バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

口がきけなくなったザカリヤ

2018-12-09 16:38:26 | 礼拝説教
2018/12/9礼拝説教
【テーマ】  神を愛する人、神に愛される人
【説教題】 「口がきけなくなったザカリヤ」
【聖書箇所】 ルカ1:18-25
1:18 ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」
1:19 御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。
1:20 見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」
1:21 民はザカリヤを待っていたが、神殿で手間取っているので、不思議に思っていた。
1:22 やがて彼は出て来たが、彼らに話をすることができなかった。それで、彼が神殿で幻を見たことが分かった。ザカリヤは彼らに合図をするだけで、口がきけないままであった。
1:23 やがて務めの期間が終わり、彼は自分の家に帰った。
1:24 25 しばらくして、妻エリサベツは身ごもった。そして、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言い、五か月の間、安静にしていた。

○ 私は子どもの頃、「〇〇が欲しいなあ」と言うと、父は「オー、買ったろう」と言うので、嬉しくて「やったー!絶対買ってや」と頼むと「あー、儲かったらな」が付け加えられました。父が死ぬまで、結局願ったものは一つも買ってもらえませんでした。父は間違ったことは言っていないのですが、希望ももらえませんでした。
  しかし、神は言われたことは必ず成し遂げられます。ところが、人はそれをなかなか信じられないようです。

Ⅰ.なかなか信じられない私たち
A.しるしを求めたくなる
1.人々は神様の約束をどのようにして知ることができるかが気になります。ギデオンは神に用いられることを疑いましたが、それを知るために神様に願って羊の毛を用いていただきました。最初は羊の毛だけが濡れること、次は土だけが濡れることでした。(士師記6章)彼の願ったとおりに神はなさいましたので、彼は信じてリーダーとなりました。
2.さて、今日のテキストのザカリヤの場合。老夫婦に男の子・ヨハネが誕生する証拠はザカリヤが口がきけなくなるということでした。

B.「信じる」の三段階
1.ザカリヤは信じることができなかったとあります。しかし、彼は神を信じています。「信じる」には大きく三つ、「神の存在を信じる」という程度のものと「神の言葉は必ず実現すると信じる」というもの、そして、「神の言葉を自分のものとして信じる」というものがあると思います。
2.ザカリヤは真面目な祭司として神の存在も、神の言葉も信じる人でしたが、自分に子どもが与えられるということはどうしても常識的な判断が働いて信じられなかったのです。

Ⅱ.なぜか辛いことが起こる
A.色々な辛さ
1.口がきけないというのは大変辛いものです。いや、口がきけないだけでなく、目が見えない、手が使えない。どんなことでも不自由になることは大変辛いことです。
2.辛いことと言えば色々あると思います。私は痛みでの辛さをかなり味わっています。経済的な辛さ、人間関係の辛さ、精神的な辛さ、仕事上の辛さ等々。クリスチャンであろうと無かろうと平等なまでにあるのではないでしょうか。

B.クリスチャンなのに
1.どうして、クリスチャンになったのに苦しいこと辛いことがあるのか、というのは昔からの課題でした。クリスチャンでなくても大変良い人、立派な人がいらっしゃいます。そうした人の中には大変辛い人生を歩まれる方があります。「どうして?」と多くの人を悩ませた課題です。
2.いつか必ずその辛さなどが消えるとわかっていればまだいいのですが、そういう良き時を見ないで死んでしまうとするとどうでしょうか?

Ⅲ.辛さが信仰を深めさせる
A.罰ではない
1. あなたが信じなかったからです と言われたザカリヤ。彼は神から罰を受けたのでしょうか? 彼は真面目な敬虔な祭司だったのです。不信仰な人ではありません。ただ、常識的に信じられない話を信じるように言われたのです。
2.神は時に私たち人間の常識を超えて(非常識では無く、超常識)、働かれます。そのために私たちは信じられないという思いを持ってしまいます。それは私たちが常識の方を神よりも正しいと思い込んでいるからではないでしょうか?

B.試練は訓練
1.イエス様を信じていても私たちはこの地上で生きているため、この世で学んだ知識が私たちの頭に刻み込まれ、いつしかこの知識だけが全てであるかのように錯覚を起こします。それはザカリヤのような長年の信仰者であってもそうなのです。
2.神は私たちがその辛さの中から神への信仰を深めるように計画されていることが多々あるように思われます。罰のように思えることもあるかも知れません。しかし、神は信じる者に罰を与えることはなさいません。むしろ私たちの信仰の成長のための試練です。それが信仰に深みを増させるのです。

● 風邪から喉をやられてしゃべっても声が出なくなったことがあります。と言ってもザカリヤのように完全に声が出なくなったわけではないのですが。それでも大変でした。一生懸命話をするのですが、なかなか伝わらないし、こちらもしんどくなってきます。このままで日曜日を迎えたら説教できないと気持ちも焦りました。ここで、神にこのことも感謝できたら、私の信仰も立派だったのだと思うのですが、焦りだけで感謝がなかったように思います。試練に会う時はむしろ 【新改訳2017】ヤコブ 1:2 私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。 とあるように喜ぶのがいいのかも知れません。ザカリヤは口がきけなくなったことがヨハネ誕生の証拠でしたから、それは喜びだったのです。

★ 信仰生活に試練はつきものです。試練無しの信仰生活はむしろ神の愛がないのかも知れません。試練は私たちに対する罰ではありません。むしろ、神に対する信仰の成長のために与えられるものです。
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聖霊に満たされたヨハネ

2018-12-02 19:20:35 | 礼拝説教
2018/12/2礼拝説教
【テーマ】  神を愛する人、神に愛される人
【説教題】 「聖霊に満たされたヨハネ」
【聖書箇所】 ルカ1:14-17
1:14 その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
1:15 その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、
1:16 イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。
1:17 彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」

○ 今日からアドベントに入ります。クリスマスを待ち望んで過ごす4週間です。世の中も、子ども達も何かしら嬉しい時期ではないでしょうか。今も私たちがクリスマスを待ち望むのとはまた違った思いで、救い主の誕生を待ち望んだのが2000年前のイスラエルの人々でした。そのイエス・キリストの誕生の前にヨハネが誕生しますが、ヨハネとはどのような人なのでしょうか?

