バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

この山を降りたくない

2019-09-22 16:20:50 | 礼拝説教
2019/9/22 礼拝説教
【テーマ】  天からの声
【説教題】 「この山を降りたくない」
【聖書箇所】 マルコ9:2-13
9:2 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。
9:3 その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。
9:4 また、エリヤがモーセとともに彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた。
9:5 ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
9:6 ペテロは、何を言ったらよいのか分からなかったのである。彼らは恐怖に打たれていた。
9:7 そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」
9:8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、もはやだれも見えなかった。
9:9 さて、山を下りながら、イエスは弟子たちに、人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない、と命じられた。
9:10 彼らはこのことばを胸に納め、死人の中からよみがえると言われたのはどういう意味か、互いに論じ合った。
9:11 また弟子たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っているのですか。」
9:12 イエスは彼らに言われた。「エリヤがまず来て、すべてを立て直すのです。それではどうして、人の子について、多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてあるのですか。
9:13 わたしはあなたがたに言います。エリヤはもう来ています。そして人々は、彼について書かれているとおり、彼に好き勝手なことをしました。」

○ 今日のテキストはイエスと3人の弟子が高い山に登った時の出来事です。山に登る人が大変多いですが、なぜ登るのでしょうか?「そこに山があるから」かもしれませんが、実際高い山に登りますと空気が変わり、景色が全く違います。また人里離れて精神的にも変えられます。山岳信仰があるのもうなずけます。イエス達は山岳信仰者ではありませんが、山は神との交わりの特別な場所ではあったようです。

Ⅰ.イエスの訓練が続く
A.12人からさらに3人を選んで
1. それから六日目に とはいつから6日目なのでしょうか? ペテロの信仰告白、そしてイエスをいさめたためにイエスからペテロはサタン呼ばわりされるほどのことがあってからです。この6日間はどんな6日間だったのでしょうか? 
2.弟子達にイエスが十字架にかかることを語られて、弟子達を教え、訓練しておられるところです。そういう中で イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られ ました。この3人だけに特別な訓練があったということです。

B.神の望まれる弟子になっているか?
1.しかし、イエスの願うようになかなか弟子達は変わらないのです。成長しない。訓練される神様のご苦労がうかがわれるのです。かくいう私もまだまだ訓練中です。
2.イエスは弟子達にどんな訓練をされたのでしょうか? 体育会系の訓練でもカルト系の訓練でもなかったようです。イエスの訓練は「愛」の訓練でした。律法学者達とのやりとりを通しても弟子達は愛の訓練を受けていました。「愛とは何か」ではなく「愛を実践する」という訓練でした。

Ⅱ.イエスの姿が変わる
A.驚きの光景に言葉を失う
1.彼らの目の前でその御姿が変わった。 とあります。これはイエスがご自分で変わったのではなく、原語としては受動態で「変えられた」という言葉です。
2.そして、そこにモーセとエリヤが登場して語り合っておられるのです。ペテロは 「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」 と言います。マルコはここに続けて ペテロは、何を言ったらよいのか分からなかったのである。彼らは恐怖に打たれていた。 と続けています。あまりのすごい光景に言葉を失ったのですが、ペテロは何か言わなければと思ったのでしょうか。
3.ペテロは、イエスとモーセとエリヤの3つの幕屋を造って、このすばらしい状態が続くことを願いました。幕屋を造れば、ここに来ればいつもこのようなすばらしさを味わえると考えたのでしょうか?

B.天の声
1.雲の中からの声 「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」 はバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたときに語られた言葉を思い出すではありませんか。しかしここでは 彼の言うことを聞け と。訓練を受けている最中の弟子達はまさにイエスの言うことを聞かねばならないのです。私たちも同じく、イエスの言うことを聞くのです。
2.そして次に、 9:8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、もはやだれも見えなかった。 とイエスだけがおられたのです。イエスが弟子達を訓練されているのには、旧約聖書の律法と預言者を代表するモーセとエリヤと話しているところを見せるためです。イエスは聖書の言う通りのメシヤなのです。
3.なんとこの山にいることはすばらしいことでしょうか。聖会やキャンプに行って、帰りたくないという感覚なのでしょう。この後、モーセもエリヤも見えなくなりますが、イエスだけ残られます。静けさが戻ってきましたが、感動は満ちたままです。

Ⅲ.イエスがメシヤだと知るために
A.エリヤは来たのか?
1.そしてエリヤの話になったのですが、律法学者がイエスをメシヤと信じないひとつにメシヤのまえにエリヤが来ると信じていたからです。イエスはそのエリヤをバプテスマのヨハネのことだと言われるのですが、律法学者達はそうは思っていないので、イエスもメシヤと信じないわけです。
2.しかし、エリヤのことをイエスはバプテスマのヨハネと言われましたので、その後に来たイエスこそキリストなのです。

