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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

「従う」と「従い通す」

2021-02-20 17:33:14 | 礼拝説教
 2021/2/21 礼拝説教 (Y師)
【テーマ】 「従う」と「従い通す」
【説教題】 「カレブの信仰」
【聖書箇所】 ヨシュア14:6-14
14:6 ユダ族の人々がギルガルのヨシュアのところにやって来た。その一人ケナズ人エフンネの子カレブがヨシュアに言った。「【主】がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて神の人モーセに話されたことを、あなたはよくご存じのはずです。
14:7 【主】のしもべモーセがこの地を偵察させるために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。私は自分の心にあるとおりを彼に報告しました。
14:8 私とともに上って行った私の兄弟たちは民の心をくじきました。しかし私は、私の神、【主】に従い通しました。
14:9 その日、モーセは誓いました。『あなたの足が踏む地は必ず、永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが私の神、【主】に従い通したからである。』
14:10 ご覧ください。イスラエルが荒野を歩んでいたときに、【主】がこのことばをモーセに語って以来四十五年、【主】は語られたとおりに私を生かしてくださいました。ご覧ください。今日、私は八十五歳です。
14:11 モーセが私を遣わした日と同様に、今も私は壮健です。私の今の力はあの時の力と変わらず、戦争にも日常の出入りにも耐えうるものです。
14:12 今、【主】があの日に語られたこの山地を、私に与えてください。そこにアナク人がいて城壁のある大きな町々があることは、あの日あなたも聞いていることです。しかし【主】が私とともにいてくだされば、【主】が約束されたように、私は彼らを追い払うことができます。」
14:13 ヨシュアはエフンネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。
14:14 このようにして、ヘブロンはケナズ人エフンネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。彼がイスラエルの神、【主】に従い通したからである。

1.12人の偵察隊
A.偵察隊の派遣
イスラエルの民がエジプトを出て2年以上が経った時、彼らはカデシュ・バルネアに宿営した。約束の地カナンまではもうすぐだった。そこでモーセは神に命じられた通り、12部族の族長12人を視察団として選び、カナンの地を偵察させる。
B.偵察隊の報告―10対2(多数派 対 少数派)
12人は、40日かけてカナンを偵察して戻ってきた。そして、カナンは作物が豊かに育つ良い土地で、神が乳と蜜が流れる土地(自然の資源が豊かな土地―約束の地に対する伝統的な表現)と言われたのは本当だと報告した。だが偵察隊のうち10人によれば、町々は城壁を持ち、その地に住む民は力強く、体も大きい。その上数も多いので、征服は難しいと悲観的な報告をする。が、ヨシュアとカレブは肯定的だった。とりわけカレブは「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」(民数記13:30)と言った。そして二人は「もし【主】が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。」(民14:8)と述べ、少数派ではあったが、勇気をもってその主張を貫いた。
C.イスラエルの民の不信仰
悲観的な10人の意見は200万人の民の心を大きく動かしてしまった。彼らはみな落胆し、恐れを抱いて、ひと晩中大声で泣き叫んだ。そしてモーセとアロンに対して文句を言い始めた。こうした民の不信仰を見て、神は荒野を40年さ迷うようにされたのだった。ヨシュアとカレブを除く20歳以上のものはカナンの地に入る前に死ぬことになった。

2.荒野の40年
A.私たちへの戒め
聖書は40年間の放浪生活についてほとんど語っていない。だが、この期間、イスラエルの民は主に逆らい通しであった。実は、この荒野の40年には神の目的があった。「あなたの神、【主】がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」(申命記8:2)「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、【主】があなたを訓練されることを知らなければならない。」(申8:5)そして、荒野での出来事は、現代に生きる私たちへの戒めでもある。「しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。 これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。」(Ⅰコリント10:5、6)
B.カレブの忍耐
カレブは、イスラエルの民の不信仰のために荒野で放浪することになった。荒野の40年はカレブにとっても、神の約束を信じる忍耐を学ぶ期間であった。神が語られたことは必ず成就すると、彼は忍耐をもって信じ続けた。
C.神の恵み
苦しい荒野の40年ではあったが、主が共におられたので、人々は何一つ不足しなかった。「事実、あなたの神、【主】はあなたのしたすべてのことを祝福し、この広大な荒野でのあなたの旅を見守っていたのだ。この四十年の間、あなたの
神、【主】はあなたとともにいて、あなたには何一つ欠けたものがなかった。」(申2:7)
そして、着物はすり切れず、足が腫れることもなかった。

