新中野キリスト教会礼拝要約 14.2.23
■ テーマ:主の洗礼から
■ 説教題:わたしの愛する子
■ 聖書箇所:マタイ3:13~17
3:13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
3:15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
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<はじめに>
前回は、ヨルダン川でバプテスマを授けたヨハネについて学びました。キリストが来られる道備えをした人です。彼が授けたバプテスマは「悔い改めのバプテスマ」と呼ばれるものでした。今回の箇所は、そのヨハネの元に、主イエスがバプテスマを受けるために来られたというところです。
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<Ⅰ 主のバプテスマ>
(3:13~14)「バプテスマ」って何ですか?と、聞きなれない人は思うでしょう。前回も少し触れましたが、バプテスマとは、「沈める、浸す」という意味があります。ヨハネも神様への悔い改めのために人々を川の水に浸しました。そして、このように神様に背く罪を悔い改めた人々を、真の神につく者であるということを宣言したのです。キリストが人々の前に公に現れるとき、まず最初にヨハネのバプテスマを受けました。本来、イエス様は、神の御子であられ悔い改める必要のない方です。なぜ悔い改める必要のないイエス・キリストがヨハネからバプテスマを受けることを、初めに行ったのでしょうか。
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<Ⅱ 正しいことの模範として>
(3:15)イエス様は、ヨハネからバプテスマを受けることを「正しいことを実行する」と言われました。クリスチャンになる人々へのお手本になるために、イエス様はこのことを行いました。つまり、ご自分を信じて従う人たちが水のバプテスマを受けることの大切さを、身をもって示されたのです。
1.神への悔い改めのため
イエス様がバプテスマをお受けになったのは、イエス様は、罪はなくバプテスマを受ける必要もないのですが、一人の罪人の姿のようになられ、神様への悔い改めをどのように行うかの模範として、バプテスマを実行されました。神への悔い改めを形として表すことは、主ご自身が模範としてされるほどですから、とても大切なことだとよく分かってきます。
以前、この教会で洗礼を受けられた方で、その人は、水の中に入る前に、「古い私よ、さようなら。新しい私よ、こんにちは。」と言って、受けられたそうです。バプテスマとは、正にそういうことです。神を信じていない古い自分は、キリストと共に葬り去られ、キリストと共に復活し、新しい自分に変えられるのです。主が示された模範は、私たちが御霊によって新しくされたこと宣言するものなのです。
2.神への服従のため
第二に、父なる神に従うためでした。ヨハネがイエス様にバプテスマを止めようとしたとき、イエス様はヨハネに「今は受けさせてもらいたい。」(15節)とおっしゃいました。イエス様は、父なる神のみこころを成就するため、父なる神がお定めになったことに従われました。私たちがバプテスマを受けるのも同じです。「心で信じていれば、特にバプテスマを受けなくてもいい」といったことを聞くことがあります。しかし、そうでなないということがこの箇所で分かります。「正しいことだから。」と言われており、イエス様への信仰を公に表すことは、父なる神様のみこころとして正しいことなのです。また、公に信仰を告白することは、生きて働くものとなり、結果的にその人の人生や生活に素晴らしい祝福をもたらすことになります。
3.神の召命の応答のため
そして、第三に、父なる神の召命に応えるためでした。私たちが救いを受けたということは、神様の召命を受けた、つまり神様から選ばれ、呼ばれたということです。
また、イザヤ書42:1~4のみ言葉は、一人の忠実なるしもべの姿があります。神とひとつ心になってその使命を果たし、人々を束縛から解放していく姿が描かれています。この「神のしもべ」こそ、イエス・キリストです。私たちが受けるバプテスマもまた、神からの召命のしるしです。イエス様には使命がありました。十字架の苦難の道のりや、私たちに必要なこと全てを行われ、イエス様の与えられた使命を忠実に果たされました。イエス様がそうされたように、私たちも神様のしもべとなって、自分に出来るご奉仕をしてみたり、イエス様のことを周りの人たちに紹介してみたることが出来るようになるのです。
私には、クリスチャンの大学時代の友人がいました。2年前、ご主人と二人のお子さんに見守られつつ、ガンで召されてしましましたが、私が洗礼を受けるときに、今日のみ言葉にある、イエス様が洗礼を受けられたヨルダン川の水を私にくれました。小瓶に入っていました。これを洗礼槽に入れてもらえば?と言って、私に渡してくれたのです。私は、洗礼式のときに嬉しくてその水を入れてもらいました。その友人は、ガンで寝込んでしまった最期の時まで、自分のお葬式が伝道になることを願って、この世を去りました。私もこんな風に最後までイエス様を証しすることが出来ればと思いました。
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<Ⅲ バプテスマを受けた後>
