バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

共に成長する人々

2016-08-28 17:06:03 | 礼拝説教
2016/8/28礼拝説教
【テーマ】  教会は成長する
【説教題】 「共に成長する人々」
【聖書箇所】 ローマ15:1-6
  15:1 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。
15:2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。
15:3 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった」と書いてあるとおりです。
15:4 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。
15:5 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。
15:6 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。

○ 教会は何をするところでしょうか? 礼拝するところに始まって、色々あると思います。その大きな一つに礼拝者を育てるところでもあると思います。

Ⅰ.弱さを担う人々
A.弱い者に合わせる
1.教師時代、まるでドラマのようなことが幾つもありました。しかも、あの6年間の教師時代だけが健康だったように思います。そのような中で、3年生を担任した時のこと、病気のために年間の半分以上を欠席していた女の子Mさんのことですが、彼女は病気のために小学生の時から、ずっと校外学習などの行事に参加できませんでした。中学3年生で修学旅行の時期が近づきました。私は彼女が欠席前提でプログラムを組みました。そんな時、お父様から「この子にとってこれが最後の学校行事です。先生、何とか修学旅行に連れて行ってもらえませんか」と頼まれました。7時間、バスで信州へ行く計画ですからきついものです。医者の指示を守ることで了解を得、一緒に行くことにし、クラスでMさんも一緒に行くということでの話し合いをしました。私のクラスのバスが先頭を走ることにしていただき、バスの途中休憩を大目にとっていただきました。お医者さんの指示である一つ「夜10時には就寝させること」がありました。しかし、普通10時就寝になっていてもみんな寝ないものです。それを女子生徒達は話し合ってくれ、「同じ部屋で無くてもみんなMさんのために10時に寝よう」と決めました。すると男子までもが、「女子だけにさせるわけにはいかん。俺たちもそうしよう」と。他のクラスが遅くまで起きていても、わがクラスは10時に寝たのです。弱いMさんにみんなが合わせてくれることで楽しい修学旅行になったのです。実はこれがきっかけで、9月最初に行われる水泳大会にMさんも出場させてあげたいとなりました。プールに入ったことの無いMさんが水泳大会に出られるのか??私の方が疑問でした。夏休みに多くの登校日を設け、水泳の練習にも当てました。彼女はビート板を使っての25m自由形にでることにしました。当日、何度も立ち止まり、泳ぎをくり返して25mを行くのですが、大幅に時間がかかりました。しかし、11クラスみんな歓声と拍手で応援してくれるのです。大事な水泳大会をMさんに合わせてくれたので、感動的な水泳大会となりました。
2.強い者に合わせると、弱い者は排除されるのです。教会でも同じかと思います。お子さん連れの方が遅れ気味で来られるので、後ろの席を親子席にしました。祈りを突然当てられるのが困るという方のためにその方には祈りを当てないように司会者にお願いしました。(他の教会では奉仕表に祈り担当も書き込まれています。)新しい方のために、礼拝の中では大きな声や異言で祈るのを控えていただいています。2階に上がるのがきつい方のためにランチを1階で食べられるようにしました。弱い人のために皆ができる限り合わせてきました。
3.しかし、弱い人が当然の権利だからとふんぞり返ってしまうとそのとたんにその弱い人達は強い人に変わってしまうのです。ここがお互いに裁かない、受け入れ合うことの大切なところです。

B.自分を喜ばせない
1. 15:1 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。 と、パウロはイエス様を思って言いました。私たちは自分を喜ばせたいし、自分の益を求めたいのです。ということは強い者であっても自己中心という罪をかなぐり捨てることができずに生きているような者なのです。
2.自分を喜ばせるべきではありません。 と、言うほどに自分を捨て、弱い人のために奉仕することができるのはイエス様以外に無いのかも知れません。事実、イエス様は一度も自分を喜ばせるようなことはなさっていません。私たちもイエス様を模範として生きるというのはこの生き方なのでしょう。
3.それは、単に自己犠牲というのでは無く、 15:2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。 と、弱い人が喜び、その人の益となり、その人が成長していくための自己犠牲です。そして、その自己犠牲は犠牲と感じなくなる、聖霊によって喜びと変えられるものなのです。

