バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

主の祈り 5

2015-07-26 17:52:57 | 礼拝説教
2015/7/26礼拝説教
【テーマ】  祈りの真髄
【説教題】 「主の祈り」5
【聖書箇所】 マタイ6:9-13
6:9 だから、こう祈りなさい。
  『天にいます私たちの父よ。
  御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。
  みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。
  私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

○ 今日は主の祈りの最後のところ、13節です。

Ⅰ.試みに会わせないで
A.試み ≒ 試練
1.戦国時代の武将の一人、山中鹿之助は「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に向かっていつも祈っていたという話があります。彼の祈りは、この主の祈りの反対ですね。彼の祈りは強虫の祈りで、主の祈りは弱虫の祈りです。
2. 試み という言葉の原語は「ペイラスモス」で「試練」とも「誘惑」とも訳せます。が、 ヤコブ1:13 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。 とあることを考えると「試練」「試み」という訳が良いのかもしれません。

B.試練を生きる
1.イエス様は 私たちを試みに会わせないで と祈るように勧められましたが、聖書の中で試練に会った人たちはどれくらいいるでしょうか? むしろ試練の無かった人はいないと思います。では、イエス様が言われたこの祈りの言葉は矛盾するのでしょうか? 私たちを試みに会わせないで と祈ったところで、結局のところ私たちは試練を受けるのではないでしょうか?
2.私たちの回りではどうですか? 試練に会わなかったクリスチャンがいるでしょうか? 私の知っているクリスチャンのおばあちゃん、試練が無かったわけでは無いと思いますが、昔の人なので、少々のことは苦にされなかったのでしょう。「私の信仰が成長しないのは試練が無いからだと思う。だから、神様に試練を与えてくださいと祈ったんです」と言われました。そして、実際、なかなか大変なことが起こり、このおばあちゃんは試練を体験することになりました。「先生、やはり、試みに会わせないでくださいと祈る方がいいですね」と言われたのです。
.Ⅰコリ 10:13 神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。 というのが神様からの試練です。祈らずにいて耐えられない試練が来たら困りますね。

C.試練は必要なのか?
1.試練は無い方が良いのです。でも、確かに試練は信仰を成長させますし、その人の徳を高めます。詩篇の記者はこう言っています。119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。 と。
2.聖書の中で大変な試練を経験した一人にヨブがいます。彼はどうして苦しまねばならないのかわからなかったのです。しかも、彼はその試練の中で、慰めに来たはずの友人からもぼろくそ言われます。逃げ場の無い苦しみの中で、彼は友人に反論しながら、神に問いかけていきます。祈る内に、祈りの中で彼は今までわかっていなかった神様の素晴らしさに気付き始めるのです。
3.ヨブだけではありませんが、試練はその苦しみだけで終わるものではありません。必ず、私たちに神様の恵みを覚え、感謝し、幸せを感じるように用意されています。

Ⅱ.悪からお救いください
A.誘惑から遠ざかる
1.試み という言葉の原語は「ペイラスモス」で「試練」とも「誘惑」とも訳せますと言いましたので、もう一つの「誘惑」という言葉も考えてみましょう。ここの文章を直訳すると「誘惑の中に引き入れないでください」となります。神が引き込むことは無いのですが、非常に大きな力が働いて、注意していないと引きずり込まれてしまうものなのです。
2.論語には「君子危うきに近寄らず」という言葉があります。聖書には Ⅰペテ2:11 愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。 とあります。「誘惑」の泥沼に引きずり込まれないように遠ざかるように言われています。

B.イエス様の受けた悪魔の誘惑
1.神様が私たちを誘惑するわけではありませんが、悪魔は誘惑してきます。実はイエス様も悪魔の誘惑に遭われたのです。ルカの福音書4章に詳しく書かれています。食べ物、権力の誘惑と、神様の言葉を自分に都合よく使う誘惑です。この悪魔の誘惑に対して、イエス様は打ち勝たれました。悪魔は敗退したのです。 ルカ4:13 誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。 と書いてあります。
2.この話は私たちの救い主は悪魔に打ち勝たれたお方だということを示していますが、私たちが悪魔に勝つには自分の力・知恵では無理です。この悪魔に勝たれたイエス様と共に闘うしか無いのです。

