バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

賛美する人に変えられる(祈祷会説教)

2015-05-24 18:19:49 | 礼拝説教
2015/5/24ペンテコステ祈祷会説教
【テーマ】  イエスの御名によって
【説教題】 「賛美する人に変えられる」
【聖書箇所】 使徒3:1-10
  3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
3:2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
3:4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
3:5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。
3:9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
3:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

○ ペンテコステの日に教会が誕生し、どんどん人が救われ、クリスチャンの数が増えました。殺したはずのイエス・キリストが復活したという話は広まり、ユダヤ教の指導者達にすればたまったものではなかったでしょう。イエスの一派を根絶やしにできたと思ったのに、ペンテコステの日より一気に増え広がったのですから。迫害も広まっていきました。そんな中での良き出来事です。

Ⅰ.不運な人生
A.それが当たり前の生活
1.ペテロとヨハネはいつものように午後3時の祈りの時間に宮に向かいました。そこに足の不自由な人が連れて来られて、彼と出くわしたのです。ペテロとヨハネは宮に入ることができましたが、この足の不自由な人は宮に入ることが律法で禁じられていて入ることができなかったのです。
2.彼は金を稼ぐこともできないためにここで物乞いをしていたわけです。彼にとってはその生活は喜びに満ちたものではなかったでしょう。彼にできることは物乞いしかなかったし、それが当たり前の生活だったのです。

B.宮とは無関係の生活
1.彼は、ユダヤ人としての喜びである宮の中に入って祈りの時間をもつことなど一生できないと思い込んでいたわけです。 生まれつき足のなえた という言葉がどれほど重くのしかかっていることでしょう。
2.「アメリカ人に生まれたかった」「女性に生まれたかった」というものから、彼のように「元気な身体で生まれたかった」というように、私たちは生まれつきのものをたくさん抱えているのかも知れません。ある人は「運命」という呼び方で諦めの境地に入ります。
3.私たちはユダヤ人から見れば異邦人であり、ユダヤ人の考えでは神様から見捨てられた存在、救われることの無い存在だったのです。私たちは生まれつきの異邦人で救われない存在だったということです。宮とは無関係の人生を歩んでいたのです。

Ⅱ.人生が変わる
A.宮に入る
1.この男性は自分の人生を諦めていたかも知れません。そして、いつも通りに物乞いをしていたのです。そこで、 3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた のです。その時、「運命」が変わりました。
2.ペテロとヨハネは彼を見つめました。果たして、彼に信仰を見たのでしょうか? それとも単にかわいそうに思っただけなのでしょうか? 詳しいことはわかりませんが、ペテロとヨハネには神様がなさることがわかったのです。そこで、有名な 「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」 と言ったのです。
3.そして、そこから起こったことは 3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、 3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。 です。彼は考えられなかった「宮での祈り」をする事ができるようになったのです。

B.無いからできない人生だろうか?
1.ペテロの言葉は「金銀は無い」でした。私たちは「●●が無いからできない」と言います。「お金が無いからできない」「知識が無いから」「勇気が無いから」・・・と。しかし、ペテととヨハネには乞食をしている彼が助かる(一時的にですが)お金を与えることができないのです。
2.人生を変えるのは、生活をよくするのは、お金でしょうか? この人は 「金銀は私にはない。」 と言ったペテロとヨハネによって人生が変えられました。金銀が救うのではないからです。「無い」ことで与えることのできるものがあるのです。
3.彼らが与えたのは「イエスの名によって」でした。イエスの名に優るものはないのです。足の萎えた彼は癒されました。ユダヤ人の喜びである宮の中に、一生入れなかったはずの彼が入って行けたのです。何という喜びでしょうか。

C.私たちにあるもの!
1.私たちも今や、ペテロとヨハネという聖霊に満ちた弟子によって癒されたこの人のように、運命は変わったのです。イエス様を信じるだけで救われ、聖霊が直接私たちに働いて下さったのです。そのため、私たちは霊的な宮に入ることができるようになったのです。
2.私たちにもペテロやヨハネのように「私にあるもの」があるのです。聖霊が住まわれ、イエス様の御名によって天とつながっているという恵みをいただいています。

Ⅲ.どう変えられるか
A.宮に入る人に変えられる
1.彼は聖霊のバプテスマを受けたとは書いていない。ペテロもそれを与えたわけでは無い。大事なのは彼が賛美しながら宮に入ることです。私たちも聖霊のバプテスマを受ければよいのではない。神を喜び、賛美し、神に近づくことです。
2.ペンテコステ祈祷会を銘打って開くと、何かしら聖霊に満たされる体験だとか、誰かが聖霊のバプテスマを受ける事とかを願いがちになってしまいます。
3.しかし、大事な事は自分で不運だと思い込んで、宮に入ることができないことが当たり前の生活になっている人を宮の中に入ることができるようにすることでは無いでしょうか?