Ⅰ.ヨハネは喜びを与える人
A.溢れるばかりの喜び
1.不思議にもザカリヤとエリサベツという老夫婦に男の子が生まれるという預言が与えられました。その子はザカリヤにとって あふれるばかりの喜び です。子どもが欲しくてずっと祈ってきたザカリヤ夫婦ですが、やっと与えられたのは老人になってからでした。喜びというよりも戸惑いだったでしょう。
2.しかし、アブラハムとサラを思い出すとやはり嬉しいことでした。しかも、天使が告げた言葉がひっかかります。息子は特別な働きをするというのです。それは真面目に生きてきたゼカリヤとエリサベツにとって あふれるばかりの喜び でした。

B.主の御前に大いなる者
1.ヨハネの誕生はザカリヤ夫婦にとって あふれるばかりの喜び ですが、イエス・キリストの誕生は全世界の喜びです。ヨハネは 主の御前に大いなる者となる と預言されましたが、イエス・キリストは全世界の全ての人の救い主として預言されてきました。
2.子どもは神からの贈りものです。同時に神から与えられた子どもを親は大切に育てる義務があります。大切に育てることの第一は祈って育てること、神を礼拝する者、神と人を愛する者に育てることです。ザカリヤとエリサベツはそのように育てたと思います。

Ⅱ.ヨハネは聖霊に満たされた人
A.聖霊に満たされた人生
1.ヨハネは ぶどう酒や強い酒を決して飲ま ない、と預言されました。当時の献身者の姿です(ナジル人と呼ばれた人たちでサムソンもそうでした)。ヨハネは神のために働く人、預言者のような人になるべく定められていました。
2.パウロは全ての人に エペソ 5:18 また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。 と、言っています。聖霊に満たされることが人にとって大事な生き方なのです。

B.母の胎にいる時から
1.しかも、ヨハネは 母の胎にいるときから聖霊に満たされ ていたというのです。お母さんが妊娠中にアルコール、タバコ、薬物などを使っていると胎児に大きな影響を与えることは明白になっていますが、反対にお母さんが聖霊に満たされているとどうなのでしょう。子どもも聖霊に満たされるかも知れません。
2.一方、イエス・キリストは聖霊によって誕生しました。神であり、人間であるイエスはさらにバプテスマを受けた時に聖霊が鳩のように下ってこられたとあります。

Ⅲ.ヨハネは人々を神に立ち返らせる人
A.エリヤのようなヨハネの働き
1.ヨハネの大事な仕事は イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせ るという働きです。人は神に立ち返らねばなりません。ヨハネは人々に悔い改めを迫りました。そして、悔い改めのバプテスマを授けていました。
2.ヨハネは 彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます という、ちょっと私たち日本人にはわからない話ですが、ユダヤ人にとってはとても大事な旧約の預言者エリヤが再来すると思われていました。まさにエリヤのように働くのがヨハネだと天使は語ったのです。
3.ヨハネは 父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。 と、今までの人々の間違った生き方、歩みを悔い改めさせる働きをするために生まれてくるのです。

B.イエス・キリストのために働くヨハネ
1.すばらしい立派な預言者ヨハネですが、それでも彼は人々を神に立ち返らせる働きをするに過ぎません。ヨハネは人を救えないのです。
2.救うことができるのはイエス・キリストだけです。そのことを知っていたヨハネは自らを低くし、イエス・キリストの救いの仕事が速やかに進むように備えた人です。

● お腹の中にいるときから聖霊に満たされていたヨハネ。すばらしいです。ヨハネは神を愛する人になりました。全ての人が神を愛する人になることが神の願いです。なぜなら神は全ての人を愛しておられるからです。イエス・キリストのために働いた人はたくさんいます。その一人に佐藤信子先生というこの新中野キリスト教会で1966年から10年間副牧師をしてこられた先生です。先生はその後台湾に、そして香港に宣教師として行かれました。が、1996年10月15日に53歳で召天されました。先生は子どもからお年寄りまで暖かく愛されたので、誰からも好かれ、一人一人に福音を語ってこられました。なにしろ、公然と伝道できない地域で伝道されたので、一人一人に語るしかなかったのです。それでもそれで人々はイエス・キリストを知り、救われていったのです。しかし、佐藤信子先生が救えるのではなかったのです。佐藤先生もヨハネと同じく、聖霊に満たされてイエス・キリストを伝えるだけだったのです。

★ 私たちも人を救うことはできません。でもヨハネのようにイエス・キリストのために働くことができます。あなたも神に愛されています。あなたもイエス・キリストのために働きませんか。

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ザカリヤとエリサベツ

2018-11-25 18:50:18 | 礼拝説教
2018/11/25礼拝説教
【テーマ】  神を愛する人、神に愛される人
【説教題】 「ザカリヤとエリサベツ」
【聖書箇所】 ルカ1:5-13
1:5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
1:6 二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。
1:7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。
1:8 さてザカリヤは、自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、
1:9 祭司職の慣習によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。
1:10 彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。
1:11 すると、主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。
1:12 これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。
1:13 御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。

○ 来週12月2日からアドベントに入ります。12月25日のクリスマスまでの4回の日曜日はイエス・キリストの誕生の意味を思い、感謝をもって過ごす4週間です。その前に、クリスマスの前に起こったことから見ていきましょう。

Ⅰ.老夫婦に起こった奇跡
A.不妊の女性が身ごもる
1.ザカリヤとエリサベツの夫婦に起こった出来事。ザカリヤはユダヤ名がゼカリヤです。エリサベツは英語だとエリザベスです。ザカリヤもエリサベツも祭司の家系にあり、真面目な正しい夫婦でした。
2.そのような夫婦に子どもがいませんでした。神には喜ばれるすばらしい夫婦ですが、世の中的には子どもがいないかわいそうに思われていた夫婦です。

B.アブラハムとサラ
1.聖書ではアブラハムとサラ、エルカナとハンナのように子どものいなかった夫婦が救いに関する大事な役割で登場しています。ザカリヤとエリサベツもそうです。アブラハムとサラにイサクが与えられたのはもうおじいちゃん、おばあちゃんになってからです。イサクは奇跡の子でした。
2.ザカリヤとエリサベツもきっとアブラハムとサラのことを思い起こしたのではないでしょうか。自分たちに子どもが与えられるということは奇跡以外の何ものでもない、つまり神の業です。

Ⅱ.神はなおも用いられる
A.人生の最後まで
1.今まで二人は真面目に正しく生活してきました。ですから何かの罰で子どもが与えられなかったわけではありません。彼らもきっと何度も何度も自分たちのどこに問題があったのか考えたことでしょう。真面目な人ってそういうものです。自分を責めやすいのです。
2.そのようにして年月が過ぎ、老人になり、本当にもう何もできない、それでもありがたいことに神殿に入って香をたく仕事が自分に回ってきました。生涯最後の大仕事で、これで人生が終わると思っていたのではないでしょうか?
3.しかし、神はそのようなザカリヤを引退させませんでした。エリサベツもです。夫婦は一体です。神はこの夫婦をこれから始まる救いの歴史、教会の歴史のために用いられたのです。

