バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

アブラハムの祈り

2017-07-30 17:04:41 | 礼拝説教
2017/7/30礼拝説教
【テーマ】  祈りの祭壇を造る
【説教題】 「アブラハムの祈り」
【聖書箇所】 創世記12:7-8
  12:7 そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。

○ アブラハムが信仰の父と呼ばれるようになったのは、「主の御言葉に従順であったこと」「公的な礼拝のため、そして主の御名を呼ぶために祭壇を築いたこと」にあります。こうしてユダヤ人が「アブラハムの神」とまで言うようになったアブラハム。ユダヤ人はその子孫であることを誇りとしているのです。

Ⅰ.祭壇
A.祭壇がない教会
1.私たちの教会ではまず「祭壇」という言葉を使うことがありません。しかし、他の団体のクリスチャンの方が会堂に入って来られて「祭壇はどちらでしょうか?」と尋ねられることがあります。また、お葬式の時には業者さんから「祭壇はどのようにしましょうか?」と問われます。宗教には結構祭壇がつきものです。
2.ユダヤ人にとりまして「祭壇」は生け贄をささげる大事なところで、そこが礼拝の場所でした。現代は生け贄がありませんからそういう祭壇はありません。ある教会は立派なテーブルに聖書やろうそくを置き、花を飾って祭壇としています。

B.最初の祭壇
1.聖書の中で「祭壇」という言葉が出てくるのは創世記8:20のノアが箱舟から出た時に祭壇を造り神を礼拝した箇所です。それより前にはアベルが家畜をささげに来たところがありますが、「祭壇」という言葉はありません。
2.ノアの次に祭壇を築いたと書かれているのが、今日のテキストのアブラハムです。アブラハムは行った先々にまず祭壇を築いています。

C.アブラハムがしたこと
1.アブラハムが祭壇を築いた理由はそこで神と出会うためです。神と出会うためには傷の無い最上の家畜を生け贄としてささげることでした。それによって神が近づいてくださると信じていたのです。
2.また、祭壇の所で彼がしたことは 【主】の御名によって祈った ことです。神がそばに来てくださって、彼は神と語り合うことができたのです。彼にとって、神様はそのお名前を使わせていただける関係になったのです。

Ⅱ.祈った時、祈らなかった時
A.とりなしをするアブラハム
1.また、創世記18章で、主がロトの住むソドムとゴモラの町を滅ぼすと言われました。それに対してアブラハムはとりなしの祈りをします。ここでも、彼は主と語り合って、とりなしをしています。50人の正しい人がいると思ったけれども、もしかしてと10人まで値切る話です。
2.結果的にはソドムとゴモラは滅ぼされますが、ロトは助け出されました。10人も正しい人はいなかったのです。しかし、彼のとりなしがなければ、ロトはどうなっていたでしょうか? とりなしの祈りはとても大事なのです。

B.祈らなかったアブラハム
1.このような祈りの人アブラハムですが、その彼が祈らず失敗した話があります。約束されたはずの子どももが生まれないために、サラの願いを聞いてハガルに子どもを生ませたことです。また、ゲラル滞在中、自分の命の危険を感じてサラを妻と言わず、妹と言ったことです。
2.アブラハムが祈らずに判断したことは、当時の一般的な常識では問題無かったかも知れません。しかし、神のみこころには沿わなかったのです。そのためにハガルやイシュマエル、ゲラルの王アビメレクに罪を犯させるところでした。

Ⅲ.祈りの祭壇
A.神の声を聞くアブラハム
1.アブラハムと祭壇という言葉で私が真っ先に思い出すのは、神がイサクを献げるように言われた箇所です。アブラハムはモリヤの山に登って祭壇を築き、イサクをその上に寝かせ、まさに刀を振り下ろそうとした時に神からストップがかかりました。
2.アブラハムが神の声を聞くことのできる人であったことはすばらしいと思います。神の声を聞き逃すことが多ければ、このイサクの場面でも聞き逃して、殺していたかも知れません。彼は大変な試練を受けたのですが、同時に嬉しい神の声を聞くことができたのです。彼は祭壇で神と会う人でした。

