バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

祝福される人とは

2018-09-16 16:22:54 | 礼拝説教
2018/9/16礼拝説教
(シルバー祝福式)
【テーマ】  キリストにある人生
【説教題】 「祝福される人とは」
【聖書箇所】 マルコ4:3-9、14-20
【新改訳2017】
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4:4 蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
4:5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったのですぐに芽を出したが、
4:6 日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった。
4:7 また、別の種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びてふさいでしまったので、実を結ばなかった。
4:8 また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
4:15 道端に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。
4:16 岩地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、
4:17 自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。後で、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
4:18 もう一つの、茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、
4:19 この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。
4:20 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」

○ 今日はシルバー祝福式です。しかし、今日のテキストは子ども達にもよく知られている「四つの種」とも「四つの土地」とも言われているイエスのたとえ話です。イエスがお話になっていたその時にも子ども達がたくさんいてイエスのこのお話は子ども達もよく分かるお話だったのではないでしょうか。とすれば、イエスは子ども達に向かってどのようにお話しなさったのかと興味深く思います。

Ⅰ.私たちの心はどんな土地?
A.四つ
1.種蒔く人・農夫がたくさんの種を蒔いていますので、「四つの種」というよりは「四つの土地」という方が正しいと思うのですが、一つ一つの種がどうなったかということから考えれば「四つの種」と考えても良いでしょうね。
2.四つの土地の内、神が望まれるのは最後の「良い地」だけです。後の三つは違った土地ではあるものの、どれも実を結ばない点で同じです。

B.実を結ぶ土地になりたい
1.子どもでも「良い地」に蒔かれた種は生長して実を結ぶことは分かっていました。ただ、当時の農法では一粒の種からとれるのは十倍くらいだったそうです。ですから、 三十倍、六十倍、百倍になった と言われたイエスの言葉に子ども達も驚いたと思います。
2.とすれば、子ども達だって「良い地になりたい」とも思ったのではないでしょうか。イエスの話を聞いた大人たち、シルバーの人たちはどう思ったでしょうか? 自分の心は「良い地」だろうかと考えたでしょうか。

Ⅱ.わたしの心を振り返って
A.三つの土地を通ってきた
1.私はこの四つの土地を考えた時、自分に照らし合わせてみました。今の私の心は「良い地」なのかどうか? 自分の心は良い地かどうかはわからないとして、他の三つの土地は体験したように思うのです。
2.道端 4:15 道端に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。 子どもの時に日曜学校に行ったのです。聖書の話も聞いたのです。しかし、女の子ばかりだということですぐにやめてしまい、それっきり18歳まで教会に行かなかったのです。
3.岩地 4:16 岩地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、4:17 自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。後で、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。 18歳でクリスチャンになり教会に通うようになりました。その頃は大変喜んでいましたが、知識も信仰も不十分でどんどん落ち込みました。
4.茨の地 4:18 もう一つの、茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、4:19 この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。 これに当てはまるかどうかわかりませんが、聖霊のバプテスマも受けたのに、神様の存在も疑わなくなったのに、教師としての生き方に燃えて、キリスト者として証しが立っていなかった時期を思い起こすのです。
5.自分の中にこういう三つの土地があったように思えます。果たして「良い地」になっているのでしょうか? 30倍の実を結んでいるのでしょうか?

B.御言葉の種はたくさん蒔かれた
1.私たちは一粒の御言葉の種をいただいただけでは無く、多くの種が蒔かれたのではないでしょうか。そしてある時期の自分は道端のようであって、芽を出す前に鳥に食べられてしまって御言葉の影響力を受けなかったという経験、少し成長して、受けた御言葉の種が芽を出す経験をしたのだけれど心が頑固な岩地で、根付かなかったこと、さらに成長してものの、様々な誘惑で成長しきれなかったこと。
2.しかし、感謝なことに御言葉はたくさん蒔かれ、それをいただいてきたお陰で、その一つが芽吹き、成長したのであればなんと感謝なことでしょう。

Ⅲ.シルバーの方々の心
A.様々な体験を通して
1.もしかして、シルバーの方々にも私と同じような経験があるかも知れません。すべて信仰生活が順調というのは理想ですが、この世に生きるかぎり、色々な事に悩まされ、心も波立つものです。
2.とすると、道ばたも岩地も茨の地も体験して来られたものの、シルバーになって今、神の前にいらっしゃるということはすばらしいことではないですか。それこそ実を結んでいるということなのです。

B.肉的力を失って
1.シルバーの方々というのは、今までの若い時に色々なことができたし、知識も蓄えたと思うのです。しかし、それができなくなってきた、蓄えたはずの知識も薄れてきたのではないでしょうか。
2.しかし、若い時に多くの人生経験を積み、道ばたも岩地も茨の地も体験して、多くの反省をした人でもあるのです。つまり、たくさん悔い改めをした人でもあるわけです。そこではじめて分かる、はじめて言える信仰の世界があるのです。そして今や良い地となって御言葉が100倍の実を結ぶのを見ていらっしゃるのではないですか。

● シルバーの皆さんは人生で色々大変なところを通ってこられたと思います。特に子ども、孫のことを思うと時に心辛く、たまらないような思いになったこともあったかと思います。あるいは、自分の体の辛さ。時には長生きしたくなかったとさえ。しかし、その全てに神の恵みと祝福があったことを思い起こしたいですね。神は皆さんを祝福し、皆さんの子孫まで祝福されています。 出エジプト 20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。 と、ここには1000代までと。つまり永遠です。神に従う皆さんの子孫もエイ会陰に祝されるのです。

★  みことばを聞いて受け入れ る人。あなたの人生は祝福されています。
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教会は神の家族

2018-09-09 16:59:25 | 礼拝説教
2018/9/9礼拝説教
【テーマ】  キリストの教会
【説教題】 「教会は神の家族」
【聖書箇所】 マルコ3:31-35
【新改訳2017】
3:31 さて、イエスの母と兄弟たちがやって来て、外に立ち、人を送ってイエスを呼んだ。
3:32 大勢の人がイエスを囲んで座っていた。彼らは「ご覧ください。あなたの母上と兄弟姉妹方が、あなたを捜して外に来ておられます」と言った。
3:33 すると、イエスは彼らに答えて「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と言われた。
3:34 そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。
3:35 だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」