B.賛美する人に変えられる
1.それもこの人のように 3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。 というような、喜んで宮に入ることでは無いでしょうか?
2.この人が聖霊のバプテスマを受けるかどうかは聖霊がなさることであり、私たちが必死になる事では無いのです。

★  3:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。 人々にとっては驚き、あきれるようなことかも知れませんが、イエス様の恵みを体験した人は同じく喜びを体験するのです。

地の果てまでも

2015-05-17 18:55:38 | 礼拝説教
2015/5/17礼拝説教
【テーマ】  神の恵みの選び
【説教題】 「地の果てまでも」
【聖書箇所】 ローマ9:24-29
9:24 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
9:25 それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。
  「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、
  愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。
9:26 『あなたがたは、わたしの民ではない』と、
  わたしが言ったその場所で、彼らは、
  生ける神の子どもと呼ばれる。」
9:27 また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。
  「たといイスラエルの子どもたちの数は、
  海べの砂のようであっても、
  救われるのは、残された者である。
9:28 主は、みことばを完全に、しかも敏速に、
  地上に成し遂げられる。」
9:29 また、イザヤがこう預言したとおりです。
  「もし万軍の主が、私たちに
  子孫を残されなかったら、
  私たちはソドムのようになり、
  ゴモラと同じものとされたであろう。」

Ⅰ.あわれみの器
A.ユダヤ人の誇りとは
1.9:6~29を分割して語ってきましたが、もう一度最初の辺りを思い起こしますと、 9:6 ・・・イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、 9:7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。 9:8 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。 とありました。
2.ユダヤ人は自分たちがアブラハムの子孫、イサクの子孫であることを誇りにしていました。アブラハムから出たとはいえ、約束の子ではないイシュマエルがいます。その子孫ではなく約束の子イサクの子孫であることを誇っていたのです。
3.しかし、 9:10 このことだけでなく、私たちの父イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。・・・ 9:13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。 とパウロは続けました。イサクにはリベカとの間にエサウとヤコブが生まれました。そして、ユダヤ人の常識では長子エサウがアブラハム、イサクの子孫と呼ばれるはずでしたが、神様はヤコブを選ばれました。そこで、ユダヤ人はヤコブの子孫であることを誇りにしています。

B.神様のみこころを行うものが選ばれる
1.ユダヤ人がイサクの子孫だと誇ることにどれ程の意味があるのでしょうか。エサウもイサクの子ですが、神様がヤコブを選ばれたのは、エサウの信仰が本物ではなく、後世につなぐことができないからではないでしょうか。
2.「神様は自分勝手にヤコブを選ぶなんて不公平だなあ」と思ってしまいやすいのですが、神様にえこひいきはありません。神様の愛は一人一人に100%与えられているので、エサウだって愛されています。ただ、エサウの信仰は真っ直ぐでなかったのです。
3.私たちも神様に愛されて、イエス様を信じるだけで天国に行けるわけですが、福音を語らない人生、信仰に生きない人生を過ごすなら、信仰は子孫に継承されないではないですか。

C.私たちは「あわれみの器」
1.どんなにすばらしい器であっても、実はすべて「壊される器」であり、私たちはみんな罪人です。その壊されなければならない器を神様は壊されなかった。ここに このあわれみの器 があるわけです。私たちみんな壊されるはずの「あわれみの器」なのです。
2.形は違いますし、用途も違います。しかし、みんな「壊される器」でした。ユダヤ人はそう考えず、異邦人が「壊される器」と思わっていたのです。
3.しかし、神様は異邦人をも愛しておられ、9:24 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。 と、 あわれみの器 として、神様の働きのために召してくださったのです。

Ⅱ.預言されていた神の計画
A.ホセアの預言
1.それが旧約聖書に預言されていたのです。ホセア書には 2:23 わたしは彼をわたしのために地にまき散らし、『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう。」 とあるように、このあわれみの器 が、9:25-26 に書いてあるわけです。
2.私たち異邦人は神の民ではなかったのです。壊されるべき器だったのです。しかし、今や 生ける神の子ども とされたのです。それは私たちがアブラハムと同じく、神を信じる信仰を持っているからです。