B.私たちの祭壇
1.確かに祭壇というのは昔は石を積み上げて造り、生け贄を献げるところでした。しかし、イエス様が私たちの身代わりとなってくださった今、そういう祭壇はいらなくなりました。
2.今や、 ヘブル13:15 ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。 と、賛美の生け贄なのです。主にひれ伏す場所、主に賛美する場所こそ私たちの祭壇です。この会堂は祭壇でなければなりません。神とお会いする、神に祈る祭壇です。

★ 私たちは恵まれた時代にいます。いつでも主が共におられるというすばらしい時代です。アブラハムのように行く先々に祈りの祭壇を設け、神様とお会いしましょう。主の御名によって祈りましょう。

神を試してよいのか

2017-07-23 18:31:57 | 礼拝説教
2017/7/23礼拝説教
【テーマ】  試す祈り
【説教題】 「神を試してよいのか」
【聖書箇所】 マラキ3:10
 3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、
  わたしの家の食物とせよ。
  こうしてわたしをためしてみよ。
  ──万軍の【主】は仰せられる──
  わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、
  あふれるばかりの祝福を
  あなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

○ 「神様、明らかに御言葉をくださったら献身します」「あの人が今度ここに来たら、伴侶となる人だと信じます」「宝くじが当たったら教会に献金します」のような祈りをしたことはないですか?

Ⅰ.神を試すようなことを言った人
A.ギデオンの場合
1.ギデオンは神様から「勇士よ」と言われて、イスラエルを敵から守るリーダーとして働くことを示されました。しかし、彼は勇気がなく、すぐには自分がそのような働きをすることが信じられなくて、神様に 士師記 6:37 今、私は打ち場に刈り取った一頭分の羊の毛を置きます。もしその羊の毛の上にだけ露が降りていて、土全体がかわいていたら、あなたがおことばのとおりに私の手でイスラエルを救われることが、私にわかります。」 と神様にしるしを求めています。しかも、その通りになると次は 6:39 ギデオンは神に言った。「私に向かって御怒りを燃やさないでください。私にもう一回言わせてください。どうぞ、この羊の毛でもう一回だけ試みさせてください。今度はこの羊の毛だけがかわいていて、土全体には露が降りるようにしてください。」 と、またしるしを求めました。すると、そのとおりになったので、彼は自分が召されていると信じました。
2.この話から、私たちもそのように神様にしるしを求めてよいのでしょうか?

B.ペテロの場合
1.もう一つの例はどうでしょうか? ペテロが湖の上を歩く話です。 マタイ14:28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」  もし、あなたでしたら と、ペテロは湖の上を歩いてくる方がイエス様だと確信できていないような言葉です。イエス様のそばにいた弟子でさえ、イエス様を理解するには時間がかかっていたのです。
2.ここではイエス様はそのペテロの言葉に応じておられます。 14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。 と。ということは、このような願い、神様を試すような祈りもかまわないということでしょうか?

C.イエス様の場合
1.最高の祈り手としてのイエス様を見てみましょう。死んだラザロを生き返らせるところです。 ヨハネ11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。 11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」 イエス様は感謝を述べられました。その理由が42節にあります。人々が信じるためです。
2.死人が生き返るという奇跡を起こしてくださいと願われたイエス様ですが、イエス様は神様を試すような願いではなく、イエス様の願いを即聞いてくださると信じ切っている言葉を語られたのです。人々がイエス様を信じるための願いでした。

Ⅱ.神が私たちを試しておられる
A.単に献金のことだろうか?
1.今日のテキストのマラキ3:10は有名です。聖書の中で唯一、神様が「試してみよ」と言われている箇所だそうです。それが、私たちの十分の一献金の元ともなっている聖書箇所ですから、このことはよく問題にもなり、このことが原因で教会を辞めるという人も出てくるような御言葉です。
2.しかし、これは私たちが神様を試すというより、私たちの方が試されているのだということに気づいてください。私たちは神の愛に触れて信仰生活を送っていくと、「全てを献げます」と言い表して献身するのでは無いでしょうか。「十分の一を献げます」とは言わないのです。そうです。神様はわずか十分の一のことで私たちの献身を試しておられるのです。

