2015/5/24ペンテコステ祈祷会説教
【テーマ】 イエスの御名によって
【説教題】 「賛美する人に変えられる」
【聖書箇所】 使徒3:1-10
3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
3:2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
3:4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
3:5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。
3:9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
3:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
○ ペンテコステの日に教会が誕生し、どんどん人が救われ、クリスチャンの数が増えました。殺したはずのイエス・キリストが復活したという話は広まり、ユダヤ教の指導者達にすればたまったものではなかったでしょう。イエスの一派を根絶やしにできたと思ったのに、ペンテコステの日より一気に増え広がったのですから。迫害も広まっていきました。そんな中での良き出来事です。
Ⅰ.不運な人生
A.それが当たり前の生活
1.ペテロとヨハネはいつものように午後3時の祈りの時間に宮に向かいました。そこに足の不自由な人が連れて来られて、彼と出くわしたのです。ペテロとヨハネは宮に入ることができましたが、この足の不自由な人は宮に入ることが律法で禁じられていて入ることができなかったのです。
2.彼は金を稼ぐこともできないためにここで物乞いをしていたわけです。彼にとってはその生活は喜びに満ちたものではなかったでしょう。彼にできることは物乞いしかなかったし、それが当たり前の生活だったのです。
B.宮とは無関係の生活
1.彼は、ユダヤ人としての喜びである宮の中に入って祈りの時間をもつことなど一生できないと思い込んでいたわけです。 生まれつき足のなえた という言葉がどれほど重くのしかかっていることでしょう。
2.「アメリカ人に生まれたかった」「女性に生まれたかった」というものから、彼のように「元気な身体で生まれたかった」というように、私たちは生まれつきのものをたくさん抱えているのかも知れません。ある人は「運命」という呼び方で諦めの境地に入ります。
3.私たちはユダヤ人から見れば異邦人であり、ユダヤ人の考えでは神様から見捨てられた存在、救われることの無い存在だったのです。私たちは生まれつきの異邦人で救われない存在だったということです。宮とは無関係の人生を歩んでいたのです。
Ⅱ.人生が変わる
A.宮に入る
1.この男性は自分の人生を諦めていたかも知れません。そして、いつも通りに物乞いをしていたのです。そこで、 3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた のです。その時、「運命」が変わりました。
2.ペテロとヨハネは彼を見つめました。果たして、彼に信仰を見たのでしょうか? それとも単にかわいそうに思っただけなのでしょうか? 詳しいことはわかりませんが、ペテロとヨハネには神様がなさることがわかったのです。そこで、有名な 「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」 と言ったのです。
3.そして、そこから起こったことは 3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、 3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。 です。彼は考えられなかった「宮での祈り」をする事ができるようになったのです。
B.無いからできない人生だろうか?
1.ペテロの言葉は「金銀は無い」でした。私たちは「●●が無いからできない」と言います。「お金が無いからできない」「知識が無いから」「勇気が無いから」・・・と。しかし、ペテととヨハネには乞食をしている彼が助かる(一時的にですが)お金を与えることができないのです。
2.人生を変えるのは、生活をよくするのは、お金でしょうか? この人は 「金銀は私にはない。」 と言ったペテロとヨハネによって人生が変えられました。金銀が救うのではないからです。「無い」ことで与えることのできるものがあるのです。
3.彼らが与えたのは「イエスの名によって」でした。イエスの名に優るものはないのです。足の萎えた彼は癒されました。ユダヤ人の喜びである宮の中に、一生入れなかったはずの彼が入って行けたのです。何という喜びでしょうか。
C.私たちにあるもの!
1.私たちも今や、ペテロとヨハネという聖霊に満ちた弟子によって癒されたこの人のように、運命は変わったのです。イエス様を信じるだけで救われ、聖霊が直接私たちに働いて下さったのです。そのため、私たちは霊的な宮に入ることができるようになったのです。
2.私たちにもペテロやヨハネのように「私にあるもの」があるのです。聖霊が住まわれ、イエス様の御名によって天とつながっているという恵みをいただいています。
Ⅲ.どう変えられるか
A.宮に入る人に変えられる
1.彼は聖霊のバプテスマを受けたとは書いていない。ペテロもそれを与えたわけでは無い。大事なのは彼が賛美しながら宮に入ることです。私たちも聖霊のバプテスマを受ければよいのではない。神を喜び、賛美し、神に近づくことです。
2.ペンテコステ祈祷会を銘打って開くと、何かしら聖霊に満たされる体験だとか、誰かが聖霊のバプテスマを受ける事とかを願いがちになってしまいます。
3.しかし、大事な事は自分で不運だと思い込んで、宮に入ることができないことが当たり前の生活になっている人を宮の中に入ることができるようにすることでは無いでしょうか?
B.賛美する人に変えられる
1.それもこの人のように 3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。 というような、喜んで宮に入ることでは無いでしょうか?
