バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

わたしの愛する子(岡山志伸師)

2014-02-23 20:12:59 | 礼拝説教

新中野キリスト教会礼拝要約   14.2.23

■ テーマ:主の洗礼から
■ 説教題:わたしの愛する子
■ 聖書箇所:マタイ3:13~17

3:13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
3:15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 

*

<はじめに>
 前回は、ヨルダン川でバプテスマを授けたヨハネについて学びました。キリストが来られる道備えをした人です。彼が授けたバプテスマは「悔い改めのバプテスマ」と呼ばれるものでした。今回の箇所は、そのヨハネの元に、主イエスがバプテスマを受けるために来られたというところです。

*

<Ⅰ 主のバプテスマ>
(3:13~14)「バプテスマ」って何ですか?と、聞きなれない人は思うでしょう。前回も少し触れましたが、バプテスマとは、「沈める、浸す」という意味があります。ヨハネも神様への悔い改めのために人々を川の水に浸しました。そして、このように神様に背く罪を悔い改めた人々を、真の神につく者であるということを宣言したのです。キリストが人々の前に公に現れるとき、まず最初にヨハネのバプテスマを受けました。本来、イエス様は、神の御子であられ悔い改める必要のない方です。なぜ悔い改める必要のないイエス・キリストがヨハネからバプテスマを受けることを、初めに行ったのでしょうか。

*

<Ⅱ 正しいことの模範として>
 (3:15)イエス様は、ヨハネからバプテスマを受けることを「正しいことを実行する」と言われました。クリスチャンになる人々へのお手本になるために、イエス様はこのことを行いました。つまり、ご自分を信じて従う人たちが水のバプテスマを受けることの大切さを、身をもって示されたのです。

1.神への悔い改めのため
 イエス様がバプテスマをお受けになったのは、イエス様は、罪はなくバプテスマを受ける必要もないのですが、一人の罪人の姿のようになられ、神様への悔い改めをどのように行うかの模範として、バプテスマを実行されました。神への悔い改めを形として表すことは、主ご自身が模範としてされるほどですから、とても大切なことだとよく分かってきます。
 以前、この教会で洗礼を受けられた方で、その人は、水の中に入る前に、「古い私よ、さようなら。新しい私よ、こんにちは。」と言って、受けられたそうです。バプテスマとは、正にそういうことです。神を信じていない古い自分は、キリストと共に葬り去られ、キリストと共に復活し、新しい自分に変えられるのです。主が示された模範は、私たちが御霊によって新しくされたこと宣言するものなのです。

2.神への服従のため
 第二に、父なる神に従うためでした。ヨハネがイエス様にバプテスマを止めようとしたとき、イエス様はヨハネに「今は受けさせてもらいたい。」(15節)とおっしゃいました。イエス様は、父なる神のみこころを成就するため、父なる神がお定めになったことに従われました。私たちがバプテスマを受けるのも同じです。「心で信じていれば、特にバプテスマを受けなくてもいい」といったことを聞くことがあります。しかし、そうでなないということがこの箇所で分かります。「正しいことだから。」と言われており、イエス様への信仰を公に表すことは、父なる神様のみこころとして正しいことなのです。また、公に信仰を告白することは、生きて働くものとなり、結果的にその人の人生や生活に素晴らしい祝福をもたらすことになります。

3.神の召命の応答のため
 そして、第三に、父なる神の召命に応えるためでした。私たちが救いを受けたということは、神様の召命を受けた、つまり神様から選ばれ、呼ばれたということです。
また、イザヤ書42:1~4のみ言葉は、一人の忠実なるしもべの姿があります。神とひとつ心になってその使命を果たし、人々を束縛から解放していく姿が描かれています。この「神のしもべ」こそ、イエス・キリストです。私たちが受けるバプテスマもまた、神からの召命のしるしです。イエス様には使命がありました。十字架の苦難の道のりや、私たちに必要なこと全てを行われ、イエス様の与えられた使命を忠実に果たされました。イエス様がそうされたように、私たちも神様のしもべとなって、自分に出来るご奉仕をしてみたり、イエス様のことを周りの人たちに紹介してみたることが出来るようになるのです。
 私には、クリスチャンの大学時代の友人がいました。2年前、ご主人と二人のお子さんに見守られつつ、ガンで召されてしましましたが、私が洗礼を受けるときに、今日のみ言葉にある、イエス様が洗礼を受けられたヨルダン川の水を私にくれました。小瓶に入っていました。これを洗礼槽に入れてもらえば?と言って、私に渡してくれたのです。私は、洗礼式のときに嬉しくてその水を入れてもらいました。その友人は、ガンで寝込んでしまった最期の時まで、自分のお葬式が伝道になることを願って、この世を去りました。私もこんな風に最後までイエス様を証しすることが出来ればと思いました。

