バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

祝福される人とは

2018-09-16 16:22:54 | 礼拝説教
2018/9/16礼拝説教
(シルバー祝福式)
【テーマ】  キリストにある人生
【説教題】 「祝福される人とは」
【聖書箇所】 マルコ4:3-9、14-20
【新改訳2017】
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4:4 蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
4:5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったのですぐに芽を出したが、
4:6 日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった。
4:7 また、別の種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びてふさいでしまったので、実を結ばなかった。
4:8 また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
4:15 道端に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。
4:16 岩地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、
4:17 自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。後で、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
4:18 もう一つの、茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、
4:19 この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。
4:20 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」

○ 今日はシルバー祝福式です。しかし、今日のテキストは子ども達にもよく知られている「四つの種」とも「四つの土地」とも言われているイエスのたとえ話です。イエスがお話になっていたその時にも子ども達がたくさんいてイエスのこのお話は子ども達もよく分かるお話だったのではないでしょうか。とすれば、イエスは子ども達に向かってどのようにお話しなさったのかと興味深く思います。

Ⅰ.私たちの心はどんな土地?
A.四つ
1.種蒔く人・農夫がたくさんの種を蒔いていますので、「四つの種」というよりは「四つの土地」という方が正しいと思うのですが、一つ一つの種がどうなったかということから考えれば「四つの種」と考えても良いでしょうね。
2.四つの土地の内、神が望まれるのは最後の「良い地」だけです。後の三つは違った土地ではあるものの、どれも実を結ばない点で同じです。

B.実を結ぶ土地になりたい
1.子どもでも「良い地」に蒔かれた種は生長して実を結ぶことは分かっていました。ただ、当時の農法では一粒の種からとれるのは十倍くらいだったそうです。ですから、 三十倍、六十倍、百倍になった と言われたイエスの言葉に子ども達も驚いたと思います。
2.とすれば、子ども達だって「良い地になりたい」とも思ったのではないでしょうか。イエスの話を聞いた大人たち、シルバーの人たちはどう思ったでしょうか? 自分の心は「良い地」だろうかと考えたでしょうか。

Ⅱ.わたしの心を振り返って
A.三つの土地を通ってきた
1.私はこの四つの土地を考えた時、自分に照らし合わせてみました。今の私の心は「良い地」なのかどうか? 自分の心は良い地かどうかはわからないとして、他の三つの土地は体験したように思うのです。
2.道端 4:15 道端に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。 子どもの時に日曜学校に行ったのです。聖書の話も聞いたのです。しかし、女の子ばかりだということですぐにやめてしまい、それっきり18歳まで教会に行かなかったのです。
3.岩地 4:16 岩地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、4:17 自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。後で、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。 18歳でクリスチャンになり教会に通うようになりました。その頃は大変喜んでいましたが、知識も信仰も不十分でどんどん落ち込みました。
4.茨の地 4:18 もう一つの、茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、4:19 この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。 これに当てはまるかどうかわかりませんが、聖霊のバプテスマも受けたのに、神様の存在も疑わなくなったのに、教師としての生き方に燃えて、キリスト者として証しが立っていなかった時期を思い起こすのです。
5.自分の中にこういう三つの土地があったように思えます。果たして「良い地」になっているのでしょうか? 30倍の実を結んでいるのでしょうか?

B.御言葉の種はたくさん蒔かれた
1.私たちは一粒の御言葉の種をいただいただけでは無く、多くの種が蒔かれたのではないでしょうか。そしてある時期の自分は道端のようであって、芽を出す前に鳥に食べられてしまって御言葉の影響力を受けなかったという経験、少し成長して、受けた御言葉の種が芽を出す経験をしたのだけれど心が頑固な岩地で、根付かなかったこと、さらに成長してものの、様々な誘惑で成長しきれなかったこと。
2.しかし、感謝なことに御言葉はたくさん蒔かれ、それをいただいてきたお陰で、その一つが芽吹き、成長したのであればなんと感謝なことでしょう。

