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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

主の祈り 1

2015-06-28 19:04:58 | 礼拝説教
2015/6/28礼拝説教
【テーマ】  祈りの真髄
【説教題】 「主の祈り」1
【聖書箇所】 マタイ6:9-13
6:9 だから、こう祈りなさい。
  『天にいます私たちの父よ。
  御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。
  みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。
  私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

○ 祈りの基本とでもいう「主の祈り」です。基本というのは何度も思い返す方が良いのです。時に基本を忘れていることもあり、そのまま進むと大変な結果を招くこともあるのです。今日は9節だけを見てみたいと思います。

Ⅰ.こう祈りなさい
A.お題目ではない
1.イエス様は一連の祈りの話をなさった後、 だから、こう祈りなさい。 と言って、弟子たちに祈りを教えました。しかし、この通り祈るようにと教えたのではありません。
2.お題目を熱心に唱えておられる人を知っているのではないでしょうか。お題目を多く唱えるとどうなるのでしょう。唱えている人は、多く唱えれば救われると思っておられる方が多いようです。
3.こういう日本人のパターンから、主の祈りに関してもこれをお題目のように覚えて、これを唱えればお祈りをしたと思い込んでしまう人もいるのです。

B.このような精神で
1.主の祈りは、イエス様が祈りの真髄をわかりやすく簡潔に教えてくださったものです。ですから、もしお題目のようにその言葉を一字一句しっかりと唱えなければならないなら、イエス様が語られた言葉、アラム語でしょうか? それで唱えなくてはならないですね。日本語の文語訳、新改訳で唱えたのではよくないのではないでしょうか。
2.主の祈りはいわば祈りの原型であり、このような主旨、このような精神で祈るようにというものです。

Ⅱ.父なる神
A.私たちの父とは?
1.最初の言葉は 天にいます私たちの父よ。 です。皆さんのお父さんはどこにいますか? 私の父はもうすでに死んでしまいましたので、天にいます。ですから、「天にいます父よ」と、その私の父親を思い出して祈るのでしょうか? 違うことは明白ですね。
2.当然ですが、これは父なる神様のことです。でも、どうして、 私たちの父 なのでしょうか? 父なる神様というのは、本来はイエス様にとって「父なる神様」「お父様」であって、私たちとは無関係なはずです。
3.神様は私たちの父親なのですか? イエス様が 天にいます私たちの父よ。 と言いなさいと言われた理由があるはずです。どこかの時点で、イエス様は私たちさえも神様のことを「父」と呼べる関係にしてくださったはずです。

B.イエス様を見たものは父なる神を見た
1.それは十字架です。しかし、イエス様がこの祈りを教えた時点では、まだイエス様は十字架にかかってはおられません。弟子たちや私たちの贖い、罪の解決をなさっていないのです。ですから、その時点ではまだ弟子たちは、神様を「父」とは呼べないはずなのです。
2.ところが、イエス様はこんな事を言われています。 ヨハネ 14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。 と。ですから、イエス様を見た弟子たち、イエス様を心に迎えた弟子たちは神様を「父」と呼ぶように言われたのです。

C.放蕩息子の気持ちで
1.ただ、 天にいます私たちの父よ。 と言えばいいわけじゃないのです。心から「お父さん」という思いが必要なのです。ある人は、イエス様の十字架が自分のためであったということがわかってきた時、今まで空虚だった心が満たされた感じになっていたと言いました。
2.放蕩息子のたとえをご存知かと思いますが、あの弟息子は放蕩して、ボロボロになって帰ってきました。その息子をそのままで抱きしめたのが父親でした。この時、息子は悔い改めて、泣きながら「お父さん」と抱きついたわけです。この思いをもって「父よ」と呼びかけるのです。

