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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

子どもたちよ、父たちよ

2021-06-26 07:09:49 | 礼拝説教
2021/6/27 礼拝説教
【テーマ】  クリスチャンの生き方
【説教題】 「子どもたちよ、父たちよ」
【聖書箇所】 エペソ6:1-4
6:1 子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。
6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。
6:3 「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。
6:4 父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。

○ 先週は父の日。昔は恐いものとして「地震、雷、火事、親父」と言われて父親は恐い存在だったみたいです。つまり子どもは父親に一目置いていたのです。今はどうなのでしょうか?
  今日のテキストには、父の子どもに対する接し方が書いてあります。しかし、その前に、 子どもたちよ と、子どものあり方が書かれています。パウロは5章で夫婦のことをキリストと教会の関係にまで深めて語り、この6章では子どもと親の関係、奴隷と主人の関係を語り、クリスチャンとしてどのように生きるべきかを語っています。
 
Ⅰ.子どもにとって大事な戒め
A.子どもにも「従いなさい」と言われる
1.夫婦に子どもができた場合、新たな命をもった家庭を持つことになります。夫婦だけではなく、幼い命を持つことは決して楽なことではありません。人間は動物と違って本能的な発達の他に教育による発達をみるものです。
2.前に出てきた、 妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。 とありましたが、子どもに対しても 従いなさい とあります。それが家庭の秩序として正しいからです。しかし、そこにはやはり 主にあって だということを忘れてはなりません。やみくもに従うわけではないのです。父親が神に従っているという大前提があります。

B.「あなたの父と母を敬え」
1. 6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。 と 第一の戒め と書いてありますが、これはどこにある戒めかというとあの有名な十戒です。しかし、順番から言うとこれは第五戒です。ある学者はこの「第一」は「重要」という意味で使っていると言います。また、十戒(一戒~四戒が神に対する戒め、五戒~十戒が人に対する戒め)の後半の第一戒と考える人もあります。また、 出エジプト20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、【主】が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。 と、後半に神の約束が付いているので、その第一の戒めと考える人もいます。
2.父と母が神に従っているので、子どももまた神に従うべきだということを教えていますが、子どもは目に見えない神に従うにはまず見える父・母から神に従う姿を見て覚えていくのです。アルバート・シュバイツァーは、「お母さんと一緒に小さいときに教会に行った。牧師の説教はなんにも分からなかった。けれども、お母さんと一緒に教会の座席に座っていると、本当に神様がそこにおいでになる。畏るべき者を畏れていかなければいけないということを、小さいときに教えられて、それを身に着けた」と言いました。

Ⅱ.イサクとイエスの従順に学ぶ
A.イサクは父アブラハムに従った
1.父アブラハムの言うことに従うイサクの物語は有名です。 創世記22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」 という神の言葉にアブラハムは従います。そして祭壇の上にイサクを載せます。
2.この話はその後、神がアブラハムの信仰を見て、イサクを解放し、身代わりの雄羊を用意されていますから、私たちもホッとして読めるところです。が、アブラハムは神に従い、イサクはアブラハムに従ったというこの図式はすごい話です。

B.イエスは神と両親に従った
1.イサクはイエスのひな型と言われるように、イエスは天の父なる神に徹底して従われました。イエスの場合は身代わりの雄羊はありません。イエスがあのイサクの時の雄羊の役目を果たしているからです。イエスは父なる神に徹底的に従われました。
2.また、地上の両親であるヨセフとマリアにも従われました。大工の子として父ヨセフと共に働き、母マリヤに対しては十字架の上からもヨハネに託すなど愛の気遣いをしておられました。

Ⅲ.子どもたちを活かすように!
A.子どもたちを怒らせるな
1.親が子どもを虐待するというこの時代。子どもを所有物、自分のストレスのはけ口のようにしか思わなかったりしていることがあります。もちろん、親の側にある過剰ストレスが原因なのかも知れませんが、虐待を受ける子どもにとっては大変なことです。 6:4 父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。 とあります。
2.今日のテキストと同じ事をパウロはコロサイ書にも書いています。そこでは コロサイ3:21 父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。 ここでは 苛立たせてはいけません と、書いています。子どもたちの心が落ち着かないようではいけないということです。いかに家庭が子どもたちにとって安心できる場所であることが大事かということです。

B.父親と大人への戒め
1.もう一度コロサイ3:21を見ると 父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。 の続きにこう書いてます。 その子たちが意欲を失わないようにするためです。 ベルゲンという聖書学者は「若者の致命的な病弊は『落胆』であり、ひっきりなしの批判と叱る言葉と厳格すぎる訓練から生じる『失望』である」(「福音の豊かさ」油井義昭著 p154) と言っています。子どもを落胆させるのは大人です。意欲を失わせるのも大人です。
2.父親のすべき事、教会の大人達のすべき事は むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。 なのです。子どもたちがビジョンも持つ、意欲に満ちた生き方をするためには、父親・大人が生き生きとビジョンに燃えて生きていることでしょう。その姿を子どもたちが見続けるなら、意欲が湧き、ビジョンに燃え、自ずと子どもたちも父親に従い、神に従うものでしょう。

★ 子どもたちは主にあって両親に従うべきです。父親たちは子どもの意欲を失わせないで、主の教育と訓戒によって育てるのです。教会はどうすべきでしょうか?


