バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

神の子どもとは・・・

2014-08-31 16:29:07 | 礼拝説教

  2014/8/31礼拝説教
【テーマ】  聖霊に導かれる人
【説教題】 「神の子どもとは・・・」
【聖書箇所】 ローマ8:12-17
  8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

○ クリスチャンというのは「神の子ども」です。子どもというのは、親からかわいがられ、教えられ、躾けられ、普段の交わりから愛をいただいているのです。幼い子どもでも色々なことが自由にできるようですが、それは親の庇護があるからです。私たちも神の子どもということですから、神様の庇護の元、色々なことを自由にさせていただいているのです。

Ⅰ.支配権は神にある
  A.聖霊はエネルギッシュだが
    1.クリスチャンは神の子であり、聖霊が内側に住んでおられます。十字架によって罪の支配から解放され、今やイエス様に従うようになったのですから、 私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。 というわけです。
    2.私たちの内におられる聖霊の働きは実にエネルギッシュです。何しろこの宇宙をも創造された神様ですから。だからといって、私たち人間の意志を無視した働きはなさいません。
    3.聖霊のバプテスマはまるでわたしたちを無視して一方的にやってくるエネルギッシュな満たしと思われたりしますが、それは私たちが望んでいるから与えられたのです。望みもせず、心の扉を閉じているなら、受けはしないでしょう。
   
  B.意志を無視されない神様
    1.救いは全くの恵みですが、信仰生活にはかなり私たちの意志が働きます。その意志や信念を神様に委ねることが大事なのです。私たちの思いが世のものに繋がっているなら、私たちは肉体を持って考え、行動するのですから、いくら聖い霊をいただいたとしても、神様の祝福を逃すのです。 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。 ということなのです。
    2.ところが、私たちの心というのはなかなか厄介なもので、神様の恵みと祝福を期待しているものの、現実の世の方にも思いが行くという、反対方向のものを同時に求めているような心です。
    3.本来、支配権は神様にあるのですから、単純に神様に委ねて、神様の支配の中に安心して浸りきれば良いのです。神様は私たちの意志を無視して、強制的になさる方ではありません。私たちが自ら委ねる意志を持つのです。

Ⅱ.「アバ、父」と呼ぶことができる
  A.親しく呼びかけることができる
    1.15節に 私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。 とありますが、「アバ」とは親しくお父さんに呼びかける言葉です。小学生の時、私は両親を「お父ちゃん」「お母ちゃん」と呼んでいましたが、中学生になると子どもっぽいということで「お父さん」「お母さん」と呼ぶようにしました。が、思春期ですから、それも恥ずかしくて、「父上」「母上」と呼んでいたことがあります。
    2.私たちは祈りで神様に呼びかけます。「神様」と呼びかける人、「お父様」と呼びかける人、「御在天の御父なる神様」と呼びかける人、様々ですが、「おとん」とか「ちゃん」とか気安く呼びかける人はそうはいないようです。
    3.しかし、この 「アバ、父」 は子どもがお父さんに呼びかける一般的な言葉だと言われます。母親を「くそばばあ」と平気で言う時代ですが、神様に対してそのような言い方はできません。でも、親しく呼びかけてよいようにしてくださったのです。
   
  B.イエス様によって神様が私たちの父となった
    1.私たちは本来神様を「父」とは呼べなかったのです。「父」と呼べたのはイエス様だけでした。ところが、イエス様の十字架によって私たちも神の子どもにしていただきました。ですから、私たちもイエス様と同じく「父」と呼べるようになったのです。 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 と、聖霊の保障付きです。
    2.お祈りでは、最初に「天のお父様」と父なる神様に呼びかけて、最後に「イエス様のお名前を通してお祈りします」と言いますが、私たちはイエス様の十字架によって祈れるようになったので、「イエス様のお名前によってお祈りします」と言うのです。

