バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

一人も滅びないために

2018-03-25 16:31:34 | 礼拝説教
2018/3/25礼拝説教
【テーマ】  十字架による救い(受難週)
【説教題】 「一人も滅びないために」
【聖書箇所】 ヨハネ3:16
新改訳2017
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

○ 今週は受難週、30日が受難日(イエス・キリストが十字架にかけられた日)です。そして来週4月1日がイエス様の復活されたことを記念するイースターです。一般的に「受難」と言ってもイエス様の十字架のことを言わず、自分がなにがしか大きな苦難に遭ったことを言うものでしょう。しかし、キリスト教会では「受難」と言えばイエス様の十字架刑を指します。

Ⅰ.ひとり子を与えた
A.罪の無いイエスが十字架刑に
1.十字架刑は後に廃止されるほどひどい死刑の方法でした。ユダヤでは石打という死刑があったのですが、当時はユダヤもローマ帝国の属州として統治されていましたので、イエス様はこのローマ帝国の死刑の方法で処刑されたことになります。
2.では、イエス様はそんなひどい死刑・十字架刑を受けなければならない犯罪人だったのでしょうか? イエス様に罪は無いと聖書は語っていますし、裁判をしたピラトもイエス様に罪を認めませんでした。なのにローマの死刑が採用されるのです。

B.ユダヤ人指導者のねたみから
1.その背景はローマ側にあったのでは無く、ユダヤ側にあったのです。イエス様という神の子がメシヤとしてお出でになったにもかかわらず、ユダヤ人はイエス様を神とは信じませんでした。ユダヤの指導者達はこの民衆に受けの良いイエスがユダヤの王となればローマ側とややこしいことになるし、自分たちのことを悪者呼ばわりしてきたイエスの元で仕えることもできませんから、とにかくイエスにはユダヤの王になられては困るわけです。
2.かといって、イエスにはユダヤ的な罪はありません。民衆がイエスをユダヤの王と仰いでいるので、ローマ帝国の皇帝に対する反逆罪「自らを王と宣言した」という言い方でイエスを陥れようとしたのです。彼らだって宗教家ですから、イエスが神だとわかっていればこんな事はしません。しかし、彼らはイエスをただの人間だと思っていたのです。

Ⅱ.世を愛された
A.赦されるしか無い私たち
1.では、その十字架刑がなぜ私たちを救うものとなったのでしょうか? アダムが全ての人を代表していますが、全ての人が彼によって罪人となりました。罪人は自ら神のところへ行くことはできません。牢獄に入れられた犯罪人はいくら願っても家族のもとに戻れないように、罪人は神様のところに行けないのです。
2.ところが、もしその罪が赦されたとしたらどうでしょうか? バラバのように投獄されていた極悪犯でさえ赦免されて出てこれました。赦されれば出てこれます。

B.愛されているからこそ赦される
1.赦されるためには(罪無しとされるには)それなりの条件があります。私たちに与えられた条件とは何でしょうか? 盗んだという罪なら、その弁償をして相手に詫びることで赦されるかと思います。
2.私たちの罪は神の言葉を無にした、神を愛さないという根本的なものです。その罪を悔い改めて、神を愛する生き方に向きを変えることです。
3.しかし、何と言っても神が私たちを愛しておられるからこそ、罪を赦すという大胆な計画を立ててくださったのです。その計画が私たちの罪の身代わりを立てることだったのです。そう!イエス様の十字架の死です。

Ⅲ.永遠のいのちを持つため
A.永遠のいのちの反対は?
1.永遠のいのちとは何でしょうか? ただずっと生き続けるということではありません。神の次元に移るということです。そこに行かないなら、行くべきところは後一つしかありません。一般的に言われる「地獄」ですが、神のおられない次元ということです。
2.この人間界でも戦争や憎しみ合い、いじめ、病気、等々あるのは悪魔の支配下にあるからです。それでも神が介入してくださるではありませんか。ここに神の介入が無くなったらそれは恐ろしいものです。

B.永遠のいのちを持つお方と共に
1.その恐ろしい次元が十字架で象徴されています。私たちはみんなそこに行く予定でした。しかし、神はあわれみ深いお方です。アダムが神のことばを無にしたので罪が入りました。私たちが神のことば「イエス」を愛するなら罪を赦すという寛大な計画です。
2.イエスを愛するとは、イエスをいただくこと、私たちの中心にイエスを置くことです。天国(愛と平和の次元)の主が私たちの心に来てくださるのです。

★ イエス様はゲツセマネの園で祈り、自分のすべき事を確認されました。それは全ての人のために十字架で身代わりの死を遂げることです。


みんなでいただく

2018-03-18 17:24:42 | 礼拝説教
2018/3/18礼拝説教
【テーマ】  聖餐式
【説教題】 「みんなでいただく」
【聖書箇所】 ヨハネ6:1-14
  6:1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。
6:2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。
6:3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。
6:4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。
6:5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
6:6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
6:7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
6:8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
6:10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
6:11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
6:12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
6:13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
6:14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。