○ 教会は「神の家族」と言われます。そのように言われる起源ともなったイエスの言葉が今日のテキストにあります。

Ⅰ.私たちもイエスの親戚
A.理解していない肉の家族
1.身内の人たちもイエスを理解してくれなかったようですが、そんな中、イエスの母と兄弟が来たとのこと。兄弟達も兄イエスを理解していなかったと思います。では、母マリヤはどうだったのでしょうか?
2.マリヤとヨセフはイエスが不思議な方法で誕生した神の子であることを知っています。いつかメシヤとしての働きをなすことを知っていましたから、30歳になったイエスの活動を理解したと思うのですが、マリヤの思っていたような感じでは無かったかも知れません。

B.イエスの言う新しい家族
1.家族が来た時にイエスは 3:33 すると、イエスは彼らに答えて「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」 と言われました。イエスの不思議な質問の一つですね。 「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」 と、イエスは家族も分からなくなるほどおかしくなったのかと思われるような発言です。
2.しかし大事なのは、イエスのそばにいた人達をさして ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。 と言われたことです。それは、私たちもイエスの身内、親戚にしていただいたということです。
3.俳優、タレントなどテレビに出る人が親戚だと、それが相当遠い親戚でも、そう人がいると「あれは私の親戚なんだ」と誇りたくなったりします。イエスから私たちを家族と言っていただけるのはすごい誇りではないでしょうか。

Ⅱ.神の家族は神のみこころを行う人
A.みこころを行うのが家族らしい
1.イエスが、イエスの周りにいる人を指して家族と言われたのですが、そこには だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです と続きます。これは今の私たちクリスチャンには分かる言葉です。しかし、イエスの周りに来ていた人たちが神のみこころを行っていたのでしょうか?
2.神のみこころを行うことはクリスチャンの願いであり、また行うべきです。しかし、ここでイエスが家族と言われた人たちはそういう人でしょうか? イエスに癒やして欲しくて集まった人たち、イエスを見たくて集まった人たちではないでしょうか? 

B.みこころとは?
1.クリスチャンの中でも「私はみこころを行っていない」と悩む人があります。では、みこころとは何でしょうか? パウロはこういう言い方をしています。【新改訳改訂3】Ⅰテサ 4:3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。 と。もちろんみこころはこれがすべてではありません。個人的な神のみこころもあるでしょう。
2.しかし、イエスが人となってこの地上に来られ、十字架にかかってくださったことを思うと、イエスを信じることがみこころとも言えます。イエスの周りに集まった人たちはイエスを理解しなかったイエスの身内よりも信じたのではないでしょうか。
3.しかもここには大人だけでなく、子どももいたと思われます。病人、色々な辛さを抱えた人たちもいたと思われます。そういう人達を家族と呼んでおられるのです。イエスの周りに集まることこそみこころと言えるのではないでしょうか。だとしたら、皆さんもイエスの所に来ているだけでみこころを行う人なのです。

Ⅲ.イエスのそばに
A.イエスの教える家族
1.この箇所からある人は肉の家族は捨てても良い、信仰による家族こそ本当の家族だと、血縁を疎かにする発言をする人があります。しかし、イエスはそういうことを言いたいのでしょうか?
2.それは他の所を見ていくことでわかります。特に母マリヤに対しては十字架上でヨハネに託しておられ、マリヤは教会の中で生き、教会の仲間に支えられて生涯を全うしたようです。また弟ヤコブは後に弟子となり、指導的な教師になっています。
3.また、聖書は夫婦の絆、親子の絆を大切にすることを教えています。むしろ、こうしたことが前提で、イエスは新しい家族を教えておられるのではないでしょうか。

B.イエスのそばに居続ける人
1. ご自分の周りに座っている人たち という、イエスのそばに座っていることが大事なのです。座っているのは教えに耳を傾けている姿です。ただボーッと座っているのではなく、真剣に御言葉に耳を傾けていることです。
2.マルタとマリヤの話は有名ですが、マリヤはマルタの仕事をなにも手伝わないで、ただイエスのそばに座り込んで話を聞いていたのです。それをイエスは喜ばれたではありませんか。
3.御言葉を聞くというのは知識をためることではなく、愛を実行する人になることです。

★ 私たちは皆神の家族です。教会にとって大事なのは愛し合っていることであり、イエスを中心に集まっているところです。そして、みこころを行う人たちが家族です。

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キリスト教の救いとは?

2018-09-02 18:39:31 | 礼拝説教
2018/9/2礼拝説教
【テーマ】  罪からの救い
【説教題】 「キリスト教の救いとは?」
【聖書箇所】 ヨハネ3:16-17
【新改訳2017】
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

○ 教会ではよく「救い」とか「救われた」とか言います。「いったい何から救われたのだろう?」と思われる方があると思います。キリスト教でいう救いとは何でしょうか? そしてイエス・キリストは救い主と言われます。何からの救い主なのでしょうか?

Ⅰ.そのままでは人は滅んでしまう
A.神を離れていることが罪
1.数年前の統計ではあるのですが、保護者から捜索願いの出された家出した小学生の数は1544人だったそうです。中学生は7000人を越えていたそうです。子どもにすれば「イヤになった」とか色々な理由があるのでしょうが、親とすれば大変辛い、悲しいできごとです。
2.人間は神に造られたすばらしい存在です。神様にすれば家出少年のように神の元を離れていった人のことを悲しんでおられるのです。私たちを造られた神を知らないと言って、神から離れて生きようとすることを「罪」と言います。

B.そのままだと滅びに至る
1.罪を持ったまま生きている、つまり、神を離れて生きているということは様々な問題も生み出します。自分勝手に理屈をつけて自分を正当化し、自分勝手に生きます。そのために人に対しても悪い事を考えたり、したりしてしまうのです。
2.ある人が「罪は生ゴミのようだ」と言いました。生ゴミはそのままにしておくと腐ってどんどん臭くなっていきます。早く捨てないと虫もわくし大変です。最近ゴミ屋敷のことが結構問題になっています。
3.私たちの罪もそうなるのです。そのままにしておくとどんどんひどくなり、最後は私たちもゴミのように罪と共に火の中に放り込まれて焼かれます。

Ⅱ.イエスを信じると救われる
A.罪処理場は十字架だった
1.ゴミはゴミ収集車で持っていってもらうことで私たちは助かるのです。では罪の収集車ってあるのでしょうか? イエス様です。イエス・キリストのところに行けば、すべての罪を受け取ってくださるのです。そしてその処理〈解決〉が十字架だったのです。
2.ゴミ焼却場がゴミを処理するように、私たちも罪をもったままならそのまま罪処理場に放り込まれてしまうわけです。つまり滅びです。
3.神様は私たちが滅びに行ってしまわないように、イエス・キリストを身代わりにしてくださいました。イエスは私たちの罪を受け取って滅びへと行ってくださったのです。ですから、救いというのはイエス様によって自分の罪を処理してもらうことなのです。