C.釣り針からはずしてください
1.こんなたとえ話があります。私たち人間を魚に、悪魔を釣りをする子どもにたとえています。そして、私たちは釣り針にかかった魚のようなものだと。名誉欲、物質欲、金銭欲などによって、針についている悪魔の餌を食べて釣り針に引っかかってしまうのです。そこに、子どもの父親がやって来て、かわいそうだから逃がしてやりなさいと言って、子どもから釣り竿を取り、釣り針から外してやって、はじめて魚は自由になれるのです。この 悪からお救いください というのは、「誰か、釣り針から私をはずしてください」とのたうち回っている魚の祈りだという話です。
2.私たちは誰も自分でその釣り針から逃れることはできないのです。この優しいお父さんのように、「逃がしてやりなさい」と釣り針からはずしてくれる人が必要なのです。
3.私たちを自由にしてくださるのは誰でしょうか? イエス様です。 悪からお救いください と祈る時、その私たちの切実な祈りに応えてくださるのがイエス様です。

● Ⅰコリ 10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
  ヤコブ 1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
  ヘブル 12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。


  という言葉があるように試練は、私たちを成長させるためですが、それは誘惑と紙一重かも知れません。

★ イエス様だけが悪魔の誘惑に打ち勝たれたお方です。そして、私たちが悪に引っかかっても、助けてくださるのもイエス様です。この祈りはとても大切な祈りです。


主の祈り 4

2015-07-19 17:39:01 | 礼拝説教
2015/7/19礼拝説教
【テーマ】  祈りの真髄
【説教題】 「主の祈り」4
【聖書箇所】 マタイ6:9-13
6:9 だから、こう祈りなさい。
  『天にいます私たちの父よ。
  御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。
  みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。
  私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

○ 今日は12節を見てみましょう。

Ⅰ.負い目
A.保証人
1.私は弟の娘と息子の連帯保証人になっています。この二人が何かしでかし、親である弟夫婦が支払いできなくなると、私が身代わりに支払うのです。大変です。まさにそれが負債ですね。
2.この連帯保証人制度は日本では問題とされつつも、まだまだ普通です。家を借りる時もそうです。家賃を支払えなくなった時は連帯保証人がその負債を肩代わりするわけです。
3.ですから、こうしたことの金銭問題で仲の良かった親戚や友人との間が切れてしまうことが多々あるのです。負債は人と人との仲を切り裂くことがあるわけです。私たちは罪を犯したために負債を抱えたものと同じで、神様との間が切れていたのです。

B.負い目=罪
1.この原語は「オフェイレーマ」で簡単に言えば「借金」です。主の祈りの 私たちの負いめをお赦しください は、私たちの負債・借金を無くしてくれという祈りです。普通は無理でしょう。しかし、神様にこの祈りをしてよろしいとイエス様は言われるのです。
2.もちろん、ここは神様に対しての負債ですので、地上での借金とかではないのです(人とのことはやはり責任をもって返済すべきです)。
3.では、この負債 負いめ は何なのか? ルカの福音書では ルカ11:4 私たちの罪をお赦しください。 とあります。「罪」です。神様に対して私たちはみんな負い目「罪」を持っています。この罪を赦してほしいと願ってよいと言われているのです。

Ⅱ.赦すことができるか
A.怒る人
1.許すことに関する本がたくさん出ている反面、新聞や本に、「最近、怒る人が増えている」と書かれていました。詳しい原因はわからないのだと思いますが、社会の変化で多様化したために、自分が普通だと思っていることが他の人には普通で無かったりして、ストレスが生じるらしいのです。
2.高校生が、中学生のことを「最近の若い連中の話はわからん」と言うのですから、単なる世代間ギャップがあるというような話ではないのです。
3.また、車の事故は先に怒った方が勝ちだということを聞いたことがあります。「すみません」と言ったら負けになるらしく、こうした事が、怒るけれども謝らないということの原因となっていると言う人もいます。

B.赦せない
1.今の時代というのは戦後70年なのですが、未だに多くの問題が残っています。戦争がいかに醜いか、人の心をめちゃくちゃにするかがわかります。未だに責任の取り方が良くないという話、「謝罪せよ」と叫ばれる話、多々あるではないですか。
2.戦争だけで無く、愛する家族を奪われたり、自分の人生をめちゃくちゃにされた人はその憤りをどこに持っていっていいかわからないのです。いくら言葉での謝罪があったとしても、納得いかないことが多いのです。
3.人は赦すことがとても苦手です。怒ることは簡単なのです。そして、怒ることがごく普通になっているのです。「あの人だけは絶対に許せない」という言葉をどれほど聞いたことでしょうか。