3.カレブの信仰―「従う」と「従い通す」
ヨシュア14:11 「モーセが私を遣わした日と同様に、今も私は壮健です。私の今の力はあの時の力と変わらず、戦争にも日常の出入りにも耐えうるものです。」ここの「日常の出入り」とは何か。それは、日常のすべての務めを意味している。「日常の出入りにも耐えうる」とは、戦いのみならず、日常のすべての責任ある務めと与えられた使命を十分に果たすことができるほどに壮健だという意味なのである。
今回のヨシュア記には何度も「従い通した」という言葉が出てくる。ただ、漠然と「従う」のではなく、「従い通す」とは、神に絶大の信頼を抱き、強い意志を持って従い「続けた」という信仰を表しているのではないだろうか。カレブはいつどんな時でも、その時点において「私は神に従い通しました」と告白できる信仰を持っていた。
私たちは、年をとってもカレブのように、体を動かして奉仕をしなくてはならないと言っているのではなく、いつでも「従い通した」と言える信仰を持ちたいものである。

(結び)
私たちは苦難にぶつかるとき、「神を信じているのに何でこんな目に遭うのだろう?」とか「神などいるのか?」と度々不信仰に陥ってしまう。しかし、カレブのようにたとえ老年になっても、「私はあなたに従い通しました」と、いつでも告白できる信仰者となろうではないか。


あなたは光の子ども

2021-02-13 17:54:37 | 礼拝説教
2021/2/14 礼拝説教
【テーマ】  クリスチャンの生き方
【説教題】 「あなたは光の子ども」
【聖書箇所】 エペソ5:5-8
5:5 このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。
5:6 だれにも空しいことばでだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子らに下るのです。
5:7 ですから、彼らの仲間になってはいけません。
5:8 あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。

○ 今日はバレンタインデーです。チョコレートを渡すことで躍起になっている子ども達がいます。恋をするというのは美しいのですが、そこには落とし穴もたくさんあります。現代はネットで相手を探し、交際に入ることも普通になってきました。それ自体が悪いわけではありませんが、結婚詐欺や性的な犯罪がそこに潜んでいることも多々あります。パウロの時代も性的な問題がたくさんあり、そのような中で生活してきた人がクリスチャンになってどうあるべきかを語っています。
 
Ⅰ.偶像礼拝の罪とは
A.形のあるものを拝む人
1.偶像礼拝というと何か「像」を拝むような姿を思い浮かべるかと思います。事実、そうする人が多いのでしょう。仏像、大仏、お地蔵さんを排する気持ちで手を合わせる行為は偶像礼拝でしょう。また、そういう人間のような姿のものではなく、動物、龍、大きな石、大木、太陽に手を合わせる行為も偶像礼拝でしょう。
2、十戒の最初を見てみましょう。 出エジプト記20:3 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。20:4 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。 とあります。
3.偶像の種類は色々考えられます。お金もそうです。お金に心が支配されるということです。依存症もそういう中に入ってくるでしょう。カリスマチックな人物も偶像になり得ます。それが異端や諸宗教を作り出しても来ました。しかし、その背後に姿を見せないで働いている悪魔こそ偶像の親方でしょう。

B.形の無いものを拝む人
1.しかし、聖書は単に偶像礼拝の対象がそのように目に見えるものだけではないことも教えています。偶像は英語でidol(アイドル)です。idolは辞書では、〔信仰の対象の〕神像、〔一神教で禁止される〕偶像、〔むやみにあがめられる〕崇拝の対象、アイドル、〔実態のない〕虚像、幻想 と書かれていました。確かに形のある像もありますが、虚像も偶像で、私たちの心が支配されてしまうもののようです。その人の心が虜になっている、その人の人生を支配しているようなものが偶像だと言います。
2.このパウロの時代、その周辺では性的な乱れがありました。当時のローマ帝国では性的な乱れが問題視されていなかったようです。神殿にも神殿娼婦がいて、売春が普通に行われていたのです。パウロはこうした性的乱れの虜になっているのは 偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません と厳しく指摘します。どんなに美しい神殿であっても、その背後にうごめく悪霊の働きが見えます。まさに悪魔礼拝だったのです。

Ⅱ.心の王座に光の王を迎える
A.神に従う者と従わない者
1.出エジプト記にある十戒の続きには 出エジプト記20:5 わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。 と、偶像礼拝する者、神に不従順な者には神の裁きが降ることが語られています。もちろん反対に神に従う者には祝福があります。
2.私たちの心をお造りになった方は神です。そして、私たちの心には王座があり、その王座に座っていただく方に従おうとするのです。その王座に神以外のものを座らせる時それが偶像となります。神に従順であれば、当然私たちは神のおられるところに行くわけですが、不従順であれば偶像の親方の元に行くことになります。