Ⅲ.御名があがめられますように
A.聖とする
1.そして続く言葉が 御名があがめられますように。 です。名前は大きな力を持ちます。王様の名前で出された命令には誰も背くことはできないのです。ダニエル書でもよくわかるように、王様が王以外のものに祈ってはならないという命令を王の名前で出しました。しかし、ダニエルは真の神に祈りました。それを目ざとく見つけたダニエルの敵が王に訴えたため、ダニエルはライオンの穴に放り込まれたのです。「名」の力は強いのです。(もちろん、真の神に祈ったダニエルは神様によって救われました)
2.あがめられますように というのは原語では「聖とされる」という言葉です。これは神様の名前が聖いものとして分けられることを言っています。よくクリスチャンは聖別されたと言いますが、それは世から取り分けられたという意味です。同じく、神様のお名前も世と完全に分離して一切の罪汚れが無いことを言い表しています。
3.十戒では、偶像を作ることも拝むことも禁止しています。つまり、真の神以外のものを拝むことは、汚れの中に神様をごちゃ混ぜにしていることになります。ダニエルのように真の神以外のものは捨てて、真の神だけを選ぶことをいうのです。

B.他のものに目もくれない
1.神様だけを常に自分の人生の第一番目にするということです。二番目、三番目にするとすれば、偶像や、お金や、名誉など自分が大事と思い込んでいるものとごちゃ混ぜになってしまい。神の御名が聖くなくなってしまいます。
2.砂金は砂の中に混じっています。それをより分けないと意味がありません。ごちゃ混ぜでは砂金も金になり得ないのです。金だけをより分けて、他のものは捨てます。
3.御名があがめられますように とはそのように、偶像も、お金も名誉も捨てて、ただ神様だけです。という信仰を言い表した言葉なのです。

★ 祈りの最初に必ず 天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 と、言う必要はないですが、この精神をもつことです。祈りの始めに、自分が話しかける「父」は、ローマ皇帝とも比較にならないほど聖いお方だということです。それを告白しています。


失望させられない

2015-06-14 18:22:35 | 礼拝説教
2015/6/14礼拝説教
【テーマ】  信仰による義
【説教題】 「失望させられない」
【聖書箇所】 ローマ9:30-33
  9:30 では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。
9:31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。
9:32 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
9:33 それは、こう書かれているとおりです。
  「見よ。わたしは、
  シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。
  彼に信頼する者は、
  失望させられることがない。」

○ いよいよローマ書も9章の終わりになりました。9章の総まとめのような感じです。 最初にユダヤ人の勘違いから見ていきたいと思います。勘違いして困ったことが無いでしょうか? 待ちあわせ場所をてっきりここだと思ってずっと待っていたのに、違っていて会えなかったというようなことは・・・今は携帯電話があるので、そういう問題は無くなってきましたが、「死後の世界は無い」と思い込んでいるよう勘違いだと恐いですね。

Ⅰ.ユダヤ人の勘違い
A.義を追い求めた
1.ユダヤ人はどんな勘違いをしたのでしょうか? 9:31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。 ユダヤ人は熱心に求めたのです。しかし、熱心なら何でもよいというわけではありません。
2.確かに神様は信仰の系譜にあるユダヤ人にいかに神が正しく聖いかを示すために厳格な律法を与えられました。ですから彼らは律法を守ることで義とされるという点にだけ意識が集中し、律法は神を表しており、律法のもつ二面性「義」と「愛」の「愛の律法」がわからず、「義の律法」だけにこだわりました。
3.ユダヤ人は神に選ばれたという自覚と誇りがありましたから、自分たちだけに与えられた「義の律法」を誇りとし、守ろうと努力したのです。それ自体は悪いことではありません。

B.律法を守ることで救われると思っていた
1.しかし、ユダヤ人は律法を守ることで義と認められると思い、律法を守ることに必死になりました。そのために律法のもう一面「愛の律法」を完全に見失いました。
2.厳しい親を持つ子どもが、必死になって親の喜ぶことをしようとし、言いつけを守ろうとする姿に似ています。親の喜ぶ顔を見るためにこわごわ、親の目の前では善いことをする姿です。
3.ユダヤ人は律法を守らねば救われないと思い込んできました。救いはもっと神様の奥深い愛の中でもたらされるものだったのですが、彼らは神様のお気持ちを理解出来なかったのです。