B.私では無く、神だと信じること
1.ギデオンは確信が無いために羊の毛を濡らして欲しいと願いました。神様は彼の弱さを知っておられ、確信をもって神の召命を受け入れるように彼の願いを聞いて不思議を起こしてくださいました。神が羊の毛を濡らすことは簡単なことです。そして、私たちを聖霊で満たすことも簡単な方です。
2.ギデオンは自分のような者がイスラエルの救いのために立つことができるか、羊の毛がバプテスマされる程度のことでは無いと、彼はまだ信仰が持てなかったでしょう。そこで地面だけ濡らすことも願ったのですが、「自分では無く、神だ!」と信じるべきなのです。
3.しかし、ギデオンが神様にしるしを求めた、神を試すことを許されたことは私たちにも大きな励みでは無いでしょうか。もちろん試さない方が良いに決まっています。

C.試みない方が良いに決まっている
1.私たちが悩むのは神様を試みてはならないという言葉があるからではないでしょうか。それは、 マタイ4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」 です。しかし、この言葉はサタンの誘惑に対して語られたイエス様の言葉なので、私たちの言葉とは根本的に異なるのです。が、それでも神様を試すというのは問題です。
2.イエス様がラザロをよみがえらせた祈りの時、イエス様は神を信じておられたのです。しかもそれが神の御心であることを確信しておられたのです。イエス様のようにはいきません。だから、弱いまま神にぶつかっていけば良いのです。

● 恐縮ですが、私の献身の証。何度もしていますが、私は中学校の教師を続けたかったのです。しかし、迫りを受けた時、「どうしても反論できない御言葉をください」と祈って1ヶ月。それが与えられたのです。

★ 敢えて「神を試すような祈りをしましょう」とは言いませんが、そういう言い方しかできないような時、ギデオンやペテロのように神様に申し上げてよいのでは無いでしょうか? 神はあなたに期待してあなたを試みておられます。従いますか。

祈りとは何か

2017-07-16 18:31:51 | 礼拝説教
2017/7/16礼拝説教
【テーマ】  神を求める
【説教題】 「祈りとは何か」
【聖書箇所】 詩篇25:1-5
  25:1 【主】よ。
 私のたましいは、あなたを仰いでいます。
25:2 わが神。
 私は、あなたに信頼いたします。
 どうか私が恥を見ないようにしてください。
 私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください。
25:3 まことに、あなたを待ち望む者は
 だれも恥を見ません。
 ゆえもなく裏切る者は恥を見ます。
25:4 【主】よ。あなたの道を私に知らせ、
 あなたの小道を私に教えてください。
25:5 あなたの真理のうちに私を導き、
 私を教えてください。
 あなたこそ、私の救いの神、
 私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。

○ 「祈りとはなんでしょう?」と問われて、そう簡単には答えられないと思います。
  19世紀のアメリカで有名な伝道者D・L・ムーディがイギリスのエジンバラで子どものための集会で話をした時に、答は出てこないだろうと思いながら、「祈りとは何でしょう」と質問したそうです。すると多くの子ども達の手が上がり、一人の子どもに答えてもらうと「祈りとは、罪を言い表し、神の恵みを覚えて感謝しながら、みこころにかなうことのために、神に願いをささげることです。最後にキリストの御名によってと言って。」と正確な答えが返ってきたので驚いたということです。ムーディは「あなたがスコットランドに生まれたことを、神様に感謝しようね」と言ったそうです。

Ⅰ.神様を知るための祈り
A.願い事なのか?
1.多くの人は、祈りとは「願うこと」「求めること」と答えるかも知れません。 マタイ7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。 とイエス様も言われていますので、求めることは大事なことです。祈りの一つの要素として「求めること」はあるのです。
2.しかし、祈りの本質は、今日のテキスト 25:1 【主】よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。 と、「魂を神に向けること」です。神様はいつも私たちと共におられますが、私たちの方はいつも神様と共にいるとは限りません。ですから、祈る時というのは自分が神と共にいるように時間をささげていることになります。
3.祈りは、私たちの願いを神に聞いていただくために、神様を説得するものでは無いのです。むしろ反対で、私たちが神様の願っておられることを受けとめるものなのです。