Ⅲ.相続人である
  A.永遠を相続する
    1.子どもというのは、たいてい親の財産を相続します。何をも相続することの無かった者、それが母と私と弟でした。父の死後、遺品の整理をしましたが、見事にお金はありません。金庫が二つもあり、開けるのに相当苦労したにもかかわらず、金目のものは何一つありませんでした。名ばかりの「相続人」は相続税もありませんでした。
    2.では、神の子としての「相続人」ならどうでしょうか?  もし子どもであるなら、相続人でもあります とありますから、私たちは皆相続人なのです。
    3.では何を相続するのでしょうか? 私たちがこの地上で大切だと思い込んでいる朽ち果てていくものでは無いようです。神は永遠のお方ですから、私たちも永遠をいただくのです。私たちは永遠のいのちを相続するのです。同時にそれは天国です。
   
  B.キリストの思いを受け継ぐ
    1.相続とは基本的に親の死後、親の財産を受け取るわけですが、神様には死というものはありません。私たちの死後、天国を相続することが私たちに与えられた相続財産かと思われますが、神様は永遠なのです。今、すでに私たちは相続しているとも言えるのです。聖霊が私たちに住んでおられること、私たちの中に神の国が来ていることはまさにそういうことです。
    2.私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 この御言葉でわかるように、私たちはこの地上においてイエス様と苦難を共にしているなら「相続人」なのです。キリストは直系の子どもですから、もちろん父なる神様のものを相続されますが、今や、私たちも「共同相続人」にしていただけるのです。
    3.キリストは人々に福音を伝えられました。言葉によってもですが、愛の行いによってもです。私たちが神の子どもであるということは 使徒1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。 の御言葉の実現がまさにそれです。神の子どもとはキリストの証人なのです。

● ザアカイは神の子どもとなり、財産半分を貧しい人に与え、不正に取り立てたところには4倍にして返しました。彼はイエス様と共同相続人となったのです。
  この地上においては無一文であっても、多くの人をイエス様に立ち返らせるために働いた、天に宝を積んだクリスチャンをたくさん知っています。

★ クリスチャンは誰も何の才能も無い、ダメな人間では無いのです。みんな、この地上でどんなにお金を積んでも得ることのできない、永遠のいのち、天国、そして神ご自身(聖霊)をいただいたのです。私たちはそういう「神の子ども」なのです。


イエス様、大好き!

2014-08-24 18:18:18 | 礼拝説教

  2014/8/24礼拝説教
【テーマ】  聖霊が住んでいる人
【説教題】 「イエス様、大好き!」
【聖書箇所】 ローマ8:5-11
   8:5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
8:6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
8:7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
8:8 肉にある者は神を喜ばせることができません。
8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
8:10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

○ 幼子たちがお父さんやお母さんに抱きついて「パパ(ママ)だいすき」と言っているのをよく見ます。とても嬉しい光景です。お父さんたちも最高の気分でしょう。神の子としていただいた私たちはストレートに「イエス様、大好き!」と言っているでしょうか。

Ⅰ.肉に従う者
  A.肉の思いは死
    1.恋愛中のカップルは周りの忠告も受け入れないほど互いのことだけを思っていて、とても幸せそうです。幼子はお母さんのことばかり思っていて、これまた平安に満ちています。
    2.私たちの心が何に集中しているか、何に従うかで、その気持ちも変わり、幸・不幸まで変わるようです。
    3.そこで、パウロは 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますと言い、肉の思いは死であると言っています。
   
  B.肉にある者は神を喜ばせることができない
    1.肉というのは「世」でもあり、私たちがイエス様を信じるまで支配されていた罪の世界です。ですから、ここで 肉に従う者 というのは、イエス様を信じること無く生きている人のことと思われます。しかし、もし、クリスチャンがそのように生きるとしたら悲しいことでしょう。
    2.肉の思いは神に対して反抗するものだからです。 肉にある者は神を喜ばせることができません。 とパウロが言うように、自己中心に生き、世的な考え方で生きるなら、それは神様と反対方向の生き方だということです。

