バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

ふさわしい助け手

2021-09-25 07:12:17 | 礼拝説教
2021/9/26 礼拝説教
【テーマ】  人の創造
【説教題】 「ふさわしい助け手」
【聖書箇所】 創世記2章
2:7 神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

2:15 神である【主】は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
2:18 また、神である【主】は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」
2:19 神である【主】は、その土地の土で、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って、人のところに連れて来られた。人がそれを何と呼ぶかをご覧になるためであった。人がそれを呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった。
2:20 人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた。しかし、アダムには、ふさわしい助け手が見つからなかった。
2:21 神である【主】は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。
2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。
2:23 人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」
2:24 それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。
2:25 そのとき、人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

○ 創世記1章で人が造られたことが書かれていますが、さらに2章ではより詳しく書かれています。
 
Ⅰ.人は神が息が吹き込まれた存在
A.大地のちりで形造られた
1. 大地のちり とは何でしょうか? ちりというのはとても小さいものを表しています。ですからある人は現代で言う「分子、原子」という意味を持つとも言われます。しかし、「土」という意味もあるようですので、よく人は土から造られたと言われます。
2. 大地 が原語で「アダマー」と言い、そこから造られたので「アダム(人)」とされたのですが、神が先に造られた土地から人間を造られました。いかに人間はこの地球と一体なのかということです。
3.また、聖書の中で「ちり」は取るに足りないものという意味で使われているところがあります。私たち人間は神との繋がり、神に生かされていなければ取るに足りないものなのです。神はその取るに足りないものを神の子としてくださったのです。

B.その鼻にいのちの息を吹き込まれた
1.人間はそのちり、取るに足りないものから造られて、 生きるものとなった のです。他の動物も生きるものになったのですが、人間が他の動物と違うのは、 その鼻にいのちの息を吹き込まれた という点です。
2.息は「霊」とも訳せることばです。「他の動物には霊はないのか?」と問われるとわかりませんが、少なくともこのような書き方をされているのは人間だけなので、やはり他の動物とは違うのです。
3.人間は神に息を吹き込まれて生きる者となったように、罪人と化して霊的に死んだ者となった人間に必要なのは聖霊です。今はイエスを信じて神の子となった者にはこの聖霊が吹き込まれるのです。

Ⅱ.人はすばらしい土地で神と過ごした
A.エデンの園に置かれた
1.最初の地球はどんなだったのか誰も知らないわけですが、神は中東のどのあたりにかエデンという場所を造られました。そのエデンに「園」を設けたというのです。そこが人間の最初の住まいです。
2.エデンはとても良い地だったみたいです。「エデン」の意味が「ぜいたくな」「優美な」「楽しい」「喜ばしい」という意味です。こういうすばらしい土地を神は用意してくださったのです。
3.何もしなくてよいという楽園ではなく、「労働」がありました。労働はエデンの園を出てから始まったことではありません。神は人を働くことで喜びを感じられるようにされています。

B.どの木からでも食べてよいが
1.このエデンの園の中央には、これまたよくわからない「いのちの木」「善悪の知識の木」を置かれました。この「善悪の知識の木」からは「食べてはいけない」と言われましたが、「いのちの木」の方は言われていません。食べてもよかったみたいですが、これを食べると永遠に生きるようなのです。
2.この「いのちの木」は再び黙示録に登場します。 黙示録2:7 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。』 と、勝利者に食べることが許されています。そして、 22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。 と、その葉は諸国の民を癒やします。そして、 22:14 自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。 永遠のいのちの祝福が与えられます。
3.「善悪の知識の木」から食べることは許されませんでした。神がモーセを通して十戒を与えられましたが、現代はどれほどの法律があることでしょう。法は互いに幸せに安全に過ごすために設けられていると考えると、この一つの決まりごとだけを守ることで神と人間とは幸せに過ごせたのです。