Ⅱ.最高の礼拝を目指す人々
A.イエス様の忍耐
1.イエス様は世界一強い方です。そのお方がこのように言われました。 マタイ11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 私たちにイエス様と同じくびきを負うように言われました。しかもイエス様は わたしのくびきは負いやすく と言われました。イエス様は強いお方です。ぐいぐい引っ張ることのできる方です。そうされるとくびきで繋がった私たちは引っ張られっぱなしで大変です。しかし、イエス様は私たちに合わせてくださり、最高のリードをしてくださるのです。そういうお方です。これがまたリーダーシップです。
2.イエス様はどれ程私たちのために忍耐してくださったことでしょう。 15:3 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。 と、この地上の真の王であるイエス様がご自分を喜ばせることだけを考えても良かったのに、そうなさらず、人々のことだけ考えられたのです。

B.みんなの成長のために
1.ある他教団の牧師夫人のブログにこんなのがありました。
   クリスチャンの4つの段階
1・群衆・・・興味、関心がある。信じてみたいと思っている。多くはご利益を求めている。
2・信者・・・キリストを信じている。神を知っている。聖書を知っている。
3・キリストの弟子・・・信じている、知っているだけにとどまらず、御言葉を実践し、御言葉に従う生活を選び取る。キリストに従っていきたいと願い、行動する。
4・リーダー(牧師、教職、役員、女性リーダー、○○会のリーダーなど)・・・伝道や牧会、教育や指導ができる。
「信仰継承」という場合、目指すべきは「キリストの弟子」を育てることです。
 私たちは、このどの段階にいるでしょうか? 3あるいは4であるべきなのです。
2.教会の一致と成長には忍耐と励ましが必要です。 15:5 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。 15:6 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。 と、最高の礼拝を献げるようになるためです。

● 12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。 ここに帰ってきます。最高の礼拝です。

★ あなたは最高の礼拝者ですか? そして、最高の礼拝者を育てていますか?

その名は『平和』

2016-08-21 16:22:41 | 礼拝説教
016/8/21礼拝説教
【テーマ】  愛の人・信仰の人
【説教題】 「その名は『平和』」
【聖書箇所】 ローマ14:19-23
14:19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。
14:20 食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人の場合は、悪いのです。
14:21 肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。
14:22 あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。
14:23 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

○ 8月15日は「終戦記念日」ですが、同時に多くのキリスト教団体・教会は「信教の自由を守る日」としています。戦争という人の命も人権も無視した中で、信仰の自由さえも奪われていました。こうしたことが二度と起こらないように「信教の自由を守る日」とされ、祈って参りました。誰もが「平和」を求めていますし、平和な世界になることを祈っています。しかし、平和はまず身近なところから、私たちが造り出すものではないでしょうか。

Ⅰ.平和を造り出そう
A.平和はイエス様の願い
1.イエス様は マタイ5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。 と言われたように、クリスチャンが平和をつくることを望んでおられます。平和をつくる者が「神の子」なのです。
2.しかし、またイエス様はこうも言われました。 マタイ10:34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。 この地上がサタンの支配にある以上、イエス様はそのサタンに対して戦ってくださいます。私たちはサタンにも罪にも打ち勝てない者です。しかし、イエス様が勝利して、私たちに神との平和をくださるのです。
3.真の平和は霊的な部分にあるのです。単に地上で戦争が無くなったとか、テロが無くなったら平和になるというものではなく、人々が神と和解をすることで生み出されるのが「平和」です。

B.教会は平和を造り出すところ
1.ですからイエス様は、私たちも平和を造り出すことを願われています。あなたはどの様にして平和を造り出しますか? まず、教会の中で平和に過ごすことです。パウロは何度も食べ物のことを言っていますが、考え方の違い、性格の違いは受け入れ合うべきなのです。
2.私たちの教会では何かで裁いていることがあるでしょうか? 強い人が弱い人を苦しめているということがあるでしょうか? 誰もが自ら平和を造り出すのです。教会は積極的に平和を生み出すところです。
3.国の不安定さのため難民となって他国に移住される方々は、平和な国へと向かわれるのです。教会は霊的に平和なところです。魂に平安を求める人がこの「平和」を求めて来る場所なのです。