Ⅱ.御霊に従う者
  A.御霊による思いはいのちと平安
    1.パウロは 肉に従う者 に対して 御霊に従う者 を対比的に出します。 肉の思いは死であ ることに対して、御霊による思いは、いのちと平安です と、肉に従う者と御霊に従う者とは正反対であることを示しています。
    2.私たちが何を信じるか、何に従うかで、私たちの人生は死かいのちというような大きな開きができるということです。聖霊・神様は私たちに いのちと平安 を与えようとなさっているのです。
   
  B.この肉体の限界を超える人生
    1.イエス様を信じる人は永遠の天国が保障されています。だからと言って死後を期待して生きるだけではいけません。11節に もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。 とあるのです。ここでは「もし」と書いていますが、ここは「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるので、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」としてよい言い方なのです。
    2.死ぬべきからだではありますが、この地上にいる間も、イエス様の助けによって、死んだ生き方から、神様に喜ばれる生き方に変えていただけるとしたら何とすばらしいことでしょうか。
    3.確かに復活の体はまだいただけませんが、ガラテヤ5:19-23にあるように肉の行いから離れ、御霊の実を結ぶ人になるのです。
      5:19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、 5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。 5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

Ⅲ.御霊を持つ者
  A.御霊の中にいる
    1.この地上にあって、この肉体を持ちながら、御霊の実を結んでいくのがクリスチャン人生ですから、その基本は 8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら なのです。ここも「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるので」と訳してよいのです。間違い無く、聖霊はイエス様を信じる私たちの中に住んでくださっています。
    2.それは同時に あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです ということです。私たちもまた神様の中にいるのです。クリスチャンになったのに、神様の中にいない、神様がそばにいないなんていうことは無いのです。私たちの中に聖霊がおられ、聖霊の中に私たちがいるというのがクリスチャンの生き方です。
   
  B.キリストのもの
    1.聖霊をいただいたからクリスチャンです。 キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。 のとおりです。パウロはイエス様を信じる者は誰でも救われること、救われたということは聖霊がその人の中に住んでおられて、その人は キリストのもの となったと教えているのです。
    2.8:10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。 と、この肉体の不自由さがあったとしても、私たちの霊は生きているのです。 いのちと平安 をいただいているのです。

● 子どもは親の愛を受けるから心の中に愛が湧き、「お母さん(お父さん)大好き」と言うようになるのです。そして、子どもの中に来た愛は心の中にあるだけでなく、子どもはいつも愛の中にあるのです。聖霊が私たちの中にお住まいになり、私たちはいつも聖霊の中にいるのです。

★ 聖霊をいただいたら、私たちは「イエス様、大好き!」と言うようになるのです。


あなたの信仰は?(岡山志伸師)

2014-08-18 09:20:44 | 礼拝説教

2014/8/17礼拝説教

■ テーマ:メシヤの奇跡と権威
■ 説教題: あなたの信仰は?
■ 聖書箇所:マタイ8:5~13

8:5 イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、
8:6 言った。「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」
8:7 イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」
8:8 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。
8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
8:10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。
8:11 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。
8:12 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
8:13 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

<はじめに>
 今回は8章からメッセージを語ります。5章から7章の山上の説教において山に登られたイエス様
は、その山から降りて来られました。そしてイエス様は、三つの奇跡的癒しをされます。一つは、ツァラアトという皮膚病の男性を癒される話しです。そして二つ目が、先ほど読まれた百人隊長のしもべが癒されたという話しです。三つ目は、ペテロのしゅうとの癒しの話しです。今日は、二つ目の百人隊長のしもべの癒しの物語を中心に私たちに与えられた「信仰」について見て参りたいと思います。