Ⅲ.シルバーの方々の心
A.様々な体験を通して
1.もしかして、シルバーの方々にも私と同じような経験があるかも知れません。すべて信仰生活が順調というのは理想ですが、この世に生きるかぎり、色々な事に悩まされ、心も波立つものです。
2.とすると、道ばたも岩地も茨の地も体験して来られたものの、シルバーになって今、神の前にいらっしゃるということはすばらしいことではないですか。それこそ実を結んでいるということなのです。

B.肉的力を失って
1.シルバーの方々というのは、今までの若い時に色々なことができたし、知識も蓄えたと思うのです。しかし、それができなくなってきた、蓄えたはずの知識も薄れてきたのではないでしょうか。
2.しかし、若い時に多くの人生経験を積み、道ばたも岩地も茨の地も体験して、多くの反省をした人でもあるのです。つまり、たくさん悔い改めをした人でもあるわけです。そこではじめて分かる、はじめて言える信仰の世界があるのです。そして今や良い地となって御言葉が100倍の実を結ぶのを見ていらっしゃるのではないですか。

● シルバーの皆さんは人生で色々大変なところを通ってこられたと思います。特に子ども、孫のことを思うと時に心辛く、たまらないような思いになったこともあったかと思います。あるいは、自分の体の辛さ。時には長生きしたくなかったとさえ。しかし、その全てに神の恵みと祝福があったことを思い起こしたいですね。神は皆さんを祝福し、皆さんの子孫まで祝福されています。 出エジプト 20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。 と、ここには1000代までと。つまり永遠です。神に従う皆さんの子孫もエイ会陰に祝されるのです。

★  みことばを聞いて受け入れ る人。あなたの人生は祝福されています。

教会は神の家族

2018-09-09 16:59:25 | 礼拝説教
2018/9/9礼拝説教
【テーマ】  キリストの教会
【説教題】 「教会は神の家族」
【聖書箇所】 マルコ3:31-35
【新改訳2017】
3:31 さて、イエスの母と兄弟たちがやって来て、外に立ち、人を送ってイエスを呼んだ。
3:32 大勢の人がイエスを囲んで座っていた。彼らは「ご覧ください。あなたの母上と兄弟姉妹方が、あなたを捜して外に来ておられます」と言った。
3:33 すると、イエスは彼らに答えて「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と言われた。
3:34 そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。
3:35 だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」

○ 教会は「神の家族」と言われます。そのように言われる起源ともなったイエスの言葉が今日のテキストにあります。

Ⅰ.私たちもイエスの親戚
A.理解していない肉の家族
1.身内の人たちもイエスを理解してくれなかったようですが、そんな中、イエスの母と兄弟が来たとのこと。兄弟達も兄イエスを理解していなかったと思います。では、母マリヤはどうだったのでしょうか?
2.マリヤとヨセフはイエスが不思議な方法で誕生した神の子であることを知っています。いつかメシヤとしての働きをなすことを知っていましたから、30歳になったイエスの活動を理解したと思うのですが、マリヤの思っていたような感じでは無かったかも知れません。

B.イエスの言う新しい家族
1.家族が来た時にイエスは 3:33 すると、イエスは彼らに答えて「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」 と言われました。イエスの不思議な質問の一つですね。 「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」 と、イエスは家族も分からなくなるほどおかしくなったのかと思われるような発言です。
2.しかし大事なのは、イエスのそばにいた人達をさして ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。 と言われたことです。それは、私たちもイエスの身内、親戚にしていただいたということです。
3.俳優、タレントなどテレビに出る人が親戚だと、それが相当遠い親戚でも、そう人がいると「あれは私の親戚なんだ」と誇りたくなったりします。イエスから私たちを家族と言っていただけるのはすごい誇りではないでしょうか。

Ⅱ.神の家族は神のみこころを行う人
A.みこころを行うのが家族らしい
1.イエスが、イエスの周りにいる人を指して家族と言われたのですが、そこには だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです と続きます。これは今の私たちクリスチャンには分かる言葉です。しかし、イエスの周りに来ていた人たちが神のみこころを行っていたのでしょうか?
2.神のみこころを行うことはクリスチャンの願いであり、また行うべきです。しかし、ここでイエスが家族と言われた人たちはそういう人でしょうか? イエスに癒やして欲しくて集まった人たち、イエスを見たくて集まった人たちではないでしょうか? 