B.イエスが救命ボート
1.神が私たちを愛しておられなければ何も神のひとり子イエスを十字架につけて私たちの身代わりに殺す必要はありませんでした。しかし、神は私たち人間を心から愛しておられます。このことは聖書のいたる所で語られています。
2.しかも、誰一人滅んで欲しくないためにすべての人を救うことができる方法を取ってくださったのです。沈没する船に乗船者全員分の救命ボートが無かったために死んでしまったという話を聞きます。しかし、神は全員救うことができるイエスをくださったのです。
3.このイエスという救命ボートに乗る、つまりイエスを信じることで救われるのです。キリスト教の救いとは、罪と罪の滅びから救われることであり、イエスを信じるだけで救われるのです。

Ⅲ.救われると生き方が変わる
A.永遠の命が与えられる
1.イエス様は十字架で私たちの身代わりに滅びを受け取ってくださったばかりか、復活して罪が完全に処理されたことを証明してくださったのです。「救われた」ということのもう一面は「永遠のいのちが与えられた」ということです。救われないと「永遠の滅び」だったのですが、救われると「永遠の命」なのです。
2.それは確かにこの肉体の死を迎えなくては味わえない世界でもあるのですが、すでに罪赦されて生きることができるので、喜びがあるのです。

B.試練の時も脱出の道がある
1.罪の解決をしていただいて、救われたということは、私たちの生き方を神様と一緒に生活する生き方に変えることでもあるのです。私たちも、神様の喜ばれる生き方をしようと決心し、努力するのです。(ただ、努力して救われるのでは無いことは知っておいてください。)
2.イエス様を信じると、聖霊〈イエス様に代わる神の霊〉がその人の中に住んでくださるので、この聖霊の力に助けられて生きることができるようになります。 【新改訳2017】Ⅰコリ 10:13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。 とあるように試練はありますが、必ず脱出の道が用意されるのです。

C.神に直接祈れる
1.そして、イエス・キリストを信じるということは神に祈りが直接届くということなので、お祈りすればいいのです。私たちは今まで誰に祈っていたのでしょうか? 神を離れていた人は神に祈れませんでした。しかし、イエス・キリストによって救われたのですから、神に祈ることができるようになったのです。
2.何を願ってもいいのですが、私たちを命をかけて愛してくださった神様ですから、神様の望まれる生き方ができることを祈ったり、他の人の祝福を祈るのが正しいのではないでしょうか。

● 三浦綾子さん原作の塩狩峠の映画はどれほど多くの人に感動を与えたことでしょう。汽車を離れて滅びに向かう列車を永野青年が命をかけて止めました。この身代わりの死に多くの人は感動したのです。これはイエスの十字架の身代わりの死を表現した映画です。イエスは滅びに向かう私たちの身代わりに死なれたのです。

★ 人はみんな罪人ですから、そのままでは滅びでした。しかし、イエスを信じることで罪と罪の滅びから救われ、永遠の命をいただくのです。すべての人が救われることを神が願っておられるように、私もすべての人が救われることを願って祈っております。
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赦されない罪

2018-08-26 17:29:37 | 礼拝説教
2018/8/26礼拝説教
【テーマ】  イエスを愛して生きる
【説教題】 「赦されない罪」
【聖書箇所】 マルコ3:20-30
【新改訳2017】
3:20 さて、イエスは家に戻られた。すると群衆が再び集まって来たので、イエスと弟子たちは食事をする暇もなかった。
3:21 これを聞いて、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。
3:22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼はベルゼブルにつかれている」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言っていた。
3:23 そこでイエスは彼らを呼び寄せて、たとえで語られた。「どうしてサタンがサタンを追い出せるのですか。
3:24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。
3:25 もし家が内部で分裂したら、その家は立ち行きません。
3:26 もし、サタンが自らに敵対して立ち、分裂したら、立ち行かずに滅んでしまいます。
3:27 まず強い者を縛り上げなければ、だれも、強い者の家に入って、家財を略奪することはできません。縛り上げれば、その家を略奪できます。
3:28 まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒涜することを言っても、赦していただけます。
3:29 しかし聖霊を冒涜する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」
3:30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。

○ 皆さんは赦されない罪があると思いますか? もしその罪を犯したなら、クリスチャンでも赦されず、天国へは行けないというような罪があるでしょうか? 今日のテキストで 3:29 しかし聖霊を冒涜する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」  のところが、長くクリスチャンを悩ませてきた聖書箇所です。聖霊を冒涜する罪とは? あなたは大丈夫なのか? 考えてみましょう。

Ⅰ.身内の者に理解されないイエス
A.食事をする暇もないほど
1.最初に今日のテキストの最初から見ていきましょう。 3:20 さて、イエスは家に戻られた のですが、 すると群衆が再び集まって来たので、イエスと弟子たちは食事をする暇もなかった。 と、くつろげるはずの家でも群衆が押し寄せてきたのでゆっくりできませんでした。それはどれほどイエスが多くの人に好かれたかがわかる言葉です。
2.この家はアンデレの家と考える人もあれば、イエスの家と考える人もあります。イエスの家だとすれば興味深いですね。30歳まで父ヨセフの後を継いで大工をしておられたようですから、そこはイエスが一番慣れ親しんだ落ち着く場所ではなかったでしょうか。

B.イエスはおかしくなったのか?
1.そんな家に 3:21 これを聞いて、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。 と、身内がやって来るのです。身内の者は本当にイエスがおかしくなったと思っているのでしょうか?
2.イエス様を求めてやって来る群衆がいる反面、イエスに反感を抱く人たちがいました。律法学者達、当時の宗教的リーダーです。その人たちからイエスを悪く言われると、身内の者もそちらの言い分を信じてしまったのでしょう。イエスは身内からも理解されなかったのです。

Ⅱ.悪霊呼ばわりされるイエス
A.イエスは悪霊の親玉なのか
1.イエスは律法学者達からとんでもないことを言われます。 「彼はベルゼブルにつかれている」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言っていた と。つまり、イエスを悪霊につかれているとか、悪霊呼ばわりしているのです。それは律法学者もイエスが悪霊を追い出していることは認めざるを得なかったからです。そこで、イエスを陥れるために苦し紛れに考え出した話です。
2.それに対するイエスの答はごく当然の話です。悪霊同士で追い出し合いなどするようなことはあり得ないのです。悪霊どもはイエスをなき者とすることで一致しています。彼らが仲間割れしたのではイエスを倒すことはできないのです。