<Ⅰ 病を癒されるイエス様>
1.ツァラアトの男
イエス様は山上の説教において、天の御国について語り、天の御国が来たのだと宣言されました。山から降りて来られたイエス様がなさったこと、それは、癒しというみわざでした。天の御国の素晴らしさをメシヤとしてお示しになったのです。この8章からは、イエス様がご自分の権威を立証されるのを見ることが出来ます。ツァラアトに犯された男を癒された話しが出ます。今日の中心的な話しに取り上げませんでしたが、イエス様がなされた癒しのわざについて、少し見ておきたいと思います。(8:1~3)このように、イエスは病人を癒すことによってご自分に与えられた神の奇跡と権威を示されます。そしてそこには、癒しを通して神様の心、ご愛を何よりも示されたのです。先日、アメリカ人の動画でへびにからまれたタカを見つけた人がこの鳥を助けたところを観ました。へびにからまれ死んだかと思われたタカは、その後、へびから解放され突然に元気よく羽ばたいていきました。私は、この人の愛が通じたのだと感動しました。イエス様も愛をもって手を伸ばしてきよめ、癒されています。この病は、汚れのよるものとされていましたが、イエス様はそのような人々に愛の心を示されたのです。

2.百人隊長のしもべの病
ツァラアトの病の男の次は、今日の話しの百人隊長です。彼がイエス様に治して欲しいと懇願した彼のしもべは、ひどい中風にかかっていました。(8:5、6)ところで、百人隊長とは100人の兵士を統率するローマの将校で、軍隊の中でも非常に優秀な人物が任命されるものであったようです。イエス様に近づいたこの百人隊長もまた、ローマ軍の中でも優秀な人物であったと思います。ここで注目すべきことは、彼が異邦人である事です。ツァラアトの病人が、イスラエルの共同体から除外されていたように、異邦人も除外されていました。それなのにイエス様は、この異邦人のしもべに対して、癒しの御手をのべようとされたのです。山上の説教において、天の御国についての教えをされた後のイエス様は神の霊による権威に満たされていました。そして、イエス様が実践的に人々に手を差し伸べられ、行ったことは、世間から除外されているような人々のためへの主の心を表す神の奇跡のみわざだったのです。

<Ⅱ 百人隊長の信仰>
1.信仰のステップ1
 この百人隊長は無力感と絶望感の中に座り込んでいたと思います。息子のように可愛がっていた部下である自分のしもべが、中風で苦しんでいて、目の前の壁に向かって座り込んでしまっていたのでしょう。そんな彼のもとに、イエスという人物が民衆のありとあらゆる病気や患いを癒しているという情報をどこかで耳にしたのかもしれません。同じマタイによる福音書の4:23以下にはイエス様がガリラヤで教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆の病気や患いを癒され、広まった話しがあります。イエス様は百人隊長の信仰に感心されましたが、彼の信仰は、イエス様の知らせを聞いたときに始まりました。イエス様にお会いするために、カペナウムに向けて立ち上がったとき、その信仰もはじめの一歩を踏み出したのです。ローマ10:17に「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあるように、信仰のステップ、第一段階は、イエス様に関する信仰について聞く耳を持つことです。神様への信仰には、行きつ戻りつではありますが、何段階かのステップがあります。皆さんは今、どのあたりの信仰を歩いているでしょうか?
 
2.信仰のステップ2
 イエス様にお会いした百人隊長は僕が病気で苦しんでいると訴えます。イエス様は彼に「行って、直してあげよう。」と言われます。(8:7)イエス様に何とかお会いしてしもべが癒されることを願ったところ、イエス様ご自身がそのしもべのところへ行くと言われたのです。
 信仰とは私たちをイエス様に近づけます。私たちは今、このように礼拝堂に集い、讃美を捧げ、御言葉に耳を傾け、礼拝を守っていますが、これは信仰がなければできないことです。信仰がなければ私たちはイエス様に近づくことはできません。イエス様について聞くことにより始められた信仰は、私たちを信仰の確信へと導き、その確信により、私たちはイエス様の御前に近づくことができるのです。そして、イエス様に近づこうとすればするほど、私たちはそれ以前にない信仰へと導かれることでしょう。イエス様との関係が密接になってくるからです。異邦人の百人隊長はまだ十分、神への信仰が分からない人でした。しかし、イエス様のお会いしなければならない決意の内に、ひたすらイエス様のもとを目指したのです。信仰のステップ二段階目は、イエス様のもとに向かうことなのです。