B.恐れることは無い
1.天使と出会ったザカリヤは恐怖に襲われます。聖なる臨在に触れるというのはもちろん嬉しいことですが、恐れを感じるものでもあるのです。それは私たちが神の聖さとかけ離れているからです。
2.しかし、天使は 恐れることはありません と言います。神を愛さない者は神を恐れます。本来神に会うというのは恐ろしいものです。しかし、私たちは神を恐れない、死んだ後のことさえ恐れもしないのはなぜでしょうか? それらの恐れはイエス・キリストの十字架で消し去られ、私たちの居場所がはっきりしたからです。神の前に安心して立つことができるからです。

Ⅲ.願いは聞かれている
A.ザカリヤ夫婦の願いが聞かれた
1.天使は続けて あなたの願いが聞き入れられたのです。 と言いました。彼らの願いは何だったのでしょうか? 彼らは何も凄い働きのために用いて欲しいと願ったわけではなく、子どもが欲しいと願ったのだと思います。
2.彼らが願ったのは若い頃で、何十年も前の事だと思われます。この年になってもまだ子どもが与えられるように祈っていたとは思えないのです。

B.神の時がある
1.しかし、神は私たちの願ったことを忘れておられないということです。しかも、最も良い時、それは私たちにとっての良い時というのではなく、神の目に良い時なのです。
2.神を愛していたのは何もザカリヤ夫婦だけでは無いと思います。イエス・キリスト誕生の前にヨハネの誕生を計画されたとしてもなぜこの老夫婦なのか? と思ってしまいます。若い夫婦ではいけなかったのか? やはり人間にはあり得ないことをなさることに意味があったのでしょう。マリヤに安心を与えるためにも必要だったかも知れません。

★ 神が人を用いられるのは不思議です。神を愛するザカリヤとエリサベツ夫婦は神に愛されていました。ザカリヤとエリサベツは自分たちでももう何もできない、これで人生も終わると思っていたかも知れません。しかし、神はそういう人を用いられるからすごいです。あなたはどうですか?!
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276人全員無事!

2018-11-18 17:11:43 | 礼拝説教
2018/11/18礼拝説教
【テーマ】  聖餐式・その力
【説教題】 「276人全員無事!」
【聖書箇所】 使徒27:27-44
【新改訳2017】
27:27 十四日目の夜になり、私たちはアドリア海を漂っていた。真夜中ごろ、水夫たちはどこかの陸地に近づいているのではないかと思った。
27:28 彼らが水の深さを測ってみると、二十オルギヤであることが分かった。少し進んでもう一度測ると、十五オルギヤであった。
27:29 どこかで暗礁に乗り上げるのではないかと恐れて、人々は船尾から錨を四つ投げ降ろし、夜が明けるのを待ちわびた。
27:30 ところが、水夫たちが船から逃げ出そうとして、船首から錨を降ろすように見せかけ、小舟を海に降ろしていたので、
27:31 パウロは百人隊長や兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助かりません」と言った。
27:32 そこで兵士たちは小舟の綱を切って、それが流れるままにした。
27:33 夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めて、こう言った。「今日で十四日、あなたがたはひたすら待ち続け、何も口に入れず、食べることなく過ごしてきました。
27:34 ですから、食事をするよう勧めます。これで、あなたがたは助かります。頭から髪の毛一本失われることはありません。」
27:35 こう言って、彼はパンを取り、一同の前で神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。
27:36 それで皆も元気づけられ、食事をした。
27:37 船にいた私たちは、合わせて二百七十六人であった。
27:38 十分に食べた後、人々は麦を海に投げ捨てて、船を軽くした。
27:39 夜が明けたとき、どこの陸地かよく分からなかったが、砂浜のある入江が目に留まったので、できればそこに船を乗り入れようということになった。
27:40 錨を切って海に捨て、同時に舵の綱を解き、吹く風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んで行った。
27:41 ところが、二つの潮流に挟まれた浅瀬に乗り上げて、船を座礁させてしまった。船首はめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波によって壊れ始めた。
27:42 兵士たちは、囚人たちがだれも泳いで逃げないように、殺してしまおうと図った。
27:43 しかし、百人隊長はパウロを助けたいと思い、彼らの計画を制止して、泳げる者たちがまず海に飛び込んで陸に上がり、
27:44 残りの者たちは、板切れや、船にある何かにつかまって行くように命じた。こうして、全員が無事に陸に上がった。

○ 今日は聖餐式を行います。聖餐式は儀式ですので、形だけに見えるかも知れません。形だけ実行するなら確かに何も大したことはないと思います。しかし、聖餐式の中で癒しがあったというケースが結構あることを考えると、神は聖餐式を通して何か業を行っておられるということがわかります。かといって、このパンを食べるとイエスの肉に変わり、このぶどうジュースを飲むとイエスの血に変わるというようにはとらえていません。十字架の恵みを思い起こし、感謝することが大事なのです。荒海の中で聖餐式のようなことが行われた箇所を見ましょう。

Ⅰ.人生の大変な時
A.嵐に遭うことがある
1.パウロが捕らえられローマに移されることになりました。その船が嵐に遭い、もうダメかと思われたのですが、パウロは神から助かることを教えられ、みんなを励まします。
2.「大丈夫」という神からの声を聞いても現実には嵐が消えたわけではありません。私たちもこういう経験をするのではないでしょうか。

B.益々悪くなる
1.しかも、水夫が小舟で逃げようとしているのです。船を動かすには彼らがいなくてはなりません。こういう時はいくら兵士がたくさんいても働きが違うのです。賜物が違うのと同じですね。
2.彼らが逃げようとして降ろし始めた小舟はロープを切って捨てました。もう緊急用の小舟さえなくなってしまいました。ますます状況は悪くなっています。

Ⅱ.パンで元気をいただく
A.悪しき状況の中での聖餐式
1.2週間食事もとらず、嵐に揉まれてきたみんなにパウロは食事を勧めます。荒れ狂っているのですから食べられる状況になかったわけですし、食べることも考えていなかったでしょう。
2.ここでパウロは 彼はパンを取り、一同の前で神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。 とあります。ぶどう酒はありませんが、パンを裂いて聖餐式のように行ったのです。
3.パンはイエス・キリストの肉体を表しますが、また命の御言葉でもあります。御言葉をいただくことは私たちの力です。