2.この人が聖霊のバプテスマを受けるかどうかは聖霊がなさることであり、私たちが必死になる事では無いのです。
★ 3:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。 人々にとっては驚き、あきれるようなことかも知れませんが、イエス様の恵みを体験した人は同じく喜びを体験するのです。
【テーマ】 イエスの御名によって
【説教題】 「賛美する人に変えられる」
【聖書箇所】 使徒3:1-10
3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
3:2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
3:4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
3:5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。
3:9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
3:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
○ ペンテコステの日に教会が誕生し、どんどん人が救われ、クリスチャンの数が増えました。殺したはずのイエス・キリストが復活したという話は広まり、ユダヤ教の指導者達にすればたまったものではなかったでしょう。イエスの一派を根絶やしにできたと思ったのに、ペンテコステの日より一気に増え広がったのですから。迫害も広まっていきました。そんな中での良き出来事です。
Ⅰ.不運な人生
A.それが当たり前の生活
1.ペテロとヨハネはいつものように午後3時の祈りの時間に宮に向かいました。そこに足の不自由な人が連れて来られて、彼と出くわしたのです。ペテロとヨハネは宮に入ることができましたが、この足の不自由な人は宮に入ることが律法で禁じられていて入ることができなかったのです。
2.彼は金を稼ぐこともできないためにここで物乞いをしていたわけです。彼にとってはその生活は喜びに満ちたものではなかったでしょう。彼にできることは物乞いしかなかったし、それが当たり前の生活だったのです。
B.宮とは無関係の生活
1.彼は、ユダヤ人としての喜びである宮の中に入って祈りの時間をもつことなど一生できないと思い込んでいたわけです。 生まれつき足のなえた という言葉がどれほど重くのしかかっていることでしょう。
2.「アメリカ人に生まれたかった」「女性に生まれたかった」というものから、彼のように「元気な身体で生まれたかった」というように、私たちは生まれつきのものをたくさん抱えているのかも知れません。ある人は「運命」という呼び方で諦めの境地に入ります。
3.私たちはユダヤ人から見れば異邦人であり、ユダヤ人の考えでは神様から見捨てられた存在、救われることの無い存在だったのです。私たちは生まれつきの異邦人で救われない存在だったということです。宮とは無関係の人生を歩んでいたのです。
Ⅱ.人生が変わる
A.宮に入る
1.この男性は自分の人生を諦めていたかも知れません。そして、いつも通りに物乞いをしていたのです。そこで、 3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた のです。その時、「運命」が変わりました。
2.ペテロとヨハネは彼を見つめました。果たして、彼に信仰を見たのでしょうか? それとも単にかわいそうに思っただけなのでしょうか? 詳しいことはわかりませんが、ペテロとヨハネには神様がなさることがわかったのです。そこで、有名な 「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」 と言ったのです。
3.そして、そこから起こったことは 3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、 3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。 です。彼は考えられなかった「宮での祈り」をする事ができるようになったのです。
B.無いからできない人生だろうか?
1.ペテロの言葉は「金銀は無い」でした。私たちは「●●が無いからできない」と言います。「お金が無いからできない」「知識が無いから」「勇気が無いから」・・・と。しかし、ペテととヨハネには乞食をしている彼が助かる(一時的にですが)お金を与えることができないのです。
2.人生を変えるのは、生活をよくするのは、お金でしょうか? この人は 「金銀は私にはない。」 と言ったペテロとヨハネによって人生が変えられました。金銀が救うのではないからです。「無い」ことで与えることのできるものがあるのです。
3.彼らが与えたのは「イエスの名によって」でした。イエスの名に優るものはないのです。足の萎えた彼は癒されました。ユダヤ人の喜びである宮の中に、一生入れなかったはずの彼が入って行けたのです。何という喜びでしょうか。
C.私たちにあるもの!
1.私たちも今や、ペテロとヨハネという聖霊に満ちた弟子によって癒されたこの人のように、運命は変わったのです。イエス様を信じるだけで救われ、聖霊が直接私たちに働いて下さったのです。そのため、私たちは霊的な宮に入ることができるようになったのです。
2.私たちにもペテロやヨハネのように「私にあるもの」があるのです。聖霊が住まわれ、イエス様の御名によって天とつながっているという恵みをいただいています。
Ⅲ.どう変えられるか
A.宮に入る人に変えられる
1.彼は聖霊のバプテスマを受けたとは書いていない。ペテロもそれを与えたわけでは無い。大事なのは彼が賛美しながら宮に入ることです。私たちも聖霊のバプテスマを受ければよいのではない。神を喜び、賛美し、神に近づくことです。
2.ペンテコステ祈祷会を銘打って開くと、何かしら聖霊に満たされる体験だとか、誰かが聖霊のバプテスマを受ける事とかを願いがちになってしまいます。
3.しかし、大事な事は自分で不運だと思い込んで、宮に入ることができないことが当たり前の生活になっている人を宮の中に入ることができるようにすることでは無いでしょうか?
B.賛美する人に変えられる
1.それもこの人のように 3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。 というような、喜んで宮に入ることでは無いでしょうか?
2.この人が聖霊のバプテスマを受けるかどうかは聖霊がなさることであり、私たちが必死になる事では無いのです。
★ 3:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。 人々にとっては驚き、あきれるようなことかも知れませんが、イエス様の恵みを体験した人は同じく喜びを体験するのです。