C.つまずきの石、妨げの岩
1.イエス様が放蕩息子のたとえ話(ルカ15:11-32)をなさいましたが、そこに出てくる兄がユダヤ人を表しています。弟が財産を分けてもらって町に出て一旗揚げようとしましたが、放蕩三昧で一文無しになって帰ってきました。でも父はその弟息子を喜んで迎え入れました。
2.その様子を見て兄息子はすねて、ルカ15:29-30 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』 と言ったのです。父の愛がわからなかったのです。
3.この兄のようなユダヤ人なのです。真面目は良いことですが、神様の愛がわからず、叱られないように必死でこわごわ律法を守ろうとしたのです。

Ⅱ.異邦人の救い
A.義を追い求めていなかった
1.一方異邦人は、とっくの昔に神を離れ(捨て)、その子孫は神がどなたか、どのような方なのかもわからなくなっていました。まさにあのたとえ話の弟息子なのです。何もかも失って ルカ15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 と気づくのです。
2.多くの異邦人は「義」つまり「神との正しい関係」を求めたのではなく、「金儲け」「健康」「家内安全」など自分中心の幸せを求めてきました。その自分たちの思いに合致する偶像を神としてきたのです。時には、祟りから逃れるために生け贄をささげたり、水を求めて雨乞いしたりしてきましたが、神そのものを求めませんでした。

B.救いは求めた
1.異邦人は「義」を求めはしなかったものの、決して救いを求めなかったわけではありません。ただ「救い」が何かがわかっていませんでした。「義」がわかっていませんから、「罪」がわからないのです。そのために問題は山積しても対症療法的な解決を求めるので精一杯で、根本的な罪からの解決に思いは行かなかったのです。
2.神を離れた人間が真の幸福を持つ事はできません。人々はこのわけのわからない何かから「救われたい」と願ってきました。放蕩息子がハッと我に返った状態です。真の神のもとには「真の幸福」があると。

C.信仰による救い
1.神様は「救い」を求める人を見捨てられません。ユダヤ人の救いのためにキリストはお生まれになりましたが、彼らにとってイエス様はつまずきの石でした。
2.ところが、律法を知らない異邦人にも神様は道を開かれ、律法を知らないからこそ、単純にイエス様を信じるようになりました。
3.律法の根本は神様と一緒に生きる聖い生き方であり、それは神様を愛すること、人を愛することです。異邦人はイエス様を愛することを知ったので、救いが与えられたのです。

Ⅲ.イエス様による希望
A.ひたすら信じすがる者を
1.アメリカに行くのに、歩いて行けると思う人はいないと思います。飛行機や船に乗るのが当たり前です。しかし、ここから新宿なら歩けます。歩けると過信した人が、アメリカがどこにあるかもわかっていなくて、歩き始めたとしたらどうでしょうか? 到達できないのです。歩いて行けると勘違いしたわけです。しかし、新宿までも歩くのが大変な人は、アメリカがどこか知らなくても「乗せてください」と飛行機に乗るのです。
2.ユダヤ人は勘違いして、自分の努力で義とされると思ったのです。イエス様がそばに来て、私に乗り込みなさいと言われても、「あなたは人間では無いか!」と、救い主であることを信じなかったのです。
3.ところが、異邦人は、義についても、神についても、救いについても確かに知識は無かったかも知れないけれど、イエス様にひたすら寄りすがったので、救われたのです。

B.神は絶対に救ってくださる
1.放蕩息子が何もできないので、ただ父親のところに帰ってきたのですが、その時、 ルカ15:20 ・・・ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。 とあります。父親がしたように、神様は愛をもって神に立ち返る者を包み込んでくださるのです。 彼に信頼する者は、失望させられることがない。 とある「彼」とはイエス様です。イエス様に立ち返るだけなのです。
2.では、律法は無意味かというと、そうでは無く大事なのです。ただ、人間にはこんな高尚な律法を守ることはできないのです。イエス様だけが到達されたのです。そして、この律法を守るのは神様と共に過ごして成長することで守れるのです(完全にという意味ではありません)。