Ⅱ.成長しよう
A.教会は互いに成長するところ
1.誰もが信仰の成長を求めていると思います。そして、その信仰を測るのが、奉仕の量であったり、礼拝出席率であったり、お祈りの上手さであったり、伝道の時間数であったり・・・しやすいのですが、確かにこれも間違っているわけではありません。しかし、これらのことができるから信仰があるというのでは無く、信仰があるからこれらのことができるというのが良いのです。
2.赤ちゃんが成長するのを喜ぶように、人が霊的に成長するのは喜びです。そのスタート、赤ちゃんとして生まれるのは「イエス様を信じたとき」です。ここから霊的な成長が始まります。赤ちゃんが最初はミルク、次いで離乳食と進み、ハイハイからつかまり立ちと成長していくように、クリスチャンも柔らかい食物からだんだん堅い食物、簡単な奉仕から難しい奉仕へと向かうのです。そうしていく場所が教会です。
3.大人のクリスチャンがミルクしか飲めない赤ちゃんに肉を食べろとは言わないのです。野菜しか食べない幼いクリスチャンに肉を食べないと一人前ではないとは言わないのです。その人をそのまま受け入れるのです。ただ、成長が止まっているのは困るのです。成長できるように助けるのも教会です。

B.疑いから信仰へ成長しよう
1.私はクリスチャンになってしばらくは嬉しくて嬉しくてどんどん奉仕をして成長したと思います。ところが奉仕をし続けているのですが、疑いが生じたのです。「確かに信じたのだけど、本当に神はいるのだろうか? 別に何も感じないし、何も起こらない」と神の存在さえ疑うようになりました。疑いが起こっているということは、立派に奉仕しても「信仰」では無いわけです。これは罪ですね。 14:23 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。 とあるような状態です。
2.どうしてこうなったかというと、一つは知識不足です。聖書の知識をきちんと知っていなかったからです。人間には神様から良心が与えられています。神に関する知識が少なくても自分の良心に恥じない信仰を持つことはできます。  14:22 あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。
3.もう一つは聖霊の満たしが無かったからです。さらに愛が無かったからです。聖霊に満たされた時から私は神に対する疑いは消えました。でも、教会の平和のためには互いに愛の成長を求めて行く必要があります。

● イスラエルの第3代の王様ソロモンはダビデの子で、ダビデ王が建てたかった神殿を建てた王です。しかも彼は戦争の無い、平和な政治を行ったのです。ソロモンという名は「シャローム(平和・平安)」に由来しています。正にその名は「平和」です。しかし、いくら「平和の王」ソロモンといえども、神に従い通せたわけではありませんでした。神との平和を持ち続けたのはイエス様だけです。イエス様こそ「平和の王」です。このイエス様が私たちに教会という神の家族が愛し合い、平和であるようにと願っておられるのです。

★ 教会は、子ども達をしっかりしたクリスチャンに成長させることも大事な仕事です。子ども達と平和をもち、子ども達と霊的成長に役立つことを追い求めるのです。


決心しなさい

2016-08-14 17:44:35 | 礼拝説教
2016/8/14礼拝説教
【テーマ】  愛の人・仕える人
【説教題】 「決心しなさい」
【聖書箇所】 ローマ14:13-18
  14:13 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。
14:14 主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。
14:15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。
14:16 ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。
14:17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
14:18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。

○ 私が小学生の時、小学校の運動場の片隅に遊具と共に膝くらいまでの草がたくさん生えている場所がありました。この草を縛って足がひっかかって転ばせる遊びが流行りました。しかし、ある子が引っかかり転んで怪我をしてしまいました。当然、先生から中止命令が出たのです。しかし、しばらくするとまた結んでいる子がいたのです。つまずかせないように「決心する」というのはなかなか難しいのかも知れません。

Ⅰ.決心しなさい
A.何が妨げ? 何がつまずき?
1.いじめや悪意の気持ちのある人でなければ、敢えて妨げになるものや、つまずきになるものを置いたりはしないものです。しかし、ある人はなんらそれを妨げともつまずきとも思わないかも知れませんし、ある人はそれが妨げやつまずきになるということがあるのです。肉のことなどでつまずきがあるとは思いもよらなかった人もいたでしょう。
2.私たちは他の人のことがわからないものなのです。自分の感覚だけで妨げ、つまずきを決めることはできないものです。だからつまずきを置いたつもりでなくてもつまずかせてしまうという失敗が出てきます。