Ⅲ.神は夫婦を一体として造られた
A.男と女に造られた
1.私が不思議に思うのは、神が人間を男と女に造られたことです。どなたも思う事でしょうが、同じ人間なのに、男と女は全然違うのです。同じ人間だと言っても、体、思考形態、色々違いがあるように造られているのです。
2.人間は同じものを造る方が楽です。しかし、神はなんと全ての人をみんな違うように造られました。同じ考え、同じ主義・主張に造った方がトラブルも無しでよかったのではないかと思えますが、違うものが助け合うことを神は求められたようです。その大きな違いとして男と女に造られたということです。

B.一体として造られた
1.神は 2:18 「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」 と考えられ、動物を連れて来られたのですが、 2:20 アダムには、ふさわしい助け手が見つからなかった のです。そこで、神は新たにアダムのあばら骨からエバを造られました。アダムのあばら骨が取られてエバが造られたので、アダムに絶対必要な人なのです。
2.そして、神は 2:24 男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。 というように夫婦は一体であるようにされました。結婚したら一つの体になるかというと、どう見ても一つの体にならないのです。しかし、夫婦が一体だと思える人は多くいらっしゃると思います。意見や感じ方、食べ物の好き嫌いが違っても一つと感じられるのです。
3.そして、その一体となった二人が自分達の造り主とまた一つになることを求めるのです。助け手を造られたのは、神を求めるために助け合うためではないでしょうか? 信仰を高め合うためではないでしょうか?

● 神は男女を違うものとして造られましたが、夫婦が一体であるようにされました。そして一つ心で神を求めるようにです。そのように教会も色々な人がいますが、一つ心になって神を求めるのです。

★ 人間がいかに特別な存在かは言うまでもありません。しかし、造り主である主から離れてはその存在価値が薄れるのです。夫婦に限らず、男女お互いに信仰を高め合うために存在するようにされたのです。

非常に良かった

2021-09-11 07:47:47 | 礼拝説教
2021/9/12 礼拝説教
【テーマ】  完全な神
【説教題】 「非常に良かった」
【聖書箇所】 創世記1章
1:1 はじめに神が天と地を創造された。
1:2 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。

1:26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。
1:30 また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。」すると、そのようになった。
1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

○ 今日から礼拝説教では旧約聖書をできるだけ全体像がつかめるような形で説教したいと思います。そのために人物中心になったり、出来事中心になったりするかと思いますし、あるところはかなりカットしてしまうこともあります。最初は当然ですが創世記1章から天地創造を見てみましょう。
 
Ⅰ.神という不思議な存在
A.創造主である神
1.聖書はその一番最初に はじめに神が天と地を創造された と、神がどのようにして存在されたのかとか、神の自己紹介もありません。つまり、突然「神」なるお方が登場してしまって、しかも、この私たちの天地、大宇宙を創ってしまわれたというわけです。それもたった「6日間」で。
2.この天地創造を見ると、「神」というお方はあまりにも偉大です。そして、人間という特別な存在を造られ、人間が色々なものをつくり出す能力を持った存在とされました。またその人間のためにすべての環境、空気も宇宙も食料になるものも全てを整えておられるのです。

B.全能である神
1.「神」の創造の力、知恵のすごさは多くの方が感動するところです。私たちの体をとってみても、こんな体が勝手にできるとはとても考えられないわけです。小さな昆虫を見ても、木の葉に擬態しているものなど彼等が勝手にそのように自分を作り上げてきたなどとは到底考えられません。「神」というお方がいかに知恵深く、秩序正しいか、まさに全知全能のお方だということです。
2.しかも 「光、あれ。」すると光があった と、神の言葉一言で光ができるのですが、その光はまた実に不思議なものです。光が動植物を生かし、また暖めもする、殺菌効果もあるとか、神が「光」と言われたときにはすでにそういう細かい点まですべて計算されていたのです。そういうもの全て計算され考えられた複雑な光が、神の一言で生み出されるのです。

