バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

法律の裏側にあるもの

2022-06-30 08:29:52 | 礼拝説教
2022/7/3 礼拝説教
【テーマ】  第六戒~八戒・法律違反するな
【説教題】 「法律の裏側にあるもの」
【聖書箇所】 出エジプト記20:13-15
20:13 殺してはならない。
20:14 姦淫してはならない。
20:15 盗んではならない。

○ 今日は十戒の第六戒~八戒を見ましょう。今まで見てきた戒めはいわゆる一般的な法律に触れませんでした。今日の三つの戒めは現代の法律にも触れるものです。
 
Ⅰ.殺してはならない
A.殺すこともある
1.神は 殺してはならない と当たり前のことを言われますが、誰もがご存知のように旧約聖書では神が殺すことを命じておられるところが多々あります。ですから、この 殺してはならない という当たり前の戒めに込められた神の意図が何かを知りたいものです。
2.殺人と言っても故意にでは無く「過失致死」があります。それに対しては 出エジプト記21:13 ただし、彼に殺意がなく神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに、彼が逃れることができる場所を指定する。 と逃れの町を規定し、ヨシュア記で実行されています。
3.罪を犯したアダムとエバを神は殺しはされませんでした。しかし、ノアの時代の大洪水は大変な裁きとなりました。罪が満ちた時には神のこうした裁きもあるようです。それが後の時代にはイスラエル人を通して行われることもあったということです。だからといって神が殺人を認めておられるわけではありません。

B.敵をも愛する愛を!
1.イエスは マタイ5:21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。 と言われました。そうです、兄弟に対して怒る者  兄弟に『ばか者』と言う者 は裁かれるのです。内的殺人と言うか、言葉においてもなのです。誰もが「いじめ」のひどさをご存知ですが、自殺に追いやるような言葉、こころに大きな傷を負わせるような言葉を神は望んでおられません。
2.イエスはまたこうも言われました。 マタイ5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 と。殺してはならないの裏側にあるのは「愛しなさい」なのです。
3. 殺してはならない。 の言葉の裏に神の熱い願いがあることを覚えたいです。いのちはとても大事で人が勝手にそのいのちを左右してはならないのです。神がどれほど人のことを思っておられるか、自分は神に愛されていることを覚えたいですね。

Ⅱ.姦淫してはならない
A.夫婦にしか認められていない関係
1. 箴言6:32 女と姦淫する者は良識がない。自分自身を滅ぼす者がこれを行う。 とあります。男女の性の問題は人を滅ぼすことになりかねません。性の関係は夫婦の間では祝福であり、子孫の繁栄ともなります。しかし、いつの時代にもどこの国でもこの夫婦以外の性の問題は無くなりません。
2.思春期のユース達にとって性に関する関心はすごいものです。しかし、その誘惑にはまり込むと時には一生を無にしてしまいます。それほどこの問題は大きいものです。最近「性教育」が重要視されています。それも幼い内から家庭で始めるべきだというのです。そして、プライベートゾーンを大事にすることを教えて性的被害を防ぐようにも教えるのです。

B.夫婦はしっかり愛し合おう
1. 姦淫してはならない。 の裏には「姦淫さえしなければよろしい」という話では無く、夫婦こそしっかり愛し合って欲しいということがあるのです。結婚式で誓約していただくのは、 あなたは、この結婚が神の御旨によるものであることを確信しますか。あなたは神の教えに従って、夫(妻)としての分を果たし、常に妻(夫)を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健康の時も、病いの時も、富める時も、貧しき時も、いのちの日の限りあなたの妻(夫)に対して堅く節操を守ることを約束いたしますか。 という文面です。これは何があっても伴侶を愛して欲しいという神の思いから来ているのです。
2.イエスは マタイ5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。 と言われました。心の姦淫です。男性は女性よりも何倍も性の誘惑が多いです。サタンはこの用いやすい誘惑を仕掛けてきます。「愛」の本質をしっかり御言葉から学び、御言葉で悪魔の誘惑を退けましょう。

Ⅲ.盗んではならない
A.人間を盗む罪
1.これも当たり前ですが、現代では盗むことにも色々あると思います。間違って自分の口座に多額のお金が振り込まれたのを勝手に使った事件がありましたが、盗んだのでしょうか? この聖書の盗むというのは所有権を犯すことです。泥棒、詐欺、万引きはもちろんで、借りたものを返さない、電車のキセル、脱税、試験のカンニングもこれに当てはまるのです。また、飽食、浪費もぬすんでいることになると言う人もいます。
2.「盗む」はヘブル語で「ガナーブ」と言います。これは「人間を盗む」という意味を持っているそうです。正に誘拐、奴隷です。つまり、人権無視、人格を尊重しないことがこれに当てはまるようなのです。ユダがイエスを銀30枚で売ったのもこれになるのです。

B.神のものを盗む罪
1.さて、私たちは神のものを盗んではいないでしょうか?  マラキ3:8 人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。 という有名な御言葉はどうでしょうか?
2.そして、盗んではならない。 の裏にある神のみこころは神のものは神にお返しし、ザアカイのように心入れ替えたなら、与える人になることではないでしょうか。与えるのはお金やものも大事かも知れませんが、私たちが救われたのは誰かの祈りによってです。そして福音を聞いたからです。私たちはそれを与えないことが盗みですから、積極的に愛をもって祈り、福音を語ることなのです。

★ 「ならない」と続きますが、その裏に神の熱い願いがあることを覚えたいです。正に神と人を愛することが神の願いなのです。
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生きることはキリスト

2022-06-25 07:05:59 | 礼拝説教
2022/6/26 礼拝説教
       召天者記念礼拝
【説教題】 「生きることはキリスト」
【聖書箇所】 ピリピ1:21-25
1:21 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
1:22 しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
1:23 私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。
1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。
1:25 このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。

○ 今日の礼拝は召天者記念礼拝としました。昨年、一昨年とコロナで延期しましたので、今日となりました。昨日は村上知子先生の召天19年でした。2003年に70才で亡くなられた村上知子先生、生きておられれば89才です。
 
Ⅰ.死ぬことは益
A.扉一枚開ければ天国よ
1.パウロはなぜ 死ぬことは益です と言うのでしょうか。簡単に言えば、パウロは死ねば天国へ行けることがわかっていたからです。天国ほどすばらしいところはないのですから。
2.村上先生も死を恐れておられませんでした。むしろまるで友達のように思っておられるかのように、「扉一枚開けて向こうに行くだけなのよ」と微笑んで言われるのは天国が見えているかのようでした。