*

<Ⅲ バプテスマを受けた後>
このように、イエス様は洗礼を受けましたが、主が洗礼を受けた後に起こったことを見てみますと、あまりにも素晴らしい状況があります。どういうことが起こっているでしょうか?(3:16)

1.天が開ける
 イエス様がこのように、ヨハネのもとで、バプテスマを受けられたとき、「天が開けて、」とあります。この「天が開ける」という意味を考えると、神がこの世界に介入してくることを表す表現だと言えるでしょう。この「天が開ける」という箇所を読むと、ヤコブが創世28:17の出来事を思い出します。
ヤコブが夢の中で天の門が開かれ、御使いが上り下りした光景です。イエス様自身も、「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上に上り下りするのを、見るであろう」と言われました。天が開けるというのは神との密接な交わりがあることを表しています。私たち人間は、罪が入り、神様との繋がりや交わりが、断絶されてしまいました。しかし、信仰告白によって、神様と断絶されている状態が修復されて、神様が親しく天を開いて、私たちともっと深い交わりをしようとされます。ですから、これから、信仰を持ち、洗礼へと進まれる方は、イエス様に期待して下さい。クリスチャンになって、天と繋がる存在と変えられた恵みを体験するようになるからです。

2.聖霊が鳩のように下る
 次に、イエス様に聖霊が下ったとき、聖霊はまるで鳩のようであったと言います。聖霊は水や火、油、そして鳩という風に表現されますが、日本でも平和を象徴しますから、鳩は日本人のイメージもとてもいいものです。「聖霊が鳩のように」は、「鳩」が翼をひろげて舞い降りるときのように、聖霊に覆われるイメージです。イエス様はバプテスマを受けられました。ここから、公の働きが始まります。バプテスマを受けるということは、そこから信仰生活、神の民としての活動が始まります。しかし、一人で行うものではありません。神が私たちと共におられるのです。聖霊が私たち一人一人の上に豊かに下る、それは、バプテスマを受ける者に与えられる聖霊の素晴らしい臨在と油注ぎです。この教会にも多くの方がイエス様を信じて、洗礼まで受けられました。そして、最初は何も分からないものだったでしょう。しかし、そんな人々の内に聖霊が共にいて、どんどん成長へと導いてくださるのです。信じるだけでも素晴らしいのですが、聖霊がこんな風に私たちと共におられ、私たちに聖霊によって歩んでいける力も与えられのです。聖霊は、心からの礼拝を捧げるようにして下さり、私たちの口びるを神様への賛美で溢れさせてくださいます。み言葉や祈りを通して私たちの人格をキリストに似た者へと変えて下さり、人生の荒波を乗り越える信仰へと導いてくださり、天国までの保証を与えられます。全てはイエス様を信じたときにも起こるのですが、洗礼という形で表す時、同時に溢れるほども恵みと祝福を与えてくださいます。

3.「わたしの愛する子」という声が聞こえた
 この祝福は、私たちが愛されている子であることの証拠です。「わたしの愛する子」という声、父なる神様の御声がここにあります。この天からの声には深い意味があると言われます。詩編27には「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」というみ言葉があります。また、「わたしの愛する子」という言葉には、「わたしの心にかなった子」ということです。神様の心にかなう愛すべき神の子、これは、人間の世界にあるような、欠点のない優等生のような存在ではありません。神への悔い改めと、キリストへの信仰の道により、私たちは神に愛される存在であるということを知らされます。全ての人が等しく神に愛されていますが、そのことをより一層知るようにされ、素晴らしい神様の祝福を受けることが出来る者とされるのです。それまでの神に背いた人生をやめて神様の方に向きなおしましょう。自分自身の力だけでは難しいものですが、聖霊が働いてくださる時に、神様に従う思いや、呼びかけに応答する思いを主から与えられていきたいと思います。
神様は私たちに「わたしの愛する子」といつでも声をかけたい方なのです。イエス様を信じるとき、私たちは、聖霊の力を受け、聖霊の素晴らしい働きに入れられます。そして、天が開くほどの神様との親しい交わりに入れられ、神様の愛する者として、主がいつも私たちの味方となって下さるのです。私たちの生涯の最も大切な事業は、イエスにあって神の側をいつも選び取っていくことなのです。神様の側をいつも選び取る信仰を頂きましょう。