B.困った時だけの神頼み
1.また、ある人は祈りは緊急事態が生じた時だけにするものと思っています。病気になったり、経済的に厳しくなった時、問題が生じた時にするものと。まさしく「困った時の神頼み」というか「困った時だけの神頼み」です。
2.こういうことが祈りであればさみしい限りです。神様は私たちのことをよく知っておられますが、私たちはまだまだ神様のことを知りません。祈りは神様がどのようなお方なのか知っていくものでもあるのです。
3.つまり、祈りは神様との交わりの時間です。私たちが他の人のことを知るのはその人と話をするからです。神様を知るのも神様とお話をしてこそできるのです。

Ⅱ.神の臨在の中に留まる
A.神ご自身を求める
1.ある人が祈ると癒されたというような話を聞くと、その人の祈りがすばらしいと思ったりします。確かにそうなのですが、癒すのは神様です。そして、その人に癒しの賜物が与えられているのでしょう。
2.とすると、私たちも癒しの賜物をいただきたくなります。求めるのは結構なことなのですが、もっと大事なのは賜物よりもその賜物を支配しておられる神様ご自身を求めることです。

B.神の臨在を意識する
1.子どもは欲しいものがあるとお父さんのところに来て「●●が欲しいなあ」とせがんできます。しかし、何か欲しいものがある時だけしか、お父さんのところに来ない子どもではさみしいではありませんか。
2.私たちも神様のところに来るのが何か欲しい時だけでは神様がさみしく思われるのではないでしょうか。神様の臨在の中に留まっている時、私たちは自分が欲しいと思っているものよりももっとすばらしいものをいただくのです。
3.ブラザー・ローレンスは「祈りとは、神の臨在を意識することにほかならない」と言いました。事実、このブラザー・ローレンスだけでなく、信仰の勇者が祈っている時、周りの人々までもが、その人のそばに神がおられるという圧倒されるような雰囲気があったと言います。

Ⅲ.神を見る祈り
A.神の栄光をたたえる
1.神は目に見えませんが、その臨在はわかるものです。イエス様は マタイ5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。 と言われました。心が清ければ神を見るのです。それは最高の祈りの状態ではないでしょうか。
2.祈りは見えない神を見るものです。神は栄光に満ちておられるのです。恵みに満ちておられます。私たちはその神の栄光と恵みを誉め称えるのです。賛美するのです。

B.神を賛美する
1.神様は賛美の中に住まわれるのです。 詩篇 22:3 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。 私たちが神の臨在に入るのは神様を心から賛美することにあるのです。
2.神に祈る時、私たちは賛美を切り離すことはできません。礼拝でなぜ賛美するのでしょうか? 神をたたえるところに当然神がおられるからです。見えない神を見ようではありませんか。

● かつて、イギリスで、「失敗の原因は、私たちが神を見ないで、人を見るところにある。マルティン・ルターが神を見た時、ローマ・カトリックは震えおののいた。ジョナサン・エドワーズが神を見た時、『大いなる霊的覚醒』が発生した。ジョン・ノックスが神を見た時、スコットランドは、はいつくばった。ジョン・ウエスレーが神を見た時、世界はひとりの人の教区となった。ホイットフィールドが神を見た時、おびただしい数の人が救われた。ジョージ・ミュラーが神を見た時、何千人もの孤児が養われることになった。そしてこの神は『きのうもきょうも、いつまでも、同じ』(ヘブル13:8)お方である。」ということが言われたそうです。

★ 祈りとは何か? 決して答は一言で言えるものではありませんが、その大事な一つとして、神とお会いするもの、神を求めること、ということが言えるのではないでしょうか。

山を動かす祈り

2017-07-09 17:10:28 | 礼拝説教
2017/7/9礼拝説教
【テーマ】  信仰の祈り
【説教題】 「山を動かす祈り」
【聖書箇所】 マタイ21:21-22
 21:21 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。
21:22 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

○ 今までで奇跡的な出来事を願って祈ったこと、それが聞かれたという経験、証はどれくらいありますか?