B.死ぬことは益でも・・・
1.パウロは福音のために大変な迫害に遭い、体もボロボロだったと思います。精神的にもきつかったことでしょう。死ぬことはそういう地上の全ての煩わしさから解放されて完全な平安の天国へ行けるのですから 死ぬことは益 なのです。
2.皆さんにとって 死ぬことは益 ですか? 自分が行くべきところがどこかわかっていらっしゃるでしょうか? しかし、だからといって自ら死を早めることは問題です。パウロも 死ぬことは益 でも、それを最優先にはしませんでした。

Ⅱ.生きることはキリスト
A.私の働きは実を結ぶか?
1.皆さんにとって生きることは何ですか? 「生きることは仕事」「生きることは家族」「生きることは趣味」等々。どれも虚しいとは言いませんが、それが最高かどうかということです。
2.パウロが 生きることはキリスト と言うのはどういうことでしょうか? キリストのためにいのちをかけているからです。パウロは 肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになる と言っています。つまり彼の生きることは福音の前進、福音の広がりなのです。村上知子先生も同じだったと思います。
3.私たちはこの地上に生きていて、パウロの言うように 私の働きが実を結ぶことになる と言えるでしょうか。

B.他の人の信仰の前進と喜びのため生きる
1. 生きることはキリスト と言ったパウロは、天国のすばらしさを思いつつも、 1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。1:25 このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。 と言うのです。パウロが生きていることで信徒の信仰の前進と喜びになるというのです。私たちの周りにもそういう方がおられます。
2.年配の方の信仰を知ることは大変な励みになるものです。もし村上知子先生が今も生きておられたら、「生きることはキリストよ!」と言って、私たちを励ましてくださったのではないでしょうか。

Ⅲ.必ず会えるという希望
A.短いこの世の人生の人たちも
1.死というのは何も年をとって死ぬ人ばかりではありません。赤ちゃんで亡くなった人を何人見てきたでしょうか。やはり辛いものです。
2.しかし、私たちが平安をいただけるのは必ず天国で会えるという希望があるからです。0才、1才、2才で死んでしまった子、7年前に14才で死んでしまったA君、本当に辛いですが、みんな天国で平安の中を生きていると知っているので、私たちは慰められるのです。そして、この子達の短い人生から多くのことを感じさせられ、学ばせられるのは、短くても 生きることはキリスト だったからです。

B.故人を思い起こすことで
1.「召天者記念礼拝とは何だろう?」と、何度も考えましたが、私たちは亡くなった方を崇めたりはしません。しかし、故人との様々な関わりを思い起こして改めて感謝する時かと思います。また、故人を思い起こすことで、その方を愛してくださった神の愛を思う時でもあると思います。
2.その神に喜ばれる生き方をするのはパウロや村上知子先生の思いと一緒ではないでしょうか。

★ 人は必ず死ぬわけですから 死ぬことは益です と言える死に方をしたいものです。そのためにはこの地上での生きることは大変でも 私にとって生きることはキリスト と生きることです。
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生きることはキリスト

2022-06-23 07:40:33 | 礼拝説教
2022/6/26 礼拝説教
       召天者記念礼拝
【説教題】 「生きることはキリスト」
【聖書箇所】 ピリピ1:21-25
1:21 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
1:22 しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
1:23 私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。
1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。
1:25 このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。

○ 今日の礼拝は召天者記念礼拝としました。昨年、一昨年とコロナで延期しましたので、今日となりました。昨日は村上知子先生の召天19年でした。2003年に70才で亡くなられた村上知子先生、生きておられれば89才です。
 
Ⅰ.死ぬことは益
A.扉一枚開ければ天国よ
1.パウロはなぜ 死ぬことは益です と言うのでしょうか。簡単に言えば、パウロは死ねば天国へ行けることがわかっていたからです。天国ほどすばらしいところはないのですから。
2.村上先生も死を恐れておられませんでした。むしろまるで友達のように思っておられるかのように、「扉一枚開けて向こうに行くだけなのよ」と微笑んで言われるのは天国が見えているかのようでした。

B.死ぬことは益でも・・・
1.パウロは福音のために大変な迫害に遭い、体もボロボロだったと思います。精神的にもきつかったことでしょう。死ぬことはそういう地上の全ての煩わしさから解放されて完全な平安の天国へ行けるのですから 死ぬことは益 なのです。
2.皆さんにとって 死ぬことは益 ですか? 自分が行くべきところがどこかわかっていらっしゃるでしょうか? しかし、だからといって自ら死を早めることは問題です。パウロも 死ぬことは益 でも、それを最優先にはしませんでした。

Ⅱ.生きることはキリスト
A.私の働きは実を結ぶか?
1.皆さんにとって生きることは何ですか? 「生きることは仕事」「生きることは家族」「生きることは趣味」等々。どれも虚しいとは言いませんが、それが最高かどうかということです。
2.パウロが 生きることはキリスト と言うのはどういうことでしょうか? キリストのためにいのちをかけているからです。パウロは 肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになる と言っています。つまり彼の生きることは福音の前進、福音の広がりなのです。村上知子先生も同じだったと思います。
3.私たちはこの地上に生きていて、パウロの言うように 私の働きが実を結ぶことになる と言えるでしょうか。

B.他の人の信仰の前進と喜びのため生きる
1. 生きることはキリスト と言ったパウロは、天国のすばらしさを思いつつも、 1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。1:25 このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。 と言うのです。パウロが生きていることで信徒の信仰の前進と喜びになるというのです。私たちの周りにもそういう方がおられます。
2.年配の方の信仰を知ることは大変な励みになるものです。もし村上知子先生が今も生きておられたら、「生きることはキリストよ!」と言って、私たちを励ましてくださったのではないでしょうか。

Ⅲ.必ず会えるという希望
A.短いこの世の人生の人たちも
1.死というのは何も年をとって死ぬ人ばかりではありません。赤ちゃんで亡くなった人を何人見てきたでしょうか。やはり辛いものです。
2.しかし、私たちが平安をいただけるのは必ず天国で会えるという希望があるからです。0才、1才、2才で死んでしまった子、7年前に14才で死んでしまったA君、本当に辛いですが、みんな天国で平安の中を生きていると知っているので、私たちは慰められるのです。そして、この子達の短い人生から多くのことを感じさせられ、学ばせられるのは、短くても 生きることはキリスト だったからです。

B.故人を思い起こすことで
1.「召天者記念礼拝とは何だろう?」と、何度も考えましたが、私たちは亡くなった方を崇めたりはしません。しかし、故人との様々な関わりを思い起こして改めて感謝する時かと思います。また、故人を思い起こすことで、その方を愛してくださった神の愛を思う時でもあると思います。
2.その神に喜ばれる生き方をするのはパウロや村上知子先生の思いと一緒ではないでしょうか。