Ⅱ.神が人を造られた
A.人のために全てを整えられた
1.この「神」が6日間ですべてのものをお造りになり、動植物も人間も増え広がるようにされました。その前に、神は海と陸を分けておられます。「水」という不思議なものをもお造りになり、地球をただ水だけで覆われたのではなく、陸地を造り、不思議な割合で陸と海を分けられました。人が住みやすい環境を用意してくださったのです。
2.29節 地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる と、人間の食物を用意してくださいました。どうやらこの言葉から植物、木の実を食物とするようにされたみたいです。
3.さらに また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える と、動物、鳥も植物を食べるようにされたようです。

B.人は神に似せて造られた
1.26節からは人間の創造が書かれています。それは 人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう と、神のかたちに似せられました。そのように神に似せて造られているのは人間だけです。神に似せて造られたということは、本来私たちは三位一体の神(父なる神、イエス・キリスト、聖霊)に似ているということです。
2.そして、神は26節で、 地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう と、その働き、目的を教えています。人間にはそうして神がなさることを任されてもいたのですから、神から信頼されて造られたということです。

Ⅲ.神は非常に良いものを造られた
A.人間も非常に良かった
1.こうして神が造られた世界は 見よ、それは非常に良かった と、完璧だったのです。全ての自然が、動植物の世界も、人間も完璧だったのです。それは神が完全であるのと同じような意味を持つのではないでしょうか。
2.三位一体の神の関係が完全、完璧であるように、神と人間の関係も完璧だったのでしょう。人間を男女に造られたのも、男と女と神の三者が一体となった関係を求めておられたのではないかと思います。 伝 4:12 一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。 とも書かれています。

B.非常に良かった時代があった
1.31節 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。 と、神が満足される時代がありました。そして、それは自然界ももちろんそうですが、人間も良かったのです。神と人とが近しい状態の時代があったということです。
2.神はこの世界を創造されるにあたって、神と人間が親しくかつ楽しく過ごすことをお考えになっていたのではないでしょうか。人間だけが神のかたちに似せて造られたのは、人間がたとえ被造物ではあっても、神に操られる存在ではなく、自由意志をもって神と交わるか否かを決めることができる存在にされたのです。そして、神と交わることを求めるとき、そこには神の持つ不思議な平安や喜びがあふれる完全な世界をいただけるのです。

★ 今の現実が完全でなくても、神が造られたものは非常に良かったのです。神に不完全はありません。神は完全で、私たち人間のためにこの地球も宇宙も造られました。そして、神と人とのすばらしい交わりがあったはずなのです。今も神は私たちとすばらしい交わりを求めておられるのです。神に似せて造られた私たちも神と同じ思いで親しい交わりを求めたいものです。

立派な信仰とは何か?

2021-09-04 07:34:44 | 礼拝説教
2021/9/5 礼拝説教
【テーマ】  本物の信仰
【説教題】 「立派な信仰とは何か?」
【聖書箇所】 マタイ15:21-28
15:21 イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。
15:22 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」
15:24 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
15:25 しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」
15:26 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
15:27 しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。
15:29 それから、イエスはそこを去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登り、そこに座っておられた。

○ 皆さんは何か信仰をお持ちですか? その信仰は立派な信仰ですか? でも立派な信仰とは何でしょうね? 何かの像の前でひれ伏したり、座って手を合わせていたりすると立派な信仰なのでしょうか? あるいはキリスト教の神学的な話をすることができると立派な信仰なのでしょうか? 今日ここに登場する女性はイエス様から あなたの信仰は立派です と言われた人です。
 
Ⅰ.必死なら立派な信仰か?
A.娘のために必死の母親
1.この母親はユダヤ人ではありません。カナン人と書いてあります。マルコの福音書では ギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれ とあります。その母親がイエスの所に来ました。ある意味宗教を越えてイエスに助けを求めたということでしょう。
2.どのような助けを求めたかというと、 娘が悪霊につかれて いるので悪霊を追い出して欲しいということです。ここもマルコの福音書では 彼女の幼い娘は、汚れた霊につかれていた とありますので、幼い娘だとわかります。母親にとって(父親でもそうですが)子どもが苦しんでいるのを見るのはどれほど辛いことでしょうか。ましてや医者では治しようのないときには、失望に満ちてしまいます。