B.イエスこそがキリスト
1.このイエスの姿が変わった時にそばにいた3人ですが、イエスの十字架の時にはだれもその真の意味を理解できていませんでした。ペテロに至ってはイエスを「知らない」とさえ言ってしまいました。
2.イエスのそばで教育・訓練されてきた弟子達ですが、ずっと彼らの望むメシヤとしてのイエスに着いていただけで、イエスの望む弟子になっていなかったのです。彼らが真の弟子になったのは十字架と復活の後、ペンテコステの日からです。聖霊を受けたからです。
3.何とすばらしい光景でしょう。天国のようにも思えるこの光景が続くことを願ったでしょうが、この山を降りて彼らは人々にイエス・キリストを伝えるのです。


★ イエスは今も私たちと共にいてイエスの望まれる愛の弟子になることを願って訓練してくださっています。訓練の山を登ろうではありませんか。


自我が砕かれてこそ

2019-09-15 17:13:04 | 礼拝説教
2019/9/15 礼拝説教
【テーマ】  年をとってこそ用いられる
【説教題】 「自我が砕かれてこそ」
【聖書箇所】 出エジプト3:7-12
3:7 【主】は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。
3:8 わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
3:9 今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。
3:10 今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」
3:11 モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」
3:12 神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」

○ 今日は敬老の日を前にしたシルバー祝福式です。新中野キリスト教会では75才以上の方の健康と祝福を祈る時をもっています。日本の高齢化は今までに類を見ない率での高齢化のため、年金、医療、介護等々の面で大変な対策が求められています。人生50年といわれた時代は決して昔のことでは無く、それこそ50年ほど前です。そして今や80才でもお元気な方が大勢いらっしゃいます。聖書で80才から大活躍した人物がいます。モーセです。

Ⅰ.自力からの脱出
A.自分の力では失敗した
1.モーセはエジプトの王子として成長しましたが、成長して自分がイスラエル人であることを知りました。そこで苦役を課せられている同胞を見ては心を痛め、同胞を救おうとし、エジプト人を殺してしまいました。そのためエジプトから逃げることになり、ミディアンに隠れ住んだのです。
2.つまり、彼は自分の力でイスラエル人を救おうとしましたが、失敗したのです。「自分の力でする」というのは大事なことですが、「自分よがり」の自力は問題を起こすことが多いようです。
3.神の力を忘れて自力で頑張るのはどうかと思います。しかし、若い内はどうも自力で頑張りやすいものです。またそうした自力で頑張った結果、失敗して自力だけではやっていけないことも悟るのでしょう。

B.80歳になって召命を受けた
1.ミディアンに逃れたモーセはだんだん落ち着きを取り戻し、結婚もし、子どももできて年をとっていきました。あの時から40年過ぎてモーセは80才。しっかりしていたとはいえ、年寄りになっています。この80才のモーセが神に召し出されたのです。
2.しかし、彼は神の召しに対して強く反発します。殺人を犯してエジプトから逃げてきた身。そのエジプトに戻ることも、またあの時の若さも力強さも無いことなどから、神の召しに対してとても「ハイ」とは言えなかったのです。
3.しかし、失敗したモーセを40年間待たれた神にも計画があったのです。神の不思議なご計画としか言いようがないことが、私たちにもあるではありませんか。自力ではとてもやっていけないということがわかったモーセだから神は用いるのです。神は自我の強い人を用いないのです。

Ⅱ.神と共にある安心
A.神の訓練とご計画
1.神はモーセをその誕生の時からイスラエルの救いのために計画されていました。しかし、そのことをモーセは知るよしもありません。赤ちゃんの時に殺されそうな所を両親の信仰で生き延び、エジプトの王女に拾われ生かされました。エジプトで多くの知識を学び、帝王学も学んだこともイスラエルの救いのためのご計画だったと言えるでしょう。
2.今、年をとって何もできないという人々。ご自分を振り返るとき、全てにおいて神のすごい御計画が合ったことを思い知るのではないでしょうか。失敗だらけの自分だったと言う方。それによって神に委ねることを学んだのではないでしょうか。

B.神が共にいる人生
1. 3:10 今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」 とモーセに言われた神は私たちにも言われているのではないでしょうか? 罪と悪の中に苦しむ人々の救いのために呼びかけておられる神のお声です。
2.今までの人生を自力で来た人もいるでしょう。しかし、人は自力だけでは生きていけないことを色々なことを通して知って行きます。そして、最も大事な方・神が自分と共におられることに気づくことが幸いな人生なのです。
3. 3:12 神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。 と、あなたと共にいてくださるお方です。天に帰るとき、一人で帰る人はさみしいです。さみしいというよりどこに行くのかもわからないでしょう。神が共におられると安心です。