C.神の赦し
1.では、神様がそのひとり子イエス様を殺されたことで怒られたら、人間はどうなるでしょうか? イエス様には罪はありませんでしたからその死刑はまさに冤罪です。相当の怒りが全人類にくだってもおかしくないのです。
2.しかし、神様は赦すことばかり考えてくださいました。イエス様が身代わりに死んででも私たちを赦そうとされたのです。事実、十字架の死は私たちへの赦しを実現しました。だから、 私たちの負いめをお赦しください と祈ってよいのです。

Ⅲ.私たちも赦しました
A.われらがゆるすごとく
1.さて、 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました を、どのように読めばよいでしょか? われらに罪を犯すものを、われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ ですから、私も赦しましたから、私のことも赦してください、ととれます。「○○したから救ってください」ということであれば、それは福音ではないのです。
2.第一次世界大戦の時、ベルギーは中立を表明していました。が、無法にもドイツ軍がベルギーを攻撃し、侵略しました。ドイツ軍の攻撃を受けたある町で、その次の日曜日に教会で礼拝が始まり、いつものように主の祈りを会衆一同が唱え始めました。ところが、この箇所に来て、主の祈りが止まってしまったのです。「われらに罪を犯すものを、われらがゆるすごとく、」が祈れなかったのです。しばらくの沈黙が続いた後、誰からともなく「われらに罪を犯すものを、われらがゆるすごとく、」という声が出ました。皆ハッとして主の祈りが最後まで続けられたそうです。

B.私は赦せるのか?
1.私もこの主の祈りの 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました はすごい言葉だと思うのです。神様に私たちの罪を赦してもらうことができるのですが、私たちも赦さねばならないのです。できるでしょうか? 基本的に私たちは赦すことができない存在なのです。ここに多くのクリスチャンは心の闘いを覚えるのです。
2.あなたがたは地の塩です。世界の光です。と言われたイエス様は、私たちにイエス様と同じ性質をくださったのです。それは聖霊の内住によってです。

● ペテロがイエス様に聞いた話、 マタイ18:21-22そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。 とあり、その続きは、王様が1万タラントの借金のある人を赦したのに、その人が100デナリ借りのある人を牢獄に入れた話です。

★ イエス様は私たちを完全に赦してくださる方です。この愛を受けた者はイエス様と同じ愛の心を持つことができるようにされたはずなのです。


主の祈り 3

2015-07-12 18:23:50 | 礼拝説教
2015/7/12礼拝説教
【テーマ】  祈りの真髄
【説教題】 「主の祈り」3
【聖書箇所】 マタイ6:9-13
6:9 だから、こう祈りなさい。
  『天にいます私たちの父よ。
  御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。
  みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。
  私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

○ 子どもセンターの子ども達は2歳~3歳です。その子たちがおやつの前、お弁当の前にお祈りをします。しっかりと手を組んで祈るのだそうです。神様がこの子達のお祈りを喜んでおられることがわかります。
  さて、主の祈りの3回目です。すでに9-10節を終えました。今日は11節を見てみましょう。

Ⅰ.生きるか死ぬか
A.死活問題
1.私たちは食前の祈りはしても、主の祈りを唱える以外に 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 と、祈ることはあるでしょうか? 食べることにほとんど問題を感じないこの時代、この日本。ファーストフードやコンビニですぐに食べられるものもたくさんあります。
2.ハイキングに行った時、田舎の駅で降りました。駅前にコンビニがあるだろうと気楽な気持ちで行きましたら、駅前には何も無い、ドリンクの自販機だけでした。思わず、「今日の昼食を与えてください」と。
3.しかし、コンビニなどの無い時代、それどころか飢饉にでもみまわれたら死活問題という時代です。この祈りが必要だとわかります。

B.次のパン
1.「糧」という言葉は、ギリシャ語では「パン」という意味です。英語の聖書では【NIV】Mat 6:11 Give us today our daily bread. としています。「デイリー・ブレッド」です。
2. 日ごとの糧 と訳していますが、「日ごとの」が、エピウーシオンというギリシャ語で、聖書にはここにしか無いことばで、当時の一般文書でも一つしか見つかっていない言葉といわれています。それは「買い物のリスト」らしいものに書かれており、「その日に必要なもの」ということで使われているようです。
3.直訳では「次のパン」となるようですが、私たちは「次のパン」もたいてい問題無く保証されています。しかし、当時の貧しいユダヤ人にはそれが無かったのです。

