バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

想像の神? 創造の神!

2017-03-05 18:32:21 | 礼拝説教
2017/3/5礼拝説教
【テーマ】  使徒信条1
【説教題】 「想像の神? 創造の神!」
【聖書箇所】 ヘブル11:3
  11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。
われは聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。  アーメン

○ ウエルカムサンデーで「使徒信条」を学んでみたいと思います。「使徒信条」は、昔のクリスチャンが短い文章で自分たちの信仰を表現したものです。

Ⅰ.想像された神
A.神を説明することは難しい
1.こんな話があります。ある国の王様が国中の偉い学者を集めて、「神とは何か、わかりやすく話してくれないか」と尋ねたそうです。学者達は「数日間待ってください」と言って、たくさんの本を調べました、調べれば調べるほどわからなくなり、「王様、神とはわからぬものでございます」と答えたそうです。
2.この話は何を意味しているのかというと、学者の頭でいくら考えても、いくら本を調べても神というものはわからないものだ、神というものは説明したり、その存在を証明したりするのがとても難しいということです。

B.日本人が考えた神
1.昔の日本では神をどのように考えていたかというと、昔の家には土間がありましたが、「土間の神」、「便所の神」というようにその家の私的な神があったり、水の神、火の神というような自然を神としたりしました。
2.また、村・などその地域を守ると言われる氏神があります。その氏神のためにはそこに住んでいる人みんなで祭をし、寄付をするという風習が今も残っています。
3.それと国家的な神、伊勢神宮には天皇家の一番祖先である天照大神を祭っています。そして、天皇に限らず、国家に尽くした人達も神として祭られます。東郷神社、野木神社のようにです。
4.日本では「カ」というのは上という意味が古くからありました。ですから自分より少し上の人、自分より力のある人、人間より力のある自然、・動物などを神と言ったのです。

C.無神論者を貫けるか
1.しかし、近代になって唯物主義や科学万能主義が生まれ、「神はいない」という考えが主流を占めたのです。その結果、宗教や神は人間が造り出したものとされてしまいました。
2.そういう人達の中で、戦時中、共産主義で唯物論者だった尾崎秀実(ほつみ)という人がいます。彼は、ソ連のスパイとして働いたドイツ人ゾルゲに重要な国家情報を提供していました。あるとき、ゾルゲが逮捕され、尾崎も逮捕されました。 そして1944年11月7日に死刑になりました。その尾崎秀実が獄中から奥さんと手紙のやりとりをし、それが本になっています。その中で、彼は「私は無神論者で宗教を否定したが、死刑を宣告されて死に直面している今になって、若い日に仏教でも、基督教でもよい、信仰をもっていたら、この苦しみが緩和されたろう」というようなことを述べています。平常時に神を否定しても、ギリギリの時になお、神を否定し続けられる人はどれ程いるのでしょうか。

Ⅱ.創造の神
A.サムシング・グレート
1.昔から自然を神とした背景にはその偉大さを知っていたらからです。枯れたような木々が春に芽吹き、凍り付いたような地面からも草花が出てくるのです。
2.科学の時代になれば神の存在を否定しつつも、その自然のすごさはさらに知られるようになりました。見事に秩序だった天体の動き、人体や動植物の見事な造りは何か偉大な力、「考え」の存在を感じさせてきました。ある人はこれをサムシング・グレートとも呼んでいます。
3.つまりこれらのもの全てが勝手にできたということの方が難しくなったのです。つまり、「神」がどのようなお方かわからないものの、この大自然、大宇宙は「神」が造られたというのが最も普通だと言えます。

* 参考資料:木村資生博士は、ダーウィンの進化諭に対して「中立的進化論」を唱えて世界的に名を知られた有名な遺伝学者である。その木村博士は「生き物が生まれる確率は、一億円の宝くじに百万回連続で当たったのと同じくらい凄いことだ」と述ぺている。 私(村上和雄)は二十年以上遺伝子の研究をしているが、万巻の書物に匹適する情報を極微の空間に書き込み、その暗号通り動かしている不思議な働きを直感してきた。この働きは人間業ではなく、大自然の偉大な働きであり、私はサムシング・グレートと呼んできた。(平成16年(2004年)7月4日 日曜日 産経新聞 正論)

B.全能の父なる神
1.聖書は「絶対者」である神を示しています。つまり、他に神と言えるようなものは無いということです。「神」と比較してどちらが偉大か? というような相対的な方では無いということです。
2.さらに聖書は「神」が全能であると言っています。「全能」とはなんでもできる、できないものは何もないということです。ただ暴君のようになんでもできるというのではなく、愛に基づいてなんでもできるお方です。
3.そして、「父なる神」なのです。権威をもった父親のような存在であるということです。しかし、暴力的な権威ではなく、親子として人格的に交わりを持ってくださる方です。私たちに呼びかけ、私たちの声を聞いてくださる方です。

C.信ず
1.神がいるということを信じるというだけでは、そこにある「もの」を「ものがある」と信じるのと大きな差がありません。この信じるとは「信頼する」ということです。
2.神を信じる(信頼する)のは神と親しい関係にあるからです。それは、神が私たちを愛してくださっていることを聖霊によって実感していくことで生まれます。
3.神はすでに私たちに近づいておられます。私たちも神に近づくことです。 黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。 と、言われているとおりです。私たちの心の扉を開けるなら、親しく共に過ごすことができます。

★ 「全能の父なる神」は、私たち人間をその悲惨と罪の中から救い出すためには、不可能なことも可能にする神であるということを告白しています。心から信じて告白しましょう。

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