★ 人は必ず死ぬわけですから 死ぬことは益です と言える死に方をしたいものです。そのためにはこの地上での生きることは大変でも 私にとって生きることはキリスト と生きることです。
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親を敬う人は神を敬う人だ

2022-06-09 08:23:43 | 礼拝説教
2022/6/12 礼拝説教
【テーマ】  第五戒・父母を敬え
【説教題】 「親を敬う人は神を敬う人だ」
【聖書箇所】 出エジプト記20:12
20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、【主】が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。

○ 来週は「父の日」です。今日は十戒の第五戒「あなたの父と母を敬え」を見ることにします。親を尊敬しているかを20代の人に聞いた調査では「父親を尊敬している」人74%、「母親を尊敬している」人87%だったそうです。今さら「あなたの父と母を敬え」という教えをしなくても良さそうな数値です。親を敬うように教えるのは何も聖書だけでも、キリスト教だけでもありません。むしろ一般的と言えるのかも知れません。しかし、聖書が、十戒を通してでも命じるには大事な意味があるように思えます。
 
Ⅰ.なぜ父と母を敬うのか?
A.幸せになると言う約束だから
1.今日の御言葉、十戒の第五戒は短いです。 あなたの父と母を敬え という命令に続いて、その理由が書かれています。 あなたの神、【主】が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである と、命令を守るなら幸せに過ごすことができるという、理由は実に明解です。敬うというのは尊敬の念を持つことだけでなく、従う事も意味します。
2.なぜ父と母を敬えば幸せになるのか? それは神のお考えだからです。というのは親は愛をもって子どもを育てます。赤ちゃんは愛されないと生きていけません。私たちが今あるのは親に愛されたからです。特に母親は赤ちゃんがお腹にできたときから「いとおしくてたまらない」というホルモンが出るようになっています。出産時にはそのホルモンが爆発的に出てくるのだそうです。

B.親は神の代理人だから
1.本当の幸せというのは新中野キリスト教会の今年の標語にあるように「神と共に歩む」ことです。この見えない神を子どもにわからせるのが親なのです。親の愛は神の愛に近いからで、子どもにとって親は神の代理人なのです。親の権威から、神の権威を学び、社会の規律、権威を学びます。それは社会的にも幸せな生き方ができるためです。
2.また、親はその信仰生活において大先輩です。子どもは親の信仰から学ぶことが出来るからです。そして、子どもにとって親は神の代理人だからです。ということは親は神のように子どもを愛さねばならないということでもあります。

Ⅱ.父と母を敬うだけで良いのか?
A.神にこそ従うべき
1.イエスは地上の両親に従われました。もちろん天の父にも従われました。私たちにとってもそのことはとても大事なことです。神の代理人である親ですから、親から神を敬うことを学ぶわけです。つまり神を礼拝することを学ぶのです。
2.イエスを語ってはならないと言われた弟子達が何と言ったでしょうか。 使徒5:29 ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。 と。地上の権威は大事なのですが、最大の権威者である神にこそ従うべきなのです。私たちは日々、このお方を敬って生活しているでしょうか?

B.教会を大事にすること
1.自分の教会を母教会と言いますね。そして、神のことを「天のお父様」とも言います。私たちは天の父と地上の教会を母として生まれた神の子と言えるのです。
2.ですから単に親孝行するというだけの話ではなく、信仰の先輩達を敬うということが大事です。パウロはテモテに Ⅰテモテ5:1 年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人には兄弟に対するように、5:2 年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように、真に純粋な心で勧めなさい。 と、教えているように、教会は大事な家族なのです。もちろん、神より教会を大事にするのは問題です。

Ⅲ.敬えない親のためにできることは?
A.問題のある親がいる
1.親の愛は神の愛に近いと言いましたが、現代の虐待に見られるように子どもを正しく愛さない親もいます。その親を敬い・従う事はできないかも知れません。親は神の代理人ですから、神の愛で子どもを愛してこそ子どもから敬われるのでしょう。
2.しかし、いくら酷い親であっても産み育ててくれたのですから、その親のために祈ることは大事なことなのです。救いを祈るべきなのです。祈りは愛ですから、祈ることを通して敬うこともできます。

B.聖霊の愛で愛し、祈る
1.しかし、酷い親だと祈ることもできないと思うかも知れません。その通りです。人間的な愛だけではできないのです。イエスが単なる人間なら私たちの身代わりに十字架にかかるような愛は持てなかったでしょう。それができたのはイエスが神であるからですが、聖霊の愛がそうされたのです。
2.私たちも人間的な愛を越える聖霊の愛が満ちると愛することができるようになります。また、普通に敬うことのできる親であっても、やはり聖霊の愛で愛し、祈ることが大事なのです。

★ 父と母を敬うのは、私たち自身の幸せのためですが、それは愛の祈りによって親も幸せになるからです。そして、愛は膨らみますから、親だけを愛して留まらず、教会のみんなを愛し、人々を愛していくように祈りが深まるのです。

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安息日は礼拝する日です

2022-06-02 07:36:35 | 礼拝説教
2022/6/5 礼拝説教
【テーマ】  第四戒・安息日を守る
【説教題】 「安息日は礼拝する日です」
【聖書箇所】 出エジプト記20:8-11
20:8 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
20:9 六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。
20:10 七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。
20:11 それは【主】が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

○ 今日はウエルカムサンデーです。私たちキリスト教会は日曜日に礼拝しています。現代は日曜日も休みでないところが増えましたし、夜間の仕事も増え、仕事を休みにできる日はそれぞれ違う形になってきました。とは言え、基本的に日曜日は休みです。これはキリスト教のお陰だと言う人もいます。そんなに昔でない日本では、週休という考えはなかったようです。それこそ「丁稚奉公」があった頃、貧しい農村の子どもは小学校を出ると5年契約くらいの年期奉公に出されたのです。5年間働いて200-300円位(現在の300-500万円位)のお金が大体前金で親に渡されて、本人は毎月ほんのわずかな小遣いをもらう程度で5年間住み込みで働いていました。年に2回「藪入り」の時だけ数日間休めたのです。
 
Ⅰ.安息日はどんな日?
A.神の安息の日
1.なぜ安息日ができたのかというと、この十戒で神がそのように命じられたからですが、その理由として挙げられているのが、神が天地創造を6日間でなさって、 七日目に休んだからである とあります。そして、 七日目は、あなたの神、【主】の安息である と言われているのが目に留まります。
2.しかし、神は聖書の至る所でわかるように寝ることも休むこともしないお方です。とすればこの安息日や休むということについて考える必要があると思います。神は6日間の創造の最後に創られたアダムとエバと親しい交わりをもたれました。それは安息日であったかも知れません。安息日は仕事などを休み、神と過ごす日であって、自分勝手な休日ではないということでしょう。