B.愛餐で元気になる
1. 27:36 それで皆も元気づけられ、食事をした。 と、元気になって食事をしたと、聖餐式の後に食事をしたのです。ただ、船乗りも兵士達も囚人たちもパウロがしたことを聖餐式とは思わなかったでしょうが。
2.276人がここでやっと食事をしたのです。食べるということはとても大事です。みんなで食べるということが大事です。私たちの教会のランチをみても、とても楽しい雰囲気です。自由席だからどこでも良いし、元気を失っていた人も食べて元気になります。

Ⅲ.主の臨在を覚える時
A.聖餐と愛餐
1.初代教会は聖餐式をしてそのまま食事をしていたようです。聖餐と愛餐はセットになっていたようです。私たちも、今日、聖餐式をして少し時間が空きますが、ともにランチをいただくことができます。
2.船の中にいた人達というのは船長はじめ水夫達、そしてパウロとルカと囚人たち、その囚人たちを連れていく百人隊長と兵士達です。身分の差はあるけれどもみんなが同じ、パウロの裂いたパンを食べたのではないでしょうか。

B.イエス・キリストを覚えて
1.確かに聖餐式という制度ができていなかった時代でしょう。しかし、パウロはイエス・キリストを思い、主の臨在を覚えたのでしょう。 ルカ22:19 それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」 と最後の晩餐で言われたイエスの言葉は彼への言葉でもあったのです。
2.感謝してパンを裂き、それから皆で食事をいただいたのです。そこには不思議な神の臨在が満ちたのです。その後、全員が無事に陸に上がれたのです。
3.聖餐式で何かが起こることを期待するというのではなく、大事なのは感謝です。食前の祈りも感謝です。

★ 聖餐式はイエス・キリストを覚え、十字架を覚える時です。十字架の血潮は罪からの解放であり、死を打ち砕き、病を癒やす力です。しかし、癒しや恵みだけを求めるためのものではなく、主の死を告げ知らせるものであって、私たちが十字架と復活を語っていくことなのです。つまり、聖餐式は私たちの信仰告白であり、宣教していく意志決定でもあるのです。
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イエス様は良い羊飼い

2018-11-11 16:34:37 | 礼拝説教
2018/11/11七五三祝福式礼拝説教
【テーマ】  救い主イエス
【説教題】 「イエス様は良い羊飼い」
【聖書箇所】 ヨハネ10:11-15
【新改訳2017】
10:11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
10:13 彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。

○ 前に礼拝説教で100匹の羊を持っていた羊飼いの話をしました。その内の1匹がいなくなった話です。その時、羊は人間、羊飼いは神であることを語ったのですが、羊は羊飼い無しには生きていけないほど弱い存在です。人間の子どもも親無しには生きていけない年齢があり、段々一人前になります。

Ⅰ.保護者が必要
A.3歳児
1.3歳とはどんな年齢でしょうか? 生まれて3年。でも反抗期の中盤を迎えて結構自己主張してきます。2歳児と違って生意気なことを言ってくる年齢です。が、4歳児のように考えてからものを言える年ではないので親がイラッときます。魔の2歳児、悪魔の3歳児という言葉さえあるようです。
2.反抗期であるがためにやりにくいし、本人も親の手を振り切って自分でやろうとしますし、大変なことが多いものです。が、当然保護者は必要な年齢です。

B.5歳児
1.5歳とはどんな年齢でしょうか? 5歳までの成長はここからの5年間と比べると急成長で、ここからはやや穏やかに感じられます。5歳児は激動の幼児期から安定の児童期への橋渡しと言われています。
2.基本的に日常生活のことは自分一人でできるようになりますから、かなり自立してきています。とは言え、幼稚園、保育園の送り迎えに保護者が必要です。

C.7歳児
1.7歳とはどんな年齢でしょうか? もう小学生です。親に付き添われないで学校に行けます。わがまま三昧の7歳の子どもの話を聞いたことがありました。それに対してアドバイスされた先生の言葉に、それは幼児期の甘やかしすぎのつけが回ってきたのだと。そして、そこがピークではなく、まだまだひどくなるよと。
2.確かに幼児期の結果が出てきてはいますが、思春期に入っていないので、まだまだこれからです。学校での関わりなどで大きく変化もしますが、保護者を必要としています。

Ⅱ.イエス様が必要
A.良い羊飼いを保護者として
1.七五三は保護者を必要とし、そこでさらに生涯必要な方を見出すための準備期とも言えます。皆さんはもうイエス様と出会いましたか? イエス様こそ生涯必要な方でイエス様を卒業することはありません。
2.イエス様はご自分のことを「良い羊飼いです」と言われています。私たちは羊ですから、羊飼いの保護を必要としています。誰よりもすばらしい「良い羊飼い」に保護されるとはなんと幸いでしょうか。

B.良い羊飼いの特徴
1.良い羊飼いは羊たちの声を聞き分け、一匹一匹、その名前を知っています。たくさん赤ちゃんがいる中で、お母さんは自分の子どもの泣き声を聞き分けられるそうです。羊飼いも同じです。
2.良い羊飼いは羊のために命をかけます。わが子がトラックにひかれそうになったのを見たお母さんが飛び出していって、トラックをひっくり返してわが子を救ったという話があります。羊飼いもそのようにして羊を守ります。

C.イエス様は私たちを守る方
1.良い羊飼いというイエス様は私たちのことを全部知っています。イエス様は私たちの名前だけでなく、髪の毛の数さえも知っています。又、何をしたか、何を思っているかも全部知っている方です。だから心からイエス様にお話しするのがよいのです。
2.良い羊飼いというイエス様は私たちを絶対に守ってくれます。それは罪からです。そのためにイエス様は本当に命をかけて十字架で身代わりになってくださいました。私たちはイエス様の元にいれば絶対に罪が支配してくることはありません。

● 私は羊は飼ったことがありませんが、今は手乗り文鳥がいます。動物の中には飼い主がいなくてもしっかり生きていけるものがたくさんいますが、手乗りにした文鳥は一人では生きていけないみたいです。今飼っている文鳥も私の手の中で寝ます。安心するみたいです。私を信頼しきっています。私もイエス様と共にいると安心しています。

★ イエス様は良い羊飼いです。あなたのために命をかけてくださったお方です。この方の元でずっと過ごすことを決めてください。
 
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神の国はどこに?

