バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

罪が多いと恵みは多いのか?

2014-03-30 21:14:56 | 礼拝説教

  2014/3/30礼拝説教
【テーマ】  キリストに留まる
【説教題】 「罪が多いと恵みは多いのか?」
【聖書箇所】 ローマ6:1-5
6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
6:2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

○ 「イエス様を信じればどんな罪人でも赦されるのだから、それまでは好き放題にして、死ぬ直前にイエス様を信じればいい」と言う人がいますが、死ぬ時がわかっているのでしょうか? それと信仰生活ってそんなに魅力が無いと思っているのでしょうか?

Ⅰ.屁理屈に聞こえる話
  A.意図的に罪を犯してはならない
    1.恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。 というこの言葉は、中学生あたりが言いそうな屁理屈です。「罪が多くなれば恵みも多くなるというなら、たくさん罪を犯したほうが恵みも多くなるはず」、「神様が赦したいなら、神様にもっと赦させてやればいい。私たちは好きなだけ罪を犯せばいい。神様は赦したいのだから」という、まさに屁理屈です。
    2.聖書は、律法ができたことで罪が明確になり、罪も現実に増えたと言っています。ただ、そうした罪をイエス様によって赦された人は感謝が湧いてくるものです。決して意図的に罪を犯すことを教えてはいません。
   
  B.理屈を超える世界がある
    1.中学生あたりはよく屁理屈をこね、大人に反抗的な態度を取ります。そこで、大人の方も「そんな屁理屈を言うな!」と頭ごなしに叱ると反抗期の子どもというのは離れていくものです。
    2.そういう思春期の子どもの屁理屈にまともに付き合えとはいいませんが、パウロは自分で言い出した屁理屈とも思える話に真摯に向き合っているのです。信仰、神様という世界は理屈でよくわからないことが多いものです。かと言ってなんでも理屈無しで話をしますと理屈っぽい男は「だから宗教は嫌なんだ」と言うでしょう。
    3.パウロは確かに屁理屈なんだけれども、そこに何かしら真実があることを教え、さらにもっと大事な事を教えようとしています。つまり、罪を犯さない方が良いのですが、確かに罪が多い方が恵みもよくわかるものなのです。

Ⅱ.罪の中を生きるのは楽じゃない
  A.早くクリスチャンになった方が良い
    1.神学校に入った時、救いの証をみんながしました。クリスチャンホームでほとんど順調に育った人は、クリスチャンホームで無かった人の証を聞いて「劇的な回心があって羨ましい」と言うのです。「自分は赤ちゃんの時から神様を信じていて、いつの間にかクリスチャンになって、洗礼も受けるのが当たり前だった」と真面目な学生が言うのです。そういう学生に対して、私は「オレはきみの方が羨ましい」と言ったのです。「もっと早くにイエス様を信じていればどんなに良かったかと思うよ」と。
    2.罪深く生きてきた方が恵みが多いわけではないのですが、劇的回心とかの話を聞くと、その方が恵みが多いと感じるのでしょう。やくざから牧師になった方の話を聞くと、多くの方が当然「すごい」と思うのです。だからと言って「みんな、神様の恵みが多くわかるように、やくざになりましょう」と言っているのではありません。ミッションバラバの先生方も、本当はそういう生活よりも、「もっと早くにイエス様を知っていれば良かった」と思われているのです。
   
  B.罪人だが罪には留まらない
    1.罪の中に留まれば、罪が増せば、恵みがどんどん増してくるという考えは屁理屈ではありますが、自分が罪人であるという認識が強くなれば、つまり「私はとんでもない罪人です」と感じる人は自ずと深い神様の恵みを感じるものなのです。
    2.最近、「発達障害」のことがよく話に出ます。大人の発達障害といいますか、大人になって自分が発達障害を持っていたと初めて知る人がいます。そう診断してもらうまで、生き辛さ、コミュニケーションの取り方がわからない苦しさがあるそうです。ところが自分が発達障害を持っていることがわかるとホッとする人が多いのです。自分の辛さが、障害のためだとわかって過剰に自分を責めずに済むからです。
    3.自分が罪人であるということを認めたくない人が多いでしょうが、認めた方が楽なのかも知れません。罪人だと認めた上で、罪に留まらない生き方を学ぶのです。
   