B.イエスを拒み続ける人たち
1.律法学者達はイエスが悪霊を追い出している事実を認めているのですが、ただ認めてしまうと人々は益々イエスに着いていき、自分たちの教えを聞かなくなってしまうと危機感を感じて、イエスをおとしめようとしているわけです。
2.しかし、こうしたことから、イエスには律法学者達に無い不思議な権威があることを人々が知るのです。そして、律法学者はイエスに対する敵意を丸出しにしてきます。イエスは後にご自身に代わる聖霊を約束されているのですが、彼らがイエスを拒むということは聖霊を拒むことにもなるのです。

Ⅲ.聖霊を冒涜する罪
A.あなたは大丈夫!
1.この律法学者達との話から、イエスの語られた言葉 3:28 まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒涜することを言っても、赦していただけます。3:29 しかし聖霊を冒涜する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」 が続き、それが今まで多くのクリスチャンを悩ませてきました。つまり、「私は聖霊を冒涜しなかっただろうか?」「私は永遠に赦されない罪を犯していないか?」ということです。
2.私たちも親の悪口くらい言います。それで親子の関係が永遠に切れることはありません。当然神様と私たちの関係も切れるはずがありません。この言葉で悩む人はむしろイエスによって救われているから悩むのです。改めて言いますが、イエスを愛している人はこの罪を犯していません。

B.赦されない罪は不信仰
1.神を冒涜しても赦されるが、聖霊を冒涜すると赦されないというのが理解を苦しめるのです。なぜなら聖霊は神ですから。ただこれは当時、イエス様と聖霊が一致して働かれたのが顕著なのにもかかわらず、その聖霊の働きを冒涜した当時の律法学者たちの罪と言えます。
2.今私たちはどんな罪も赦していただけます。イエスを信じる(イエスを愛する)人はどんな罪も赦されています。イエスを信じた瞬間に聖霊は私たちの内に住まわれます。そのお方を追い出すようなことをすれば赦されない、つまり、聖霊を自分の意志で追い出し、心から嫌悪するなら赦されないということです。
3.律法学者達も悪霊を追い出すイエスの権威を知っていながら、イエスを信じなかった、聖霊(神の霊)の働きを認めなかったので赦されないと言われているのです。自分の意志でイエスを受け入れないことが死に至る罪です。

★ イエス・キリストを信じる人に赦されない罪はありません。だからといって罪を犯そうというのはイエス・キリストを愛していることにはなりません。積極的に神を愛することが大事なのです。

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使徒と呼ばれた人たち

2018-08-12 15:43:00 | 礼拝説教
2018/8/12礼拝説教
【テーマ】  12使徒
【説教題】 「使徒と呼ばれた人たち」
【聖書箇所】 マルコ3:13-19
【新改訳2017】
3:13 さて、イエスが山に登り、ご自分が望む者たちを呼び寄せられると、彼らはみもとに来た。
3:14 イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、
3:15 彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
3:16 こうしてイエスは十二人を任命された。シモンにはペテロという名をつけ、
3:17 ゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。
3:18 さらに、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
3:19 イスカリオテのユダを任命された。このユダがイエスを裏切ったのである。

○ イエス様の弟子は12人だけではなく、70名、あるいはもっと多くいたことが聖書を読んでいく内にわかってきます。しかし、その中から12人を選んで「使徒(ギリシャ語:アポストロス)」と呼ばれました。12使徒は何のために選ばれたのでしょうか。

Ⅰ.使徒が選ばれた
A.使徒とは
1.現代的には「派遣されたもの」または「使者」という意味で用いられていますが、イエス様がどのような意味で「使徒」と呼ばれたかは明確ではないのです。聖書辞典でも「使者、大使、特別な使命を帯びて派遣された者」と書かれています。
2.今日のテキストではイエス様の宣教初期の12人が使徒と呼ばれていますが、後にはパウロも自ら使徒と名乗っています。それは復活のイエス様から直接選ばれて使徒に任じられたとあります。
3.初代教会ではバルナバも使徒として記録されています(使徒14:14)。しかし、どうしてバルナバだけが使徒と呼ばれたのかは不明です。

B.選ばれた12人
1.今日のテキストで12使徒が選ばれていますが、まずそれはイエス様が任命されたこと、そしてイエス様が彼らを使徒と呼ばれたことです。 ご自分が望む者たち という言葉は決して立派な人たちを選んだという言葉ではなくて、特に理由が考えられない、イエス様がただ選んだだけという意味合いです。
2.ユダがイエスを裏切ったために使徒1章ではマッティア(マッテヤ)が選ばれて12人に調整されています。12という数字が大事と考える人たちも多く、そうなるとパウロ達は使徒と考えないようです。
3.しかし、使徒を広い意味でとらえる人たちは現代にも「使徒職」はあるとして、自らを使徒と名乗る方があります。

Ⅱ.イエスと共に
A.イエスのそばに置く
1.では、今日のテキストから使徒について見ていきます。最初に ご自分のそばに置くため とあります。そばに置くのは訓練のためというのが一番に考えられます。日本でも、職人さんは自分のそばに弟子を置いて生活を共にして、自分のしていることを見せて訓練しました。
2.私たちも使徒と呼べるか否かは別として、イエス様のそばに置いていただいてイエス様と共に生活し、訓練されることが必要なのではないでしょうか?

B.イエスを裏切ったユダ
1.この12人の中に選ばれた一人ユダは「裏切り者ユダ」と言われて有名です。イエス様の選びに間違いがあったのかと問われる人です。裏切るというのは信頼に応えないこと、イエス様の願いである「人を愛する」ことをしないことです。
2.使徒というのは愛の使命をイエス様から委託されて実行する人といえます。それを裏切るのですから大変なことです。しかし、果たして私たちはどうなのでしょうか? 裏切ったことはないと言えるでしょうか?