B.イザヤの預言
1.さらにパウロはイザヤの預言を引用しユダヤ人の間違いを指摘します。 9:27-28 は、イザヤ書の 10:22 たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。壊滅は定められており、義があふれようとしている。 10:23 すでに定められた全滅を、万軍の神、主が、全世界のただ中で行おうとしておられるからだ。 の引用です。神に選ばれたユダヤ人が増えても、神様に従わないならば、異邦人と同じ「壊される器」でしかないのです。
2.イザヤは、神を崇めなくなったイスラエルに警告しますが、イスラエルの偶像礼拝は止まりませんでした。その結果、国を失う羽目になり、ユダヤ人は離散民となるのです。しかし、イザヤは、その後に来る神様の救いの計画をも預言したのです。

Ⅲ.実行された救いの計画
A.福音宣教は異邦人の手に
1.異邦人というのはその昔、神から離れてしまい、もう真の神様がわからなくなった人達です。ユダヤ人は、そういう人々にも救いが及ぶように神様のこと、神様の計画を知らせるために選ばれた人達です。ところが、ユダヤ人は選ばれたのは自分たちが優れていてるからであり、救いに価するからだと思い込んだのです。
2.彼らが全世界に出て行って福音を宣べ伝えるべきだったのですが、救い、福音は自分たちだけのものと思い込んで出て行くことをしないばかりか、他の人々を差別したのです。そのユダヤ人が使命を果たさないために、神様は異邦人を用いられるようになったのです。

B.信仰の完成者によって
1. 9:29 はイザヤ書 1:9 もしも、万軍の【主】が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。 の引用でしょう。ソドムとゴモラの壊滅は天から火が下って来て、町全部が滅ぶものでした。まさにそれは地獄を象徴していました。
2.まさに もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら 完全に人類は滅び、誰一人天国に行けなかったでしょう。しかし、神様はノアを選ばれたように、アブラハムを選ばれたように、完全では無いけれど信仰をもつ人を残してくださったのです。
3.そして、完全な信仰者イエス様によって救いの計画は見事に実現したのです。それからは、誰でも信じる人によって世界に真の神が伝えられるようになったのです。

● ペンテコステの日の恵みは、その日、弟子たちが各国の言葉で福音を語ったように、ユダヤ人の中に封じ込められていた、神様の恵みが一気に全世界へと広まったことです。また、その福音の拠点が教会という形でどんどん誕生したことです。

★ 私たちは真の神も知らずただ滅びるしかなかった者です。しかし、「地の果てまで」福音を届けてくれた信仰者によって私たちにも救いが来たのです。私たちはその子孫であり、信仰を受け継いでいるのです。さあ、次はどこに行きましょうか!


陶器師である神

2015-05-10 18:19:18 | 礼拝説教
2015/5/10礼拝説教
【テーマ】  神の恵みの選び
【説教題】 「陶器師である神」
【聖書箇所】 ローマ9:19-24
  9:19 すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」
9:20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。
9:21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
9:22 ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
9:23 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。
9:24 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

○ 前回、神様に主権があるのであって、私たちは完全な愛の神に造られた存在に過ぎないということを語りました。そうすると、私たち人間の意思など意味が無いように思える人が出てくるのも当然です。パウロは今日のテキストでは陶器師と器を通して語ります。

Ⅰ.神の意志は完全に聖い
A.神の完全に聖い意思
1.神様に主権があり、神様が勝手に人間を造ったというなら、 「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」 という気持がわかるではないですか。しかしこういう言い方は、神様がどういうお方かわかっていないからだ、とパウロは言うのです。
2.確かに神様のご意志で私たちは造られたのです。繰り返しになりますが、神様の意思は私たち人間の不完全な意思とは大違いであることをわきまえておきたいと思います。私たちは悪しき思いを持っていますし、誰かを好きになれない、えこひいきするというような感情を持っています。そういう汚れのある意思を、神は全くお持ちでは無いということです。

B.神様の意思は人間と大違い
1.人間は色々なすばらしいものを発明してきました。しかし、残念なことにその良きものが悪用されていることも事実です。ダイナマイトを発明したノーベルは採掘現場で大変な作業をしている人々のためにダイナマイトを造ったのですが、それが戦争に使われてしまうようになったのです。
2.インターネットももとはと言えば、戦争のために開発されたものでした。人の役に立つものもいっぱい造ってきたものの、その反面、人間の心には汚れがあるために悪しきものを造り出してしまうのです。
3.しかし、神にはそういうことはありません。完全に良きものを造られるお方です。神が天地創造をなさった時、 創世記1:31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。 とあります。悪が無かったのです。