B.暗闇から光に
1.私たちも元はといえば暗闇に属していた者です。 あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。 と言うパウロの言葉に「アーメン」と言いますか? 光の世界・神の世界を知らなかった者で、世の悪しき習慣に流されたり、自分の価値観で生きていたりした闇でした。つまり、悪魔の支配下にいたのです。
2.そのような者が 今は、主にあって光となりました。 と言えるのです。自分で「光」になったのではありません。 主にあって です。人を闇から光に変えることができるのは「主」だけです。イエスはこう言われました。 ヨハネ8:12 「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」 イエスに従う者が「光」です。
3.そして、イエスは マタイ5:14 あなたがたは世の光です と言ってくださいました。主に従うことを決めた時点で光なのです。決して「光になるように努力しなさい」と言われたのではありません。心の王座に光の王を迎えた者です。

Ⅲ.栄光の神と共に生きる
A.光の子どもとして歩みなさい
1.私たちは光となったわけですので、 光の子どもとして歩みなさい と言われるのです。かつての訳では 光の子どもらしく歩みなさい だったのですが、「らしく」より「として」の方がいいですね。「らしく」だと「クリスチャンらしく」と、「そのように振る舞いなさい」と形だけの感じがします。
2.光の子どもにされたとは言え、私たちは弱い人間です。ですから、パウロも だれにも空しいことばでだまされてはいけません 彼らの仲間になってはいけません と言うのです。

B.栄光の神に従順に生きる
1.光の子どもは自らが光るのですが、その光の源は神にあります。パウロはコリント人への手紙第二でこう書いています。 【新共同訳】Ⅱコリント3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。 私たちは鏡のように神の栄光を映し出す光だと言うことです。神の方向に向いていないと光は映し出せません。神に従順でないと私たちは輝けないのです。
2.「私は光の子ども」という自覚を持つことは大事ではないでしょうか? 輝けないと真面目なクリスチャンは思ってしまいやすのですが、神の方を向いていることが大事なのです。

● 「悩む時間があるなら祈りなさい」この言葉は多くの牧師が語ってきた言葉です。私も悩みそうになると「祈れ」と言い聞かせます。悩んで解決するなら良いかもしれませんが、真の解決は神にあると私達は知っているのではないでしょうか? 私たちは光の子どもです。子どもなのですから、悩むなら親である神に聞きましょう。

★ あなたは光の子どもです。心の王座に光の王を迎えたのですから。闇と完全に決別して生きていきましょう。


口にすべきは感謝の言葉

2021-02-06 15:19:19 | 礼拝説教
2021/2/7 礼拝説教
【テーマ】  クリスチャンの生き方
【説教題】 「口にすべきは感謝の言葉」
【聖書箇所】 エペソ5:3-4
5:3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません。
5:4 また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。

○ 5章3節~14節を、ある先生は「教会の訓練」と名付けました。クリスチャンはどういう生活をすべきかということが書いてあり、1-2節に、その基本が書いてありました。そして続いて実際生活が書かれているわけです。ただ、この手紙は教会に宛てて書かれているのですから、クリスチャン個人としても大事ですが、教会全体として大事なことだと言えるのです。さて、今日はその最初3-4節の「口から出す言葉」について見てみましょう。
 
Ⅰ.コンプライアンスとハラスメント
A.コンプライアンス
1.昨今、「コンプライアンス」「ハラスメント」という言葉が大変よく使われるようになりました。「コンプライアンス」とは「命令・要求に従うこと」という意味で、日本では「法令遵守」、「企業が法律や企業倫理を遵守すること」という意味で使われることが多く、「ビジネスコンプライアンス」とも言われます。
2.要は法を守ることなのですが、よく顧客名簿を売り買いした社員の話や、企業のデータを持ち出したという話を聞きます。それによって社会を混乱させたり、その企業(会社)の信用を落としたりして経営に大打撃を与えたりしました。こうしたことを取り締まり、法を守るようにするのがコンプライアンスです。
3.企業によってはそのために「コンプライアンス室」などが設けられたりして研修会を開いたりして社員に法を守ることを指導しているところが増えました。「正しいことを行いましょう」ということなのです。