2.信仰のステップ3
 そして、最後のステップ3においては、素晴らしい百人隊長の信仰を見ることになります。(8:8 、9)百人隊長のこの信仰に、イエス様は大変感心されました。なぜ、ここまで感心されたのか?
一つには、百人隊長はここで、実際には僕がまだ癒されていないにも関わらず、また、イエス様が癒して下さるかどうか、癒すことができるかどうか分からないにも関わらず、イエス様の言葉が与えられただけで、もうすでに癒されることを確信していることです。癒された僕の姿を見ているからです。ヘブル人への手紙の11:1以下には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信すること」と記されています。
 二つ目に、百人隊長は、自分自身のことを重ねて、「権威」というものをよく理解していました。軍隊の経験から、イエス様が仰ったことは必ず実現するという、推理からの確信を持っていたのでしょう。まして、神である方ならば、その権威は人の権威を遥かに超えるものであると、イエス様には、その権威が与えられているのだ、イエス様の力は病気よりも強いことを悟っていました。異邦人である百人隊長の理解の深さは、神についてよく知っているイスラエルの人々の信仰よりも素晴らしいというのです。
ここには、百人隊長の神への謙遜な姿がありました。ツァラアトの病の男も謙遜な心を持って、イエス様のみもとに来ました。「お心の一つが欲しい」と願ったのです。百人隊長は、「ただ、おことばを下さい。」と願いました。私たちは、つい「癒して下さい。」という祈りになりがちですが、この二人には、神のみ心が何であるかを求めている姿があると思います。

<Ⅲ 信仰にある事実>
1.「信心」と「信仰」
 イエス様は、「あなたの信じた通りになるように」と言われました。すると、ちょうどその時に「しもべは癒された」のです。(8:13)神の奇跡やみわざは、時間や空間に支配されないところで働くものだと分かりますが、信仰は、神が与える神の真実と事実を、実際に体験することが出来るものです。
日本語の「信仰」という言葉は聖書翻訳語として有名ですが、昔の日本においては、「信心」という言葉の方が優勢だったようです。ある牧師はこの「信心」、「信仰」の一番の問題は、事実との関係にあると言いました。よく「鰯の頭も信心から」と言います。鰯の頭のようなものでも、信じ始めると、神にも仏にもなると言うわけです。しかし、鰯の頭をいくら神のように思っても、事実としては、鰯の頭に過ぎないのです。一枚の画像がここにあります。「竜王さんのクス」という600年からな古い木です。徳島市の城跡にあって、私や弟は小さい頃、よくこの木が面白くて、登ったりして遊んでいました。その頃はただの面白い古い木でしかなかったのですが、現在はロープで囲いがしてあり、今や手を合わせて拝むようなイメージとなっています。人の心とはそんなところがあります。しかし、事実は、ただの古い木です。これらは、神でも何でもないものである、これが事実なのです。
しかし、今日のこの百人隊長は、神である方が言われた本物の神の癒しの事実を手にしたのです。聖書のまことの神には、神にしか出来ない素晴らしい体験がそこにあります。キリスト者は、この神にしか与えることが出来ない信仰の「事実」を体験することが出来るのです。
  