B.みこころとは?
1.クリスチャンの中でも「私はみこころを行っていない」と悩む人があります。では、みこころとは何でしょうか? パウロはこういう言い方をしています。【新改訳改訂3】Ⅰテサ 4:3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。 と。もちろんみこころはこれがすべてではありません。個人的な神のみこころもあるでしょう。
2.しかし、イエスが人となってこの地上に来られ、十字架にかかってくださったことを思うと、イエスを信じることがみこころとも言えます。イエスの周りに集まった人たちはイエスを理解しなかったイエスの身内よりも信じたのではないでしょうか。
3.しかもここには大人だけでなく、子どももいたと思われます。病人、色々な辛さを抱えた人たちもいたと思われます。そういう人達を家族と呼んでおられるのです。イエスの周りに集まることこそみこころと言えるのではないでしょうか。だとしたら、皆さんもイエスの所に来ているだけでみこころを行う人なのです。

Ⅲ.イエスのそばに
A.イエスの教える家族
1.この箇所からある人は肉の家族は捨てても良い、信仰による家族こそ本当の家族だと、血縁を疎かにする発言をする人があります。しかし、イエスはそういうことを言いたいのでしょうか?
2.それは他の所を見ていくことでわかります。特に母マリヤに対しては十字架上でヨハネに託しておられ、マリヤは教会の中で生き、教会の仲間に支えられて生涯を全うしたようです。また弟ヤコブは後に弟子となり、指導的な教師になっています。
3.また、聖書は夫婦の絆、親子の絆を大切にすることを教えています。むしろ、こうしたことが前提で、イエスは新しい家族を教えておられるのではないでしょうか。

B.イエスのそばに居続ける人
1. ご自分の周りに座っている人たち という、イエスのそばに座っていることが大事なのです。座っているのは教えに耳を傾けている姿です。ただボーッと座っているのではなく、真剣に御言葉に耳を傾けていることです。
2.マルタとマリヤの話は有名ですが、マリヤはマルタの仕事をなにも手伝わないで、ただイエスのそばに座り込んで話を聞いていたのです。それをイエスは喜ばれたではありませんか。
3.御言葉を聞くというのは知識をためることではなく、愛を実行する人になることです。

★ 私たちは皆神の家族です。教会にとって大事なのは愛し合っていることであり、イエスを中心に集まっているところです。そして、みこころを行う人たちが家族です。


キリスト教の救いとは?

2018-09-02 18:39:31 | 礼拝説教
2018/9/2礼拝説教
【テーマ】  罪からの救い
【説教題】 「キリスト教の救いとは?」
【聖書箇所】 ヨハネ3:16-17
【新改訳2017】
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

○ 教会ではよく「救い」とか「救われた」とか言います。「いったい何から救われたのだろう?」と思われる方があると思います。キリスト教でいう救いとは何でしょうか? そしてイエス・キリストは救い主と言われます。何からの救い主なのでしょうか?

Ⅰ.そのままでは人は滅んでしまう
A.神を離れていることが罪
1.数年前の統計ではあるのですが、保護者から捜索願いの出された家出した小学生の数は1544人だったそうです。中学生は7000人を越えていたそうです。子どもにすれば「イヤになった」とか色々な理由があるのでしょうが、親とすれば大変辛い、悲しいできごとです。
2.人間は神に造られたすばらしい存在です。神様にすれば家出少年のように神の元を離れていった人のことを悲しんでおられるのです。私たちを造られた神を知らないと言って、神から離れて生きようとすることを「罪」と言います。

B.そのままだと滅びに至る
1.罪を持ったまま生きている、つまり、神を離れて生きているということは様々な問題も生み出します。自分勝手に理屈をつけて自分を正当化し、自分勝手に生きます。そのために人に対しても悪い事を考えたり、したりしてしまうのです。
2.ある人が「罪は生ゴミのようだ」と言いました。生ゴミはそのままにしておくと腐ってどんどん臭くなっていきます。早く捨てないと虫もわくし大変です。最近ゴミ屋敷のことが結構問題になっています。
3.私たちの罪もそうなるのです。そのままにしておくとどんどんひどくなり、最後は私たちもゴミのように罪と共に火の中に放り込まれて焼かれます。