Ⅲ.使徒に与えられた権威
A.宣教の働き
1.宣教はもちろん福音を伝えることです。これはどのクリスチャンもしていることです。12使徒だけのことではないです。しかし、まずイエス様のそばに置いてもらって直に福音であるイエス様を体験する必要があります。
2.福音というのは語るだけのものではありません。イエス様ご自身が福音であったように、私たちも私たちの存在が福音となっていくわけです。イエス様のそばに置いてもらっているので、私たちのそばに人が来ると福音が伝わるというわけです。もちろん言葉でもです。

B.悪霊を追い出させる
1.イエス様は悪霊を追い出し、病気を癒やされました。悪霊の大きな働きに、病気があります(悪霊による病気もあるという意味です)。ですから悪霊を追い出すことで病気が治るのです。
2.悪霊の支配を断ち切るのがイエス様の福音であり、神の支配の中に属することが福音です。ですからイエス様の権威を使徒にも託されました。今は私たちが使徒と呼ばれなくても聖霊の働きによって、イエスの名によって悪霊を追い出すことができます。


★ イエス様は福音宣教のために12使徒を選ばれ、ご自分のそばに置いて訓練されました。私たちはいつもイエス様のそばにいます。私たちも使徒のように福音宣教に励みたいものです。
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イエス・キリストは神? 人?

2018-08-05 17:51:15 | 礼拝説教
2018/8/5礼拝説教
【テーマ】  イエス・キリストとは
【説教題】 「イエス・キリストは神? 人?」
【聖書箇所】 ピリピ2:6-8
【新改訳2017】
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

○ もう何十年も前に「イエス・キリスト宇宙人説」という本を本屋さんで見かけたことがあります。少しだけ立ち読みしましたが、変な話だなあと思った本でした。今も昔もイエス・キリストに関しては色々な考えが渦巻いているようです。本当のイエス・キリストはどのようなお方なのでしょうか?

Ⅰ.イエス・キリストは神
A.偶像を嫌うユダヤ人
1.私たち日本人は偶像に慣れていますが、ユダヤ人は「偶像を造ってはならない」「偶像を拝んではならない」という十戒の教えに忠実です。偶像は神ではないのです。
2.人間だって偶像になります。英語のアイドルは「偶像」という意味です。偶像を嫌うユダヤ人にとって人間であるイエスを神とは呼べなかったのです。

B.人の姿をとられた神
1.しかし、今日のテキストにあるようにイエスは 神の御姿であられる つまり、イエス様は神です。聖書はユダヤ人にイエスが神であることを教えるために旧約聖書の預言の成就であることを教えます。
2.また異邦人には、イエスがまことの神であることを教えるためにイエスのなさった奇跡の業などを語ります。そして、何と言っても、高尚な罪の解決をなさるお方であること、つまり神であることを語っています。

Ⅱ.イエス・キリストは人
A.罪の無い人
1.そして、 人としての姿をもって現れ とあるように人間の姿を取ってくださったのです。つまりイエスは人の姿をとった神なのです。本質は神ですが、この地上にあってイエスは人でした。ですから、イエスには罪がありません。
2.ではなぜ神であるイエスが人間の姿を取らねばならなかったのか? 神は霊ですから死ねません。イエスは死ぬ必要があったわけです。罪が人を神から切り離しました。この罪を解決するためにはイエス様が私たちのために身代わりの死を遂げる必要があったからです。

B.完全な人
1.イエスには罪が無いということは神に対して完全であったということです。つまり、人としてのイエスは神を心から愛しておられたということです。罪を犯す前のアダムも神を心から愛したと思われます。
2.どんなに立派と言われる人でも罪の無い人はいません。十戒を完璧に守れた人も無いということです。しかし、イエスは十戒を完全に守られたのです。しかも、その律法の真髄さえも理解しておられたのです。つまり「愛」です。この姿、このイエスの言葉や行動は私たちの完全な模範でもあります。

Ⅲ.イエス・キリストは救い主
A.あがない主
1.神であり、人であるイエスだからこそ私たち人間の救い主になることができたのです。神に造られた最高の被造物は人間です。その人間と神との間に亀裂が生じました。それは人間の罪の結果です。
2.その罪を赦していただくためには当然償いが必要です。しかし最高の被造物が犯した罪を赦せる償いはお金でも、動物でも有り得ません。人間と同等以上のもので無ければなりません。それは人間であり、神であるイエス・キリスト以外に無いのです。

B.イエス・キリストだけが救い主
1.イエスは償いのことをわかっておられたので、人となることも、罪の結果が死であるので、自らが殺されることも受け入れられました。すべての人の罪の償いができるのは人間以上の方で無ければなりません。それは最高の被造物以上の方、神だけです。
2.イエスだけが人を救う力をもった方でした。つまりイエスは神であるけれども人でもあったのです。その神である方が人となってくださったお陰で私たちは救われる道が開けました。


★ 人の救いのために神が人となられましたが、なかなか人には理解してもらえないようです。しかし、 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。 イエス様は神です。そして、完全な人です。それはあなたの救い主となるためでした。あなたもこのイエス様を救い主として心に受け入れてください。
 
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続々とやって来る

2018-07-29 18:45:39 | 礼拝説教
2018/7/29礼拝説教
【テーマ】  リバイバル
【説教題】 「続々とやって来る」
【聖書箇所】 マルコ3:7-12
【新改訳2017】
3:7 それから、イエスは弟子たちとともに湖の方に退かれた。すると、ガリラヤから出て来た非常に大勢の人々がついて来た。また、ユダヤから、
3:8 エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうや、ツロ、シドンのあたりからも、非常に大勢の人々が、イエスが行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。
3:9 イエスは、群衆が押し寄せて来ないように、ご自分のために小舟を用意しておくよう、弟子たちに言われた。
3:10 イエスが多くの人を癒やされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押し寄せて来たのである。
3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るたびに御前にひれ伏して「あなたは神の子です」と叫んだ。
3:12 イエスはご自分のことを知らせないよう、彼らを厳しく戒められた。

【新共同訳】マルコ
3:9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。

○ 現代は何千人、あるいは何万人のコンサートや大会が持たれる時代です。しかし、昔もたくさんの人が集まることがあったようで、ローマ時代のコロセウムには5万人が収容できたようです。イエス様のところにもたくさんの人が来たようですが、どれ位の人が来たのでしょうか。

Ⅰ.非常に、おびただしい
A.群衆が迫ってきた
1.今日のテキスト最初は それから です。つまり、この前は安息日に会堂で片手の萎えた人を癒され、パリサイ人達に安息日に病気を癒したことで問題視され、殺害計画が始まったところです。
2.一方、イエス様のうわさは各地に拡がり、イエス様の元に癒しを期待したり、イエス様見たさ、あるいはイエス様のお話を聞きたくて人々が集まって来ました。それが群衆となっていたのです。