○ 今日は聖餐式をいたします。今日のテキストを読んでいると、すごい人数の聖餐式のような気がします。共に食するということは教会のメンバーとしてとても大事なことであり、嬉しいことです。新中野教会では毎週ランチがあるというのもすばらしいことです。お弁当持ちでなくても一緒に食べることができるのですから。食事の交わりはお互い心を開きやすいものです。

Ⅰ.大勢がイエス様のところに
A.イエス様のところに集まる
1.イエス様が次々病人を癒されました。それを多くの人が知り、癒して欲しい人がどんどん集まりました。また、そういう奇跡を見たい人もどんどん集まりました。
2.当時のラビといえばパリサイ人や律法学者のように民衆に厳しく、落ち込んでいくようなことしか言わない人達でしたので、イエス様のように優しく、愛をもって接してくださるラビは人々から一気に尊敬されました。

B.教会に集まる
1.今はイエス様が見えませんからイエス様のところに行くというのがわかりにくく思われるかも知れませんが、聖霊が私たちの内におられるという事実があります。その聖霊によって私たちはイエス様がいつも共におられることを信じているのです。
2.また教会はキリストの体として存在するので、教会を通してイエス様を感じることができる、つまり私たちを通してイエス様が感じられるのが教会です。

Ⅱ.イエス様はみんなに与えられた
A.信仰を教える問答
1.奇跡見たさに集まったかも知れない人々ですが、どんな思いで集まってこようともイエス様はみんなのことを気にされました。お腹を空かせた人々に食べ物を与えたいと思われるお方です。 6:5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」 と。
2.しかし、この言葉を聞いたピリポは 6:7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」 と、現実的な計算をしました。それは当然大事なことです。しかし、 6:6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。 とあるように、これはピリポはじめ弟子達に信仰の世界を見せるために言われたことでもありました。
3.聖餐式の小さなパンを食べてどうなるか? なんてパンのことにしか意識が行かないと私たちもこの時の弟子達のようなもので信仰による救いの世界が見えてこないのです。イエス様はこの小さなパンのかけらを通して、私たちに十字架の救いの偉大さを教えておられるのです。

B.五つのパンと二匹の魚
1.弟子達がパンのことで思いあぐねていると、アンデレが少年の持っていたパンを示しました。が、 6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」 と、少なすぎると悲観します。
2.しかし、イエス様はそれを増やして、欲しいだけ与えられたのです。奇跡を見に来た人々は驚きましたし、何よりも弟子達が驚いたのです。イエス様にこんな事ができるとは誰も思っていなかったからです。しかし、これを見ても、この後十字架によって罪からの完璧な救いがなされるとは誰にもわかりませんでした。

Ⅲ.食べるべきパンとは
A.いのちのパンであるイエス
1.イエス様が人々のためにパンを増やされたように、神様は私たちのためにいのちのパンであるイエス様をくださいました。人々が欲しいだけ食べたように、イエス様の恵みも溢れるほどにいただけるのです。
2.つまり、聖餐式のパンがちぎられるように、十字架刑でイエス様の体が裂かれました。しかし、それによって私たちの罪は完全に取り去られたのです。ひとかけらも残されないということです。

B.十字架を思い起こす
1.聖餐式のパンはちょっとです。少年が差し出したパンはイエス様だけが食べるには十分でしたが、一万人も二万人もいるようなこの状況では私たちの聖餐式のパンどころかもっともっと少ない量です。ところが、それをイエス様が増やしてしまい、みんなのお腹を完璧に満たしました。
2.聖餐式のパンがちょっとでも、私たちは今、この礼典を通してイエス様の十字架を思い起こしています。その十字架に表されたものすごく大きな神様の愛を思い起こしているのです。たった一人の身代わりの死が全世界全ての人の罪を背負うことができるのです。それが神、神の子のわざです。

● 初代教会の人達が共に集まって食事をした話は有名です。教会での食事は金持ちも貧しい人も関係なく、同じようにいただきます。身分の差も、学歴の差も無い、同じクリスチャンとして交わりがあります。みんなイエス様によって救われたという喜びでその交わりを楽しんだようです。同じ事が私たちの教会のランチにもありますし、聖餐式も同じです。みんな一緒に同じ神の言葉イエス・キリストをいただくのです。