Ⅱ.イエスを信じると救われる
A.罪処理場は十字架だった
1.ゴミはゴミ収集車で持っていってもらうことで私たちは助かるのです。では罪の収集車ってあるのでしょうか? イエス様です。イエス・キリストのところに行けば、すべての罪を受け取ってくださるのです。そしてその処理〈解決〉が十字架だったのです。
2.ゴミ焼却場がゴミを処理するように、私たちも罪をもったままならそのまま罪処理場に放り込まれてしまうわけです。つまり滅びです。
3.神様は私たちが滅びに行ってしまわないように、イエス・キリストを身代わりにしてくださいました。イエスは私たちの罪を受け取って滅びへと行ってくださったのです。ですから、救いというのはイエス様によって自分の罪を処理してもらうことなのです。

B.イエスが救命ボート
1.神が私たちを愛しておられなければ何も神のひとり子イエスを十字架につけて私たちの身代わりに殺す必要はありませんでした。しかし、神は私たち人間を心から愛しておられます。このことは聖書のいたる所で語られています。
2.しかも、誰一人滅んで欲しくないためにすべての人を救うことができる方法を取ってくださったのです。沈没する船に乗船者全員分の救命ボートが無かったために死んでしまったという話を聞きます。しかし、神は全員救うことができるイエスをくださったのです。
3.このイエスという救命ボートに乗る、つまりイエスを信じることで救われるのです。キリスト教の救いとは、罪と罪の滅びから救われることであり、イエスを信じるだけで救われるのです。

Ⅲ.救われると生き方が変わる
A.永遠の命が与えられる
1.イエス様は十字架で私たちの身代わりに滅びを受け取ってくださったばかりか、復活して罪が完全に処理されたことを証明してくださったのです。「救われた」ということのもう一面は「永遠のいのちが与えられた」ということです。救われないと「永遠の滅び」だったのですが、救われると「永遠の命」なのです。
2.それは確かにこの肉体の死を迎えなくては味わえない世界でもあるのですが、すでに罪赦されて生きることができるので、喜びがあるのです。

B.試練の時も脱出の道がある
1.罪の解決をしていただいて、救われたということは、私たちの生き方を神様と一緒に生活する生き方に変えることでもあるのです。私たちも、神様の喜ばれる生き方をしようと決心し、努力するのです。(ただ、努力して救われるのでは無いことは知っておいてください。)
2.イエス様を信じると、聖霊〈イエス様に代わる神の霊〉がその人の中に住んでくださるので、この聖霊の力に助けられて生きることができるようになります。 【新改訳2017】Ⅰコリ 10:13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。 とあるように試練はありますが、必ず脱出の道が用意されるのです。

C.神に直接祈れる
1.そして、イエス・キリストを信じるということは神に祈りが直接届くということなので、お祈りすればいいのです。私たちは今まで誰に祈っていたのでしょうか? 神を離れていた人は神に祈れませんでした。しかし、イエス・キリストによって救われたのですから、神に祈ることができるようになったのです。
2.何を願ってもいいのですが、私たちを命をかけて愛してくださった神様ですから、神様の望まれる生き方ができることを祈ったり、他の人の祝福を祈るのが正しいのではないでしょうか。

● 三浦綾子さん原作の塩狩峠の映画はどれほど多くの人に感動を与えたことでしょう。汽車を離れて滅びに向かう列車を永野青年が命をかけて止めました。この身代わりの死に多くの人は感動したのです。これはイエスの十字架の身代わりの死を表現した映画です。イエスは滅びに向かう私たちの身代わりに死なれたのです。

★ 人はみんな罪人ですから、そのままでは滅びでした。しかし、イエスを信じることで罪と罪の滅びから救われ、永遠の命をいただくのです。すべての人が救われることを神が願っておられるように、私もすべての人が救われることを願って祈っております。