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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

人の教えを超えるもの

2019-04-28 17:53:10 | 礼拝説教
2019/4/28 礼拝説教
【テーマ】  神の教えを尊ぶ
【説教題】 「人の教えを超えるもの」
【聖書箇所】 マルコ7:1-8
7:1 さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。
7:2 彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。
7:3 パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、
7:4 市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。
7:5 パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」
7:6 イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
7:7 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』
7:8 あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」

○ どこの国にも、また地方にも「言い伝え」というのはあるようです。例えば「風邪は人にうつすと治る」というのはどうでしょう。聞いたことがありますか? 「手の冷たい人は心が温かい」「茶柱が立つと縁起が良い」「食べてすぐ寝ると牛になる」「ネコが顔を洗うと雨」「蛇の皮(ぬけがら)を財布に入れておくと金運がよくなる」「四葉のクローバーを見つけると幸せになる」「「人」という字を手のひらに3回書いて飲むと心が落ち着く」、トルコなどでは「同じ名前の人の間に挟まれると、願い事が叶う」と言われるそうです。これはどうですか?「3人で写真を撮ると、真ん中の人が早死にする」これは世界各国にあるそうです。昔のユダヤではこうした言い伝えに縛られていたみたいです。

Ⅰ.手を洗わないでパンを食べる弟子
A.イエスを調べに来た
1.時の人となったイエス。ユダヤ人の間では結構な有名人になってしまいました。イエスがパリサイ人や律法学者というユダヤ人を仕切ってきたようなラビなら、パリサイ人、律法学者も気にしなかったのでしょう。しかし、彼らとは違う教えをしているということでわざわざ調べにやって来ました。
2.間違った教えをしているなら、即刻そのような活動は止めさせなければなりません。正しければもちろんかまわないのです。しかし、彼らからするとイエスの教えは間違っているので、取り締まりたいという気持ちがあります。

B.洗わない手で食べる弟子を目撃した
1.そうやってイエスの間違いのあら探ししようとしていた矢先、弟子達が手を洗うこともせずパンを食べたのです。「これは大問題だ!」とばかり、 7:5 「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」 と言ってきたのです。
2.手を洗わないで食べるというのは現代の私たちの間でもよくありません。皆さん、ランチの前に手を洗っていらっしゃいますか?
3.もちろん、ここの手を洗う洗わないという話は、衛生上のことを言っているのではなく、3-4節にその理由が書かれています。 昔の人たちの言い伝え だったのです。これは宗教的なことなのです。その言い伝えの元となるのは、異邦人や汚れた人たちによって触れたものにさわると汚れるという宗教的なことからです。

Ⅱ.本質がしきたりに変わる
A.神社での作法に似ている
1.面白いことに、衛生上のことではなくて、宗教的な汚れが、水で洗い流せば清めれらると思っていたのです。日本の神社を例に上げた方がわかりやすいかと思います。神社に行くと鳥居をくぐっていくらか汚れが取れるのだそうです。しかし、幾分邪気が残っているので、それをあの手洗い場できよめるのだそうです。その仕方にも決まりがあります。まず手洗い場に一礼し、右手で柄杓を持って水を汲み、左手を清め、持ち替えて右手を清めます。次にもう一度右手で柄杓をもって左手に少し水を溜めて口を清めます。口がついたのでもう一度左手を清めます。柄杓を垂直に立てるようにして柄杓の持ち手を洗いきよめて、柄杓を元の場所にうつ伏せにして戻します。
2.しかし、皆さんにはこれで宗教的に清められたと言えないことくらいはおわかりだと思います。何しろ、もともとは神社におまいりに行くとき全身を川で洗って入っていったのです。しかし、それは大変面倒なので、だんだん縮小されて手洗い場になったと言います。

B.言い伝え以上にすばらしいもの
1.ユダヤ人のこの手洗いなど、本来宗教的なこととして神から教えられていたことなのです。それを形式にしてしまい「言い伝え」としての作法が定着しました。すると「言い伝え」通りに行うことが宗教的であるかのように思うようになったわけです。
2.日本人でどれ位の人がこの神社での作法を知っているでしょうか? イエスの弟子達は当時のしきたりを知らなかったのでしょうか? イエスも知らなかったのでしょうか? 当然知っています。しかし、「言い伝え」以上にすばらしいものを知っていたのです。