  C.罪から解放されたいはず
    1.皆さんは罪に留まる方が恵みが多いと思いますか? 罪に留まることの、一番簡単な方法は、神様を礼拝しないことです。それから、人を愛さないことです。さらに、人の悪口を言ったり、約束を守らなかったり、盗んだり、憎んだり、見下げたり、いじめたり、言い出したらキリが無いです。
    2.敢えて罪の中に留まらなくても、こういう嫌な多くの事をしてきたのではないですか。正しく生きようとしても悪いことをしているのでは無いでしょうか。私たちはそこから救われたのです。
    3.イエス様を信じると、恵みが欲しくて罪の中に留まろうとするのではなく、むしろ正しく生きたいという気持ちが起こってくるのです。

Ⅲ.キリストと共に生きることが恵み
  A.イエス様と共に死ぬ
    1.3節からバプテスマという言葉が何度も出てきます。バプテスマ(洗礼)は、私たちが儀式として行うものです。儀式は本来目に見えない霊的な出来事を見える形にして、確信を深める大事なものです。
    2.水の中に浸りきるのがバプテスマです。何を象徴しているのでしょうか? 私たちはイエス様の中に入りきるわけです。つまり、イエス様と一体となるのです。
    3.ですから、イエス様が十字架で死なれたということは、同時にイエス様と一体となっている私たちも一緒に死ぬということなのです。イエス様の死を自分の死として受け止めることができるのです。
   
  B.イエス様と共に復活する
    1.単に自分だけが死んだのなら、自分の罪のために一人で死ぬのですから神様の裁きの約束通り永遠の死(地獄)です。が、イエス様の死は、罪を解決するための死であり、さらにその死にさえも打ち勝つためのものでした。
    2.イエス様は復活されて死に打ち勝たれた時も、私たちはしっかり一体となっていますので、私たちもよみがえったわけです。つまり罪にも死にも勝利してくださったイエス様と共に復活するのです。
    3.こんなにも恵みをくださったのがイエス様です。そういう中で私たちはこのイエス様が悲しまれる「罪を犯し続けよう」と言うことができるでしょうか?


   
● 何という映画だったかもう覚えていませんが、ひっくり返った船の中を助けを求めてさ迷う中、どうしても水の中をしばらく潜って行かねばならない場面がありました。子どもには行けそうにありません。ところが、泳ぎの達者な男性がその子を抱えるようにして水の中を抜けていくのです。子どもも泳ぎましたが、その男性のお陰で無事向こう側に行けたのです。その子一人なら死でした。しかし、その子を抱えてくれる人がいたので助かったのです。

★ 私たちは一人ではありません。イエス様が共にいてくださるのです。罪を解決するために私たちの身代わりに死んでくださったのがイエス様です。このイエス様の恵みを思う時、罪を犯し続けたいと思うでしょうか。


誘惑と試練からの勝利!(岡山志伸師)

2014-03-16 17:41:41 | 礼拝説教

2014/3/16礼拝説教

■テーマ: 悪魔の試み
■説教題:誘惑と試練からの勝利!
■聖書箇所:マタイ4:1~11

4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

<はじめに>
 今日の私の語る聖書の箇所は、マタイの福音書の4章からです。前回は、バプテスマのヨハネの元に、主イエスがバプテスマを受けるために来られたというところでした。今回の箇所は、イエス様が、活動を開始される前の荒野における悪魔の誘惑の箇所です。