*

 
<結び>
イエス様が洗礼を受けられた場面は、私たちの信仰にとっても。大切な箇所です。お気づきかもしれませんが、三位一体の神の存在がここにあるからです。イエス様がおられ、父なる神様の御声が聞こえ、聖霊なる方の臨在が鳩として登場します。三位一体の神が信じる者の内に住まわれているのです。三位一体の神がいつも私たちと一緒にいてくださるのです。創造主なる神が私たちと共にいて、人生が切り開かれていく、こんな素晴らしいことはありません。バプテスマは私たちの新しい人生の始まりの象徴なのです。そして、キリストによって始まったこの人生は、キリストによって成し遂げられる人生とされるものです。今週も、神様に愛され、また、神様を愛する人生に変えられたことを感謝し、共に歩んで参りましょう。

 


暴走列車を救え!

2014-02-16 18:28:50 | 礼拝説教

  2014/2/16礼拝説教
【テーマ】  イエス・キリストの恵み
【説教題】  「暴走列車を救え!」
【聖書箇所】 ローマ5:15-19
5:15 ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。
5:16 また、賜物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。
5:17 もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
5:18 こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。
5:19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

○ この前の箇所で「アダム」がすべての人間の代表で全ての人が罪を犯したこと、その結果が「死」であり、死なない人がいないこと自体が「罪人」である証拠だと語りました。さて、いったいそんな状態で私たちは助かるのでしょうか?

Ⅰ.死に向かう暴走列車
  A.罪の結果、死に向かった
    1.恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、 の ひとりの違反 はアダムの違反(罪)のことです。それによって、全人類が罪人となったわけです。
    2.病気にしても、人間関係のトラブル、悪事、戦争、様々な災い、困難、死など全ての悪いことの根源が「罪」であるわけです。しかし、人は自分が「罪人」だとは認めたくなくて、アダムのせいで被害者になったと思いたいのです。しかし、私たち自身、紛れもない罪人なのです。
   
  B.制御できないで走り続けている
    1.私たちは死に向かって暴走する暴走列車のようなもので、真っ直ぐ死に向かって行くしかない状態なのです。止めに入るものさえなぎ倒し、ひたすら死に向かって走るのです。
    2.暴走していることに気づくまではのんきにしていられるのですが、死に向かって暴走していることに気付くと大慌てするのです。
    3.人類の長い歴史の中で、人々はそのことに気付いて、この罪の解決、罪からの解放を望んできました。が、その結果、多くの宗教も生まれ、ますます混乱したように思えます。宗教を考え出しても暴走列車は止まらないのです。

Ⅱ.暴走列車救出大作戦
  A.死に向かう中にも助けはある
    1.「スーパーマン」の映画で、列車が切れた線路に向かっているのを知ったスーパーマンが、切れた線路の下に入って列車と人々を救う場面があります。
    2.このように、私たちが暴走している時も神様に守られてきたのです。クリスチャンで無かった時も、神様は助けてくださったのです。間一髪を助けられた経験は多くの方々の話に出てきます。これは感謝なことです。
   
  B.いのちの線路が用意されている
    1.しかし、死に向かう線路を走り続ける限り、いつかは「死」なのです。ここから助かるためには、まず、死に向かう線路から、安全な線路に切り替わることと、自分で制御できない暴走を、制御できる方に委ねることが必要です。
    2.そこで登場するのが、スーパーマンではなくてイエス様です。イエス様は「死」と無関係のお方・神様です。つまりイエス様はいのちの線路を用意してくださいました。残念ながらそこを走る列車はありませんでした。みんな「死」の線路を暴走しているのです。
    3.神様の救出大作戦は、この安全な「いのち」の線路に「死」の線路から引き込み線をつけて、みんなを「いのち」の線路に入れ込むという計画です。