互いに愛し合いなさい

2021-06-12 06:58:27 | 礼拝説教
2021/6/13 礼拝説教
【テーマ】  クリスチャンの生き方
【説教題】 「互いに愛し合いなさい」
【聖書箇所】 エペソ5:28-33
5:28 同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。
5:29 いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。
5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。
5:31 「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。
5:33 それはそれとして、 あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。 妻もまた、自分の夫を敬いなさい。

○ 4月25日に「妻たちよ、夫たちよ」で語った続きですが、間が開きました。もう一度思い起こしてみてください。妻に「夫に従いなさい」、夫には「妻を愛しなさい」と違うことを言われているわけでは無く、共に「互いに愛し合いなさい」と言われているのです。しかも、パウロはこの夫婦の関係というのが キリストと教会を指して いるというのです。こういうところが神のご計画のすごいところです。
 
Ⅰ.自分自身を愛するように
A.一体の愛
1.今日のテキストは 5:28 同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。 と始まりましたが、その前を見ないとはっきりしませんので、もう一度この前を見てみましょう。 5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、5:27 ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。 と、キリストと教会の事が書かれています。
2.キリストと教会の関係は夫婦の関係にたとえられる、反対に夫婦の関係はキリストと教会の関係にたとえられるのです。キリストと教会は一体であり、互いになくてはならない存在です。夫婦も一体であり、互いになくてはならない存在です。
3.キリストが教会を愛されているように 同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。 ということなのです。 そして、キリストはご自身を憎まれたことはありません。それは私たちも同様で 5:29 いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。 ということです。キリストはご自身を愛されるように、ご自身の体である教会を愛されています。

B.アダムとエバ、キリストと教会
1.アダムとエバの関係は最初の夫婦として、夫婦とは何かが教えられ、またそこからキリストと教会の関係が教えられています。最初にアダムが創られ、エバはそのアダムのあばら骨から創られました。 創世記2:21 神である【主】は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。2:23 人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」 と、正に 私の骨からの骨、私の肉からの肉 と、エバはアダムの体なのです。一体なので、自分も妻も同じ愛で愛しているのです。
2.キリストはご自分の体が十字架で裂かれ、深い眠りに入れられ(黄泉に下り)、その手の傷、脇の傷から教会が生み出されたと言えるでしょう。教会はキリストの体です。

Ⅱ.助け手
A.パートナーとしての助け手
1.キリストが教会を愛しておられるのは、私たちがかわいいペットを愛するような感覚ではありません。ペットを愛するのも立派な愛だと思いますが、 創世記2:20 人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた。しかし、アダムには、ふさわしい助け手が見つからなかった。 とあるように、人には動物・ペットはふさわしい助け手ではないのです。人間は動物から進化してできた存在では無いのです。
2.「助け手」という時、「ヘルパー」と訳されて、女性蔑視だと言う方がありますが、仮にご老人のところに来られるヘルパーさんを考えても、確かにご主人はそのご老人ですが、ヘルパーさんの助け無しには生活が成り立たないのです。ヘルパーさんは人間的に下であるはずがありません。また、世界の名峰を目指す登山家にとって、ヘルパー(ポーター)さんの助けが必要です。彼らは道をよく知っており、重い荷物を運んでくださいます。しかし、有名になるのは登山家です。こうした助け手が人間的に下になるとは思えません。
3.アダムにとって「助け手」としてアダムの体からつくられたエバは最高のパートナーなのです。しかも何人もの中から撰ぶこともできない、たった一人その人だけしかないのですが、最高のパートナーなのです。

B.キリストのパートナー・教会
1.キリストが教会を愛されているのは 私たちはキリストのからだの部分だからです にあるようにご自身の肉、骨だからです。 Ⅰコリ 15:45 「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。Ⅰコリ 15:47 第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。 という言葉があります。
2.神が第一の人アダムからエバを創られたように、第二の人キリストから教会を創られました。この関係はパートナーです。そして妻が夫に従うように、教会はキリストに従うのです。しかし、それは愛によって従うという関係です。

Ⅲ.互いに愛し合いなさい
A.一体としての夫婦
1. 5:31 「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」 5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。 と、結婚とキリストと教会の関係が言われています。アダムとエバ以降の人間は赤ちゃん時代を過ごします。親に育てられ、親と共にいる生活があります。しかし、成人して結婚するということは親を離れることです。
2.私たちがイエスを信じてクリスチャンになるというとき、自分でその信仰決断をします。親の信仰の陰に隠れているわけにはいきません。結婚相手を決めたら、夫婦の間に親を入れてはいけません。特にここでは 男は父と母を離れ とありますが、マザコンの問題がよく取り上げられるように、何でも母親に相談して決めるというのは問題ですね。