<Ⅰ悪魔の誘惑を受けた主>
 イエス様が悪魔の誘惑を受ける場面です。ヨハネからバプテスマを受けたイエス様は、荒野に退き、四十日の断食の祈りをされました。するとそこに、悪魔がやってイエスを試みました。イエスが悪魔からの誘惑を受けられたことを聞くとき、神の御子である方が、なぜ誘惑されなければならないか、という疑問が出てきます。イエス様が試みを受ける理由、その事がヘブル人への手紙に書かれています。(2:17)このように、イエス様は、忠実な大祭司としての使命がありました。人々の仲介役をする使命があったのです。私たちのために、私たち罪ある人間と同じように、ならなければならなかったというわけです。イエス様は、私たちの弱さを十分にご存知です。神である方は、体験しなくても分かるのに、私たちと同じように人間の弱さを体験されたのです。私たちのなだめのためと書かれています。

<Ⅱ 三つの誘惑>
さて、悪魔は、荒野においてイエス様を誘惑しましたが、三つの誘惑がここにはあります。
1.石をパンに変えよ!
次に4:3を読みますと、悪魔の最初の試みは、石をパンになるように命じる事でした。ある女優さんが、お芝居の稽古で、あんまりにもお腹が空いてしまい、思わず、目の前の石がお寿司に見えてドーンと迫ってきたという話しを聞いて笑ったことがあります。さて、イエスはみ言葉をもって抵抗されました。聖書からの引用です。(申命記8:3)石をパンに変えることは、私たちには誘惑になりません。私たちは石をパンに変えようがないからです。けれども、イエス様には出来ることでしたから、このような試みを受けたのです。奇跡をここで起こして、自分の空腹を満たしたらどうだというわけです。奇跡を行うこと自体は罪ではありません。しかし、イエス様がここで石をパンに変えなかったのは、それが神様の御心ではないからです。ここで教えられること、それは、悪魔に打ち勝つ最大の力、それは、神のみ言葉だということです。み言葉によって、私たちは救われます。また、教えられます。そして、このように敵である悪魔に打ち勝つことが出来るのです。また、ここを読むと、パンは必要ないという勘違いも出てきます。しかし、生きていくためにはパンも必要なのです。ここでは優先順位が大切であるということです。まず、神の一つ一つの言葉が霊的養いのために必要であり、次にパンなど衣食住の生活のいろいろな必要は、神様を第一としていくときに与えられてくるというわけです。

2.身を投げてみよ! 
(4:5~7)次に悪魔が誘惑したことは、悪魔は、一度誘惑するだけでは済みませんでした。同じようにわたしたちも一度の悪魔からの誘惑に打ち勝っても、次にまた敵は誘惑してくるのです。そして、イエス様を試しています。「ここから身を投じてみよ!御使いが支えてくれるから」というわけですが、イエス様しか語られないような内容です。「神を試せ!」イエス様の神への従順さを試しているのです。神の御子である方への誘惑の言葉と言えますが、これも私たちには語られないような言葉です。つまり、悪魔はそれぞれに合わせた言葉で誘惑してくるということです。悪魔は一人一人の誘惑の弱点を知っているということです。また、先にイエス様がみ言葉で立ち向かいましたが、今度は、悪魔もみ言葉を使ってきています。ここで気をつけなければならないことは、聖書の言葉を間違った形で使ってはいけないということなのです。聖書解釈学という科目で聖書のみ言葉を正確に解釈しようとすると、沢山のチェック箇所を通します。普段、聖書を読むときにはそこまでは出来ませんが、正確に聖書を読んでいこうとする姿勢はとても大切です。

3.私をひれ伏せ!
 次は、すべての国々とその栄華を見せて、悪魔である自分を崇ませようとしました。(4:8~9)最終的に悪魔という存在は、自分自身を拝ませたい存在だということが、ここでよく分かります。全世界を手中にする誘惑は、大きな志しを持つ人々には、特に誘惑となるでしょう。しかも、悪魔を拝むだけでとなると、ある意味、難しいことではありません。巧妙なワナとはこういうことです。私たちは、真の神のみを全生涯をかけて礼拝するという、ただ一つのことを目標としているのです。イエス様は神のみを崇めるという信仰において、私たちの模範となられたのです。主は「さがれサタン!」という断固とした姿勢をとられました。私たちも悪魔に対して断固とした姿勢で「イエスの御名により、さがれ!サタン!」と命じる勝利を体験していきましょう。