B.すごく大勢の人たち
1.今回の新改訳2017では 非常に大勢の人々 と訳されているのは新共同訳では おびただしい群衆 と訳されています。口語訳では単に 群衆 、新改訳の前の版では 大勢の人々 でした。
2.つまり、聖書協会訳は 群衆おびただしい群衆 新改訳聖書では、大勢の人々非常に大勢の人々 と、人の多さを強調している事がわかります。この方がより原文に忠実だというわけです。

C.異邦人もいた
1.またマルコは人々がいかにあちこちから来たかを書き記しています。 ガリラヤから出て来た非常に大勢の人々がついて来た。また、ユダヤから、3:8 エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうや、ツロ、シドンのあたりからも 人々が来たというのは、相当の広範囲からということです。
2.しかも ツロ、シドンのあたり というのはは異邦人の町です。イエス様を求めてやって来たのは何もユダヤ人だけではなく、異邦人もいたということです。短期間の間にイエス様のうわさはあちこちに広まり、大勢の人がやって来ました。リバイバルです。

Ⅱ.押し寄せてこないように
A.逃げ道を用意された
1.そのすごい人がイエス様に押し寄せてくるのをご覧になったため、 3:9 イエスは、群衆が押し寄せて来ないように、ご自分のために小舟を用意しておくよう、弟子たちに言われた のです。イエス様に癒していただきたくて、イエス様に触ろうとして多くの人が詰めかけたからです。
2.その数はあまりにも多くて、イエス様は人々から逃れる方法も考えなくてはならなかったようです。湖に出てしまえば人々も近づけませんから。

B.どうしてもイエス様に触れたい
1. 群衆が押し寄せて来ないように のところが、新共同訳聖書では 群衆に押しつぶされないためである とあります。それほどにまでイエス様に迫ってきているのです。どうしてもイエス様に触りたいのです。触れば癒やされるかも知れないと思ってのことでしょう。
2.実際、マルコ5:25~に登場する12年間長血を患っていた女が 5:28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。 とあります。イエス様に触れば癒やされると信じる人が多くいたのです。そして、聖書では多くの人が癒やされ、イエス様に従っています。リバイバルです。

C.私たちもイエス様に触れよう
1.「この時代の人はいいなあ」と思う人がたくさんいます。イエス様に直に触れたのですから。私たちだって直に触って癒やされたいですよね。そのため今も癒しを求めて大勢の人がキリスト教の大集会に集まります。
2.それはイエス様に替わって聖霊がイエス様と同じように働かれているからです。私たちも聖霊に触れればいいのです。聖霊は癒し主です。イエスの名によって癒してくださるのです。

Ⅲ.愛の服従を
A.悪霊もひれ伏す
1.こういう状況の中で悪霊がまたしても イエスを見るたびに御前にひれ伏して「あなたは神の子です」と叫んだ のです。ひれ伏すというのは自分より権威のある方に対してです。悪霊はイエス様の権威に服しているのがわかります。
2.悪霊を無力にさせ、病を癒やすイエス様はまさしく、私たちの王の王、主の主です。悪霊の働きに服していてはならないのです。また、罪の支配のままに過ごしていたもならないのです。

B.信仰告白かどうか
1.私たちは悪霊のようにではなくイエス様にひれ伏すべきです。イエス様は私たちの王ですが、そのイエス様から私たちは「友」と呼ばれています。そのような近しい関係にしてくださいましたが、イエス様は神様です。愛の服従をすべきです。
2.そういう私たちが「あなたは神の子です」と言うのは悪霊の 「あなたは神の子です」 とは全く違うのです。私たちのは信仰告白であり、その告白は人々をイエス様に向かわせる言葉です。

C.人々は求めている
1.今も人々は癒しを求めて癒し主を捜し求めているのです。そして見つけたらそこに続々とやって来るのです。しかし、癒やしだけを求める人、問題の解決だけを求める人がいます。しかし、イエス様の救いというのは罪の解決です。私たちが悔い改めて神に立ち返ることが大事です。
2.世界に起こったリバイバルは様々な苦しみ、病等から救ってくれる宗教としてキリスト教こそ真実だと知って続々と集まってきて起こったものでした。

● 今の時代、イエス様が目に見えないために、癒しの賜物を持っていると言われる人のところに大勢の人が集まります。確かに癒しの賜物はあります。しかし、癒やされるだけで満足してしまうとリバイバルは起こりません。罪を自覚し、悔い改め、さらに聖霊を受けることでリバイバルは起こるのです。

★ リバイバルを求めるクリスチャンは大勢います。リバイバルのために祈っている教会がたくさんあります。祈っている人がいる以上神様はリバイバルを起こしてくださり、続々とイエス様のところに人がやって来る日が来ます。
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癒しが行われる日

2018-07-22 18:43:53 | 礼拝説教
2018/7/22礼拝説教
【テーマ】  イエスによる安息
【説教題】 「癒しが行われる日」
【聖書箇所】 マルコ3:1-6
新改訳2017
3:1 イエスは再び会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。
3:2 人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
3:3 イエスは、片手の萎えたその人に言われた。「真ん中に立ちなさい。」
3:4 それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていた。
3:5 イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。
3:6 パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。

○ 今日のテキストも先週に続いて安息日のことでもめる話です。この前は安息日にイエス様の弟子達がいわゆるユダヤ人の律法を破るような行為をして、イエス様は人々の反感を買うことになりました。そして、また安息日に問題が起こったのです。

Ⅰ.癒しが裁かれるとは
A.裁きの目で見ていたパリサイ人
1.片手のなえた人が会堂にいましたが、イエス様は苦しんでいる人を放っておけない方です。 人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。 と、またもやイヤな目つきで見ています。
2.その目はイエスを訴えるためだったというのです。律法学者達は自分たちの決まりを守ることだけを考えており、苦しむ人の痛みや苦しみを考えていません。彼らがイエス様を見る目は決まりを破るのを見つけて訴えてやろうとする裁きの目です。

B.イエス様の癒しは仕事なのか
1.ユダヤの律法というよりもパリサイ人の律法といった方がいいのかもしれませんが、彼らの決まりでは安息日に病気を治してはいけなかったのです。仕事になるからです。
2.では、イエス様のなさることは彼らの言っているような「仕事」なのでしょうか? 医者が仕事として病人を診るのは仕事なのかも知れませんが、イエス様のなさるのはどう見るべきでしょうか?