Ⅲ.本当に神の教えを守る
A.口先で神を敬う人々
1.イエスはそういう「言い伝え」よりも、神の前にどうあるべきかという本質を弟子達に語ってきました。すると命のない言い伝えが無意味になり、弟子達も手を洗わないで食べるということになったと思われます。
2.弟子達が安息日に麦畑で麦の穂を摘んで食べ始めた話もあります。安息日問題です。これらのことは全て、イエスが本質を語ってこられて、当時のユダヤの指導者達が教えていることの問題点をつかれた話です。
3.要するに「しきたり」「言い伝え」は知っているけれども、本質を知らないでいる彼らをイエスはイザヤの言葉を引用して 7:6 「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。7:7 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』7:8 あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」 と言われたのです。「偽善者」とまで言われたのです。

B.神の教えを守る人々
1.本当に堅く守るべきは何でしょうか? 当然、神の戒めです。新約時代の今はそれがイエスを信じること、つまりイエスを愛すること、イエスに付き従うことです。何かの言い伝え通りに行うことではありません。
2. 7:8 あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」 と、神の戒めを捨てていたユダヤ人の生活にイエスはメスを入れられたのです。

● 教会の「言い伝え」「しきたり」はあるでしょうか? あります。決してそれが悪いわけではありません。大事なのは本質をわきまえていてのことかそうでないのかということです。

★ 私たちは口先で神を敬うようなことをせず、全身全霊をもって神を敬いましょう。

神との平和条約を結ぼう

2019-04-14 16:17:17 | 礼拝説教
2019/4/14礼拝説教
【テーマ】  イエスの十字架(受難週)
【説教題】 「神との平和条約を結ぼう」
【聖書箇所】 使徒2:22-23
2:22 イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。
2:23 神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。

○ 今週は受難週です。今週金曜日がイエス・キリストが十字架にかかられたことを記念する「受難日」です。ということは、来週が「復活を記念する日」「イースター」です。キリスト教の一番中心の日です。

Ⅰ.有名な十字架
A.みんなが知っていた
1.イエス・キリストのなさったことはユダヤ人にとっては それは、あなたがた自身がご承知のことです。 とペテロが言ったようによくよく知られていたことでした。そして、十字架にかけられたことも誰もが知っている出来事でした。
2.このイエスの十字架刑は、23節にあるように、 神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエス ということで「神の計画」であったということです。しかし、イエス・キリストが十字架にかけられた(かかられた)本当の理由を知っている人はどれほどいたでしょうか?
3.私たちにはなかなか神の計画がわからないものです。私も自分がなぜこんな痛みと闘わねばならないのかということさえわからないのです。このところにも神の計画はあるはずですから。ましてやイエス・キリストの十字架の計画の全貌を知るのは大変難しいことなのかと思います。

B.十字架を偶像化しない
1.キリスト教にとって「十字架」は切り離せません。しかし、偶像を嫌うキリスト教がいつしか「十字架」を偶像のように扱うことがあるのではないでしょうか? あるいは聖書を偶像のように拝む人がいるのではないでしょうか? もちろん大事なものですが、大事なのはその真の意味です。
2.イエスの十字架刑はとうの昔の出来事であり、私たち異邦人にとって、直接関係の無いことではないでしょうか? 良くわからないために、ペンダントやイヤリングなどの飾りにさえなっています。それが悪いわけではありません。ただ、十字架の真の意味を知っていただきたいのです。

Ⅱ.神が人となられた
A.イエスは神であり、人である
1. 2:22 神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。 との御言葉から、イエスはナザレに生まれ育ったユダヤ人であることがわかります。同時に 力あるわざと不思議としるしを行い と、神であることも示しています。
2.これだけ見ると、イエスは特別な力・知恵のある人間で、そのお方を神とする日本の神道と一緒のようにも思えます。が、明らかに違うのが、人が神になったのではなく(人が神としてあがめられたのではなく)、神が人となったところです。

B.神と人間との平和を取り戻すために
1.第二次世界大戦はとっくに終わりました。私たちの多くは戦後生まれです。戦争に関わったわけではありませんが、未だに戦争の傷は人々に、国際間に残っています。
2.同じように人間の罪の問題はアダムとエバ以来、子々孫々、全ての人間に引き継がれ、問題は残っているのです。それは神と人間との間の平和が失われたという大問題です。これは人間には誰によっても解決ができない問題です。
3.戦争はその後の平和条約などでいくらか解決するでしょうが、神との平和は、神と平和条約を結ばない限りできるものではありません。人間が神との平和を壊したのですから、この解決は神にしかできないことなのです。その方法がイエスの十字架でした。