2018-10-28 17:50:18 | 礼拝説教
2018/10/28礼拝説教
【テーマ】  神の国
【説教題】 「神の国はどこに?」
【聖書箇所】 マルコ4:26-34
【新改訳2017】
4:26 またイエスは言われた。「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、
4:27 夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。
4:28 地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。
4:29 実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」
4:30 またイエスは言われた。「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。
4:31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときは、地の上のどんな種よりも小さいのですが、
4:32 蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」
4:33 イエスは、このような多くのたとえをもって、彼らの聞く力に応じてみことばを話された。
4:34 たとえを使わずに話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちには、彼らだけがいるときに、すべてのことを解き明かされた。

○ 今日の午後は青年会が中心になって「ホーム・パーティ」なるものを計画してくださいました。単に楽しいというだけでなく、ここに神の国を見るようなひとときとなると思います。神の国とはどのようなものでしょうか? 

Ⅰ.神の国
A.神の国はどこに?
1.「神の国」というと「天国」と考えやすく、いつか死んだら行く世界のように思う人がいます。しかし、イエスの語られる話からはそういう場所的なものではないことが感じ取れます。
2.また、ユダヤ人はこの地上に神の国が形成されると思っていました。ところが、イエスは ルカ 17:20 パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。 と、このように言われました。

B.神の国の王は?
1.神の国というのは神が王として支配されることを言います。そして、イスラエルの人々が「神の国はいつ来るのか?」と考えていたということはまだ神の支配が無かったということです。
2.又その考えの背景にはローマ帝国の支配があり、イスラエルはその属州として組み込まれてしまっていたからです。ローマ帝国という大きな国から独立して、あるいはローマ帝国を滅ぼして神の国が成立することを待ち望んでいたのです。
3.イスラエルの人々はローマ帝国以上の国ができ、ダビデのような王が君臨するということを考えたでしょう。しかし、イエスはそのような目に見えるものではないと言われるのです。

Ⅱ.からし種
A.勝手に大きくなる
1.そこで、イエスは種のたとえを語られました。種を蒔いておけば勝手に育っていく、そして、最後に刈り入れがあるという話です。農民にとってこの話自体はわかるでしょうが、これが神の国とどのように繋がっているのかはなかなかわからないことではないでしょうか?
2. 4:26-27 神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。 と、人にはわからないが勝手に育つように、神の国は私たちにはわからないが、勝手に大きくなるのです。

B.からし種の成長
1.イエスは神の国を「からし種」にたとえられました。それは農民達にとってよくわかる一つの種だったのです。どの野菜の種よりも小さい「からし種」ですが、一旦蒔けば、どんどん成長し、どんな野菜よりも大きくなるというのです。
2.からし種は「からし」の種ですが、私が知っているのは「からしな」というアブラナ科のものでそんなに大きくはならないです。しかし、ある種類のブラックマスタードは、種は1mmもなく、蒔くとどんどん大きくなり、5mくらいになるそうです。そして、その陰も大きいので地面にしっかりと鳥が巣を作ることができるようです。鳥も安らぐことができるのです。安らげるのが神の国でしょう。

Ⅲ.聖霊の働き
A.聖霊の自由な働き
1.人々は神の国を場所的なもの、人間が王として存在する場所を考えました。が、神の御言葉が蒔かれればひとりでに成長するのであって、人にはわからないことだとイエスは言われています。
2. ヨハネ3:8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。 と、イエスはニコデモに言われましたが、ニコデモには理解できませんでした。理解できなくても後に復活の主に会い、聖霊に満たされると律法の支配を超えて自由になっていったのです。

B.私たちは知らないものです
1.私たちは神様のお考えや、世の中の現象に対して、あまりにも「どうしてこうなるのですか?」と言い過ぎます。ある人は「クリスチャンの心配性」と言いました。信仰によらず、自分の頭でわかることを信じようとするのです。
2.わからないことはいっぱいあるのです。しかし、からし種が蒔かれると勝手に成長して大きな木になり、鳥でさえその陰に安らぐのです。私たちのいただいた御言葉は蒔かれると勝手に成長するのです。どのようにしたら成長するのかではないのです。

● 理論、理屈、そしてそのためにセミナーが開かれ、ある人は勉強することに燃えます。聖会信者、キャンプ信者と言われて、そうした集会が大好きで行く人がいます。悪い事では無いのです。正しい知識を持つことは必要ですから。しかし、蒔かないなら何も起こらないのです。「どうして神の国は来ないのか?」と、また分析はするけれど蒔こうとしない。御言葉は大丈夫だから、良い地に蒔くべきです。良い地に耕す仕事は大事なのかも知れません。しかし、神がどんなことをなさるのか私たちがわかるはずが無いのです。死後の世界さえ知らないのです。 ルカ 17:21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」 とイエスは言われました。

★ 神の国は私たちの中にあることを信じますか? 御言葉が蒔かれ、イエスが王としておられる私たちの心が神の国です。同時に私たちの集まりは神の国です。
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不思議な秤

2018-10-14 16:55:50 | 礼拝説教
2018/10/14礼拝説教
【テーマ】  神の恵みを受け入れる
【説教題】 「不思議な秤」
【聖書箇所】 マルコ4:21-25
【新改訳2017】
4:21 イエスはまた彼らに言われた。「明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。
4:22 隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません。
4:23 聞く耳があるなら、聞きなさい。」
4:24 また彼らに言われた。「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。
4:25 持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。」

○ 中学生の時に鳩を飼っていました。かわいいし外に飛ばしても帰ってくるので楽しかったのですが、問題は餌代でした。お小遣い全部が消えるのです。どうしてもエサが少なめになってしまい、私の飼っていた鳩はだいたいみんな飢餓状態でした。エサを買いに行くとリンゴ箱にトウモロコシやサフラワー、オノミなどがあり、それを混ぜてもらいます。その時に店の人は升で量るのですが、キチッと量ってしまいます。いつも山盛りにしてくれれば良いのにと思っていました。今日のテキストにもこんな升が出てきます。

Ⅰ.明かりは燭台の上に
A.明かりを持ってくる意味
1.このイエスのたとえ話もそのまま聞けばわかる話です。当時の明かりは器に油を入れて灯心に火をともしたものが中心です。今のような明るい懐中電灯などはありません。もちろん電灯のようなものはありません。
2.それでもそれは明るく、部屋を照らすものであり、探し物さえできたでしょう。その明るい明かりをわざわざ隠すことは考えられません。部屋を明るくしたいから持ってくるわけですから。当然燭台の上に置くのが普通です。