Ⅱ.次のパンの無い人のため
A.次のパンが無い
1.レプタ銅貨2枚を献げたやもめのことも ルカ21:4 みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」 と言われています。彼女は献金をしたために次のパンが無くなったのです。
2.貧しい人にとって「次のパン」は本当に必要なものです。そのパンが無いとその次の日のパンのために稼がなくてはならないのです。
3.かつて阪神大震災の時、西宮の鳴尾教会から自転車で神戸に向かって走りました。荷台とリュックにおにぎりや水、電池などを積んで走ったのです。大変な状態でした。私たちの持っていったおにぎりを何と喜んで頂いたことでしょう。なにしろ「次のパン」が無かったのですから。

B.自分のためで無く
1.ダイエットとか言って食事を無理に減らす人達には「明日の食事」が無いことがどんなに心細いかわからないかと思います。私は小学生の時に見たニュース映画でアフリカなどの貧しい地域の人達が食べるものがなく、実際に年寄りを山に捨てに行っている映像などを見ました。また、普通では食べられないと思うものを食べている人達の映像を見たのです。最近では、石を食べている子どもたちの映像を見ました。どれもショックでした。
2.彼らは、このイエス様の教えた主の祈りの 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 を祈っているのでしょうか? 本当に切実な思いだと思います。心の中で叫んでいると思います。
3.その人たちのためにも「次のパン」を祈るのは私たちの仕事なのかも知れません。

Ⅲ.いのちのパンのためにも
A.御言葉の飢饉
1.イエス様が確かにパンを祈るように言われたのですが、イエス様ご自身が ヨハネ6:48 わたしはいのちのパンです。 と言われています。イエス様ご自身が「パン」です。私たちはパン(ご飯)を食べて生きていくように、神の言葉・イエス様で生きています。神の言葉・イエス様無しに私たちは生きていけないのです。
2.神の言葉の飢饉があるのです。 アモス8:11 見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、【主】のことばを聞くことのききんである。 と。現代日本は食べ物はたくさんあるのかも知れません。しかし、この預言者の言葉のように「神の言葉を聞く人」はどこほどいるのでしょうか? まさに 【主】のことばを聞くことのききん なのではないでしょうか。それこそ死活問題です。

B.私たちがいのちのパンを届ける
1.戦後、日本が大変だった頃、アメリカなどのキリスト教会は日本人のためにと食料や品物を届けてくださいました。さらに、命の糧である聖書の言葉も届けてくださったのです。多くの宣教師が来て、福音を広めてくださったのです。
2.現代も命の糧を必要としている多くの人がいます。その人々に命のパンを届けるのは私たちの仕事ではないでしょうか?

● 現代の日本は、食べ物は豊かにあるのに、家族揃って食事をすることが少ないことが危惧されています。その食事環境は子どもたちの精神衛生上の問題を語っています。食べるものがあればよいわけでは無いのです。教育の諸問題を見ても、子ども達に早くから色々なことを教えて知識を詰め込んでいきますが、疲れ切った子ども達、希望を無くした子ども達がたくさんいます。彼らに必要な「いのちの言葉」は誰が届けるのでしょうか?

★ イエス様というパンを人々に届けるのは誰! 私たちです。

主の祈り 2

2015-07-05 18:40:51 | 礼拝説教
2015/7/5WS礼拝説教
【テーマ】  祈りの真髄
【説教題】 「主の祈り」2
【聖書箇所】 マタイ6:9-13
6:9 だから、こう祈りなさい。
  『天にいます私たちの父よ。
  御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。
  みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。
  私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

○ 前回は主の祈りの9節のところで終わりました。今日は10節を見てみましょう

Ⅰ.御国が来ますように
A.御国って何?
1.御国とは神の国のことで、世の終わりの時、つまりイエス様の再臨の時、この世が変えられて実現する国のことです。英語の聖書では 【NIV】your kingdom come と訳されています。 kingdomは 原義:王(king)の領地(dom)とあります。
2.日本では王様がいませんが、今も王制をとっている国はあります。聖書の時代はイスラエルもサウル王から王制(王政)でした。そしてダビデ王のような王がもう一度現れることを願っていました。
3.イエス様の時代にはローマ帝国の支配の中にありましたので、イスラエルは属国としてローマ帝国の支配の中にありました。ローマ帝国には皇帝と呼ばれる支配者がいたのです。