Ⅱ.違う器を愛をもって造られた
A.イザヤ書から
1.パウロはユダヤ人なら誰もが知っているイザヤ書から語ります。どのように記されているかと言いますと、 イザヤ29:16 ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ」と言えようか。 であり、 イザヤ45:9 ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、「何を作るのか」とか、「あなたの作った物には、手がついていない」などと言うであろうか。 という御言葉です。
2.器はもちろん意思が無いので、私たちと一緒ではないのですが、このたとえ話はとても大事な話だと思います。器は自分でこんな器になろうと努力したわけではないのです。ただただ、陶器師の思いによって造られたのです。

B.捨てられたりしない
1.陶器師は自分の勝手で器を造るのですが、変なものを造ろうとはしません。私は始めて粘土を菊練りして器を作った時、変なものになってしまいました。焼き上がりを見て、「変」と思いました。それでも自分で作ったものなので大事にしていました。ただ、神学校に行く時に捨てたか???今はありません。
2.下手な人が作ったものでも、そのような思いがあるとしたら、完璧な方が造った器は捨てられるはずが無いのです。私たちのことを「器」で表現されるなら、私たちが捨てられる器であるはずが無いのです。

C.神にえこひいきは無い
1.私たちがひっかかってくるのは 9:21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。 という言葉だと思います。つまり、「私は つまらないことに用いる器 に造られた」「なぜ 尊いことに用いる器 に造ってくれなかったのか」「神様は私に意地悪をしている」というように感情的に思うということです。
2.生まれつき障がいをもっていて一人で生きていけない、あるいは奴隷として生まれて一生奴隷として過ごした人、極貧家庭に生まれて苦しみながら生きた人、戦争で手足を失った子ども達、言い出すとキリが無いほどに私たちは不公平を感じて、それを陶器師である神様に文句を言ってしまうわけです。
3.しかし、神様は全て「良し」として造られたのです。人の目には差別と思えるようでも神様には差別が無い、えこひいきは無いのです。

Ⅲ.神のあわれみの器
A.壊さない神様
1.9:22 ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。 とパウロが言うように、実は罪人と化した人類は誰一人本当は神の元で幸せをいただくことなどできない存在だったと言うのです。
2.神様の造った器が役に立たず、神様の怒りに触れて、壊されてしまうはずだったのです。ところが神様はその器を壊さずに大事にしてくださったというのです。
3.9:23 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。 とあるように、これが「あわれみ」「恵み」なのです。

B.失敗作は無い
1.9:24 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。 そのあわれみの器はユダヤ人も、異邦人も、差別無く、私たちもみんなだということです。
2.ユダヤ人は失敗したわけですが、神様は失敗したから捨てたりしません。その失敗から霊的イスラエルである「教会」が生み出されたのは、神様のあわれみであり、愛の計画なのです。そして、失敗して捨てられても仕方の無いようなユダヤ人が用いられる計画へと進むのです。
3.反対に私たち異邦人はその先祖において神様を捨てたのです。そんな私たち異邦人をも神様は捨てず、後に霊的イスラエルとし、用いてくださったのです。

● 前に失敗から生み出されたポストイットなどの話をしましたが、神様には失敗はないのです。悪魔は人間を失敗させて、神様から捨てられたと思わせます。悪魔は、神様の愛・あわれみ・恵みを忘れさせようとしますが、神様は徹底して愛です。

★ 私たちは神様の勝手で造られたとしても、それが失敗作のように見えても、神様には尊い器で大事にしていただける器であることを覚えようではありませんか。

天に届く施し

2015-05-03 18:06:07 | 礼拝説教
2015/5/3礼拝説教
【テーマ】  天に宝を積む
【説教題】 「天に届く施し」
【聖書箇所】 マタイ6:1-4
6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
  6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
6:4 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

○ 「施し」という言葉から何を連想されますか? 上から目線の行動でしょうか? それとも愛の行動でしょうか?