B.救い出されたことを思い起こす日
1.さらに安息日は 申命記5:15 あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は安息日を守るよう、あなたに命じたのである というように奴隷から救い出されたことを思い起こし、感謝する日と定められました。
2.今は私たちが罪の奴隷から救い出されたことを思い起こす日ということも言えるでしょう。

Ⅱ.安息日はとても大事な日
A.安息日は礼拝する日
1. 安息日 のヘブル語「シャバート」は「休む」「中止する」という意味で、 安息日 は休みの日ということです。そして 聖なるものとせよ は、区別することを意味しています。ですから 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ というのは「休みの日を思い起こして、これを他の日と区別しなさい」という意味になります。
2.そこで、この日は「聖日」とも呼ばれ、礼拝する日なのです。 エゼキエル46:3 民衆も、安息日と新月の祭りの日には、その門の入り口で【主】の前に礼拝をする。 と言われています。この日は他の日とは違うのです。ですから、 イザヤ56:2 幸いなことよ。安息日を守って、これを汚さず、どんな悪事からもその手を守る人は。 と、守る者は祝福されます。

B.守らなければ殺される
1.そして安息日を守らないならどうなるのかも書かれています。 出エジプト31:14 あなたがたは、この安息を守らなければならない。これは、あなたがたにとって聖なるものだからである。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者はだれでも、自分の民の間から断ち切られる。31:15 六日間は仕事をする。 しかし、 七日目は【主】の聖なる全き安息である。 安息日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。 と守らなければ殺されたのです。
2.今、私たちはそのような律法に縛られていません。土曜日安息日ではなく、イエス様の復活を思い起こして日曜日に礼拝します。かといって、日曜日に仕事をしたら殺されるわけではありません。イエス様によって真の自由を得たからです。私たちは自分の自由意志で神を礼拝するようにされたのです。

Ⅲ.安息日はイエスと私たちの日
A.安息日とイエス様
1.イエス様は安息日に病人を癒されています。それがために律法学者達から責められました。なぜかというと学者達が安息日の守り方を考えて自分たちで考え出した決まりごとがあったからです。イエスの行為はその決まりごとに反するということで責めました。しかしイエスは マルコ3:4 それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」 と言って、癒されるのです。
2.その前の章の最後ではイエスは マルコ2:27 そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。2:28 ですから、人の子は安息日にも主です。」 と言われています。安息日の積極的な捉え方を言われています。律法学者達が「安息日には〇〇をしてはならない」と言って人を苦しめましたが、イエスは人のために真の安息を与えられました。

B.日曜日の過ごし方
1.現代はユダヤ人の守る土曜日安息日と私たちの休みとする日曜日が同じとは言えませんが、この日は主の安息であり、私たちのためにもあるとすれば神と親しく過ごし、エネルギーを回復するときであり、神のみこころを思う時でもあるのです。
2.聖日ですから礼拝すべきです。何にもまして私たちのすべきは礼拝です。ただ、礼拝は聖日礼拝に留まらず、今や私たちは毎日個人的な礼拝ができます。できることなら仕事や学校に出かける前に短い時間でも静まって御言葉と祈りの時間を持つといいですね。

● 休むということはとても大事です。私は教会に2年間行かなかったことがあります。どんどん信仰は消えていきました。本当に飢え渇いてアッセンブリーの高槻キリスト教会に行った時、私は水を得た魚のようでした。聖日礼拝しないと私はダメでした。

★ 神は神が私たちと心身霊共にエネルギーを回復するように安息日を設けてくださいました。そして神は積極的に私たちと交わりを持ってくださいます。私たちも積極的に聖日礼拝を守りましょう。


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名は体を表す

2022-05-26 06:38:55 | 礼拝説教
2022/5/29 礼拝説教
【テーマ】  第三戒・御名を大切に
【説教題】 「名は体を表す」
【聖書箇所】 出エジプト記20:7
20:7 あなたは、あなたの神、【主】の名をみだりに口にしてはならない。【主】は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。

○ 今日は午後に4人の方の納骨式を行います。この方々とはもう地上で会うことはできません。しかし、私たちは天国で再会できることを信じています。何と幸いなことでしょう。全く新しい痛みも痒みもなく元気な体を持ち、聡明で愛に満ちた頭脳をいただくのです。仮にこの地上で不仲であったとしても天国では全くそれは無いのです。戦争もありません。全く新しくされたので、新しい名で呼ばれるようです。名前はその人だけを表すのです。
*******
イザヤ62:2 そのとき、国々はあなたの義を、すべての王があなたの栄光を見る。そのとき、あなたは新しい名で呼ばれる。【主】の御口が名づける名で。
黙示録2:17 勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。また、白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が記されている。』
 
Ⅰ.名前の重要性
A.ヤハウェ
1.主の祈りの最初は 天にましますわれらの父よ。 と、父なる神に呼びかけて、 御名をあがめさせたまえ です。「神の名前を崇めさせてください」と祈るのは神の名前が神ご自身を表しているからです。
2.「名は体を表す」ということわざがありますが、私たちには時としてそれが当てはまらない場合もあります。しかし、神は「私はあるというものである」と言われました。そこから「ヤハウェ」と呼ばれたようです。神は全世界の存在する前からおられた永遠のお方です。つまり全てをお造りになったお方です。

B.アドナイ
1.ユダヤ人はこの第三戒を大切にするあまり、神の名前を呼ぶことを恐れ、「主(アドナイ)」と呼ぶようにしていました。そこで、長い間に「ヤハウェ」という呼び名がわからなくなっていました。その理由はヘブル語は子音だけなので「YHWH」の読み方がわからなくなったのです。
2.今も私たちは「ヤハウェ様」と呼びかけることはまずありません。「神様」とか「主よ」というように、「主」という言葉を使っています。祈りは神との対話ですから、誰に対して話しかけているかわかるように「神様」「主よ」と呼びかけています。我が家で子ども達が私のことを「敬朗様」とは呼びかけず、「お父さん」と呼びかけます。
3.イエス様は主の祈りを教えてくださった時、 マタイ 6:9 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように と教えてくださいました。「お父様」「お父さん」という呼び方です。それは私たちと神様がとても近しい親子関係であることを示してくださったのです。