C.イエスが人となった理由
1.神はユダヤ人に罪の赦しを生け贄を捧げる(動物の命を捧げる)ことで教えてきました。しかし、これで一時的に神に近づけたとしても完全な赦しが得られないことは誰の目にも明らかでした。
2.つまり完全な赦しのためには完全な生け贄が必要だったのです。それは、動物ではなく人間以上のものが、人間の身代わりに血を流さなければなりません。人間以上のものは神しかありえません。神は血を流せないので、神のひとり子を人として、私たち人間の身代わりにされたのです。

Ⅲ.十字架は新しい契約
A.神からの平和条約
1.十字架が神の計画でありながら、 このイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。 と、ユダヤ人がイエスを十字架につけて殺したとペテロは語っています。イエスを十字架につけたのは当時のユダヤ人ですが、人間は皆同じ罪を抱えているのです。
2.ユダヤ人がイエスを十字架にかけて殺したのは、イエスが神だとわからないで犯した罪です。しかし、これは私たちも同じです。イエスを神と信じて従わない限り、神に罪を犯しているわけです。
3.そんな罪人、全世界の全ての人の罪のために神の子イエスの十字架による身代わりの赦しが計画されたのです。神はイエスの十字架で完璧な罪の赦しを契約してくださいました。いわゆる平和条約を結ぼうとしてくださったのです。

B.新しい契約が結ばれる
1.十字架が神の計画でないなら、イエスは神ですから簡単に逃げることができました。それどころか、天使の軍団を呼び寄せていっきに人々をやっつけることさえできました。しかし、その罪を解決するために来たイエスですから、逃げることなく、十字架にかかってくださいました。
2.十字架は完璧な赦しです。アダムとエバに始まる全ての過去の罪を帳消しになさったのです。全く新しい契約が開始されたのです。イエスを救い主と信じるだけで全ての罪を赦し、神の国(領域)へ入れてくださるという契約です。


● 契約書にサインをしたことはありますか? 身近なところではスマホを購入するときの契約など。契約しないとスマホは使えません。仮に本体を買ったとしても通信ができません。その機能が使えるのは契約するからです。
  十字架は神の方から私たちに用意してくださった新しい契約です。イエスを信じるならこの契約は有効になり、神の約束された祝福を受けるのです。信じないということはこの新しい契約にサインしないということです。

★ イエスはあなたを罪の縄目から解き放ち、神のもとに導く新しい契約です。是非、イエスを信じる決心をしていただきたいです。


イエスは親友!

2019-04-07 18:32:52 | 礼拝説教
2019/4/7礼拝説教
【テーマ】  幸せの原点
【説教題】 「イエスは親友!」
【聖書箇所】 ルカ19:1-10
【新改訳2017】
19:1 それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。
19:2 するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。
19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19:7 人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。
19:8 しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
19:9 イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」

○ 中学生の頃、「親友」という言葉が流行りました。その時、男友達みんなで「親友なのか? 真友なのか?」なんて話し合ったのです。なかなか真面目な中学生達じゃ無いですか。一人になったとき、私は自分に「親友・真友」はいるのかと考えたのです。今日のテキストに登場するザアカイはお金つながりの友人がいたかもしれませんが、「親友・真友」はいなかったようです。そんな彼の心には大きな穴が空いていたようです。しかし、どうしてもそれが埋められない彼の苦しみを誰も理解しませんでした。

Ⅰ.幸せを求めたザアカイ
A.金持ちを目指したザアカイ
1.ザアカイは 取税人のかしらで、金持ちであった とあります。何となく地位も財産もあって幸せそうに思えるのではないでしょうか。しかし、幸せとは何でしょうか? 人間はどのように生きることが幸せなのでしょうか?
2.ザアカイがどのようにしてユダヤ人に売国奴呼ばわりされる取税人になったのかわかりません。ですから勝手な想像しかできないのですが、子どもの時から人にバカにされるようなことがあったのかも知れません。そこで、人々を見返してやろうという思いでこの地位と財産を得たのかもしれないのです。
3.彼はどのユダヤ人よりも幸せになろうとしたのでしょうが、結果ここまで彼は幸せを得ることはできませんでした。