★ あなたは自分の力で救いが達成されると勘違いしていませんか? イエス様にひたすら寄りすがりませんか。

祈りで変えられる

2015-06-07 16:10:20 | 礼拝説教
2015/6/7礼拝説教
【テーマ】  祈りの真髄
【説教題】 「祈りで変えられる」
【聖書箇所】 マタイ6:5-13
  6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
6:9 だから、こう祈りなさい。
  『天にいます私たちの父よ。
  御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。
  みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。
  私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

○ 私たちはなぜ祈るのでしょうか? また、どのように祈るのでしょうか? イエス様は祈りをどのように教えられたか見ていきたいと思います。

Ⅰ.偽善者のようであってはならない
A.宗教と祈り
1.ある学者はこう言っています。「祈りの無い宗教は無いだろう。むしろ、祈りが有るか無いかが、宗教の世界を芸術や学問や道徳の世界から区別するものであるといって差し支えないかもしれない」と。
2.宗教を信じない人でも「困ったときの神頼み」のようにして祈ったことはあるのではないかと思われます。であれば、クリスチャンというのはまことに祈りの達人なのです。

B.見せびらかす祈り
1.そこで、イエス様はどのような祈りの指導をなさったでしょうか? 祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。 と言われたのですが、偽善者はどのように祈るのでしょうか? 彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。 前回の「施し」と一緒で「見せびらかす祈り」みたいです。
2. 彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 と、言われたように、偽善者の祈りは神に聞いていただくことよりも、「私はこんなにも祈っている」ということを人々に見せたいわけですから、人に見せることで報いは受け取っているわけです。

Ⅱ.奥まった部屋に入りなさい
A.隠れたところにおられる神に祈る
1.次にイエス様は正しい祈りを教えてくださいました。 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。 これを聞いて、自分の奥まった部屋の無い人が押し入れに入って祈っておられます。もちろん、押し入れでなくて良いのですが・・
2. 自分の奥まった部屋 というのは、偽善者の祈りから考えると、祈りは人に見せびらかすものではない、人を意識するのではなく、心を神様に向けることだと思われます。 隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。 と、神様って隠れたところにおられるようです。

B.神様と二人っきり
1.私たちの宝のあるところに心があるのですから、私たちの宝がイエス様であれば、私たちの心にはイエス様がおられるのであって、それだけで私たちは大満足です。
2.しかし、恋人達はただ二人でいる事だけではなく、互いのことをもっと知りたくて、多く話をするのです。私たちはイエス様に完全に知られていますが、私たちはイエス様のことを完全に知っている人はいません。ですから、もっともっとお話しするのです。
3.そういう話は知識を得るためというよりも、その方自身を知るためです。イエス様ご自身の人格に触れるのが祈りなのです。そして、イエス様という人格に触れることでさらにそのイエス様に似ていくのです。

Ⅲ.ただ繰り返してはいけない
A.言葉少なくてよいのか?
1. また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。 と言われました。今度は「異邦人の祈り」ですね。異邦人はどんな風に祈るのでしょう。当時、イエス様の回りの異邦人は偶像の神々に多くの事を語っていたようです。だから、 彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。 と、言われました。同じ事をくどくど繰り返し、何度も言えば聞いてもらえると思ったのでしょう。
2.では、言葉少なくてよいのでしょうか? 神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。 というわけですから、祈らなくても知っておられるなら祈らなくてよいかというとそういうわけではないのです。

B.私たちが変えられる
1.祈りの本質は神様との人格的な交わりです。自分の思いを知っていただくためだけでなく、神様との交わりの中で心温められ、力与えられ、自分が聖く変えられていくことです。
2.異邦人が身近な偶像がなかなか願いを聞いてくれないので、言葉数多く祈るのですが、それは神様が近い存在ではないからです。私たちの神様は私たちの家族、友のように近い存在であり、一緒にいることで私たちが変えられるのです。
3.そこで、イエス様は 天にいます私たちの父よ で始まる「主の祈り」を教えてくださったのです。


★ 私たちは人を意識することなく、深く神様と交わることで、神様の性質をいただいて、聖い人へと変わっていくことが出来るのです。