B明かりを隠すはずがない
1.しかし、もしそれを 升の下や寝台の下に置く としたらどうなるでしょうか? 升は完全にランプを覆います。光がこぼれないばかりか、火を消してしまいます。火を消すために升を被せたとも言われますから。
2.寝台の下、ベッドの下というのは火は消えないにしても部屋を照らすことはできません。地べたの一部を明るくしている程度でしょう。この話はまさにこういうわかりやすい話であり、明かりを持ってきたら、そんな風に扱うわけがないというものです。

Ⅱ.明かりはすべてを露わにする
A.明かりを消す人
1.ところで、イエスのたとえ話ですが、「明かり」とは何を表しているのでしょうか? それはイエス・キリストです。この世に光としてきてくださったお方です。
2.その明かりであるイエス・キリストを升の下に入れてしまうとは、つまり火を消してしまおうとするのは、イエスの命を狙う律法学者や祭司長たちではないでしょうか。
3. 明かりを持って来るのは という訳になっていますが、ある訳では「明かりが来るのは」というのがあるそうです。この訳だと誰かが持ってくると言うより、明かりそのものが来る、まさに明かりであるイエスが来ることをそのまま表しています。この闇の世に光であるイエスが来てくださったのです。そのイエスを升の下に入れて殺してしまう人たちがいるのです。

B.明かりを隠す人
1.一方、弟子達はそんなことはしませんが、ベッドの下に置くようなことがあったのではないでしょうか? イエスの光を輝かせないのです。
2.明かりが燭台の上で照り輝けば、闇の中なら隠れていたものが全て見えるようになると言うわけです。罪や悪事は闇の中に隠しておきたいものでしょう。しかし、イエスは恐ろしいばかりにこれらの罪も悪も露わにしてしまわれるのです。
3.私たちの罪や悪は隠しておきたいものです。しかし、イエス様はそれを暴かれ、私たちに悔い改めを求められるのです。 聞く耳があるなら、聞きなさい。 と、この話を聞き、心を開き、悔い改めることをイエスは求めておられます。

Ⅲ.明かりの恵みを受け入れる秤
A.自分が量るその秤
1. 4:24 また彼らに言われた。「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。 自分が量るその秤 とありますが、最初に出てきた「升」は穀物や油を量る秤です。もしその升が小さければ少ない分量しか量れません。そこに少ししか入らないということです。反対に大きな升ならたくさん入ります。
2. 自分が量るその秤で自分にも量り与えられ とありますから、大きな升だとたくさん入る、つまり、神の恵みがたくさん入るのです。自分の信仰がどの程度なのかが問われそうです。

B.不思議な秤
1.秤、升とはキチッと量るためのものです。しかし、私たちは自分の秤では神の恵みをキチッと量れるのでしょうか? もし不思議な秤があって、恵みに合わせて大きくなる秤ならどうでしょうか? パリサイ人は小さなキチッと量れる秤しか持っていませんでした。神の恵みをそれくらいしか感じられないのです。
2.しかし、神に愛されていることを感じた異邦人や取税人、遊女達はその秤が広げられていくのです。これが信仰です。膨れるパンのたとえのように、からしだねがどんどん成長するたとえのように、私たちの信仰は神から与えられた不思議な秤であり、増えていくのです。
3.明かりであるイエスを、悔い改めた心で迎えるなら、その心は無限大のイエスを受け入れる秤である信仰をいただくのです。私の秤が膨張して欲しいと思います。

● 宇宙は膨張していると言われます。私にはその意味がよくわかりません。しかし、その膨張しているという宇宙の中に生きています。その中の小さな星「地球」に生きています。この地球のことですらほとんど知りません。それほどに神様の恵みもすごいのですが、この宇宙を造られた神の偉大さを思うと神の私たちに対する恵みも量りきれないものなのではないでしょうか。

★ あなたの秤はパリサイ人のようにキチッとした自分の枠組みだけの秤ですか? それともそれを悔い改めて神からいただいた不思議な秤を持っていますか? 無限大の神の恵みを受け入れてください。
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神はあなたを捜しておられる

2018-10-07 17:48:47 | 礼拝説教
2018/10/7礼拝説教
【テーマ】  捜し回る神
【説教題】 「神はあなたを捜しておられる」
【聖書箇所】 ルカ15:1-7
【新改訳2017】
15:1 さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
15:2 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。
15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
15:4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、
15:6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。

○ イエスは、取税人や罪人たちと親しくされ、食事さえも一緒にされました。しかし、パリサイ人や律法学者たちは、そのことが気に入りませんでした。彼らは、律法を守っている自分たちだけが、神に受け入れられるにふさわしいと思っていたからです。しかし、イエスは、そんな自信満々な彼らに、例え話をして、間違いを指摘しました。

Ⅰ.神から離れた人間(これが罪)
A.人間は神のもの
1.あるところに、100匹の羊を飼っている羊飼いがいました。そのうちの1匹がいなくなってしまいました。ここでの羊は人間を表しています。
2.100匹の羊をもっていた羊飼いとは、神のことです。もともと人間は、神に造られたので、神のものでした。羊が羊飼いのものであるように、人間は神のものでした(参照:エゼキエル34:11–16)。

B.羊のようにさ迷った人間
1.羊は、羊飼いに愛されていて、えさをもらったり、安全に休ませてもらったりします。それなのに、1匹の羊が羊飼いのところから、いなくなってしまいました。人間(アダムとエバ)も、はじめはエデンの園で、創り主である神との自由で平和な交わりの中に生かされていました。
2.しかし、人間は、神に反抗して、罪を犯し、神から離れてしまいました。人間は、神中心ではなく、自己中心に生きるようになったのです。預言者イザヤはこのように言っています。 イザヤ 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。 と。
3.神を離れたことの結果として、 ローマ 3:23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、 とあるように、すべての人が罪人となりました。アダムとエバだけではありません。人間はみんな罪人なのです。

Ⅱ.人間に近づく神
A.捜しまわる羊飼い
1.1匹の羊を失った羊飼いは、どうしたでしょうか。他の99匹の羊たちを野原に残して1匹の羊を捜しに出かけたのです。
2.羊飼いは「谷に落ちてケガをしていないだろうか」「オオカミに食べられはしないだろうか」「お腹がすいただろう」「寒くて眠れないのでは」と逃げていった羊のことを心配したことでしょう。危険も気にせず、時間も体力も犠牲にして、一生懸命見つけるまで捜し歩いたのです。それは、羊飼いにとって、1匹1匹どの羊も大切だったからです。