2.事実へと進む信仰へ
 キリスト教の信じるという姿勢は、「信心」よりもどちらかというと「信仰」であると言われます。信仰は、心の在り方や単に心の中で作り上げることではなく、信じ仰ぐという言葉から、この天地万物を創造された方を仰ぐというものです。
聖書の神様は、愛であり、善であり、義である善きお方です。人類の歴史の中で事実、生きて働かれる方だと聖書は示します。救いに導きたい愛である神の存在が事実であるということを、私たちに知らせたい方なのです。この神様を仰いで、信仰の土台を頂きましょう。この神様は私たちの「信仰」を上よりの力によって、引き上げたい方です。漠然とした信心ではなく、信仰にある神の愛の事実、神の奇跡の事実、神のみわざの事実を受け取る階段を上り進みましょう。
また、イエス様はただ百人隊長の信仰をほめただけで終わらずに、非常に厳しい言葉を続けられます。(8:11~12)ここにある「御国の子ら」とは、生まれつき御国を相続する権利を持っている意味があるそうですが、アブラハムの子孫である神の選民、イスラエル民族の中にあっても、イエス様への信仰がなければ、暗闇に放り出され、歯ぎしりすることになるのです。逆に言えば、神の恵みは、民族を超えたすべての人々に注がれているということです。天国の一員となるためには、異邦人であることや、民族、人種は関係ないことに感謝したいと思います。

<結び>
 私たちの信仰は、まだまだと言える段階かもしれません。しかし、信仰の限界を自分で決めるのはやめたいと思います。そして、イエス様のご存在を聞いたなら、イエス様に近づき、神にある見えないところの信仰の真実と神が与える事実を受け取って、私たちの信仰を引き上げて頂き、大いなる神を体験していきたいと思います。


あなたの罪は処罰された

2014-08-10 16:53:36 | 礼拝説教

   2014/8/10礼拝説教
【テーマ】  聖霊に従って生きる
【説教題】 「あなたの罪は処罰された」
【聖書箇所】 ローマ8:1-4
  8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

○ 私たちは罪の問題を避けて通れないのですが、今日のテキストで、パウロは 罪に定められることは決してありません と言い切ってくれています。何と麗しい言葉でしょうか。

Ⅰ.キリスト者は罪に定められない
  A.罪と死の原理から解放された
    1.私たちは 罪と死の原理 の中でしか生きてこれませんでした。律法を知っても、その律法に従って完全にきよく生きる事はできず、律法によって自分の罪が明確にされるだけで、救われませんでした。そういう 罪と死の原理 の中に生きてきました。
    2.そのような私たちが 今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。と言っていただけるようになったのです。それがイエス様のお陰なのです。いのちの御霊の原理 によるのです。
   
  B.いのちの御霊の原理が働いた
    1.いのちの御霊 とは何でし ょうか? イエス様が天に帰られる前に約束されたのが「聖霊」です。聖霊は、「御霊」や「助け主」と言われ、私たちイエス様を信じる者の内側にあって助けてくださる助け主なる神様です。三位一体の神なので、イエス様と聖霊は一つです。
    2.罪と死の原理 の中にいた私たちですが、イエス様を信じることで、 いのちの御霊の原理 が働くようになりました。スイッチをイエス様側に入れたという事です。すると当然、その原理が働くのでイエス様を信じる者は罪に定められないのです。


   
Ⅱ.聖霊によって建てられる教会
  A.キリスト・イエスにある者によって
    1.8章に入って初めて「聖霊」という言葉が登場します。ということはここから新しい展開があるのです。パウロは聖霊の働きを書き進めます。私たち新中野キリスト教会の今年の標語「主の教会を建てよう」の中心へと向かうのです。
    2.「主の教会」というのは キリスト・イエスにある者 によって建てられる教会です。葛藤を持ちながらも、肉の限界の中に生きながらも、イエス様のいのちと恵み、力を持つ者達で建て上げる教会です。
   