B.ハラスメント
1.「コンプライアンス」によくくっついて出てくる用語に「ハラスメント」があります。これはかなり一般化していますので、馴染みがあるかと思いますし、私たちの周りでも「セクハラ」だとか「パワハラ」「モラハラ」といった言葉が出回っています。
2.ハラスメントをこのように説明しています「ハラスメントとは、相手の意に反する行為によって不快な感情を抱かせることであり、『嫌がらせ』を指します。ここで重要なのは『行為者がどう思っているのかは関係なく、相手が不快な感情を抱けばハラスメントになる』ということ」と。
3.子ども達の間でのいじめは完璧に「ハラスメント」です。酷いものになればそれは犯罪です。企業の中では上司からの行き過ぎた命令、言葉遣いで部下が精神的に病んでしまったというケース、あるいは過剰労働を強いられて自殺したケースもありますので、ハラスメントの問題は決して小さくはありません。

Ⅱ.性的な乱れを捨てる
A.乱れたローマ帝国
1.パウロの時代にはコンプライアンスという言葉もハラスメントという言葉も無かった時代かも知れませんが、今日のテキストからは「セクハラ」「モラハラ」のようなものが見て取れます。 淫らな行いも、どんな汚れも、また貪り とありますが、いつの時代も性的な問題は消えることがありません。
2.パウロの時代にも彼の伝道していたローマ帝国の至る所で性的な乱れがありました。そして、そういう状況に慣れ親しんだままクリスチャンになると、その名残が教会の中にもあったのでしょう。ここでパウロが言っている 淫らな行いも、どんな汚れも、また貪り わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談 というのはそうした性的に乱れた行為や言葉です。
3.性の正しさは夫婦にだけ与えられたとても重要なものです。配偶者以外との性的関係は全て悪であり、不道徳です。しかし、当時のローマ帝国は乱れていました。政治家であり哲学者でもあったキケロは「ローマ人が売春婦と交渉を持つことを禁じるのは不自然である」とさえ言っています。

B.誘惑との戦い
1.こうした世の状況の中にあって、パウロは あなたがたの間では、聖徒にふさわしく と、言うのです。聖徒というのはもちろんクリスチャン全員のことで、クリスチャンは世から召し出された人ですから これらは、ふさわしくありません と言うのです。また、この言葉は「馴染まない」とも訳されます。私たちにはこのようなことは馴染まないのです。
2.私が牧師に成り立ての頃、◎◎教区のジュニアキャンプに何度も呼んでいただきました。そのテーマに「男女交際」というのがありました。どこの教区、教会でも若い世代の男女問題はなかなか難しいですが、このことを扱うのは必要とされています。青年の結婚講座もこうした 聖徒にふさわし い交際・夫婦・家庭があるので、ぜひ学んで欲しいです。

Ⅲ.感謝の対象は神
A.「感謝」という言葉の持つ力
1.さて、私たちにはどのような言葉が「馴染む」のでしょうか? それが むしろ、口にすべきは感謝のことばです と、「感謝の言葉」です。パウロはⅠテサロニケ5:18で すべてのことにおいて感謝しなさい。 と、有名な言葉を残しています。しかし、多くの人が「感謝できないこともあるのに」と悩まされた言葉でもあります。
2.「感謝しなさい」という教えは何もキリスト教に限ったことでは無いようです。かつて散歩しておりましたら、お寺さんの入り口の掲示板にもそのようなことが毛筆で書かれていました。現代の脳科学・医学では感謝したり、笑ったりすると体を良くするホルモンが出て病気を治すことに繋がるとも言われています。
3.それがためにとにかく「感謝。感謝」と言うことが大事に思われがちです。実際のところ、言葉を発することで人の考えにも影響を与えますから、それも大事なことです。

B.神「を」感謝する
1.ですが、私たちはただ口から「感謝」と言っていればよいのでは無く、その感謝の対象を捉えていきたいのです。悪魔によって金儲けが出来た場合、それに「感謝」と言うのは、対象が悪魔になってしまうということです。
2.自分にとって良いことがあったので「神様、感謝します」と言うのは、良い事をしてくださったから神に感謝するということで、自分にとって良くないことがあれば「神様、感謝できません」となるのではないでしょうか?
3.私たちの感謝の対象は神です。「感謝できないことにも感謝するのですか?」という質問は今までに何度となく受けてきました。その度に、「そうです」と答えてきましたが、それは自分に対して起こったことが感情的に感謝しにくいことであっても、そこにも神は共におられるということを私たちは知っているからです。ですから、現実は厳しくてもその厳しい現実の中に、私と共に神がおられる、私の内には聖霊がおられるのだから「感謝」なのです。私たちの感謝の対象は神です。「神に感謝する」と言うより、「神を感謝する」という言い方が良いのではないでしょうか。

★ 「感謝の言葉」を口にするのはとても良いことです。しかも、神様そのお方を感謝することです。