Ⅱ.みだりに口にしてはならない
A.「みだりに」の問題
1.子どもの時に流行ったことにこんなのがありました。友達が私に「おい、藤井、藤井」と呼びかけてきて、私が「何?」と聞くと「何でもなーい」とか、「ただ呼んだだけ」と言うのです。はじめは面白がってみんな言ってましたが、本当に呼びかけているのに、「またあれだ」と思って返事しないということが起こったのです。全く同じではありませんが、神様の名前を本当に必要もないのに呼ぶのはどうでしょう? 
2.「みだりに」というヘブル語「ラシャブ」は、「シャアー(むだにする)」という語から来ています。この「シャアー」は「軽々しく行う」「偽って行う」「呪って行う」という意味を持っています。昔、イスラエル人は神の名によって誓いました。神の名によって呪うというのはいかがなものでしょう。こういうことは神の名を汚すことになるのです。

B.愛をもって神の名を呼ぼう
1.子どもが「お父さん」と呼びかけてきて、たわいもないことを話してもそれはそれでとても楽しいものです。神様もそういう会話を喜んでくださると思います。ですからそれは みだりに ではないと思われます。
2.私たちは神様のお名前を呼んでもよい関係に入れていただきましたが、私たちが汚れを行っているとすれば神の名前を汚すことにもなるわけです。神の名を呼べる関係である以上、私たちも神の聖さに与りたいものです。

Ⅲ.すばらしいお名前
A.インマヌエル
1.私たちは唯一の神を信じているわけですが、その神は三位一体という不思議な神です。第二位格の子なる神は「イエス」という名で呼ばれました。この名前に力があります。 ヨハネ1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。 というすばらしい名前です。
2.また イザヤ 7:14 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。 マタイ 1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。 と、「インマヌエル」という呼び名を持っていました。名は体を表すの如く、私たちと共にいてくださる神です。

B.イエスの名によって祈る
1.私たちはイエス・キリストの名によって祈ります。イエスがゲツセマネの園で十字架を前に祈られた祈りは マタイ26:39 「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」 でした。この あなたが望まれるままに つまり「みこころのままに」が「主の御名によってお祈りします」の意味するところなのです。
2.私たちは本来神に祈れる者では無かったのですが、イエスのお陰で神の子としていただきました。だから「お父様」と言ってよくなったのです。そこで、近しい関係、祈れるようにしてくださった「イエス・キリストのお名前によって」祈るのです。

★ 神の名前、イエスのお名前には力があります。全ての被造物はそれにひざまずきます。悪魔も例外ではなく、イエスの名によって退散します。この名前によって祈れる私たちはイエスのお名前を大切にしたいものです。
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神を心から礼拝しよう!

2022-05-19 07:45:42 | 礼拝説教
2022/5/22 礼拝説教
【テーマ】  第一・二戒 他に神は無い
【説教題】 「神を心から礼拝しよう!」
【聖書箇所】 出エジプト記20:1-6
20:1 それから神は次のすべてのことばを告げられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、【主】である。
20:3 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
20:4 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

○ ある方が会堂に入って来られて「ご本尊はどちらにありますか?」と尋ねられました。それに向かって祈りたかったみたいなのです。「うちの教会にはそういうものはありません」というと驚かれたような顔をなさり「どちらにお祈りすればよろしいでしょうか?」と言われました。すると、十字架を見つけてそこに向かって手を合わされていました。もしかすると、この方にはこの十字架は偶像ではないかと思えたのです。十戒の最初に わたし以外に、ほかの神があってはならない。 偶像を造ってはならない。 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。 とあります。
 
Ⅰ.ほかの神があってはならない
A.果たして神はたくさんいるのか?
1.十戒が与えられたのは、イスラエルがエジプトで奴隷となっている間にエジプト文化がかなり染みつき、神観も崩れてきていたからです。エジプトにはいくつもの神がいたようです。それは偶像ですから「あったようです」と言った方がよいのかも知れません。
2.神がたくさんいて、ファラオが「エジプトの神はイスラエルの神よりはるかに強い」と思っていました。そういう神なら、神々は仲が良くないことになり、神の愛が信じられなくなります。また、世界には調和がなくなるはずです。ですから神はお一人のはずなのです。

B.神はお一人だと信じ切ること
1.日本では「〇〇の神」として、例えば「商売の神」「学問の神」「健康長寿の神」「交通事故から守る神」等々色々な神がいて、人間すら「神」になり得ます。子どもの時からそれらを「神」と教えられるとそう思い込んでしまうものです。実はこうしたことは何も日本だけでなく世界各国にあることです。
2.しかし、聖書は神は一人で、他に神は無いと教えています。そしてそのお方は全知全能のお方です。だから全てをお造りになることができました。そしてあまりに偉大だから私たちには理解できないのです。私たちに理解できるような神ならすでに神ではありません。

Ⅱ.偶像を造ってはならない
A.偶像とは何か?
1.私は「偶像」と言われると真っ先に思い出すのは仏像です。皆さんは何ですか? 「お地蔵さん」と言った人もいます。「奈良の大仏」とか。木や石、金属で造られた像に神が宿ると考えられたようです。「お守り」はどうでしょうか? 
2.また、偶像というのは英語の「アイドル」で賞賛を浴びるもののようです。そのように自分の心がそれで満ちるものが偶像になる可能性があります。ということは現代ではスマホが偶像になってもおかしくないということです。クリスチャンにとって神以上に大切なものがあるとするとそれは偶像化しているのではないでしょうか。

B.悪霊がそこに存在するか?
1.こうした偶像は神ではないのに、人は偶像を造り、拝みたがるのは自分以上に力のある存在を認めているからなのですが、それを上手く利用しているのがサタンです。偶像の背後には往々にしてサタン・悪霊が存在すると思われます。気をつけなければならないですね。
2.では、日本人がお墓に手を合わすのは偶像礼拝でしょうか? ある外国人の方が日本人のお辞儀を見て「人を礼拝している。偶像礼拝だ」と言ったそうです。本当にそうでしょうか? このあたり文化として考えるべき事と宗教をごっちゃにしてはいけないかと思います。まさにその人の心がどこにあるかでしょうね。ですから人によってはお墓も偶像になってしまいます。仏像も芸術作品としてみる人と偶像として拝する人があるということです。

Ⅲ.偶像を拝んではならない
A.なぜ拝むのか?
1.拝むというのは自分以上の存在に対して敬意を払い尊重することであり、祈ることです。ですから、偶像を拝むというのは、偶像が偉大な方であり、それを信じ、祈ることです。多くの場合、自分の願いをかなえてもらいたいので、かなえてくれる偶像・神を求めます。自分の方から神の教えに従う、仕えるより、自分に神が従う・仕えることを願っているのです。
2.また、偶像を拝する背景には拝まないと祟りがあるのではないかという恐れや、自分にはできないことをこの神にはしてもらえるのではないかという期待があるからでしょう。私たちが真の神を信じる、礼拝するというのはもちろん恐れからではないですし、神は必ず最善をなさると信じているからなのです。