B.よい決心をする
1.私たちは「決心する」ということがとても大事です。結婚式で誓約するとき「あなたは、神の教えに従って、夫(妻)としての分を果たし、常に妻(夫)を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健康の時も、病いの時も、富める時も、貧しき時も、いのちの日の限りあなたの妻(夫)に対して堅く節操を守ることを約束いたしますか。」と訊きます。これは「できますか?」と問うているのではないのです。また、「できるかどうかわからない」という答が出てくることも考えてはいません。「愛します」という決心を訊いているのです。
2.愛は感情ではなく、意志だからです。相手の人にとって妨げ、つまずきなら「置かない」と決めるのは意志であり、それが「愛」なのです。そして、基本は強い者が弱い者に譲歩することです。それが「愛」なのです。
3.イエス様は一番強い方でした。しかし、弱い私たちに合わせてくださったばかりか、へりくだって足を洗い、僕となって十字架にまでかかってくださったのです。イエス様は私たちを救うと決心されたからです。

Ⅱ.義と平和と聖霊による喜び
A.神の国
1.パウロがここで言っているのは、単なる人間関係のことではありません。教会のことを言っているのです。教会は天国の出張所みたいなものです。
2.天国は完全ですから、何のトラブルもないところで、信仰の強い弱いという問題もありません。ですから肉を食べる食べないなどの問題は無く、ひたすら 義と平和と聖霊による喜び の世界なのです。

B.キリストに仕える人
1.天国と地獄の違いをこんな風に説明した人がいます。「美味しい食べ物がいっぱいあって食べてよいのだけれど、長ーいお箸しかないのです。お箸で掴んでも口に入れられなくて苦しむのが地獄。天国は同じなのだけれど、そのお箸で掴んで他の人の口に運んであげる」自己中心が地獄なのです。人に仕えるのが天国です。
2.教会も同じく、自分にとって都合のよいようにしたり、自己中心で生活すると地獄と化すのです。教会では「奉仕」をするのはごく当たり前ですが、それが天国の生き方だからです。人に仕えるのはキリストに仕えることなのです。

C.愛の決心
1.決心の力は大きいものです。結婚の誓約をしっかりするのと同じで、イエス様を信じる決心をする、信仰の決心を見える形で表して洗礼を受ける、というのは何と神様に喜ばれることでしょう。
2.そして、教会の中で奉仕する決心、他の人に仕える決心、裁き合わない決心、妨げやつまずきになるものを置かない決心、どれもとても重要な決心です。まさに 義と平和と聖霊による喜び に満ち溢れるのです。

● 私たち牧師にとって「牧師になる決心」というのはやはりなかなか厳しいものです。単に一つの職業として選べるものでは無いのです。時には経済的保障も無いかも知れません。時には自分のしたいことと違うかも知れません。しかし、それは神の召しである以上、苦しみや辛さが色々あろうとも 義と平和と聖霊による喜び を持つのです。

★ あなたの決心は?!


狭き門

2016-08-07 17:24:41 | 礼拝説教
2016/8/7礼拝説教
【テーマ】  イエス・キリストだけが救い主
【説教題】 「狭き門」
【聖書箇所】 マタイ7:13-14
 7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

○ ようこそお出でくださいました。今日の説教題は「狭き門」ですが、教会の門は狭かったでしょうか。
 「狭き門」から想像するのは、ある人はアンドレ・ジッドの小説でしょう。またある人は「○○大学合格は狭き門」というように、受験の大変さを思い浮かべるでしょう。

Ⅰ.滅びに至る門は大きい
A.努力が必要なんだろうか?
1.今日の聖書の言葉は「狭い門は天国行き、広い門は地獄行き」と言っています。しかし、私はふと、イエス様を信じるだけで救われるという「大乗仏教」並のそれこそ「広い門」では無いかと思ったのです。
2.しかし、小さい門、狭い道ということは、イエス様の救いはそう簡単に与えられず、かなりの努力を要する、修業を積まなければ救われないような言葉に聞こえます。
3.ルカの福音書を見ますと ルカ13:23 すると、「主よ。救われる者は少ないのですか」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。 13:24 「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。 とあるのです。 努力して という言葉が印象的であり、またひっかかります。