B.愛し合う夫婦
 5:33 それはそれとして、 あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。 妻もまた、自分の夫を敬いなさい。 と、パウロは再度夫婦のことに話を戻します。神の偉大な計画、救いの計画、教会の誕生、キリストと教会の関係という偉大な奥義を語りつつ、こういうすごい計画の中で夫婦という関係をつくられたのだから、夫婦もしっかりと愛し合いなさいというのです。

★ キリストが命をかけて愛されたのが教会です。私たち一人一人が神に愛されていて、同時に教会全体がキリストの体として愛されています。この絶大な愛を受けたのですから、私たちも互いに愛し合うべきなのです。


イエスの手はあなたのそばにある

2021-06-05 07:07:04 | 礼拝説教
「あれは幽霊だ」 と叫んだのです。今では子どもでも「幽霊なんていないよ」と言うでしょう。

C.恐れた
1.「幽霊だ」と叫んだ弟子達は珍しいものを見たと言って喜んだでしょうか? 当然恐れたのです。大学時代、先輩が「恐い話をしてやる」と言って体験談を語ってくれました。バイトを終えて夜下宿に帰り、疲れていたのでそのまま寝てしまったそうです。夜中に何か風が吹いてくるので目が覚めて、ふと向こうにある椅子を見ると誰かが座っていてこちらを見ているというのです。先輩は幽霊だと思って、恐くて恐くて布団をかぶって寝ようとするのですが、眠れないのです。遂に朝になり、そっとそっちを見るとまだいるではありませんか。ところが、朝日に照らされた椅子の上には自分の来ていたバイク用ジャンパーがあっただけだそうです。どこが恐い話なのでしょう。
2.弟子達も「幽霊だ」と思ったから恐がったのですが、実際にはイエスだったのです。恐がるどころか喜ぶべきお方です。人生で勘違いしてイエスを幽霊と思ったりして恐がっていると喜びの人生を逃してしまいます。恐れは人に真実を見えなくさせるのかも知れないですね。

Ⅱ.歩かせてください
A.強気になった
1.湖を歩いてきたのがイエスだとわかると、一気に元気づいたペテロは 「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」 と言いました。いつものようにイエスがそばにいるので、安心感が出てきたのでしょう。そして、イエスなら自分も歩かせてもらえると信じたのです。
2.実際、彼は歩けたようです。何歩歩いたのかわかりませんが、 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った とあります。イエスの言葉に従うとこんな事までできるのですね。

B.沈む
1.せっかく歩けたのですが、しばらくすると 強風を見て怖くなり、沈みかけた とあります。今度は幽霊ではなく、現実の強風を見たのです。それで恐れが湧いてしまいました。私たちも強気で歩き出したのに、何か恐ろしいものを見て人生が沈みかけることがあるものです。
2. 見て とありますが、私たちの目は「百聞は一見にしかず」というほどに見ることは私たちに信じさせる力をもちますし、見て安心します。反面、見間違えることもあれば、見えるがために力を失うこともあるのです。
3.盲目の牧師だったY先生は真っ暗な部屋の中をスタスタ歩かれました。私は電気をつけないととても恐くて歩けなかったのですが。なまじ見えるということは怖さを生むものです。

Ⅲ.助けてください
A.「主よ、助けてください」
1.沈み始めたペテロは 「主よ、助けてください」と叫んだ のです。これは正解です。そばに弟子達はいません。少し離れたところで「あっ、ペテロが溺れるぞ」とか言うくらいしかできないのです。
2.湖の上を歩けるのはイエスです。私たちの人生に危機が迫っても、イエスに危機はありません。助けてくださるのはイエスです。実際イエスは私たちを助けてくださいます。ペテロのように 「主よ、助けてください」 と叫んでよいのではないですか。

B.私たちの声は聞かれている
1.助けていただけないという体験をする人も多いと思います。それはなぜでしょうか? 正直なところわかりません。聖書にも弟子の中で迫害の中、天使によって助けられた人がいるかと思えば、殺されてしまった人もいます。
2.「なぜ?」と言うのは確かに私たちの大きな疑問になりますが、私たちの考えを超えた神のお考えがあるということです。ただ間違いないのは神は私たちを愛してくださっているということです。そして、「助けてください」というその私たちの声を無視してはいないということです。イエスに「助けてください」と言って良いのです。

★ イエスはあなたの 「主よ、助けてください」 の声を聞いてくださっています。あなたの思うような助けかどうかは別として、いつでもあなたの手をつかもうとイエスはそばにおられます。助けてもらえば良いのです。イエスにつかまれてください。また、あなたもイエスの手をつかんでください。
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