B.この方以外にいないことを確信する
1.聖書はこう言っています。 使徒 4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」 私たちの信じる神は三位一体の神であり、ペテロの言うようにイエスによってしか救いは無いのです。つまり、神はお一人なのです。
2.また、 Ⅰコリ 8:4 さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。 とパウロが言っているとおり、偶像の神というのは本来存在しないのです。

● この戒めは「〇〇してはならない」という禁止命令として聞こえますが、これは「私は、あなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。もしあなたがそのことを本当に知っているなら、あなたは私のほかになにものをも神とするはずがない」次も、「私はあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。もし、あなたがその私の愛を知っているのであれば、あなたは自分のために偶像を造るはずがない」というように訳せるとも言います。この訳ですと神は私たちに積極的に神を愛して礼拝することを望んでおられることがわかります。

★ 私たちはもちろん偶像礼拝してはならないのですが、それよりも私たちの神はお一人で、イエスによる以外救いはないことを確信して、神を愛することなのです。「神を心から礼拝しよう!」という意気込み、意志決定が大事なのではないでしょうか。



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祈りはサタンを打ち負かす

2022-05-14 07:10:49 | 礼拝説教
2022/5/15 礼拝説教
【テーマ】  支え合う教会
【説教題】 「祈りはサタンを打ち負かす」
【聖書箇所】 出エジプト17:8-18:25
17:8 さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。
17:9 モーセはヨシュアに言った。「男たちを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。私は明日、神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」
17:10 ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。
17:11 モーセが手を高く上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になった。
17:12 モーセの手が重くなると、彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いた。モーセはその上に腰掛け、アロンとフルは、一人はこちらから、一人はあちらから、モーセの手を支えた。それで彼の両手は日が沈むまで、しっかり上げられていた。
17:13 ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で討ち破った。

18:19 さあ、私の言うことを聞きなさい。あなたに助言しましょう。どうか神があなたとともにいてくださるように。あなたは神の前で民の代わりとなり、様々な事件をあなたが神のところに持って行くようにしなさい。
18:20 あなたは掟とおしえをもって彼らに警告し、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを知らせなさい。
18:21 あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たちを見つけ、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立てなさい。
18:22 いつもは彼らが民をさばくのです。大きな事件のときは、すべてあなたのところに持って来させ、小さな事件はみな、彼らにさばかせて、あなたの重荷を軽くしなさい。こうして彼らはあなたとともに重荷を負うのです。

○ 皆さんは祈る時、どんな姿勢で祈りますか? 目を閉じて、下を向いて、両手は組んで、静かに祈る、あるいは黙って祈るのが普通でしょうか? 絵画で「祈りの手」を見ると開いた手を合わせています。また祈る人の写真などを見ると両手を上げて、上を向いて祈っています。実際、イスラエルの祈りはこのような感じだったみたいです。また声に出して祈るのが普通だったみたいです。どうしてこうも祈りの形が変わったのかと思いますが、とにかく大事なのは形では無く、実際に祈るということです。
 
Ⅰ.祈り続けて勝利を得る
A.手を上げて祈る
1.旧約聖書には戦いが何度も出てきますが、それを今日の戦争と同等に扱わないでください。その大前提で、このアマレクとの戦いを考えてみましょう。
2.モーセが手を上げているときにはイスラエルが優勢になりました。手を上げるというのはイスラエルの基本的な祈りの形です。モーセが祈るとイスラエルが優勢になるということです。モーセが祈り続けていると勝利があるのです。あなたが祈り続けると勝利があります。
3.テモテへの手紙にこうあります。 Ⅰテモ 2:8 そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。 パウロは男性の祈りを求めています。男性が手を上げるというのは怒りの手が多く、げんこつを振り下ろして相手を殴るのですが、パウロはそういう手の上げ方を求めていません。「聖い祈りの手を上げよ!」と言うのです。

B.祈りを支える仲間がいる
1.また祈るモーセの手を支えたアロンとフルがいました。これがまた大事なのです。祈りを助ける仲間です。これが真の友であり、兄弟姉妹ではないでしょうか? このアロンとフルもかなりの年寄りだったらしいです。3人の年寄りが丘の上にいて、モーセは手を上げ、アロンとフルは両側でその手を支えていたのです。この二人のお陰でモーセは日没まで手を上げ続けることができました。
2.あの紅海を真っ二つに割り、エジプトの軍隊を海に飲み込ませることのできる神がここではイスラエル人が戦わねばならず、それも簡単に勝利を得さえるのではなく、年寄り3人に祈りの働きをさせられたのはなにか大きな意味を感じませんか。
3.私たちが共に集まって祈る祈祷会を持つ意味はこれです。また、集まれなくても祈りで支え合うのです。アガペー通信を見て祈ってくださるのもこれです。

Ⅱ.祈りのない信仰はない
A.祈っているか!?
1.皆さんは信仰を持っていますか? 「祈りのない信仰はない」と言われます。神を信じるということは神と常に交わることを意味しているわけですから当然祈るのです。「祈り」と一言で言いますが、その中身は濃厚で、賛美もあり、悔い改めもあり、また神の御声を聞くことも含まれています。聖書を読むのもそのためです。聖書を読まない、祈らないとすればそれは不信者です。祈らない人生に勝利はないということです。
2.楽しく、嬉しい祈りですが、時に祈りは難しく感じたり、祈れないと思ったりすることもあります。その一つの理由にサタンの妨害があります。サタンはもちろん私たちを神から引き離したいわけですから、私たちに祈らないようにさせます。それは巧みに色々な方法をとります。それに対抗するために、私たちは「祈祷会」を設けて祈りを定期的に行うようにしているわけです。

B.祈りより大事と思うものは?
1.また、祈りにくくなる理由にはその時間がもったいなく感じるからです。つまり、祈りより大事だと思える仕事、楽しいことなどに心が奪われるからです。最近ではスマホに時間が奪われている人が多いといわれています。結果的にはこれもサタンの誘惑でしょう。
2.私たちはサタンに勝利をする必要があるのですが、それには祈ることなのです。祈らずしてこの世の誘惑に勝てるのでしょうか? サタンはとても手強い相手です。イスラエルにとってアマレクは大変手強い敵でした。その敵に勝つためにモーセは手を上げ続けたのです。私たちはサタンという敵に対して祈らずに勝てると思いますか?