Ⅱ.神の思いを考えない人達
A.怒りによる一致
1.パリサイ人はイエスを憎んだのです。なぜ憎んだのか。彼らが大切にしている律法を平気で破るからです。そこで、彼らはイエスに怒りを覚えました。怒る人が自分を支えるのは正義心と言われます。自分が間違っていると思いながらも怒ることは簡単にはできません。自分は正しいと信じ込んでいるから怒ります。
2.その結果、 ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた のです。ヘロデ党の人というのはユダヤ人ではあるけれども、ローマ権力と結びついて地位や権力を確保した人達です。パリサイ人はそういう権力などを嫌い、貧しくとも律法に厳しく生きようとした人達で、この二つのグループは仲が悪かったのです。それなのに、不思議に結託したのは、イエスを殺すということにおいてでした。人は殺意を抱くと手段を選ばなくなるそうです。このような一致は困ったものです。

B.神の律法を曲解していないか
1.パリサイ人のように安息日に病人を治してはいけないというと、目の前に急患がいても医師は何もしてはいけないことになるのでしょうか? 苦しむ人を目の前にして放っておくのでしょうか? 神様はそういう方でしょうか。
2.神様の思いを理解しないということは自分たちの決まりを守ることに必死になり、人のことを考えず、人をも苦しめることになるのです。

Ⅲ.安息日に癒される
A.イエス様の安息日理解
1.パリサイ人の怒りはイエスを殺さなければ消えないわけで、イエスを死にまで追いやったことになります。しかし、神様は安息日をそのような裁きの目で監視し合うような日として造られたのでしょうか?
2.イエス様は 3:4 「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」 と言われています。そして、この人の手を癒されたのですから、安息日に癒しを行うことは善であり、律法にかなっているというわけです。

B.日曜日は霊・肉リフレッシュの日
1.前回語りましたように、安息日は人のために設けてくださった神様の愛から造られた日です。この日に人は霊・肉共にリフレッシュされる日であり、それは神を礼拝することで与えられるのです。ですから、この手のなえた人は「安息日」に癒されたのです。
2.ここのところ、礼拝の最初に癒しを祈っています。「日曜日=ユダヤ人の安息日」ではありませんが、この日は主の日です。主の復活された日です。この日にすばらしい癒しが行われることは当然あってよいことです。

★ 安息日は私たちが真にリフレッシュする日です。それは神との交わり、そして、兄弟姉妹との愛の交わりによって生み出されるすばらしい霊的エネルギーを回復する日でもあるのです。
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安息日は何の日?

2018-07-15 16:31:57 | 礼拝説教
2018/7/15礼拝説教
【テーマ】  イエスによる安息
【説教題】 「安息日は何の日?」
【聖書箇所】 マルコ2:23-28
【新改訳2017】
2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは、道を進みながら穂を摘み始めた。
2:24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
2:25 イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが食べ物がなくて空腹になったとき、ダビデが何をしたか、読んだことがないのですか。
2:26 大祭司エブヤタルのころ、どのようにして、ダビデが神の家に入り、祭司以外の人が食べてはならない臨在のパンを食べて、一緒にいた人たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」
2:27 そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。
2:28 ですから、人の子は安息日にも主です。」

○ ユダヤ人にとって安息日を守ることはとても大事なことになっています。では、クリスチャンにとってはどうでしょうか? まず、安息日とは何でしょうか? 

Ⅰ.イエスと弟子達
A.安息日の制定
1.安息日は金曜日の日没から土曜日の日没までですが、まず創世記を見てみましょう。  創世記2:1-3
2:1 こうして天と地とその万象が完成した。
2:2 神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。
2:3 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。
 と、神様が第七日目を祝福して聖なるものとされたのです。
2.次に十戒の安息日に関するところを見てみましょう。
  出エジプト記20:8-11
20:8 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。20:9 六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。
20:10 七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。
20:11 それは【主】が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。
 と、神の創造の業が終えられたときに神が決められた安息日を人間も守るようにと言われました。

B.安息日の重大性
1.出エジプトをしたイスラエルに十戒が与えられ、安息日の重要性は語られましたが、神様が毎日マナを与えられたことでもその重要性がわかります。マナは毎日与えられたのですが、七日目には無かったのです。その代わり六日目に二倍集めることができたのです。七日目に集めに出た人を神は罰しておられます。(出エジプト16章)
2.こうして安息日の重大性はイスラエルに浸透していき、バビロン捕囚時にはユダヤの祭りよりも規則正しく守られたそうです。中間時代にはシナゴーグの確立により安息日はしっかり守られるようになっていました。

Ⅱ.安息日問題
A.何が問題なのか
1.今日のテキストで問題になっているのは何でしょうか? 弟子達が安息日に麦の穂を摘んで食べ始めた事が パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか。」 というところです。人の畑のものを勝手に食べたから問題なのでしょうか? しかし、これは 【新改訳2017】申命記23:25 隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない。 とあるので問題ではありません。
2.ひっかかるのは「安息日にそれをした」ということです。十戒自体にはそれが書かれていませんが、「仕事」という中にこれを考えていたからです。パリサイ人はこんな事をしなかったのに、イエスの弟子達は何ていうことをするのかということです。つまり、イエスの教えはどうなっているのかということです。「自分の弟子をも指導できないのか!」と、イエスの宗教的指導性の無さを見下しているわけです。

B.イエス様の答え
1.このパリサイ人のイエスを陥れようとする質問に対して、イエス様はまずⅠサムエル21章の話をし、祭司しか食べてはいけないパンをダビデは部下のためにいただいたという話をなさいました。
2.このパンは新共同訳や前の新改訳では「供えのパン」と訳されていますが、新改訳2017では「臨在のパン」と訳されています。これは「神が見ておられるパン」と訳せるのだそうです。ですから、本当にそれが罪なら神が罰を与えるはずだということです。
3.そして、ここで「ダビデ」を出してこられたのも、イエスが「ダビデの子」と呼ばれているからです。王になるダビデが許したように神の国の王になるイエスが許されたのです。

Ⅲ.安息日は誰のもの
A.安息日は人のため
1.さらにイエス様は 安息日は人のために設けられたのです。 と言われました。誰が設けたのか? 神様です。何のために? 人のためです。人が生きるためだというのです。
2.安息日には自分だけが休むのでは無く、奴隷も家畜も休ませるのです。それは自分たちのために働いてくれている者をゆっくり休ませる時だという意味が込められているからです。