Ⅲ.暴走列車が制御される
  A.ポイント切り替え
    1.くじ引きの線が二本あったとして、片方は「死」とあり、片方には「いのち」とあったとしましょう。私たちはみんな最初から「死」の方を進んでいたわけです。
    2.ところが、あみだくじというのはおもしろいもので、横棒一本入れることで別の道に切り替わるのです。これはまさにイエス様の十字架で、死の線路を暴走していたのに、この十字架が入ったことでいのちの線路にいってしまうわけです。
    3.暴走列車を神様が造られた引き込み線にポイントを切り替えていのちの線路に突入できるというわけです。
   
  B.正しい操縦
    1.5:18 こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。 5:19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。  とあるように、神の命令に違反したすべての人(暴走列車)は、神様に従順だったただ一人の人いによっていのちの線路へ、ポイント切り替えができるようになったのです。
    2.暴走列車はいのちの線路に入って、その制御をイエス様にお任せするのです。すべての造り主であるイエス様は、私たちに正しく生きる道を示し、その道を喜ぶ心を与え、意気込みをも与えてくださるのです。
    3. 5:15 ・・・神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。 いのちの線路に入れば、平安です。神様にある多くの恵みが私たちの中に満ち溢れてくるようになるのです。

   
● 

★ あなたもイエス様という線路(道)を歩むように、十字架というポイントでイエス様の線路に入り込んでください。そして、正しく操縦してくださる聖霊に委ねて日々歩みませんか。


私は罪人では無い!・・?

2014-02-09 18:04:40 | 礼拝説教

  2014/2/9礼拝説教
【テーマ】  全人類に及んだ罪
【説教題】  「私は罪人では無い!・・?」
【聖書箇所】 ローマ5:12-14
  5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。
5:13 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。
5:14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。

○ 前に、「私たちは神の敵であった」というお話をいたしました。自分は神の敵であるという自覚は無くとも、神様の言葉に従わないこと、神様を愛さないことで、すでに神の敵であるということでした。同じように私たちは「あなたは罪人です」と言われても自覚に乏しい者です。これがなかなかキリスト教を身近にできない原因でもあるようです。

Ⅰ.アダムは罪を犯した
  A.神によって造られた罪の無い人
    1.私たちが罪人であるという話はどこから来ているのかというと、今日の聖書にあるように ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り というところです。この ひとりの人 とはアダムのことです。
    2.聖書は人間の存在を進化論で教えていません。人間は神によって造られたのです。その最初の人間がアダムです。アダムという名前が固有名詞として使われるまで、アダムは「人」という意味でした。それは「土(ちり)」(原語「アダマー」)から造られたので、「アダム」と呼ばれたようです。
    3.神様によって造られた人「アダム」は良かったのです。つまり罪が無かったのです。アダムから造られたエバも罪はありませんでした。
   
  B.人は罪人となってしまった
    1.では、どうして罪人となってしまったのかというと、創世記2章と3章を見なければなりません。神様はエデンの園にたくさんの木を植えられ、それらの木々は美味しい実をつけていました。二人はその実を食べてよかったのですが、ある1本の木だけは禁止されたのです。 創世記2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」 と。
    2.ところが、蛇がエバを誘惑してきました。エバは神の言葉に忠実であるよりも蛇の言葉を心地良く思って、その実を食べてしまったのです。そして、アダムも食べました。二人は神様の命令を破ったので、彼らと神様との親しい関係は無くなってしまいました。神様の命じられたことを守らないことが罪です。彼らは罪人となったのです。