このように、イエス様は洗礼を受けましたが、主が洗礼を受けた後に起こったことを見てみますと、あまりにも素晴らしい状況があります。どういうことが起こっているでしょうか?(3:16)
1.天が開ける
イエス様がこのように、ヨハネのもとで、バプテスマを受けられたとき、「天が開けて、」とあります。この「天が開ける」という意味を考えると、神がこの世界に介入してくることを表す表現だと言えるでしょう。この「天が開ける」という箇所を読むと、ヤコブが創世28:17の出来事を思い出します。
ヤコブが夢の中で天の門が開かれ、御使いが上り下りした光景です。イエス様自身も、「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上に上り下りするのを、見るであろう」と言われました。天が開けるというのは神との密接な交わりがあることを表しています。私たち人間は、罪が入り、神様との繋がりや交わりが、断絶されてしまいました。しかし、信仰告白によって、神様と断絶されている状態が修復されて、神様が親しく天を開いて、私たちともっと深い交わりをしようとされます。ですから、これから、信仰を持ち、洗礼へと進まれる方は、イエス様に期待して下さい。クリスチャンになって、天と繋がる存在と変えられた恵みを体験するようになるからです。
2.聖霊が鳩のように下る
次に、イエス様に聖霊が下ったとき、聖霊はまるで鳩のようであったと言います。聖霊は水や火、油、そして鳩という風に表現されますが、日本でも平和を象徴しますから、鳩は日本人のイメージもとてもいいものです。「聖霊が鳩のように」は、「鳩」が翼をひろげて舞い降りるときのように、聖霊に覆われるイメージです。イエス様はバプテスマを受けられました。ここから、公の働きが始まります。バプテスマを受けるということは、そこから信仰生活、神の民としての活動が始まります。しかし、一人で行うものではありません。神が私たちと共におられるのです。聖霊が私たち一人一人の上に豊かに下る、それは、バプテスマを受ける者に与えられる聖霊の素晴らしい臨在と油注ぎです。この教会にも多くの方がイエス様を信じて、洗礼まで受けられました。そして、最初は何も分からないものだったでしょう。しかし、そんな人々の内に聖霊が共にいて、どんどん成長へと導いてくださるのです。信じるだけでも素晴らしいのですが、聖霊がこんな風に私たちと共におられ、私たちに聖霊によって歩んでいける力も与えられのです。聖霊は、心からの礼拝を捧げるようにして下さり、私たちの口びるを神様への賛美で溢れさせてくださいます。み言葉や祈りを通して私たちの人格をキリストに似た者へと変えて下さり、人生の荒波を乗り越える信仰へと導いてくださり、天国までの保証を与えられます。全てはイエス様を信じたときにも起こるのですが、洗礼という形で表す時、同時に溢れるほども恵みと祝福を与えてくださいます。
3.「わたしの愛する子」という声が聞こえた
この祝福は、私たちが愛されている子であることの証拠です。「わたしの愛する子」という声、父なる神様の御声がここにあります。この天からの声には深い意味があると言われます。詩編27には「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」というみ言葉があります。また、「わたしの愛する子」という言葉には、「わたしの心にかなった子」ということです。神様の心にかなう愛すべき神の子、これは、人間の世界にあるような、欠点のない優等生のような存在ではありません。神への悔い改めと、キリストへの信仰の道により、私たちは神に愛される存在であるということを知らされます。全ての人が等しく神に愛されていますが、そのことをより一層知るようにされ、素晴らしい神様の祝福を受けることが出来る者とされるのです。それまでの神に背いた人生をやめて神様の方に向きなおしましょう。自分自身の力だけでは難しいものですが、聖霊が働いてくださる時に、神様に従う思いや、呼びかけに応答する思いを主から与えられていきたいと思います。
神様は私たちに「わたしの愛する子」といつでも声をかけたい方なのです。イエス様を信じるとき、私たちは、聖霊の力を受け、聖霊の素晴らしい働きに入れられます。そして、天が開くほどの神様との親しい交わりに入れられ、神様の愛する者として、主がいつも私たちの味方となって下さるのです。私たちの生涯の最も大切な事業は、イエスにあって神の側をいつも選び取っていくことなのです。神様の側をいつも選び取る信仰を頂きましょう。
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<結び>
イエス様が洗礼を受けられた場面は、私たちの信仰にとっても。大切な箇所です。お気づきかもしれませんが、三位一体の神の存在がここにあるからです。イエス様がおられ、父なる神様の御声が聞こえ、聖霊なる方の臨在が鳩として登場します。三位一体の神が信じる者の内に住まわれているのです。三位一体の神がいつも私たちと一緒にいてくださるのです。創造主なる神が私たちと共にいて、人生が切り開かれていく、こんな素晴らしいことはありません。バプテスマは私たちの新しい人生の始まりの象徴なのです。そして、キリストによって始まったこの人生は、キリストによって成し遂げられる人生とされるものです。今週も、神様に愛され、また、神様を愛する人生に変えられたことを感謝し、共に歩んで参りましょう。