★ イエス様の救いには限界がありません。野原でみんながお腹いっぱい食べたように、私たち誰でも救われるのです。

わたしの心だ。きよくなれ

2018-03-11 16:52:02 | 礼拝説教
2018/3/11礼拝説教
【テーマ】  真の癒し主イエス
【説教題】 「わたしの心だ。きよくなれ」
【聖書箇所】 マルコ1:35-45
【新改訳2017】
1:35 さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。
1:36 すると、シモンとその仲間たちがイエスの後を追って来て、
1:37 彼を見つけ、「皆があなたを捜しています」と言った。
1:38 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」
1:39 こうしてイエスは、ガリラヤ全域にわたって、彼らの会堂で宣べ伝え、悪霊を追い出しておられた。
1:40 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」
1:41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。
1:42 すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。
1:43 イエスは彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせた。
1:44 そのとき彼にこう言われた。「だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」
1:45 ところが、彼は出て行ってふれ回り、この出来事を言い広め始めた。そのため、イエスはもはや表立って町に入ることができず、町の外の寂しいところにおられた。しかし、人々はいたるところからイエスのもとにやって来た。

○ 病を癒し、悪霊を追い出しと、イエス様の凄まじい活動をマルコは書いていますが、今回もマルコは病の癒しの記事を書いています。それもただ病気というのではなく、宗教的な意味合いと持つもので、この解決は宗教的な救いまで表すものでした。癒された人の喜びはどれほどでしょう。

Ⅰ.祈って出発
A.一人で祈るイエス
1.イエス様の活動が活発化してきましたし、イエス様の弟子も増えつつあります。そのイエス様は 1:35 さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。 とあるように、一人で祈ることを常としておられました。私たちも共に祈りますが、個人的に祈るのはやはり祈りの基本と言えるでしょう。
2.そこへシモン達がやって来ました。人々がイエス様を探しているというのです。夜が明けると早い段階で人々はイエス様のところに集まったみたいです。ですから、イエス様の祈りはその前であったのです。

B.祈ったら行動するイエス
1.人々が捜していると聞いて、イエス様は出かけられます。 1:38 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」 と。イエス様の働きは福音を伝えることです。その働きは教えることと、悪霊を追い出すことでした。
2.私たちもイエス様と同じく福音を伝えるために色々な事をしているのではないでしょうか。その全ては神様の御心に沿ったことでなければなりません。だからこそ祈り、祈ったら行動です。

Ⅱ.ツァラアトの癒し
A.差別を受けるほどの病
1.イエス様が教え、癒し、悪霊を追い出しておられたところに、ツァラアトに冒された人が来ました。ツァラアトとは色々な皮膚病を指し、以前は「ライ病(ハンセン氏病)」と訳していましたが、それは正しくないことがわかりました。新共同訳聖書は、これを「重い皮膚病」と訳しています。
2.祭司はこの病気と診断するとその人は「私は汚れている」と叫んで、人々に近づいてはいけなかったのです。治れば祭司に見せて祭司が「きよい」と宣言することで一般社会に戻ることができました。そのために、人々から差別を受けることが多くなってしまいました。

B.触ってくださるイエス様
1.この人は社会的に認められていなかったので、それは辛い日々を過ごしたことと思います。彼が 「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」 と「きよく」と言っているのは、肉体的な病気というのではなく、この病気は宗教的に「汚れている」とされていたからです。だから治れば祭司によって「きよい」と宣言されるのです。
2.人々が近づこうとしないこの人に、イエス様は近づいたばかりか触れられました。律法ではツァラアトの人が一般の人に近づいてもいけなかったし、この患者に触れるとその人も汚れると言われていました。そんな中、イエス様はこの人に触れたのです。イエス様はあなたにも触れてくださるお方です。

Ⅲ.本当の聖め
A.瞬時に癒されるイエス
1.イエス様が触れて 「わたしの心だ。きよくなれ」 と言われたことでこの人は癒されました。瞬時の癒しというものは病人にとっては憧れです。私もどれほど憧れてきたことでしょう。
2.イエス様も きよくなれ と宗教的な意味での癒しを語られました。事実彼の皮膚はきれいになり、 自分を祭司に見せなさい と祭司の宣言をいただくことも言われたように、彼は罪からも解放されたことを宣言しておられるということです。
3.私たちはイエス様の十字架によって 「わたしの心だ。きよくなれ」 と言われたのと同じで、瞬時にきよめられました。罪人とは認められないのです。

B.罪からの救いを目的としたイエス
1.イエス様は 「だれにも何も話さないように気をつけなさい。 と言われたのですが、彼は嬉しかったのでしょう、言い広めてしまったので、 イエスはもはや表立って町に入ることができず、町の外の寂しいところにおられた という状態になってしまいました。
2.人々としては罪の赦しがいまいちわかりませんが、現実問題の病の癒しに関心があるのです。私も痛むと何が何でも癒して欲しいと願いますから。
3.しかし、イエス様の真の目的は 1:38 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」 にあるのです。