Ⅱ.全人類が罪を犯した
  A.一人の人によって
    1.アダムとエバの罪がどうして私たちにまで関係があるのか?  と言われることが多々あります。私も正直なところ上手く説明はできません。ある人は罪の遺伝子が代々続くようになったと説明しますが、現代は遺伝子工学も進み、そうした遺伝子を発見すれば取り去ることができる可能性があるのでしょうか? 罪は単に遺伝子的なものだけで説明はできないでしょう。
    2.アダムは人間全員を代表しています。アダムでは無く、私たちであっても、神様の言葉に従わなかったはずなのです。とすればまた、「神様は私たちを罪を犯すように造ったのか?」と、言われてしまいます。というか、私がこの質問を度々してきたのです。ただ、理解して解決したのではなく、信仰で解決しました。
    3. ひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。 とパウロが言うように、全人類が罪を犯しました。自覚は無いけれど、罪を犯す者だという事実は誰もが認めざるを得ないと思います。人間はみんな死ぬという事実は誰もが分かりきっているように、それが罪の結果ですから、死ぬということは全人類に罪がある証拠です。
   
  B.律法が無くても罪はあった
    1.というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。 と、あるように、確かに「それが罪だ」と指摘できるのは律法によってです。律法はモーセの時代に初めて神様から与えられました。あの十戒です。
    2.しかし、十戒は罪がはっきりわかるために文字化されたものでであって、その精神は神様によって教えられてきました。神様の言葉に従わないこと、神様を愛さないことが罪であるのは事実なのです。
    3.反抗期の研究をしていて思ったのは、わずか人生2年や3年の幼子が親の言うことを聞かないのです。その姿を見た時に「あー人間は罪をもって生まれてきたなあ」と思いました。また、自分自身を見ていても正しいとわかっていることがなかなかできない、してはいけないと思うことをしてしまうという姿を発見してしまいます。幼子であっても、成人になったとしても罪は私たちの心を支配しています。

Ⅲ.来たるべき方のひな型
  A.死が支配している
    1.ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。 改めて、この御言葉が語るようにアダムのように罪は犯さなかったと言っても、死が訪れるのです。それは罪があるからです。
    2.十戒によって罪が指摘される前でも「死」があったということは罪があった証拠だと言うのです。つまり、人類は誰一人として死を免れることができないように、「私は罪人では無い」と声を大にして言ってみたところで、罪が無いわけではないのです。
    3.ですから、全ての人はこの罪の問題を解決しないと死の問題も解決しません。アダムが死をもたらして以来、人間には誰も自力で解決できた人はいません。神様によるしか解決は無いのです。
   
  B.解決はあるのか?!
    1.アダムはきたるべき方のひな型です。 というのですが、誰のひな型かというとイエス様です。どういうひな型かというと、全人類を代表しているという点です。
    2.アダムは全人類を代表して罪を犯しました。その一人の人によって罪が全人類に及んだのです。そして、誰一人解決できなかったわけです。
    3.イエス様も全人類の代表ですが、それはこのお一人の身代わりで全ての人がイエス様のように罪の無い姿に変えられる点でです。イエス様一人で罪の問題を解決してくださったのです。

 

★ アダムは人類を代表しているという点でイエス様のひな型ですが、大きな違いがありました。アダムもイエス様の十字架によらねば救われない人でした。同じく、アダムと同じ罪人である私達もイエス様の十字架以外に救いは無いのです。


求む!柔和な人

2014-02-03 07:36:32 | 礼拝説教

  2014/2/2WS礼拝説教
【テーマ】  柔和な人
【説教題】  「求む!柔和な人」
【聖書箇所】 マタイ5:5
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

○ 短い短い聖書の言葉です。前に見た 5:3心の貧しい者は幸いです。 と  5:4 悲しむ者は幸いです。 は理解しにくいけれども、ここの 柔和な者は幸いです。 は納得できそうです。とは言え、柔和な人とはどんな人なのでしょうか?

Ⅰ.柔和な人とは?
  A.柔和の意味
    1.辞書では 「性質や態度が、ものやわらかであること。」とあります。
    2.聖書辞典には、柔和という言葉の元の意味は「卑しい、抑圧された奴隷状態にあること」で、そこから転じて「自分を神の貧しいしもべと見なし、神の意志に完全に服従し、隣人に対しても怒りや傲慢な思いを抱かない状態」と言っています。
    3.英語の聖書では meek(おとなしい、柔和な、温和な、いくじのない、ふがいのない、屈従的な)、humble(謙そん[謙虚]な、偉ぶらない、つつましやかな)、gentle(優しい,、親切な、思いやりのある、厳しくない、寛大な)の3つの言葉が見つかりました。
   