B.安息日の主、イエス
1.そして、イエス様は 人の子は安息日にも主です と言われました。つまり安息日の主人公はイエス様であり、私たちはこの主であるイエス様に徹底して従うのです。
2.イエス様は マタイ 11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 と言われたように、私たちはみんな安息のために主の所に行くのです。

● 安息日と日曜日を同一視するのは難しいですが、人々にとってイエス様との時間が必要です。それは厳しく安息日が規定されたほどに、それを破った者は罰を受けたほどに必要なものです。ただ休むだけでは無く、イエス様と共に過ごし、心身の安らぎ、霊的な満たしをいただくときです。

★ 主の日の礼拝を軽んじてはならないのです。私たちは世との関わりで確実に霊的エネルギーの更なる必要性を感じているはずです。主日礼拝はそれを満たすものです。

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神に怒る人

2018-07-08 16:47:06 | 礼拝説教
2018/7/8礼拝説教
【テーマ】  神の思いと人の思い
【説教題】 「神に怒る人」
【聖書箇所】 ヨナ4:1-11
新改訳2017
4:1 ところが、このことはヨナを非常に不愉快にした。ヨナは怒って、
4:2 【主】に祈った。「ああ、【主】よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。
4:3 ですから、【主】よ、どうか今、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましです。」
4:4 【主】は言われた。「あなたは当然であるかのように怒るのか。」
4:5 ヨナは都から出て、都の東の方に座った。そしてそこに自分で仮小屋を作り、都の中で何が起こるかを見極めようと、その陰のところに座った。
4:6 神である【主】は一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上をおおうように生えさせ、それを彼の頭の上の陰にして、ヨナの不機嫌を直そうとされた。ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ。
4:7 しかし翌日の夜明けに、神は一匹の虫を備えられた。虫がその唐胡麻をかんだので、唐胡麻は枯れた。
4:8 太陽が昇ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は弱り果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」
4:9 すると神はヨナに言われた。「この唐胡麻のために、あなたは当然であるかのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」
4:10 【主】は言われた。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。
4:11 ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」

○ 先週のウエルカムサンデーの説教ではヨナがニネベに行って滅びを預言したためにニネベの人々は悔い改め神を信じたことを語りました。神は誰も滅びて欲しくないからです。今日は、誰も滅んで欲しくない神とは反対に、ニネベが滅びるのを見ようとしているヨナと、そのヨナに神様の思いを教えるところです。

Ⅰ.神とヨナの思いの違い
A.滅ぼすことをやめた神
1.ノアの大洪水、ソドムとゴモラの滅びをはじめとし、聖書には神が人を滅ぼされる場面が何度となく出てきます。神はどのような基準で裁きを行われるのでしょうか? それは神のなさることなので私たちにはわかりません。
2.ただ言えることは、どんな罪も神は許さないということであり、罪人は皆裁かれるということです。ところが、神の憐れみにより、罪人であるにも関わらず救いの道を用意して下さったのです。
3.そういう神の裁きと救いの計画の中で、ニネベの町は神に裁かれ、滅ぼされようとしていました。神の目に彼らの悪は満ちたからです。しかし悔い改めたニネベは赦されたのです。

B.滅ぼして欲しいヨナ
1. 4:3 ですから、【主】よ、どうか今、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましです。」 「死んだ方がまし」というのはよく聞きます。神がニネベを救われることがなぜヨナにとって死んだ方がましなのでしょうか?
2.それは、アッシリアが存続することでイスラエルが脅かされるのが耐えられないからです。イスラエルに神の祝福を語りたい預言者として、イスラエルの脅威を許すことができなかったのです。
3.ヨナ書を読む私たちは神様の愛を知っているので「死んだ方がまし」とは思えないはずです。

Ⅱ.ヨナの怒りと神の優しさ
A.自分の願いの実現のために怒る
1.ヨナは神に怒っています。ヨナの願いは(つまり祈りは)ニネベが滅びることです。そのために自分は最善を尽くして、ニネベに神の裁きの預言も語らず、タルシシュにさえ逃れようとしたというのです。
2.ヨナは神がどのようなお方か知っていたと言っています。 4:2 ・・・あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。 と。このようなすばらしい神を知っていながら、ヨナは神に従わず、自分の願いが叶うように、ニネベに預言を語りたくなかったのです。
3.私たちも神様がどのような方か結構知っていて、その神様に祈るのですが、みこころよりも自分の願いが実現することを期待して祈ることがあるのではないでしょうか?

B.ヨナの機嫌を直そうとされる神
1.ヨナはそれでもニネベが滅ぼされると思っていたのか、都の東の方に小屋を作って見ていたというのです。差し込むような日差しの地方なので、神様は唐胡麻を生えさせ、日陰を作ってくださいました。
2. 4:6 神である【主】は一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上をおおうように生えさせ、それを彼の頭の上の陰にして、ヨナの不機嫌を直そうとされた。ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ。 と、あります。そういう神様の優しさに触れて、「神様がこんな自分のことを愛してくださっているのだなあ」「神様はニネベの人達をも愛しておられるのだなあ」と思えれば良かったのです。

Ⅲ.みこころを教える神
A.再び怒るヨナ
1.しかし、彼はずっと自分の願いが叶うことだけを願い、ニネベが滅びるのを見ようとしていました。そこで、神様はこの唐胡麻を枯らしてみこころを教えようとされます。
2.唐胡麻の日陰を失ったヨナは暑さのため死にそうになりました。そしてまたもやヨナは神に怒るのです。ここまで神に怒れる人というのは逆にすごいと思いました。 4:9 すると神はヨナに言われた。「この唐胡麻のために、あなたは当然であるかのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」 怒るのは当然だと思っているのです。
3.私たちは神に怒ることができるような存在でしょうか? 

B.神のみこころを共有する
1.神様はご自分の生み出された人々、たとえ神様を礼拝しない人達であっても、愛して、立ち返ってくるのを待っておられることを語られました。 4:10 【主】は言われた。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。4:11 ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」 人間だけで無く、家畜まで神様は惜しんでおられるのです。
2.この気持ちをヨナが共有してくれることを願って、唐胡麻を通して教えようとされるのですが、ヨナはどこまで神様の気持ち、みこころを理解したのでしょうか? 
3.では、私たちはどうでしょうか?

★ 私たちもみこころを求めているというものの、果たしてどの程度神様のお気持ちを理解しているのでしょうか? 神様の教えに従順になりたいものです。

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