B.癒しを求めるのが立派な信仰か?
1.母親は自分の信じていた神々に頼ってきたはずだと思います。しかし、何をもってしてもどうにもならないために母親は宗教を越えてイエスの所に行ったのでしょう。そしてイエスによって娘は癒されます。それが立派な信仰でしょうか?
2.しかし、私は反対のこと、教会を離れてあるところに行って癒された人をを知っています。確かに一時病気は治ったけれども平安が無かったと言われました。教会に戻ったきた彼女は病気と向かい合いながらも平安を取り戻されました。何が立派な信仰なのか少し見えてきましたね。

Ⅱ.食らいつけば立派な信仰か?
A.イエスが無視する??
1.マルコの福音書には だれにも知られたくないと思っておられた とあるようにイエスはこっそりとそこに来ておられました。しかし、噂はすぐにこの母親に伝わり、じっとしていることができず、イエスの所に飛んで行きました。そして、助けて欲しいと頼みました。
2.しかし、何と私たちクリスチャンも疑うような言葉が書かれています。 イエスは彼女に一言もお答えにならなかった と。無視でしょうか?初めて聖書をここまで読んだとき、イエス様ってそんな方だっけ? とガクッときました。もちろん、その後を読んでホッとするのですが、なぜすぐに娘から悪霊を追い出してあげなかったのか疑問でした。
3.聖書ってわからないところが結構たくさんあります。どうしても私たちの常識だけでは理解できないことがあります。しかし、罪から救っていただけること自体が私たちの理解を超えたことだと思うのです。

B.腹を立てても食らいつくのか?
1.その後、イエスの語られた言葉は わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません と 子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです でした。私にはさらにわからない話で、全く優しさの無い言葉に感じられました。母親を犬扱いまでしています。多くの人は腹を立てるのではないでしょうか?
2.彼女は腹を立てたのでしょうか? 大事なのはその後の母親の言葉でした。 主よ、そのとおりです と、まず自分を小犬扱いされてもその通りだと認めていることです。彼女の次の言葉はすごいです。 ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます なんとすごい言葉かと思います。この言葉は腹をたてながら言っている言葉でしょうか?

Ⅲ.イエスの愛を受け止めるのが立派な信仰
A.イエスに愛を感じている
1.小犬というのは愛玩犬として飼われている犬らしいのですが、その小犬は飼い主が食卓からパンを与えたみたいです。小犬でもそういうパンはいただきます、というわけです。
2.彼女はここで自分を犬扱いしていると腹を立てたのではなく、飼い主に愛されている小犬ととらえています。飼い主は小犬のことをかわいいと思っている優しい方だととらえています。彼女はイエスを小犬の飼い主のように優しいお方と思っているのではないでしょうか? 
3.そして、イエスは彼女にイスラエルの神がどのような神だと思っているのかを答えさせようとなさったのです。もちろん、イエスには彼女が思っていることはわかっておられました。でも、彼女の口から言わせることが必要だったのです。そうです。言わねばならないのです。告白ですね。

B.イエスがそこにいなくても愛は通じる
1.その彼女の告白を聞いたイエスは 女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように と言われたのです。彼女はイスラエルの神はこんな小犬のような私をも愛してくださっていると信じているのがすばらしい信仰なのです。
2.その時、彼女の娘からは悪霊が抜け出ていたのです。イエスが娘のところに行って、「悪霊よ出て行け」とは言われていません。でも、彼女の信仰が悪霊を追い出したわけです。信仰はそこに神を呼び下すのです。臨在と言うのでしょうか? 神が共におられるのです。ですから、悪霊はそこにおれなくなるのです。
3.このような母親に育てられた娘は何を覚えるでしょうか? 母の愛、母の信仰、そして、その母の口から語られるイエス。この娘もまた立派な信仰を持ったのではないかと想像するのです。

★ 立派な信仰とはただがむしゃらであれば良いのではありません。自分がどのように言われようが、その方が自分を愛してくださっていることを心から受け止め、その愛に応えるところにあるのです。