  B.聖霊が主の教会を建て上げられる
    1.私たちが建てようとしている教会は、私たちの肉的な努力で建て上げることはできません。肉で建てようとしたら、それは肉的な教会、単なる人の集まりでしかなくなってしまいます。
    2.人の集まりも楽しい集まりはたくさんあるかも知れません。しかし、単に楽しければ良いのではないのです。いのちがみなぎっている、愛が溢れている集まりで無ければなりません。「主の教会」とはそういう教会です。
    3.教会は、私たち人間が集まるのですから、罪が無いわけじゃないのです。その罪に支配されない いのちの御霊の原理 によって共に集まり、聖霊に委ねて活動する集まり(アッセンブリー)なのです。


   
Ⅲ.私たちはイエス様に似ていく
  A.罪から解放された生き様
    1.神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。 と、人の姿をおとりになったイエス様が、私たちに解決のできなかった罪を解決してくださいました。「処罰」と書いてありますように、イエス様は罪に対して権威をお持ちで、罪を処罰できるのです。
    2.それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たち とあるように聖霊に従って歩むことが大原則なのです。今までは神様の命令・戒めに対して強く生きられなかったのです。私たちは葛藤を持ちながらも、肉を離れた新しい生き方に導いていただけるのです。それが聖霊の働きです。
   
  B.聖霊に満たされる生き方
    1.イエス様は律法を全うされた方です。同じく、イエス様によって罪の支配を無くしていただいた私たちも、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。 と、神様の命令に力強く生きることができるようになったのです。
    2.それは限りなくイエス様に近い生き方ができるようになったことを示しています。それは聖霊がその人の中に住んでおられるからです。何度も言いますが、まだ肉体をもって生きる以上は肉の葛藤はありますが、聖霊はそれを越える体験を与えてくださいます。聖霊のバプテスマがまさにそれです。

● 私の個人的な証で申し訳ないですが、私は18才で救われて大喜びしていたのに、洗礼を受けてわずか2-3ヶ月で、もう信仰が何かわからなくなってしまったのです。信じてⅠ年後には教会を辞めようと思いました。それが、ペンテコステのグループの祈り会に出席して祈った瞬間、今まで体験したことの無いすごい聖霊の働きを受けたのです。聖霊によるバプテスマでした。この日から私は今まで一度もイエス様を疑ったり、信仰を辞めようとか思ったことが無いのです。聖霊のバプテスマのお陰だと思っています。もちろん、自分の罪、性格で悩み、人との間に困難が生じて、落ち込むことは数え切れないほどありましたが、イエス様を疑うことは無いのです。いのちの御霊の原理で生かされているからでしょうね。

★ 聖書は一貫してイエス様を信じる人は救われると教えています。罪に定められないと言っています。罪はイエス様によって処罰されたのです。あなたは罪を追いかけてはいけない! イエス様と共に生きるべきなのです。


喜び踊る人

2014-08-03 18:20:59 | 礼拝説教

2014/8/3S礼拝説教
【テーマ】  迫害の中にある幸い
【説教題】 「喜び踊る人」
【聖書箇所】 マタイ5:10-12
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

○ 皆さんは迫害された経験がありますか? 何かの事情で苦しめられたことを「迫害されている」と言う人もあるようですが、イエス様は 義のために迫害されている者は幸いです と言っておられるので、 義のため の迫害を考えてみます。義というのは神様の性質です。まさに神様のために迫害される人のことがここに書かれています。

Ⅰ.キリスト教迫害は留まらない
  A.聖書時代
    1.キリスト教会は教会誕生後すぐに迫害を受けています。最初はまだキリスト教と呼んでいなかったので、ユダヤ教の一派として、死んだイエスを教祖にしておかしな教えをしているということでユダヤ教徒からの迫害を受けました。
    2.その迫害によってイエス様の弟子、ヤコブやステパノは殺されました。また、迫害をしている側にいたパウロは復活のイエスの声を聞き、回心し、今度はパウロ自身が迫害を受ける側になっています。
                