★ 人生の歩みは自我が打ち砕かれることを学ぶものであると思います。自立は大事ですが、自我に生きることを学ぶのは最悪です。自我が砕かれ、神に委ねて生きることを学ぶべきなのです。お年寄りは自分の力で色々なこともできなくなって「お父様!」と神に叫ぶことをするから信仰が輝きます。その生き様は若い人に「自我が砕かれることを求めよう」という意欲を与えるのです。

自分が捨てられますか

2019-09-08 15:49:47 | 礼拝説教
2019/9/8 礼拝説教
【テーマ】  自分を捨てて、福音に生きる
【説教題】 「自分が捨てられますか」
【聖書箇所】 マルコ8:31-38
 8:31 それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
8:32 イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
8:33 しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
8:34 それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
8:35 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。
8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。
8:37 自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。
8:38 だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」

○ 先週はイエスの 「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 という問いかけに対して、ペテロが 「あなたはキリストです。」 というすばらしい答えを言ったのですが、今日はその後、そのペテロに対してイエスの驚くような言葉が出てくるところです。

Ⅰ.福音を消し去りたいサタン
A.イエスはご自分に起こることを話された
1.イエスは弟子達に今まで話したことのないことを話されました。それはイエスが十字架にかけられて殺されることであり、その三日目によみがえることでした。
2. イエスはこのことをはっきりと話された。 と、あります。今まで多くのたとえなどを用いて語ってこられたイエスですが、ここではストレートにご自分の身に起こることを語られました。私たちは今や聖書を通してストレートに聞くことができます。

B.ペテロの背後で働くサタン
1.イエスの話を聞いた弟子達は当然驚きました。先ほどすばらしい発言をしたペテロはそのイエスの発言を否定しました。しかし、それは何もペテロひとりだけのことでは無く、弟子達全員が同じ思いだったのです。
2.ペテロの言葉に対してイエスは 「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 と、まるでペテロをサタン呼ばわりしておられます。 下がれ とは、「前に立つな」「私の導き手になるな」ということで、荒野でサタンがイエスを誘惑したようなことをするな、ということです。
3.ペテロがイエスを思って語った言葉ですが、イエスを亡き者にしたいサタンにとってペテロのイエスを思う言葉は、イエスの心を揺るがすことができる力だと考えたのかも知れません。

Ⅱ.福音に生きるために
A.自分の思いを優先してしまう
1.イエスの語られた十字架と復活の話は誰もが思っていた「メシア像」とは違ったわけです。ペテロがすばらしい信仰告白をしたのは聖霊による信仰からの言葉でした。しかし、今度は自分の思いが優先し、 マタイ16:22 「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」 と言ったのです。
2.私たちも信仰によってすばらしいことも言えるのですが、反対に聖霊によらず、信仰にもよらず、語ってしまうことがあるのです。それはペテロのように背後にサタンが働いてしまうような言葉さえあるということです。常に聖霊に満たされていたいものです。

B.自分を捨て、自分の十字架を負って
1. それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。・・・ という有名な言葉を語られました。この言葉は弟子達だけに語られたのでは無く、むしろ群衆を集めて全ての人に語られたのです。つまり、私たちにも語られていると考えましょう。
2.イエスの言われた 自分を捨て は、自分の思いと違うことをなさろうとするイエスをいさめるような「自分」を捨てることです。自分たちの思うようなメシヤになってもらいたいという思いを捨て、イエスの願われるような弟子になっていくべきなのです。
3. 自分の十字架を負って はまさに命をかけてイエスの願う生き方を決意することです。これがイエスの私たちに願われている生き方なのです。

Ⅲ.福音を伝えるために
A.福音のためにいのちをかける
1.イエスの逆説的な言い方は有名ですが、ここでも 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。 と、一般的な言い方と違った考え方を示されます。
2.ペテロの信仰告白が聖霊に導かれて出てきたように、この言葉も聖霊に導かれて理解できる言葉なのです。それは福音をいただいた者が福音のために命をかけることが問題ではないという生き方になるからです。

B.福音の中に生き、福音を伝える
1. 8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。 と、何が最も大事なのかを人は見失うことがあるのです。命を削って仕事をし、家族を捨ててまでお金に執着する人がいます。いつの間にか人生の優先順位を間違ってしまっているのです。
2.第一とすべき福音。つまりイエス・キリストと共に生きる人生、イエス・キリストと共に死ぬ人生こそ、天国をいただいている人の生き方でしょう。私たちはこの福音を伝えるために生かされているのです。


● 自分を捨てるというのは世の中でもたくさん本が出ています。人は自分を捨てて生きられたらどんなに楽かと思っているのです。しかし、それが難しいために悩み、自分を卑下するのです。サタンの誘惑は巧妙で常に私たちを私たち中心に考えさせようとします。私たち自身の喜びを求めさせます。しかし、神を求め、福音に生きるとき真の喜びに満ちるのはクリスチャンの知っているところです。