B.みんなで地獄に行けば恐くないのか?
1.ある牧師がこんなことを書いておられました。--多くの人がしていることが常識的に正しいと思われています。一人目の人がチラシを受け取ると、あとの人も受け取ります。しかし、一人目の人が受け取らないと、あとの人も受け取りません。このことから人は、回りの人のしていることを判断の基準にしていることがわかります。「赤信号みんなで渡ればこわくない。」という言葉があります。これも、みんながしているなら大丈夫、みんながしていることは正しい、という考えです。先の「赤信号みんなで渡ればこわくない。」には続きがあるそうです。それは、「でも、赤信号、みんなで渡ればみんな死ぬ。」--というものです。
2.人は様々な判断基準を「多数」に置いているのではないでしょうか? つまり「大きな門」「広い道」に安心するわけです。みんながしている、みんながしない、「みんな」という言葉が重要になるということです。「皆さん、これをお買いになります」と言われると買ってしまう人。「みんな知っているよ」と言われて、ドキッとしてしまう人がいるのではないでしょうか。
3.バブルの時も、リーマンショックも、「みんながやっている。みんなが買っている」という変な安心感があったのです。そうすると突然崩壊の日が来たのです。「その日」というのは突然来ます。本当に地震のようなものだと思います。未だに予知できないのですから。

C.「みんな」が正しいわけではない
1.ガリレオが地動説を唱えたときの有名な話があります。その当時、人々は天体は地球を中心にして動いているという「天動説」でした。多くの人がそう信じていました。しかし、ガリレオは太陽を中心に地球も回っていると言ったがために裁判にかけられ有罪になったのです。そのときガリレオの言った「それでも地球は動いている」という言葉は有名です。後になって、ガリレオの考えが正しかったことがわかりました。このことからも、大勢の人が言っているから正しいという考えがおかしいことがわかります。
2.イエス様の裁判の時、裁きをくだすピラトはその時集まっていた「みんな」が言った「十字架にかけろ」に負けてイエス様を十字架刑にしたのです。もちろんこの時の「みんな」の判断は間違いでした。自ら救い主を亡き者にしたのですから。なんと滅びに至る門は大きいことでしょうか。

Ⅱ.イエス様が門
A.イエス様だけ
1.なぜ「狭き門」になるのでしょうか? ヨハネの福音書14章6節にこうあります。 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 と、天国に行く道はイエス様だけと言われているからではないでしょうか? 
2.独善的、排他的に聞こえて受け入れにくいのではないでしょうか? でも、そこまで言われるイエス様をまず調べてみてください。

B.それでもついて行く
1.このたとえ話をなさったのは、イエス様がユダヤの王様になってくださると思って集まった弟子達や群衆に対してです。彼らは、病気を治したり不思議を行ってくださるイエス様が王になれば、苦しい仕事をしなくてもすみ、病気になっても簡単に治してもらえ、それが神の国と思ったのです。
2.そういう人々に向かってイエス様は「狭い門」と言われたのです。確かにイエス様を信じるだけで救われるのですが、信じるというのは、自分の思うようでなくても信じ続けるということです。
3.クリスチャンになればイエス様によって病気も治してもらえ、経済も祝され、仕事も、進路も、家族のことも全てはバラ色と思っていたら、とんでもない、試練の連続、病気は治らない、宝くじも当たらないなど。それでも「イエス様だけだ」と信じてついて行くということです。

C.狭い羊の門
1.イエス様は別の例え話でこう語られました。 ヨハネ10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。 イエス様が「門」です。羊の門は小さいのです。悪い動物が入らないように小さいけれども、そこには羊飼いが、羊の名を呼びながら見守りながら入れているのです。天国の門はイエス様です。
2.天国の門ではイエス様があなたの名前を呼んで待っておられるのです。信じて入るならもちろんそこは天国です。

● マタイ19:24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 とイエス様がいわれた話があります。狭いどころか針の穴です。町に着いた旅人が門が閉まっていて入れないとき、荷物を全部捨てれば滑り込むようにして入ることのできる小さな穴が城壁の一部に開けてあったそうです。財産いっぱいの金持ちはそこを通れないですが、荷物を捨てて身一つになれば通れるのです。ラクダは通れるそうです。

★ イエス様だけが救い主という「狭い門」ですが、そこを入った人は「いのち」に入っているのです。