B.捜しておられる神
1.神は、私たちを愛してくださっています。1匹のために99匹を置いていくなんて、不釣合いと思うかもしれません。しかし、神にとっては、それほどまでに、ひとりひとりが特別に大切なのです。それはイザヤ書にも 【新改訳2017】イザヤ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。 と書いてあるとおりです。
2.人間は、罪人です。しかし神は、律法学者たちのように「そんな自分勝手な罪人は、放っておけばいい」「言うことを聞かない羊が谷に落ちて死ぬのは当然の報いだ」というような非情なお方ではありません。神は、神から離れてしまったひとりの罪人を、助けるために、捜してくださっているのです。

Ⅲ.喜ばれる神
A.悔い改める者を喜ばれる
1.羊を見つけた羊飼いは、大喜びでその羊をかついで帰り、友だちや近所の人たちを呼び集め、 『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』 と言います。
2.イエスは、 一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。 とおっしゃいました。律法学者たちは驚いたでしょう。イエスは正しい人と一緒にいて喜ばれるのではなく、罪人がイエスのところに帰ってくることを喜ぶとおっしゃったのです。
3.イエスは、こう言われています。 ルカ5:31 そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」

B.悔い改めるとは神に方向転換すること
1.「悔い改める」とは、罪からはなれて、神に立ち返ることです。私たちは、みんな罪人です。神に造られたのに、神から離れて自己中心に生きてきました。それを神に赦していただき、神のところに帰ることです。
2.私たちが悔い改めるとき、神は、必ず罪を赦してくださいます。それどころか、大喜びで迎えてくださいます。 エゼキエル33:11 わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。 とあるとおりです。

● 私たちも一人の人がイエス様を信じてクリスチャンになると決められる時、それはそれは大きな喜びです。7節に 大きな喜びが天にあるのです とありますが、私たちも天と通じていることを思います。一方、こうしたことを喜ばないパリサイ人達、律法学者達というのは天の喜びを感じない、天に通じていない人たちだということではないでしょうか。

★ 人間は皆罪人です。それは、神から離れているということです。その罪人を神は捜してくださり、神の手に抱かれる羊のように悔い改めて神に立ち返る者を神は喜ばれるのです。あなたはもう神の手の中に抱かれている羊ですか? それともまださ迷っている羊ですか?
 
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種蒔く人

2018-10-01 06:57:52 | 礼拝説教
2018/9/30礼拝説教
【テーマ】  キリストにある人生
【説教題】 「種蒔く人」
【聖書箇所】 マルコ4:3-20
【新改訳2017】
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4:4 蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
4:5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったのですぐに芽を出したが、
4:6 日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった。
4:7 また、別の種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びてふさいでしまったので、実を結ばなかった。
4:8 また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:10 さて、イエスだけになったとき、イエスの周りにいた人たちが、十二人とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。
4:12 それはこうあるからです。『彼らは、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない。彼らが立ち返って赦されることのないように。』」
4:13 そして、彼らにこう言われた。「このたとえが分からないのですか。そんなことで、どうしてすべてのたとえが理解できるでしょうか。
4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
4:15 道端に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。
4:16 岩地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、
4:17 自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。後で、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
4:18 もう一つの、茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、
4:19 この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。
4:20 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」

○ 16日の「シルバー祝福式で語った所ですが、今度は少し観点を変えて見てみたいと思います。前は土地と種を見ましたが、今回は種蒔く人と、前に読まなかった9節~13節も見てみましょう。

Ⅰ.種と種を蒔く人
A.種と種蒔く人に問題は無い
1.実を結ぶのに種には問題はありません。種蒔く人はいかがでしょうか? 現代日本の農法ならまず土地を改良、耕してから種を蒔きますが、聖書時代の農法はまず種を蒔いてそれから耕して種に土をかけていくというものです。ですから道端があったり、岩地であったり、後に茨が生えてくる土地であったりしたわけです。種蒔く人も当時の農法に従ったまでです。
2.種にも種蒔く人にも問題は無いのですが、結果的に蒔かれた土地の様子によって種の生長に影響が出てくるのです。しかし、ある人は畑作のプロなら、大事な種を蒔く時、良い地を見極めて蒔くのではないかと言います。

B.種蒔く人とは誰のこと?
1.種にたとえられているのは御言葉、神の言葉です。では、 種を蒔く人 とは誰のことでしょうか? この地上に神が人としてお出でになったイエス・キリストでしょうか。もちろんそうだと言えます。
2.しかし、「神の言葉」は神が語った言葉という意味、あるいは神がある時、あるところで一回だけ語ったという意味の言葉ではなくて、伝道者や説教者によって常に語り続けられている神の言葉を意味するそうです。
3.つまり種蒔く人は「私」なのです。「私」には問題もあるかも知れないし、力がないかも知れません。しかし、種に力があるのです。

Ⅱ.たとえと謎
A.たとえは謎だらけ
1.私はイエスの語られたたとえ話を読んで、いつも難しく感じるのです。たとえというのは普通難しいことを易しく語るものだと思います。しかし、返って難しく感じるのです。
2.イエスの使っておられたアラム語では「たとえ」に「謎」という意味があったと言います。 4:11 あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。 とありますが、弟子達と外の人たちに対して語り方が違うわけです。
3.ある先生がこんなことを言われました。「あの人は氷のように冷たい」というのは当然たとえです。これを文字通りとれば体温計で熱を計り「36度もあって氷ではないよ」と言うかも知れません。しかし、これはたとえです。それはたとえを語る人と心が通い合っているからそのたとえを理解できるのです。
4.イエスと心が通い合っているならたとえが理解できるということになります。通い合っていない時、それは謎なのです。

B.聞く耳の無い人には謎の御言葉
1.ここにも 4:9「聞く耳のある者は聞きなさい。」 という言葉があります。肉の耳ではないのです。心を開いて聞いて欲しいというのがイエス様の願いです。イエスの言葉は謎であり続けたのです。それは頑なな人々の心のためです。
2.皆さんもイエス・キリストを語る時、聖書の話を語る時によく聞いてくれる人にはとても話しやすかったことを経験されていると思います。反面、キリスト教に難癖つけようとしている人には何を言っても入っていかないという経験もされたことと思います。イエスの言葉に対して律法学者達がそうだったのです。

Ⅲ.種蒔く人
A.無駄と思える種蒔き
1.聞く人、聞かない人がいることを思うと御言葉という尊い種を蒔くのに 伝道者11:1 あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。 の御言葉を思い出します。無駄と思えるような伝道ですね。
2.御言葉を蒔く人、伝道する人にも問題は無いといえるでしょう。実を結ばないのは種蒔く人の責任では無いということです。ただし、種を蒔かない限りは芽を出すことはありません。つまり、伝道しなければ救いも無いということです。