Ⅰ.数々の奇跡的な出来事
A.奇跡は起こりうる
1.目の前にある山に向かって『動いて、海に入れ』と言いさえすれば、どんな山も海に移動するでしょうか? あり得ないですね。私は試しにやってみたことがありますが、富士山は海に入りませんでした。もし動くなら、今頃世界中の山が海の中です。
2.では、この御言葉はウソなのでしょうか? いいえ、必要とあらばその通りになります。祈りは私たちのわがままが聞かれるというのではありません。当たり前ですが、神の御心がなるのです。

B.旧約聖書の中から
1.聖書の中に出てくる大きな奇跡を見てみましょう。出エジプト14章では、出エジプトをしたイスラエル人の目の前に現れた紅海。モーセの祈り(杖を上げるという信仰の行為)によって海は真っ二つに分かれました(出エジプト14:21)。
2.ヨシュア記では、ヨシュアが祈ると太陽も月も一日ほど止まったのです(ヨシュア10:12-13)。
3.Ⅰ列王記では、預言者エリヤが祈ると天から火が下り、祭壇の生け贄を焼き尽くしました(Ⅰ列王18:37-38)

C.新約聖書では
1.イエス様に至っては、死人を生き返らせ、病人を癒し、水をぶどう酒に変え、水の上を歩かれ、嵐を静め、パンを増やすなど実に多くの奇跡を行われました。
2.その後、使徒達も使徒の働きに見るように、やはり多くの奇跡を行っています。そしてそれは決して聖書時代だけで終わっているのではなく、現代にまで引き継がれています。
3.だからといって祈ったこと、願ったことすべてが聞かれて奇跡的なことが起こっているわけではありません。

Ⅱ.奇跡と信仰
A.何のために奇跡を起こされるのか
1.奇跡は人間にとって奇跡であり、驚くべき出来事ですが、天地万物をお造りになった神様にしてみれば別に奇跡でも何でもありません。
2.奇跡的なことを起こすことで神様は人々に自分を信じてもらおうと考えておられるわけでもありません。ただ、神がどのようなお方なのかを見失った人々に再確認させるために奇跡を行って、全能の神を確認させておられるのです。
3.イエス様はご自身が旧約聖書に預言されたメシヤであること、しかもご自身が神であることを示すために「しるし」としての奇跡を行われました。

B.見ずに信じる幸い
1.私は友人達にイエス様を信じてもらいたくて奇跡を願ったことがあります。何か奇跡を起こしていただければ信じるのではないかとおもったからです。しかし、願いながらもそれが神様の御心のように思えなかったのも事実です。
2.何しろイエス様は復活という奇跡的な出来事を弟子達にしか現さなかったのです。不信仰な人に見せればみんな信じるのではないかと私は不思議に思ったのです。しかし、その見て信じるというのは「信仰」では無いからのようです。
3.山のような問題が起こり、それを取り除いて欲しいと願った時、信仰はその山を見つめることでは生まれてこないのです。何を見るのかというと、神を見つめるのです。信仰は神を見つめることで生まれてくるのです。

Ⅲ.一歩踏み出すこと
A.いつ奇跡は起こるのか?
1.ヨシュア記3章にも奇跡的な出来事が記録されています。ヨルダン川の水が堰き止められた話です。 ヨシュア3:15 箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、──ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが── 3:16 上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。 
2.この話の大事なポイントは何でしょうか? 神様から命じられたのですから、その奇跡的なことは起こるのですが、水が堰き止められたから歩き始めたのでは無いのです。水に足を浸した時に堰き止められたのです。
3.状況が自分の願っている状態になったから実行するのであれば、信仰はいらないかと思います。

B.信じて始める
1.イエス様が マタイ 5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。 と言われ、パウロが Ⅰテサロニケ 5:16 いつも喜んでいなさい。 と言ったのは、喜べる状況になったから喜びなさいではありません。迫害下にあってもそうせよというのです。
2. 21:22 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。 というこの言葉。「信じて求める」というところがとても大事なのだと思います。


● 脳の研究が進む中でわかってきたことに、面白いから笑うのか、笑うから面白いのかという研究結果、笑うから面白いのだということがわかったのです。漫才などが面白いから笑うのですが、実はその面白いと感じるわずか0.何秒か前に笑うことを脳が決めるのだそうです。すると人は面白いと感じられるのだそうです。つまり、喜ぶことを決めると喜びが湧いてくるのです。感謝することを決めると感謝が湧いてくるのです。神様はクリスチャンで無くても全ての人間にそのような信仰の決断のようなものができるように創ってくださっているのです。ですから、私たちが聖書をよく知って、神の御心を知的にも学び、体験的に神の愛を知っていくと、この喜ぶこと、感謝すること、そして、何を祈るべきかもわかってくるのです。

