パウロはイエス様が来られるまでに全世界に福音を届ける働きをしたいと願っていたようです。その願いはまた私たちの願いでもあるべきです。パウロは世界宣教のために早くイスパニヤに行きたいと思っていました。
2.イスパニヤに行くためにローマにも行きたい、というパウロのビジョンがありましたが、このテキストにあるように、彼はその前にしなければならない大事な仕事がありました。エルサレムに献金を届けることでした。
3.彼は自分の大事なビジョンの実現が遅れても、エルサレムに自分が献金を届けるというのが大事であると思っていたのです。それは命がけのことでもあるのです。その原動力は聖霊の愛、エルサレム教会を愛していたからです。

B.ユダヤ人と異邦人の一致
1.エルサレム教会は世界で最初の教会でした。しかし、エルサレム教会は迫害のために弱くなっていました。むしろ、アンテオケ教会やアジア・ギリシャ地方にできた異邦人教会が強くなっていました。そこで、それらの教会がエルサレム教会を助けるために醵金したのです。
2.ユダヤ人教会から始まった世界宣教で異邦人が救われてきたのです。そこで、弱っているエルサレム教会を異邦人教会が助けるのは当然のこととパウロは考えたのです。そして、彼がその献金を届けるという、異邦人とユダヤ人の橋渡しをしているのです。
3.ローマ教会はパウロが導いた教会ではありませんから、そこに献金も訴えていませんが、ローマ教会にはユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンが混在し、それなりの問題を持っていたので、両者を愛によって一つにしたいというパウロの思いが伝わってきます。

● 私は旅行した時など、やはり教会を見つけると嬉しくなります。しかし、教会の無い地域を見ると「ここにも教会ができるといいなあ」と思います。田舎の方に行くと景色も美しくて「いいなあ。こんな所に住みたい」と思うのですが、教会が無いところが多いです。そこで、いつも自分がここに教会を造るとしたらどの様にするだろうか? と考えるのです。でも、恥ずかしながら、いつもそこで問題になるのは「お金」でした。集まる場所のためにも、管理費も色々お金がかかります。「これを助けてくれる母体となる教会をしっかりと形成しなくてはならない」と考えさせられたものです。マクレン先生のように日本の牧師が行けないようなところに先に行ってくださって宣教してくださった背景にはそれを自分のビジョンとしてマクレン先生を支えたアメリカの諸教会があったからです。それによって救われた人々。できた教会があるのです。

★ 世界宣教と終末は一つのことです。 マタイ24:14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。 と、イエス様が言われたことをパウロは大事にしたと思います。私たちもこの働きを自分の働きとしませんか。


良い実をつける木

2016-10-02 18:32:06 | 礼拝説教
2016/10/2礼拝説教
【テーマ】  キリストにつながった人生
【説教題】 「良い実をつける木」
【聖書箇所】 マタイ7:15-23
 7:15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
7:16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
7:17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
7:18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
7:19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
7:20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

○ 暑い夏が過ぎ去り、いよいよ収穫の秋を迎えました。「実がなる」という言葉は私たちにとってとても嬉しい言葉です。しかも良い実を結ぶことができるなら幸いです。悪い実もあるのだそうです。どのようにすれば良い実を結ぶ人生を送ることができるのでしょうか。

Ⅰ.悪い木
A.偽物
1.このお話はイエス様の時代ですから2000年も前のことですが、 にせ預言者たちに気をつけなさい。 とイエス様が言われました。その頃、偽預言者によって人々は混乱させられたようです。果たして現代はどうでしょうか?
2.偽預言者とはどんな人でしょうか? 彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。 と言っておられるので、表向きは優しいごく普通の人のようです。しかし、その内側は狼だそうです。ということはなかなか見分けるのは難しいことでしょう。

B.本物
1.世の中は何かの不安要素が高まってくるとそのような偽預言者など、占う、予言するというような人が多く現れます。そういう偽預言者がたくさん出てきた頃にイエス様もお出でになったのです。ですからユダヤの上層部はイエス様をもそういう類の人と考える人もいたようです。
2.しかし、イエス様は偽善者のような一見良さそうな人ではなく、本当に心底人を思って活動された方です。イエス様は良い実を結ばれた方です。イエス様は本当の預言者でした。イエス様の語る言葉は神様からの言葉だからです。イエス様はいつでも良い実を結ばれました。
3.疑う人も多かったのですが、イエス様は最終的に十字架によって全ての人の罪の身代わりになることを実行されました。これほど「良い実」は他にありません。

C.悪い木につながるな!
1. 悪い木は悪い実を結びます。 とあるように、悪い木につながっている限り悪い実を結ぶのです。どんなに良い人であっても「人」に変わりはありません。私たち人間は「木」ではなく、枝です。イエス様は神様で、このお方が「木」なのです。
2.偽預言者などは枝であることを忘れてか「木」になろうとしています。そこにつながっても良い実は着きません。悪い木にはつながらないでいただきたい。

Ⅱ.良い木
A.私たちは枝
1.7:17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。 と言われました。では、イエス様が言われる「良い木」とはどういう「木」なのでしょうか? 私たちも良い実を結びたいと思います。そのことを例え話としてヨハネの福音書15章で語られています。 15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

2.イエス様が良い木です。私たちは枝です。イエス様という良い木につながっている枝は良い実を結ぶのです。イエス様は 枝だけでは実を結ぶことができません と言われました。悪い実を結ぶのは悪い木につながるからではないでしょうか? 良い木につながるなら良い実を結びます。

B.「良い実」とは?
1.聖書の中にすばらしい「実」が書かれています。それは ガラテヤ5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。 です。これは 御霊の実 ということで、聖霊によって結ぶ実です。
2.このことがキリストという木につながることです。キリストにつながっていることでこの聖霊の実を結ぶことができるのです。 7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』 7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 と、何か凄いことができたとか、いかにも信仰者という生き方をしてみても、イエス様につながっていないなら最終的には「良い実」を結ばないのです。

● 子どもの時に自分の家に柿の木が10本も植わっていて、全部甘柿でした。種類は違うので、味は違うのですが、どれも甘くて私は柿が大好きでした。ある日、友達と遊んでいるとよその家の塀から柿の枝が出ていて、柿の実がたくさんなっていました。とてもおいしそうでした。友達は「もらおうぜ」と飛びついて一箇取りました。他の友達も、私も同じく。柿泥棒ですよ。絶対いけないことです。そして、民ありがとうございました。一斉にかぶりつきました。私にはあの甘い柿を思って食べたのですが、次の瞬間、今まで味わったこともない酷い感覚が口の中に広がったのです。「ウエー!!」とみんな吐き出しました。急いで水道のあるところに行ってうがいをするのですが、なかなか取れないのです。渋柿でした。後で、家に帰って父から渋柿と甘柿のことを聞きました。うちの家にある甘柿10本は全部、祖父が渋柿の幹の甘柿の枝を接ぎ木したのだそうです。そうすることで立派な甘柿になるそうです。
  また、私は台風でおれてしまった青い実の付いた柿の枝を過敏に挿して置いたことがあります。実が熟してくれるのではないかと期待したのです。なんとなく赤くなったのでこれもかぶりつきました。「オエッ」と吐き出しました。腐っていました。

★ 良い木につながっていなければ良い実はならないし、繋がり続けていないと実は結ばないのです。良い木はイエス様です。イエス様につながり続けて、共に良い実を結ぶ者になりませんか?