  B.柔和な人の意味
    1.バークレーば注解書の中で、柔和な人のことを「怒るべき時に怒り、怒るべきで無い時に怒らない人」と言っています。そして、「いつ怒るべきか、いつ怒ってはいけないか、という問いに対しては一つの原則があり。それは、自分に加えられた侮辱や損に対しては怒ってならない。クリスチャンは恨んではならないということである。しかし、他人が傷つけられた時には怒らなければならない場合がしばしばある。自分中心の怒りは罪であるが、自我を滅した怒りは、この世の偉大な道徳の力である」と言っています。
    2.塚本虎二はここのところを「踏みつけられてもじっと我慢している人」と訳しています。前田訳は「砕かれた人々」です。
    3.こうしてみてみると柔和な人というのは、自分のために幸せを求めているような人では無く、他の人に幸せを運ぶ人のように見えます。

Ⅱ.柔和な人は幸いなのか?
  A.犠牲的な生き方が幸せか?
    1.ひろさちやさんの「幸福論」という本の中に、インドでは「幸福」という言葉の代わりに「いい状態」という表現を使っているということが書いてあるそうです。不幸は「悪い状態」だそうです。何が「いい状態」で何が「悪い状態」なのでしょうか? どうしても一般的に「いい状態」はお金があって、健康で、トラブルが無いことかも知れません。
    2.とすれば、前に見てきたマタイの福音書 5:3心の貧しい者は幸いです。 と  5:4 悲しむ者は幸いです。 はインドではとても幸福とは言えないわけです。いや、私たちの周りでも同じでしょう。
    3.多くの人は「柔和になれる人は、幸福に満ちているからなれるのだろう」と考えるのではないでしょうか? しかし、どうも聖書が言う柔和はかなり犠牲的な姿に見えます。
   
  B.聖書は柔和な人になることを求めている
    1.ゼパ 2:3 主の定めを行うこの国のすべてのへりくだる者よ。【主】を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、【主】の怒りの日にかくまわれるかもしれない。 とあり、柔和になれば裁きの日に救われるかもしれないようです。
    2.柔和になる事を求めている聖書箇所は、コロ 3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 Ⅰテモ 6:11 しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。Ⅰペテ 3:4 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。 など他にもあります。
    3.人に対する態度も ガラ 6:1 兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。 Ⅱテモ 2:25 反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。 エペ 4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、 などがあります。

Ⅲ.柔和な人はイエス様
  A.本当に柔和な人とは?
    1.新改訳聖書は 民 12:3 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。 と書いていますが、この「謙遜」という言葉は、口語訳聖書では「柔和」となっています。つまり、モーセが一番柔和な人であったようです。
    2.ところが、 ゼカ 9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。 と預言されたのはイエス様です。
    3.イエス様こそ誰にもまして柔和なお方でした。なぜなら ガラテヤ5:22-23 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。 とあり、御霊の実を結んだのイエス様だけですから。柔和の実を結んだイエス様は その人たちは地を受け継ぐから のとおり、この地をサタンから勝ち取られました。
   
  B.私たちも柔和になれる
    1.私たちはとてもイエス様のようにはなれません。モーセのようにだってなれないと思います。「柔和な人」というのは私たちにとってあまりにもかけ離れた姿なのでしょうか?
    2.しかし、私は自分の周りを見回しても「柔和な人」を思いつけるのです。もちろん、イエス様と同等という意味ではありません。.そして、私もやはりその柔和な人が好きです。安心できます。心が開けられます。
    3.でもその本人は自分が「柔和」だと気づいていないかも知れません。柔和とかいう品性は滲み出るものだと思います。イエス様のようにです。時間をかけて実を結ぶものなのでしょう。

● 先日、天に帰られたマクレン先生は柔和な方でした。そばにいるだけでホッとできました。お会いした時はいつも温かな笑顔でしたし、過剰で無いハグをしてくださる先生でした。

★ イエス様にへばりついてる人、イエス様から離れない人、イエス様が好きで、人を愛する人は柔和になってくるようです。 その人たちは地を受け継ぐから。 と、神様もそういう人に安心してこの地を与えてくださるのです。
    最後に詩篇37編34節を読みます。
         【主】を待ち望め。その道を守れ。
         そうすれば、主はあなたを高く上げて、
         地を受け継がせてくださる。
         あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。