Ⅲ.仕事の分担をする
A.イテロの助言のありがたさ
1.さて、少し先に進みます。イスラエルがシナイ山の近くに来た時、久しぶりにモーセは愛する家族と会いました(しばらくは単身赴任状態でした)。そこに、しゅうとのイテロがいました。彼はモーセとイスラエルの民の光景を見て、このままではモーセは燃え尽きてしまうと感じたのでモーセに助言しました。ここでも年寄りの大きな助けがあるのです。
2.それが、 18:21 あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たちを見つけ、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立てなさい。 というものでした。このアドバイスによってモーセは楽になったのです。と言っても大きな問題はモーセのところに来るので、決して楽になったとは言えないでしょう。けれども以前に比べると段違いです。問題処理班がいくつもできたのですから。

B.教会の仕事分担
1.教会もこのイテロの助言に従って色々な形でグループ分けをして、それぞれにリーダーを置いています。教会はこのように支え合う仲間で形成されるのです。
2.このリーダーに要求されるのは 神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たち とあります。新約聖書からも見てみましょう。12使徒が忙しくなったときに執事7人を選びました。 使徒6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。 です。また、パウロがテモテに「監督・執事」のために求めたのは、Ⅰテモテ3:2-12にあります。
3.パウロがテトスに宛てた手紙では テトス1:7 監督は神の家を管理する者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、乱暴でなく、不正な利を求めず、1:8 むしろ、人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、1:9 教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。 とあります。

★ 祈りを励まし合い、祈り合う教会でなければ、神の教会ではありません。教会を立て上げる諸グループが、助け合い、励まし合い、祈り合い、祈りの手を支えるのです。
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岩から噴き出す水

2022-05-07 06:09:09 | 礼拝説教
2022/5/8 礼拝説教
【テーマ】  いのちの水を求めよ
【説教題】 「岩から噴き出す水」
【聖書箇所】 出エジプト17:1-7
17:1 イスラエルの全会衆は、【主】の命によりシンの荒野を旅立ち、旅を続けてレフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲み水がなかった。
17:2 民はモーセと争い、「われわれに飲む水を与えよ」と言った。モーセは彼らに「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ【主】を試みるのか」と言った。
17:3 民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」
17:4 そこで、モーセは【主】に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」
17:5 【主】はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。
17:6 さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。
17:7 それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「【主】は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、【主】を試みたからである。

○ 「災害時に備蓄が必要な水の量は、大人1人あたり1日3リットル、3日分9リットルが目安とされています」と、ありました。これは飲み水としてです。水はとても大事だということは今さら言う間でもありません。前回、出エジプトしたイスラエルの民に食べ物が大事だということで、神がマナという不思議な食べ物を与えてくださったことを語りました。今日は「水」です。
 
Ⅰ.水を求める民
A.モーセに文句を言う人々
1.イスラエルの民はうずらとマナを体験したのですが、今度は水が無いと言って、モーセに詰め寄りました。モーセは 「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ【主】を試みるのか」 と言いました。うずらとマナをくださったのは神です。この方に水も求めれば良いのですが、人々はモーセに文句を言ってきたのです。
2.民は神を信じるべきだったのです。うずらとマナをくださった神が大事な水をくださらないわけはないのです。彼等はそれを信じる事ができなかったのです。この不信仰が人間の罪です。モーセに詰め寄るのでは無く、神に祈り求めるべきなのです。ところが、人というのは誰かに文句を言いたがるのかも知れません。神に求めるべきなのです。

B.本当に求めなければならないもの
1.人間は水無しでは生きていけません。それは誰もが知っている事実です。喉が渇くと必死で水を求めます。陸上部を指導している時、夏休み中の練習は過酷でした。すぐに喉が渇きます。休憩にするとみんなすごいスピードで水道のところに走ります。
2.体のために水は必要と知っていても、霊的な水に関して必要を感じる人は少ないのではないでしょうか。現代人は必死で情報・知識を得ようとします。もちろん知識は必要です。生きていく上で必要な知識、仕事をしていく上で必要な知識、自分の専門分野を生かしていく上で必要な知識、人生を豊かにするために必要な知識というものがあります。そして、永遠という霊的な世界に関して必要なものがあります。

Ⅱ.岩を打つと水が噴き出した
A.岩から水が吹き出る
1.水の無い荒野で200万人くらいのイスラエル人が飲む水の量はどれくらいだったのでしょうか? それこそ、枯れることの無い川や泉、井戸が必要です。それらのものが無い厳しい乾燥地帯で彼等は水を求めました。その求め方がモーセに文句を言って求めるというよろしくない求め方でした。その文句はさらに激しくなって、モーセを石で打ち殺そうとしているというのです。
2.そんなよろしくない求め方のイスラエルの民にさえ、神は水を与えると言われました。その方法が面白いのです。エジプトで奇跡を行うことに使われた杖を用いられたのです。その杖で「岩を打て」と言われたのです。モーセがそのようにすると、岩から水が湧き出して、大勢のイスラエルの民がみんな飲むことができたのです。

B.岩こそキリスト
1.普通、岩から水が出るでしょうか? 地面に杖を突き刺して水を湧き出させたという方があり得ると思うのですが、岩から出てきたのです。あり得ないところから最も大事な水を噴き出させてくださったのです。あり得ないところから必要なものが出てくるところが神の不思議です。
2.ユダヤ人にとってイエスという人間が神であるなんてあり得ない。このイエスを信じることで罪から解放されるなんてあり得ない話でした。しかし、神がこのイエスを打たれました(十字架です)。すると、全ての人を救う血が流れ、全世界の全ての人のところに流れていったのです。パウロは Ⅰコリント10:4 みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。 と、言っています。

Ⅲ.聖霊は岩の心から噴き出す
A.私たちの心は岩のよう
1.イエス・キリストの血が尊いのは当たり前ですが、この血が全世界の全ての人のために流されたのはなんとすばらしいことでしょうか。荒野の200万人ものイスラエル人全員が岩から吹き出た美味しい水を飲んで生き返ったように、私たちはイエス・キリストの血によって死から命に変えられました。
2.命をいただいた私たちの心は頑固な岩のように硬かったのではないでしょうか。神の前に心を開きたくてもなかなか頑固で開かない方もいます。そんな硬い心でもこの岩から水を噴き出させる奇跡を行うことができる杖があるみたいです。