<Ⅱ 誰しも体験する>
 イエス様ほどの偉大な方にも誘惑がやってきたというのは、驚きです。どんなに優れた人にも誘惑はやってきます。つまり、こういった誘惑は、誰にでもあるというわけです。イエス様は、そういうことを教えたいためにも、この誘惑を受けられたのです。「自分は大丈夫」と思っている人、他の人から「あの人は大丈夫」と思われている人にも誘惑はやってきます。自分の弱さの内に、悪魔の誘惑は忍び込んできます。自分には弱さがあるということを知る人間ほど、神にあって強い霊性を持つことが出来ます。
 

<Ⅲ 誘惑と試練からの勝利!>
誘惑に陥らないで済むために、イエス様の受けた誘惑からお話ししましたが、もう一度、補足しつつ、見ておきたいと思います。
1.聖霊によって満たされていく!
 そして、この荒野を通っていくために必要なことは何か、荒野に導かれる前にイエス様は、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたということを思い出してください。その時、聖霊がイエス様のうちに下りました。この聖霊の注ぎゆえに、イエス様は次の荒野に行くことが出来ました。私たちも同じです。聖霊によって、悪魔に打ち勝つことが出来るのです。聖霊に満たされなさい!私たちは何度も聞きます。祈りを通して聖霊様との親しい交わりをしていきましょう。聖霊による力を受け、また聖霊の導きがよく分かるようになり、聖霊によるみわざをいろいろと体験していきましょう。まず、神様との交わりを深めて、聖霊の十分な取り扱いを求めましょう。

2.荒野における訓練を知る!
 イエスが導き入れられた荒野は、モーセに導かれてエジプトを脱出して通った、あの荒野を想起させます。私たちも人生の厳しい荒野という場面を幾度となく通ります。神様は私たちを次のステップのために鍛える方です。「試練」と「誘惑」の違いとは、善意から出て、その人の益に導くものが「試練」、悪意から出て、その人を駄目にしてしまおうとするものが「誘惑」と言えますが、厳しい試練も神様に従おうとしていく時に、神様は試練という形をもって、鍛え上げて、脱出する道を備えて下さいます。また、四十日四十夜の断食をイエス様は行っていますが、モーセもまたシナイで、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏しました。断食の祈りは欲を絶って主に仕えることの訓練です。私たちも連鎖祈祷など、重要な祈りの場面では断食も行います。このような献身は、個人や教会の力となってくることが分かります。

3.心に聖書の光と、神の言葉を蓄えること!
 聖書は「原則の書」であるとも言われます。生きていくために乗り越えていく力をみ言葉から受け取れます。聖書の言葉は人を救いに導くだけでなく、また教育します。その教育によって、私たちは霊的な落とし穴から、救われるのです。何気なく毎週、教会に来て、み言葉をこのように聞いてたり、毎日、聖書を読んでいるかもしれませんが、実は皆さんの心のうちに、霊のうちに、貯蓄のように、み言葉が蓄えられていっているのです。心のうちに蓄えられているみ言葉が、貯金のように、何かのときに引き出されて、人生を乗り越えて行ったり、霊的な戦いの武具となるのです。また、霊的に養われてくると、神の人格へと変えられてきます。内側が聖められ、高慢さが砕かれます。へりくだる心は大きな武器なのです。

4.悪魔の存在を知ることから。
 また、悪魔は自分自身の存在を人々から分からないようにしてきます。しかし、この世にある悪の存在や悪魔的な誘惑は、悪魔の存在を裏付けるものです。この世には誘惑が満ちています。誘惑する者の力をみくびり、誘惑に対して無防備であったら、簡単に誘惑に負けてしまいます。悪魔は、私たちの欲望というものを非常によく知って、つけ込んできます。イエス様は「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい」(マタイ26:41)と教えられました。使徒パウロは「悪魔の策略に対抗しなさい」(エペソ6:11)と教え、ペテロは「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」と警告しています。