Ⅰ.見せる行為と隠れた行為
A.見せびらかしたい気持ち
1.善行は良いことなのに、イエス様はその善行の仕方に注意をしておられます。 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。 ということです。 人に見せるために でも 人前で もいけないのです。 そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。 というわけです。
2.当時のユダヤでは宗教上の生活において三大行為と言われるものがあったそうです。それは「施し」「祈り」「断食」だったそうです。今日のところはその「施し」のところです。
3.人に見せるために人前で というのは演劇を見せるようなことをいうわけです。「見せびらかす」「見せ物」ということです。演劇は見せます。ですから、ここは演劇のように善行してはならないということです。演劇のように見せびらかすということはその後に拍手喝采を期待しているわけです。人々からの称賛を得ることで神の報いは無くなると言われるのです。

B.ユダヤの福祉
1.ユダヤでは施しは神の律法として普通に行われてきました。レビ記にはこうあります。 レビ19:9 あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。 19:10 またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、【主】である。 と。日本人なら自分が汗水流して働いてつくった作物だから。自分のために全部収穫して当然と思うところですが、神様は貧しい人のために残しておくように言われたのです。ですから、ルツはボアズの畑でたくさんの麦を拾い集めることができたのです。
2.こうして、ユダヤでは施しをすることはごく普通の事として定着していたのです。ところが、その施しをすることで社会的評価が決まるような風潮になってきたのです。そうすると人々はどうしても人から高く評価されたいという気持ちが湧いてくるのです。そういう名誉心から施しをする人が増えてきたようです。

C.ラッパと沈黙
1. だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。 と言われましたが、ラッパを吹き鳴らすとは、当時、ラビが説教した後、「貧しい人や、やもめに施しをしましょう」と呼びかけますと、「私は500万円寄付します」とか大金を寄付するとラビのところに呼ばれて、「この人は500万円を寄付してくださった」と、大声で会衆に知らされました。回りからは「偉いね!」とささやかれるのです。もっと高額になるとラビの助手のような人が、ラッパを鳴らして「この人は2000万円を寄付してくださいました」と宣伝するというような極端な習慣があったらしいのです。そこで、イエス様は 自分の前でラッパを吹いてはいけません。 と言われたのです。
2.こんな事がある一方で、神殿の中に「沈黙の部屋」というのがあって、施しをしたい人は黙ってそこにお金や品物を置いてくるのです。困っている人はそこにあるお金や品物の中から必要なものだけをもらって帰るということをしていたそうです。

Ⅱ.心の中のこと
A.自分で、自分を称賛しない
1.あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。 とは、変な言い方ですね。自分の右手と左手だからわかって当然なのにと思います。しかし、人間とは不思議な存在で、自分の中にもう一人の自分がいたり、独り言を言って、自分に語っているということがあるものです。
2.「私は善いことをした。善い人間だ!」と自分に言い聞かせて自己満足する。このことかと思います。そこまでイエス様が禁じるとすれば本当に施し一つ取っても難しいものです。

B.心をみておられる神
1.イエス様は結果や表面的な行為で人を評価なさらないお方です。その人の心の奥底にあるものを大事にされます。動機を大事にされます。
2.その有名な例は、ルカ21:1-4に出てくるレプタ銅貨2枚を献げた貧しいやもめの話です。神は心を見られるわけです。
ルカ21:1 さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。
21:2 また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。
21:3 それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。
21:4 みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」


Ⅲ.報い
A.神からの恵みだと知ること
1. あなたの施しが隠れているためです。 と、イエス様が言われるのは、私はこう思うのです。施しができるほどの生活ができる、健康もある、という恵みは自分の努力もあるかも知れないけれど、基本的にこれは神様からの恵みなのです。
2.神様からのものをいかにも自分の力で得たかのように振るまい、見せびらかすのは、自己称賛であって、神を賛美するということからほど遠いことになるのです。
3.神様からいただいたので、自分の必要の他は必要な方に差し上げますというような愛の行為が「敵を愛し」と言われたイエス様のお心では無いでしょうか?

B.神のおほめの言葉だけ
1.では、そういう隠れたところでなされた結果、神からの報酬は何でしょうか? これも私は思うのです。きっと「よくやった、よい忠実なしもべだ」という神様からのおほめの言葉かなと。
2.神からの報酬というと莫大な財宝や住まい等を思うかも知れませんが、天国に住む私たちにはそんな地上で計るものとは違うのです。神様との親密な交わりが一番なのです。

★  報酬、返りみを期待して善行を行うならすでにそれは善行にはならないのかも知れません。神様の恵みはあなたに溢れていませんか?!