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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

十字架 暗闇が襲った日

2013-03-25 17:39:12 | 礼拝説教

2013/3/24礼拝説教

【説教題】  「暗闇が襲った日」
【聖書箇所】 マルコ15:33-41

15:33 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。
15:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。
15:36 すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」
15:37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
15:38 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
15:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。
15:40 また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。
15:41 イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。

○ 私たちの人生を様々なものが襲ってきます。隕石も襲ってくる時代です。しかし、人間は光無しには生きられないようで、闇が襲ってくるのは大変なことです。聖書の中に闇が人々を襲った日が何度か出てきますが、その一つ、イエス様の十字架の一場面を見てみましょう。

Ⅰ.暗くなった
  A.イエス様は世界の光としてこられた
    1.ヨハ 1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。 にありますように、クリスマスは闇であったこの世に光としてお出でくださったイエス様の誕生の日でした。
    2.イエス様がこの地上におられて、人々と共に生活されるだけもですばらしいことでした。ユダヤの貧しい人々はイエス様の後をついて行くほどにイエス様に期待し、喜びを感じていました。
    3.ある人は癒やされ、生かされ、希望をいただきました。まさしくイエス様は人々の光でした。しかもその光は真の光、人々に救いを与える光だったのです。
   
  B.イエス様のいない世界は闇である
    1.そのイエス様が地上での働きを終えなければならない時がきました。十字架刑に処せられたのです。9時に十字架にかけられたので、3時間後の12時に全地が暗くなり、イエス様が息を引き取る3時まで続きました。
    2.光であるイエス様がこの世からいなくなるということは世界から光が消えることを表しているのです。
   
  C.神が見捨てると闇になる
    1.その時のイエス様の叫びが 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」 でした。イエス様が神に見捨てられるとは何と言うことでしょう。神が見捨てるということは人生が闇だということです。
    2.神は私たちを見捨てないお方です。 詩篇 94:14 まことに、【主】は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません。 とあるとおりです。ところがその神がイエス様を見捨てられたのです。
    3.イエス様は全ての人の代表とも言えるお方ですから、イエス様が見捨てられるということは全世界が闇になったのです。しかし、その闇は天地創造の日に光が創られたように大きな意味をもつ闇でした。

Ⅱ.イエスは死んだ
  A.エリ、エリ、レマ、サバクタニ
    1.聖書に記録されているところでは、イエス様は十字架上で7つの言葉を語られました。マルコは 「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 というこの言葉だけを記録しています。
    2.マタイの福音書では マタ27:46 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」 と書いてあります。これはヘブル語でイエス様はこのエリヤと間違いやすいヘブル語で語られたと言われています。マルコはアラム語で引用しています。
    3.だから、イエス様をあざ笑っていた人たちが これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。 のです。旧約聖書に出てくる偉大な預言者エリヤを呼んでいると勘違いしたのでしょう。

  B.イエス様が十字架から逃れたら
    1.イエス様の叫びを人々は苦しみから逃れたくて助けを求めているのだと思いました。もしイエス様が苦しみから逃れたければ、いつでも逃れることはできました。しかし、イエス様はそうなさらなかったのです。
    2.イエス様が十字架を逃れたら、つまり死ぬことを止めたら、私たちは誰一人救われなかったのです。それこそ、永遠に私たちの世界、私たちの心は、闇に葬られることになったのです。
    3.私たちは光を求めています。「光」とは幸福のこと、希望、健康、勇気・・・等々言い方があるかも知れませんが、それは人間にとって、とても大事なものなのです。イエス様が十字架から逃れたら、永遠にそれらのものは私たちに無いことになるのです。
   
  C.十字架は私たちの命の保障
    1.人々は、イエス様が十字架にかかることで、自分たちの願いだった「救い主」では無かったと思い、絶望しました。イエス様を罵る人も出てきたのです。
    2.イエス様によって癒やされた人や、生き返った人、優しくしてもらった人たちは罵りはしなかったでしょうが、心の希望、光は消えてしまったでしょう。
    3.ところが、イエス様の十字架は人々が思っているような「自分の罪のために死ぬ場所」では無かったのです。そこは私たちがかかるべき場所だったのです。そこにイエス様が代わってかかってくださったのです。それは、私たちの命が保障される出来事だったのです。

Ⅲ.神の子であった
  A.まことに神の子であった
    1.イエス様の十字架の死を近くで見続けたローマの百人隊長は イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。 とあります。彼の言う「神の子」とはイエス様が神であることを認めた言葉なのかどうかはわかりませんが、少なくとも神と崇められたローマ皇帝とは違って、本物だと感じたのでしょう。
    2.犯罪人がかかる十字架上のイエス様を見て、たくさんの犯罪人を見て来た百人隊長がどの犯罪人とも違うことを発見したのです。それは処刑に当たった自分が恐れを感じるほどに、イエス様には罪を見いだせなかったということです。
   
  B.バラバが釈放された
    1.マタイの福音書27章にバラバの話があります。バラバは極悪犯であったようで、彼は死刑囚だったのです。まさに十字架はバラバの場所でした。
    2.その彼がイエス様によって死刑を免れたのです。裁判の席で「釈放するのはイエスか、バラバか」とみんなに問われたとき、その場にいたユダヤ人は「バラバだ」と叫んだのです。バラバ自身、驚いたことと思います。
    3.ある人は「バラバのような悪い奴が死なないで、なぜイエス様が・・」と言います。しかし、そのバラバが実は自分だとわかったら、どうでしょうか?イエス様の十字架にどれほどの感謝がわいてくることでしょう。
   
  C.明けない夜は無い
    1.イエス様の十字架をバラバも見ていたのではないかと思います。自分の代わりに死ぬようなイエスが、自分よりどれほど罪深いのか知りたかったでしょう。
    2.しかし、百人隊長と同じように感じたのではないでしょうか。彼は「死ぬべきは俺だった!」と痛感したと思います。「こんなきよい方が自分に代わって死ぬとは」と。彼も闇が襲った中で思ったでしょう。
    3.しかし、闇は必ず消えます。光は預言の通り、出番を待っています。私たちの心の中で輝く出番を!

★ 暗闇が襲ったあのイエス様の十字架の日。それは神がこの世にいないことを象徴しています。神がいない心もまた闇です。しかし、その闇はイエス様が十字架で解決されたのです。イエス様はあなたの光であることを信じてください。

今日の聖書の言葉で

● あなたの人生は光ですか? 闇ですか?

● イエス様の十字架はあなたに何をもたらしましたか?

● あなたの心に光は輝いていますか?


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