★ 信仰の祈りをする人は山に向かって動けとは言わないのです。神を求めるのです。すると、神の願いがわかることで祈りが決まるのです。

イエスの誕生の不思議

2017-07-02 17:23:25 | 礼拝説教
2017/7/2礼拝説教
【テーマ】  使徒信条 4
【説教題】 「イエスの誕生の不思議」
【聖書箇所】 ピリピ2:6-7
 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。

われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。
われは聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。  アーメン

○ クリスマスまでまだ半年近くあるのですが、今日は使徒信条の 主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ というイエス様誕生の部分を見てみます。

Ⅰ.神が人となった
A.人は神になりたがっている
1.人が神のような存在になったという宗教はたくさんあるようです。また人は神になりたがるところがあるようです。アダムとエバの失敗もサタンが言った 創世記3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」 を受け入れたからです。
2.バベルの塔も人が神よりも偉くなるか、同等のものになろうとして建てたものです。 創世記11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」 と神の支配を逃れようとしています。

B.神が人となった
1.イエス様の場合は、イエスという人間が神になったのではありません。今日のテキストにあるように神である方が、神のあり方を捨ててこの地上にお生まれになったのです。
2.イエス様は神の子です。 マタイ1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。 とあるように、聖霊によって生まれました。
3.この同じマタイの福音書の1-16節では、アブラハム、ダビデの系図にあるヨセフのいいなづけマリヤというユダヤ人の女性から誕生しています。確かに普通の人間のように誕生するのですが、父はヨセフではないのです。聖霊によって生まれるのです。

Ⅱ.処女降誕という不思議
A.旧約聖書に預言されていた
1.処女降誕は普通信じられない話です。しかし、そのことは750年も前に預言されていました。 イザヤ7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。 と。
2.ある研究では、卵子は何らかの刺激を受けた時に精子無しにでも、まるで受精卵でもあるかのように細胞分裂を始めるということがわかったそうです。そうだとすると「聖霊によって」マリヤの卵子が細胞分裂を開始したとも言えます。ただ、その人格は「神」という大前提があるのです。

B.信じない人、信じる人
1.処女降誕を信じない神学者がいるそうです。その人たちから見れば、私たちの信じていることはバカげているのかも知れません。彼らは4福音書すべてに書かれている十字架と復活はキリスト教の中心的な事と言い、一番最初に書かれたマルコの福音書にはイエスの誕生のことは書かれていないので、イエスの誕生は大事なことではないというのです。誰かが後に考え出した話だと。
2.処女降誕を信じないノンクリスチャンの人は多いです。というようりも信じないのが普通です。常識的には処女懐妊はあり得ないからです。ですから、イエスはヨセフとマリヤの子だとか色々な事を言って、聖書通り信じない人がいます。
3.しかし、クリスチャンは「信仰」をいただくことでこの一般的には信じられない話が信じられるのです。

Ⅲ.神の救いの計画
A.神様の不思議なご計画
1.罪の問題を解決するためには、罪の無い人でその人と同等以上の人が身代わりにならねばなりません。被造物の中で人間以上のものはありません。罪の無い人間もいませんから、身代わりになれるのは神だけということになります。
2.イエス様は神の子ですから、罪はありません。 ルカ1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。 と書いてあるとおりです。つまり、人間の罪の問題を解決できるのはイエス様だけだということです。

B.聖書はイエス様とアダムと比較している
1.アダムが造られた時、彼には罪はありませんでした。もちろん、イエス様が誕生した時も罪はありません。そして、共に自由意志が与えられました。アダムはその自由意志で神を裏切りました。イエス様はその自由意志で神の御心に従い身代わりの死を受け入れました。
2.それで、 Ⅰコリント15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。 と、イエス様の身代わりが成立します。全ての人間はアダムの系列に属します。つまり、罪を持ち死ぬ者となったのです。
3.一方イエス様は罪を犯しませんでしたし、復活される命の神です。この方の系列に属する者となると永遠の命に生きる者となるのです。

★  主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ は、私たちを救うためになくてはならない神の計画でした。イエス様が神ですから全ての人の罪を赦す力をもち、イエス様が人として生まれたので、身代わりの死を遂げることができたのです。