B.神が支配される国
1.そのような社会情勢の中でプライドの高いユダヤ人はイスラエル王国の王様を待ち望んだのです。ということはイエス様が教えたこの祈りに関して、ユダヤ人は「御国」を正しく理解したでしょうか? ダビデのような王様が現れてすばらしい統治をしてくれることを願って祈っていたということはないでしょうか?
2.原語の βασιλεία(バシレイア)は、「支配」という意味があります。王政の国では王様が支配していましたから、「御国」は神様の支配する国という事になります。こういう王制がとられている国では王国として意味がわかりやすいのかも知れませんが、私たち日本人にはピンとこないところがあります。
3.つまり、「御国」とは神様が王様である国です。神様がすべての権威をもって支配される国です。神様には間違いが無く、義と愛に満ちておられるので、その国は完璧な国で、その国民は誰一人として不自由を感じないし、嫌な思いをすることがないのです。

C.完全な神の国
1.イエス様がこの祈りを教えられたのは、支配されるお方がそういうすばらしい全知全能の神であることを完全に知っておられたから勧められた祈りです。王様によって国は変わってしまいます。人間には完全な人はいませんから、誰が王になってもなにがしかの問題はあるものです。
2.しかし、神様は完全なお方です。その神様が王としての支配をされるので、完璧、完全な国になるのです。ですから、イエス様が求めるように言われたのは御国、神の国なのです。

Ⅱ.みこころが地でも行われますように
A.天ではみこころがおこなわれている
1.みこころが天で行われるように とイエス様が言われたので、天国では神様のみこころが行われているわけです。みこころとは神様のご意志、御計画、思いですから、神様の考えたことは全部そのまま実現しているわけです。
2.私たちは自分の思ったことがそのまま実現するということはそうはありません。もちろん実現させようと努力をしますが、そうは上手くいかないものです。しかも、私たちの願うこと、思うことは自分勝手であったり、良くないことも多いものです。

B.地でも行われますように
1.イエス様がこの祈りをするように言われているのは、みこころというのはとてもすばらしいからです。天ではいつもみこころが行われていて、最高の幸せがあり、喜びがあり、平和があるのです。だからこの地上にもそれがあるように祈れと。
2.幸福、喜び、平和を求める事は多々あるかも知れませんが、人は自分が幸福で、喜べて、平和なら良いと思っているのです。地上全部でなくても何らかまわないのです。しかし、イエス様は地上全部を意識しておられます。
3.そして、人は幸福や平和を求めて祈るかも知れませんが、「みこころがなるように」とはなかなか祈りません。神学生の時、弓山喜代馬校長が学生を明治神宮に連れて行ってくださいました。絵馬が一杯ありました。「○○大学合格祈願!「○○さんと結婚できますように」等の中に、アラビア語で「世界が平和になりますように」と書いてあるのがありました。しかし、「神様のみこころがなるように」というのはあるのでしょうか?

C.私たちも神様のみこころの中に生きている
1.あなたにも神様のみこころ、つまり神様の計画があります。あなたがこの地上に生まれたこと自体すでにみこころなのです。たとえ、それが大変な障害を身に帯びて生まれた人であってもなのです。
2.その人の人生のためだけならば、かわいそうにも思えますし、神様の不公平を感じます。しかし、神様のみこころは全世界的な計画です。どんな人でも神様は愛しておられ、御計画をお持ちです。
3.みこころが天で行われるように地でも行われますように。 と、心から祈るようになる時、私たちは自分の人生が単に自分のものだけで無く、人々のために役に立つ神様の御計画の中にあることを知っていくのです。

● イエス様が十字架にかかられる前、 マルコ14:36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」 と祈られました。「杯」とは十字架刑のことです。イエス様は十字架にかからなくてもよい方でしたし、その場を逃れることも簡単にできました。しかし、十字架にかかることが神様のみこころだとイエス様は知っておられました。でも、 取りのけてください と祈られました。が、その後の祈りの言葉が特に大事なのです。 しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください と、神様のみこころを行っていただくことを優先されたのです。十字架にかかることのどこがすばらしいことでしょう、祝福でしょうか。でも、イエス様にはすべての人のためになることと分かっておられました。

★ みこころを天で行っておられる神様はこの地上にもみこころをなすことを願っておられます。それを祈り求めるのは私たちなのです。あなたの地上での人生が神様のみこころのままになる事を祈っていきませんか。