★ イエス様はどんな病気も癒すことができます。しかし、イエス様が来られたのは福音を伝えるためです。その福音の中に癒しもあるのです。

病気を癒すイエス

2018-03-04 18:00:31 | 礼拝説教
2018/3/4礼拝説教
【テーマ】  権威者イエス
【説教題】 「病気を癒すイエス」
【聖書箇所】 マルコ1:29-34
【新改訳2017】
1:29 一行は会堂を出るとすぐに、シモンとアンデレの家に入った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
1:30 シモンの姑が熱を出して横になっていたので、人々はさっそく、彼女のことをイエスに知らせた。
1:31 イエスはそばに近寄り、手を取って起こされた。すると熱がひいた。彼女は人々をもてなした。
1:32 夕方になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。
1:33 こうして町中の人が戸口に集まって来た。
1:34 イエスは、様々な病気にかかっている多くの人を癒やされた。また、多くの悪霊を追い出し、悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスのことを知っていたからである。

○ 病気をお持ちの方はいらっしゃいますか? かく言う私は皆さんもご存知の通り、あちこち悪いところだらけの人間です。イエス様が病気を癒すお方なら、どうして牧師が癒されていないのですか? と言われてしまいます。証しにならないということでしょうか。

Ⅰ.シモンの姑を癒す
A.イエス様がシモンの家に行く
1.今日の話はシモンの姑が癒された話ですが、シモンとはペテロのことです。マルコはペテロの通訳をした人ですから、ペテロはきっとあちこちでこの癒しの話をしたのではないでしょうか?
2.シモンとアンデレの住んでいた家はどの程度の大きさの家だったかわかりませんが、姑さんにすれば熱を出して寝ているのですからこういう時のお客さんは迷惑なものです。

B.ひどい熱を癒された
1.イエス様はこの姑のことを知って 1:31 イエスはそばに近寄り、手を取って起こされた。すると熱がひいた。 と、彼女を癒されました。ここのところを医者であるルカは ルカ4:38 イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。人々は彼女のためにイエスにお願いした。 と、姑さんはひどい熱だったと書いています。
2.さらにルカは  4:39 イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。 と、熱をしかっておられます。これは医者の癒し方とは違うわけです。

Ⅱ.多くの人を癒す
A.癒しを求める人々
1.そして、この後、 1:32 夕方になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。 と、イエス様のうわさを聞いた人々は次々病人を連れてきました。当時の医療体制は現代と全く違います。ましてや高い医薬品を買うこともできない貧しい人々は何もできなかったでしょう。そういう人々がイエス様のうわさを聞きつけると必死の思いでイエス様に癒しを期待したのでは無いでしょうか。
2.しかし、イエス様がそんな癒しの力を持っていなければ誰も集まりはしません。イエス様はどんな病も癒すことができるお方なのです。

B.現代にもある癒し
1.聖書に見る癒しは色々あります。ここではシモンの姑の高熱の癒しでした。他のところには、目の見えない方、耳の聞こえない方、大変な皮膚病、中風、歩けない方等々、更には死んでしまった人まで生き返らせています。
2.こうしたことは現代にもあります。特にペンテコステ派が生まれた20世紀初頭、あちこちで癒しや奇跡が起こったと言います。そこから世界各地で癒しなどの奇跡が起こりました。それは中南米、アジア、アフリカで顕著でした。

Ⅲ.あなたの罪を赦す神
A.最も大事な奇跡
1.「癒しを体験すればイエスを信じるよ」「奇跡を見たら信じるよ」「神を見たら信じるよ」といった言い方をされる方があります。よくわかります。私もイエス様がそうしてくだされば楽です。皆さんイエス様を信じてくださるのですから。
2.イエス様はこうした奇跡を起こされたので、人々はイエス様に期待しました。でも人々はイエス様が神の子であって、人間の最大の問題である罪の解決のために身代わりの死を遂げるために来られたというようなことは全くわかっていません。人々の勝手な願い、このような不思議な力を持っているイエスがユダヤの王になればすばらしいと思ったからです。

B.救いを体験して欲しい!
1. 悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスのことを知っていたからである。 とあるのも、イエス様のことを人間以上に知っている悪霊どもが、その知識を悪用して人々に話すなら、人々は益々イエス様を誤解するでしょう。
2.イエス様は今も私たちの病気を癒すことができます。現に奇跡的な癒しがあります。でも、最も大事なことはイエス様によって罪が赦される喜びを持つことです。

★ イエス様は当時の誰にもできなかったような悪霊の追い出しや病気の癒しを行われました。それはイエス様がメシヤ(キリスト)であり、神であることを示す一つの方法でした。そして最も大事な罪の赦しを人々が知るためだったのです。あなたもこの最も大事なイエス様によって罪が赦されるということを体験していただきたいのです。