B.親友のいないザアカイ
1.ザアカイが幸せを掴むことができなかったもう一つの大きな原因は真の友がいなかったことではないでしょうか。果たして彼の悩みを聞いてくれる友だちはいなかったのではないかと思います。
2.ザアカイはそういう何かしら悶々とした日々を過ごし、心を許せる人を捜し求めていたと思うのです。人は決して自分一人で生きていけないものです。特にそのようにして年を重ねていくと「一人」というのはとてもさみしいものです。

Ⅱ.イエスと出会ったザアカイ
A.イエスを見たい!
1.そのような何かしら重苦しい日々を過ごしていたザアカイ。今のようにテレビやインターネット、ゲーム機などで一人楽しむ事も出来ない時代。彼も何か楽しいことを探していたでしょう。そんなところにエリコの町にもイエスがお出でになったというのです。
2.町中の人がイエスを見に集まっています。ザアカイもイエスを見たいと思いました。有名人に会いたいのは今も昔も同じです。噂に聞くイエスはすごい人です。どんな人か一目見たいというのはごく普通の思いです。
3.しかし、背の低い彼には見えなかったのです。そこで、彼は少し先のいちじく桑の木に登りました。この時のザアカイは「イエスを見たい」ただそれだけだったと思います。

B.イエスに知られていたザアカイ
1.そんな彼を大きく変えてしまったのはこの直後の出来事でした。いちじく桑の木の下に来られたイエスは誰も気づいていないザアカイの方を見たのです。
2.私たちがたとえ誰にも気づかれていなくても、イエスには知られています。ザアカイはそういうことも知らず、ただイエスを見ていただけでしたが、イエスがこのエリコに来られたのは彼を救うためでしたから、彼を見上げたのです。彼は有名人を見ることでいくらかドキドキしたでしょうが、イエスと目が合ってしまってもっとドキドキしたでしょう。さらにイエスは 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」 と言われたのです。もうドキドキというよりバクバクでしょう。
3.私はもう20年ほど前に東北新幹線東京駅で皇太子さまに出会いました。SPらしき人たちが増えてきて、エスカレーターを上がったところから新幹線の扉の所まで10mほど赤い絨毯が敷かれました。そしてロープが張られました。「もしかして」と思った私は皇族なら会いたいと思ったのです。全くもってミーハーです。段々人も増えてきたので、私は張られたロープのそばに陣取りました。数分待つとSPや色々な人が上がってきました。そして駅長と皇太子様が上がってこられました。やっぱり感動するんです。こちらを見て手を振ってくださいます。私はお辞儀しました。もし、この時皇太子様が「藤井敬朗さん。一緒に乗りましょう」とでも言われたら、心臓はバクバクですよ。「どうして自分の名前を知っているの?」「どうして一緒にって言って下さるの?」ただただ驚きですよ。

Ⅲ.真の幸せを得たザアカイ
A.イエスに愛されているザアカイ
1.イエスの 19:5 わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから この言葉はザアカイと友だちであることを表している言葉です。人々はザアカイを嫌いましたが、イエスはザアカイを愛しました。イエスほど聖書の愛を実行された方はありません。
2.このようにザアカイを愛されたイエスはあなたをも愛しておられます。ザアカイが悔い改めたから愛されたのでしょうか? イエスはザアカイが悔い改める前から愛しておられました。

B.イエスが親友であることの幸せ
1.イエスの愛を知ったザアカイは変わります。その変化は 19:8 「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」 という言葉に表れています。彼は悪を離れる決心をしたのです。そして、彼も人々を愛するようになったのです。
2.イエスに愛されることがどれほど幸せをもたらすか。たとえ誰一人友になってくれなくてもイエスが友になってくださるので真の幸せを得ることができます。

●  ヨハネ15:15 わたしはあなたがたを友と呼びました。 というイエスの言葉は私たちにもかけられている言葉です。

★ イエスを見たいと思ったザアカイ。この気持ちが大事だと思います。私たちもまずイエスに会いたいという思いを持つことです。イエスとは聖書で会えます。


1.ザアカイはイエスの噂を聞いたとき、どんな気持ちになったでしょうか?

2.ザアカイの真の問題は何だったのでしょうか?

3.イエスはあなたのことをどう思っておられると思いますか?

4.あなたもイエスに会いに向かいませんか?