★ 私たちは自分を捨てることができるのでしょうか? 聖霊によってでしかできないのです。聖霊は福音のすばらしさを教え、その中に生かしてくださるお方です。このお方に従うのです。

あなたは、キリストです

2019-09-01 18:01:32 | 礼拝説教
2019/9/1 礼拝説教
【テーマ】  イエスは何者
【説教題】 「あなたは、キリストです」
【聖書箇所】 マルコ8:27-30
8:27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイサリアの村々に出かけられた。その途中、イエスは弟子たちにお尋ねになった。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
8:28 彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。」
8:29 するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」
8:30 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒められた。

○ 皆さんはイエス・キリストについてどの程度ご存知でしょうか? かつて大学生でも多くの人がイエス・キリストをアメリカ人だと答えたそうです。そして、実在の人物と思っていなかった人もいたようです。今日、読みました聖書箇所には、イエスが弟子達に自分のことを尋ねておられます。当時の一般の人達の考え、弟子達の考えがわかります。

Ⅰ.イエス・キリストが尋ねた1
A.人々は何と言うか?
1.ピリポ・カイサリアというところまでイエスは出かけて行かれました。ガリラヤから北の方、ヘルモン山の麓です。その途中でイエスが弟子達に聞かれました。普通は弟子達が自分たちの師・先生に質問するものなのですが、ここではイエスから質問されています。
2.その質問というのが 「人々はわたしをだれだと言っていますか。」 でした。当時の人々がイエスを何と思っていたかということはイエスをより深く知る上で助けになると思います。

B.人々の答え
1.イエスのことを人々は色々に思っていたようです。 「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。」 と、ヘロデによって殺されたヨハネと言う人々がいました。ヨハネが偉大だったから、死んでしまったヨハネが生き返ってきたと考える人たちがいたようです。
2.エリヤというのは旧約聖書で有名な預言者であり、ユダヤ人にとっては大事な預言者でした。火の戦車に乗って天に挙げられたので、そのエリヤが降りてきたと考える人もいたのでしょう。またそれ以外の預言者とも考える人がいました。イエスを預言者と考える人が多かったのかも知れません。

Ⅱ.イエス・キリストが尋ねた2
A.弟子達は何と言うか?
1.では、イエスと一緒に過ごしてきた弟子達はどう考えたのでしょうか? イエス様は同じ質問を弟子達にもされました。聖書ではペテロがすぐに答えているようにも読めますが、実際はどうだったのでしょうか? いくらかの沈黙があったのか、それともみんながぼそぼそと思っていることを言ったのでしょうか。
2.弟子達はイエスをまだ神とは信じていません。キリスト(救い主)ということをユダヤの王として、ローマ帝国からイスラエルを独立させてくださる方のように思っていた節があります。
3.イエスがこの質問を弟子達にされた時はまだ十字架も復活も起こっていません。ですから、イエスは私の罪の身代わりに十字架にかかってくださったと言えるようになったのはペンテコステから後です。復活についても同じです。

B.ペテロの答え
1.そういう中で、ペテロは 「あなたはキリストです。」 と答えました。この答をイエスはほめておられるのですが、もう少し詳しく書いているマタイの福音書を見てみます。 マタイ16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。 とあります。キリストの前に 生ける神の子 が付いています。
2.ペテロは今までイエスと共に生活してその体験から答えたのです。それは死んでいる偶像の神でもなく、カエサル(皇帝)でもないことを言っています。
3.またこのペテロの短い答は、神の導きによって語っていますので、イエスに喜ばれているのですが、彼にもまだわかっていないのです。しかし、彼は人間をその罪から救うキリストであると言っているのです。

Ⅲ.イエス・キリストが尋ねた3
A.あなたは何と言うか?
1.想像してみてください。今、皆さんのそばにイエスがいらっしゃるとして、そこで、この言葉 「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 と問われたならば、どのような答をするでしょうか?
2.ペテロと同じ 「あなたはキリストです。」 でしょうか? それとも、「あなたは実在しない人です」「あなたは」神ではありません」「あなたは私を救ってくれません」など色々言えるかと思います。

B.イエスの願い
1.では、イエスが願われる答は何でしょうか? やはりペテロが答えた 「あなたはキリストです。」 なのです。私たちを救うために人となってくださった神であることを心から言えばいいのです。
2.こんな短い言葉でいいのか? もちろん使徒信条くらい言えれば良いのかも知れませんが、知識以上に大事なのが信仰なのです。ペテロ達もまだよくわかっていなかったけれども、イエスを信じたので、イエスに喜ばれたのです。


★ イエスは私たちがペテロと同じように 「あなたはキリストです。」 という告白を待っておられます。