B.御言葉に命と力がある
1.多くの実を結ぶというのはどういう人生でしょうか? 多くの人を救いに導いた、教会で多くの奉仕をした、教会外でも人々のために働いた、というようなことはもちろんそうだと思います。
2.しかし、 ヨハネ12:24 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。 というイエスの言葉から考えると、私たちの良い地にイエスがお出でくださったので、私たちの中で御言葉は実を結んだということです。
3.御言葉には命があり、力があります。私たちの心が良い地であれば、御言葉にある命や力が 三十倍、六十倍、百倍 に増えるのです。

● 詩篇126:5 涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。126:6 種入れを抱え泣きながら出て行く者は束を抱え喜び叫びながら帰って来る。 を覚えるのです。

★ 御言葉に力があります。私たちはそれを受け入れ、信じて語るだけです。私たちも涙と共に種蒔く人になろうではありませんか。
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祝福される人とは

2018-09-16 16:22:54 | 礼拝説教
2018/9/16礼拝説教
(シルバー祝福式)
【テーマ】  キリストにある人生
【説教題】 「祝福される人とは」
【聖書箇所】 マルコ4:3-9、14-20
【新改訳2017】
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4:4 蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
4:5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったのですぐに芽を出したが、
4:6 日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった。
4:7 また、別の種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びてふさいでしまったので、実を結ばなかった。
4:8 また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
4:15 道端に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。
4:16 岩地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、
4:17 自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。後で、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
4:18 もう一つの、茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、
4:19 この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。
4:20 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」

○ 今日はシルバー祝福式です。しかし、今日のテキストは子ども達にもよく知られている「四つの種」とも「四つの土地」とも言われているイエスのたとえ話です。イエスがお話になっていたその時にも子ども達がたくさんいてイエスのこのお話は子ども達もよく分かるお話だったのではないでしょうか。とすれば、イエスは子ども達に向かってどのようにお話しなさったのかと興味深く思います。

Ⅰ.私たちの心はどんな土地?
A.四つ
1.種蒔く人・農夫がたくさんの種を蒔いていますので、「四つの種」というよりは「四つの土地」という方が正しいと思うのですが、一つ一つの種がどうなったかということから考えれば「四つの種」と考えても良いでしょうね。
2.四つの土地の内、神が望まれるのは最後の「良い地」だけです。後の三つは違った土地ではあるものの、どれも実を結ばない点で同じです。

B.実を結ぶ土地になりたい
1.子どもでも「良い地」に蒔かれた種は生長して実を結ぶことは分かっていました。ただ、当時の農法では一粒の種からとれるのは十倍くらいだったそうです。ですから、 三十倍、六十倍、百倍になった と言われたイエスの言葉に子ども達も驚いたと思います。
2.とすれば、子ども達だって「良い地になりたい」とも思ったのではないでしょうか。イエスの話を聞いた大人たち、シルバーの人たちはどう思ったでしょうか? 自分の心は「良い地」だろうかと考えたでしょうか。

Ⅱ.わたしの心を振り返って
A.三つの土地を通ってきた
1.私はこの四つの土地を考えた時、自分に照らし合わせてみました。今の私の心は「良い地」なのかどうか? 自分の心は良い地かどうかはわからないとして、他の三つの土地は体験したように思うのです。
2.道端 4:15 道端に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。 子どもの時に日曜学校に行ったのです。聖書の話も聞いたのです。しかし、女の子ばかりだということですぐにやめてしまい、それっきり18歳まで教会に行かなかったのです。
3.岩地 4:16 岩地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、4:17 自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。後で、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。 18歳でクリスチャンになり教会に通うようになりました。その頃は大変喜んでいましたが、知識も信仰も不十分でどんどん落ち込みました。
4.茨の地 4:18 もう一つの、茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、4:19 この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。 これに当てはまるかどうかわかりませんが、聖霊のバプテスマも受けたのに、神様の存在も疑わなくなったのに、教師としての生き方に燃えて、キリスト者として証しが立っていなかった時期を思い起こすのです。
5.自分の中にこういう三つの土地があったように思えます。果たして「良い地」になっているのでしょうか? 30倍の実を結んでいるのでしょうか?

B.御言葉の種はたくさん蒔かれた
1.私たちは一粒の御言葉の種をいただいただけでは無く、多くの種が蒔かれたのではないでしょうか。そしてある時期の自分は道端のようであって、芽を出す前に鳥に食べられてしまって御言葉の影響力を受けなかったという経験、少し成長して、受けた御言葉の種が芽を出す経験をしたのだけれど心が頑固な岩地で、根付かなかったこと、さらに成長してものの、様々な誘惑で成長しきれなかったこと。
2.しかし、感謝なことに御言葉はたくさん蒔かれ、それをいただいてきたお陰で、その一つが芽吹き、成長したのであればなんと感謝なことでしょう。

Ⅲ.シルバーの方々の心
A.様々な体験を通して
1.もしかして、シルバーの方々にも私と同じような経験があるかも知れません。すべて信仰生活が順調というのは理想ですが、この世に生きるかぎり、色々な事に悩まされ、心も波立つものです。
2.とすると、道ばたも岩地も茨の地も体験して来られたものの、シルバーになって今、神の前にいらっしゃるということはすばらしいことではないですか。それこそ実を結んでいるということなのです。

B.肉的力を失って
1.シルバーの方々というのは、今までの若い時に色々なことができたし、知識も蓄えたと思うのです。しかし、それができなくなってきた、蓄えたはずの知識も薄れてきたのではないでしょうか。
2.しかし、若い時に多くの人生経験を積み、道ばたも岩地も茨の地も体験して、多くの反省をした人でもあるのです。つまり、たくさん悔い改めをした人でもあるわけです。そこではじめて分かる、はじめて言える信仰の世界があるのです。そして今や良い地となって御言葉が100倍の実を結ぶのを見ていらっしゃるのではないですか。

● シルバーの皆さんは人生で色々大変なところを通ってこられたと思います。特に子ども、孫のことを思うと時に心辛く、たまらないような思いになったこともあったかと思います。あるいは、自分の体の辛さ。時には長生きしたくなかったとさえ。しかし、その全てに神の恵みと祝福があったことを思い起こしたいですね。神は皆さんを祝福し、皆さんの子孫まで祝福されています。 出エジプト 20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。 と、ここには1000代までと。つまり永遠です。神に従う皆さんの子孫もエイ会陰に祝されるのです。

★  みことばを聞いて受け入れ る人。あなたの人生は祝福されています。
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