B.その岩は破れ、聖霊があふれ出る
1.杖に力があったかというとそうではなく、モーセが神の言葉に従ったことにあるのです。岩から水を噴き出させるのは神の言葉、イエス・キリストなのです。イエス・キリストがあなたの硬い岩のような心に触れるといのちの水が吹き出ます。
2.モーセは人々から水を求められた時に神に叫びました。秘訣はここにあります。モーセにできるわけはないのです。民衆のようにモーセに文句を言ったところで解決しません。神に叫ぶのです。心の叫びは口のきけない人にだってできることです。心の奥底から叫んでください。
3.イエス・キリストを自分の神、罪からの救い主として心に迎えるなら、私たちがどんなに硬い岩のような心であっても、そこからいのちの水、聖霊は吹き出すのです。それはあなただけを潤すようなわずかな水ではなく、200万人を養い続けた水以上のものです。

● 有名な聖書の言葉 ヨハネ7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」 

★ イエス・キリストに触れられてください。あなたの頑固な岩の心にも奇跡が起こります。生ける水の川が流れ出ますから。

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日用の糧を今日も与えたまえ

2022-04-30 06:45:59 | 礼拝説教
2022/5/1 礼拝説教
【テーマ】  霊の糧を得よ
【説教題】 「日用の糧を今日も与えたまえ」
【聖書箇所】 出エジプト16章
16:11 【主】はモーセに告げられた。
16:12 「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、【主】であることを知る。』」
16:13 すると、その夕方、うずらが飛んで来て宿営をおおった。また、朝になると、宿営の周り一面に露が降りた。
16:14 その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。
16:15 イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは【主】があなたがたに食物として下さったパンだ。

16:21 彼らは朝ごとに、各自が食べる分量を集め、日が高くなると、それは溶けた。
16:22 六日目に、彼らは二倍のパンを、一人当たり二オメルずつを集めた。会衆の上に立つ者たちがみなモーセのところに来て、告げると、
16:23 モーセは彼らに言った。「【主】の語られたことはこうだ。『明日は全き休みの日、【主】の聖なる安息である。焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものはすべて取っておき、朝まで保存せよ。』」
16:24 モーセの命じたとおりに、彼らはそれを朝まで取っておいた。しかし、それは臭くもならず、そこにうじ虫もわかなかった。
16:25 モーセは言った。「今日は、それを食べなさい。今日は【主】の安息だから。今日は、それを野で見つけることはできない。
16:26 六日の間、それを集めなさい。しかし七日目の安息には、それはそこにはない。」

○ 皆さんは「主の祈り」を何も見ずに祈れますか? この「主の祈り」に「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という一文があります。「日用の糧」つまり、「日毎の糧」です。人間にとって食べることはとても大事です。命に関わることだからです。エジプトを脱出したイスラエル人は男だけで60万人ですから、全体では200万人くらいいたのでしょうか。それだけのイスラエル人が荒野で食べていくのは神の奇跡無しにはあり得なかったでしょう。 
Ⅰ.肉の糧
A.食べ物がない
1.エジプトを脱出し、紅海を不思議な方法で渡り、エジプトの兵隊に追われる心配も無くなったイスラエルの民はその自由を喜び、契約の地にすぐにでも戻れ、最高の生活に入れると思っていたでしょう。しかし、約束の地にすぐに入ったわけではありません。
2.荒野を旅しながら約束の地を目指しますが、なかなか到着しません。奴隷だった時は自由を奪われていたものの、食べることはできました。荒野の彼等は食べ物に困りだしました。

B.神に文句を言う
1.食べる物がないということは人の心を荒立てます。人々は救い出してくれたモーセに文句を言いだしたのです。 16:3 イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは【主】の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」 と。
2.私たちも私たちを救ってくださったイエスに文句を言うことはないでしょうか? 救われた時は嬉しかったのに、色々問題が起こったりすると、神に「なぜですか?」と文句を言うことが私にはありました。

Ⅱ.マナ
A.「これ何だろう?」
1.神は食べ物のことも心配してくださるお方です。荒野のイスラエル人に肉とパンを用意してくださるのです。肉はうずら、パンはマナです。うずらは彼等の宿営に飛んできました。マナは毎朝 荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった という不思議な食べ物でした。
2.この不思議な食べ物・マナは、人々も 「これは何だろう」 と言った知らない食べ物でした。その不思議さは、毎朝各自が食べる分を集めることができたのですが、昼になると溶けてしまいました。多く集めて翌日まで残しておくと腐ってしまいました。しかし、不思議なのは安息日の前日には二倍を集めることができたのです。しかも、それは翌日(安息日)まで保存していても腐らなかったのです。
3.神が「安息日には集めに行ってはならない」と言われたわけですが、中には安息日にも集めに行った者がいたそうです。しかし、マナはありませんでした。安息日を守らせるためです。

B.マナの降らない日
1.このしばらく後で神は十戒を与えられますが、その十戒の第4戒に 20:8-11 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。 六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。 七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。 それは【主】が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。 とあります。
2.神は安息日を守ることの大切さを教えておられるわけで、その日に食べ物のために働かなくてもよいようにきちんと備えていてくださるのです。

Ⅲ.霊の糧
A.御言葉は霊のマナ
1.私たちはお腹がすくと「食べたい」と食欲が湧きます。それは神が人間をそのように造ってくださっているからで、食べて元気になります。食べないと最終的には「死」です。
2.この肉体の糧が大事であるのと同じく、神は私たちには霊の糧が大事だと教えておられます。それは言う間でも無く、「神の言葉」です。イエス・キリストです。食べ物が肉体を形成するように、霊の糧「御言葉」は私たちの心・魂を形成します。
3.肉体の糧を毎日食するように、霊の糧も毎日食すべきです。そして、霊的に飢え渇くという経験をされたことがありますか? 世の何をもってしても魂が満たされない、もちろん食べ物も霊を満たしてくれないわけです。そういう霊の飢え渇きです。それは御言葉でしか私たちを満たさないのです。それもただ、教科書を学ぶような感じでの御言葉ではなく、まさに御言葉が直に自分に語りかけてくる神の言葉、今自分とともいてくださるイエス・キリストとして味わうことです。

B.礼拝は大事
1.神はイスラエルにマナを与えられたように、私たちにも霊的なマナを与えてくださいました。それは私たちが毎日いただいている御言葉です。
2.現代の安息日が日曜日かどうかは別として、イスラエルが安息日の前日にマナを2日分貯えることができたのは、安息日・神を礼拝する日を守るためでした。私たちもこの日を大切にする必要があります。この日は用意されたマナがあるということです。

● 昨晩の晩ご飯のおかずがどんなだったか思い出せないことがあるように御言葉も思い出せないかも知れません。しかし、食事したことを忘れてもその食べた物は私たちの体の栄養となっています。同じく、覚えていなかったとしても御言葉は私たちの霊的な力になっています。もちろん食べなければなりません。

★ 神は私たちを生かすため、エネルギーを与えるために霊的なマナをくださいました。御言葉はとても大事です。しっかり食べましょう。

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