  B.教会時代
    1.聖書に記録されている時代を越えてその後も迫害は続きました。有名なのはネロ皇帝による迫害です。ローマの大火をクリスチャンのせいにして、クリスチャンを火刑にしました。
    2.日本でも1549年にザビエルが宣教してからクリスチャンの数は急激に増えたのですが、大きな迫害も起こりました。1597年に長崎で宣教師と日本人信者26名が処刑されました。それから明治の初めまで約300年間、迫害は続きました。昭和の戦前・戦中の迫害も大きいものでした

Ⅱ.迫害されている者を幸いと言う理由
  A.天では報いが大きい
    1.迫害は信者やその家族を苦しめ、命を奪う、とても恐ろしいものです。なのに、イエス様は信じられないようなことを言われました。 5:10 義のために迫害されている者は幸いです。 5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。 と。
    2.ここには 天ではあなたがたの報いは大きいから。 と死後の世界における報いのことが言われています。この地上でイエス様のために苦しみを受けるなら、必ず天国ではすごく祝福されますという、まさにあの世での祝福を説かれました。
   
  B.天国の生活はすばらしい
    1.キリスト教は確かにこの地上での祝福よりも死後の天国の祝福を言います。ですから、まず何といっても天国に行くことを勧めるわけです。地獄に行ったのでは元も子もないからです。
    2.いわゆる「あの世」のことを教えているのです。非常に単純に言ってしまうと、この地上で人間的に良い生活をしても永遠の天国でそういう生活は無くて、この地上で貧しく、苦しめられても天国に行けると貧しさも苦しさも無い最高の幸せを得るというわけです。
   
  C.真の信仰は人々の心を変える
    1.迫害はクリスチャンを根絶やしにしようと企まれてなされたものです。確かに迫害の最中には殺されたりしてクリスチャンの数は一時的に減少するものの、その後クリスチャンの数は増えるのです。
    2.迫害を受け殺されていくその姿を見て、キリスト教こそ本物だと思った人がたくさんいます。

Ⅲ.迫害の中で強さをくださる神様
  A.ステパノの殉教
    1.聖書の中で有名な殉教者にステパノがいます。使徒の働き7章に彼の殺されるまでのいきさつが書かれていますが、 使徒7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」 と語るステパノの言葉です。彼にはすでに天国が見えていたのです。
    2.迫害、殉教自体は決して望ましいものではありません。しかし、そのような時にステパノは 使徒7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。 とイエス様のように迫害者に対して恨みや憎しみを語らず死んで行きました。
    3.人は必ず死にますが、どのような死に方を望みますか? まず、迫害を受けて死にたいという人は無いと思います。しかし、もし迫害を受けても、このステパノのように死んでいけたら幸いかなと思います。
   
  B.ペテロの殉教
    1.ペテロはイエス様の十字架を前に、イエス様のことを「知らない」と言って、自分はイエス様の弟子であることを知られないようにしてしまいました。イエス様はその前に彼に ヨハネ13:38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。 と言われました。その通りになったわけですが、ペテロは鶏の声を聞いた時、愕然としたのです。あのまま、彼は死を迎えなくて良かったです。
    2.ペテロは晩年、ローマに行き、ネロ皇帝の迫害で殉教したと伝えられています。「知らない」と言ったままキリストを捨てて生きる事もできたでしょうが、彼を変えたのはイエス様が誠に救い主であったからです。復活されたからです。

● イエス様は、 マタイ10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。 や、 マタイ16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。 と言われました。「いのち」は大切です。そして、永遠のいのちはもっと大切です。
  イエス様やステパノのように、死の間際にも人々の幸せを願っている生き方、死に方は日々、神様を愛した生き方から来るのだと思います。
  私は何人ものクリスチャンの死に際して、恨み言では無く「ありがとう」と言って行かれる姿を見てきました。

★ あなたは自分の人生をどのように生きていきたいですか? 望むように生きていけないこともあります。どんな生き方でも、大事なのは天国に行ける確信をもって喜び踊る人生です。