5.神と人への愛に生きる!
 イエス様は、悪魔が自分を拝ませようとしたときに、「主にだけ仕えよ!」と書いてあることを宣言しました。徹底的に神様への愛を表し仕えていく信仰、ここに神への愛があるのです。この神への愛を示していくときに、悪魔は対抗できません。また、同時にその神の愛を人々に表そうとするときに、悪魔はキリストの愛故に攻撃を加えることが出来なくなるのです。

<結び>
 最後の4:11では、主の勝利を御使いが称えています。試みの後は、主の豊かな祝福が用意されているのです。試みを通っても、神様に従い続けるなら、解放されて必ず神様のこの祝福を受けることが出来るのと信じましょう!イエス様は悪魔に打ち勝ち、メシヤであることを明らかにされた勝利の主です。そして、悪魔の誘惑故に私たち人間の弱さを理解することが出来る方なのです。神様は私たちを愛するが故に、試練という道のりの中で、悪魔の誘惑にも打ち勝てるように鍛え上げられますが、私たちの弱さの全てをご存知なるイエス様が一緒にいてくださって支え続けてくださいます。この主に信頼して今週もイエス様を崇めつつ、主にある勝利を受け取って歩んでいきましょう。


ただ恵みによる

2014-03-09 17:37:00 | 礼拝説教

  2014/3/9礼拝説教
【テーマ】  十字架の恵み
【説教題】  「ただ恵みによる」
【聖書箇所】 ローマ5:20-21
5:20 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

○ 教会に来るまで、聖書を読むまで、「罪」について考えたことの無かった方、罪の本質を知らずに罪の上辺ばかり気になっていた方が多くおられると思います。しかし、同時に「恵み」もわかっていただけたでしょうか?

Ⅰ.律法が入って来た
  A.律法が悪者に聞こえる
    1.律法が入って来た と「入って来た」という言い方は、  5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り   の罪や死が入って来たことと同じ使い方です。家に泥棒が入ってきた、というような言い方です。
    2.また、律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。とは律法に対して余りにもひどい言い方に聞こえます。律法のせいで違反が増し加わり、罪が増し加わったように聞こえます。
   
  B.律法によって罪が明確になる
    1.信号機を知らない人は、青だろうが赤だろうが気にしないで渡ります。道路交通法という法律を知らないからです。しかし、知ったらビックリすることでしょう。急に自分が違反者になるのですから。
    2.律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。 とは、まさにこうした一面を持っています。律法が無くても罪はあったわけですが、律法によって罪が明確にわかるようになったわけです。
   
  C.律法によって育てられる
    1.ガラ 3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。  と、ありますように、律法によって、何が正しい生き方なのかをはっきりさせてもらったのです。これを守れば良いとわかったのです。
    2.ですから同時に律法は罪を明確にし、人々に罪の何たるかをはっきりと教え示したのです。それ故に律法を守れない私たちは律法によってますます罪人の意識を持つことになったわけです。

Ⅱ.違反が増し加わる
  A.正しい知識が罪を犯させる
    1.律法が罪を明確にするという大事な働きをするわけですが、違反が増し加わるため  という言葉は気になります。本来律法は良いものです。それが悪者のように言われるのはなぜでしょう?
    2.中学の教師時代、性教育をどこまでするのか教師間で揉めました。先生方の中には急進派とでも言うのでしょうか、避妊教育をすべきだという方々もあり、職員会議では何度も性教育の持ち方について話し合われました。
      その背景は、中学生で妊娠したり、中絶したりする子が出てくるからです。特別講師を招いて研修会を開いた時には、正直私たちがビックリしてしまうような授業をするように言われました。結果は多くの教師が自分たちの力量ではできないということで、この方法ではしないことになりました。
      私がこの余りにもリアルな性教育を問題と思ったのは、関心の薄かった生徒達まで興味が湧き、避妊教育の元、それを実践してしまう生徒が出てくるだろうという点でした。青少年はそうしたことに興味があります。「ダメだ」と言われたら余計に「したくなる」「欲しくなる」のです。
    3.教育そのものは良くても、それを知ることによって興味本位から罪を犯すことが多々あるのです。知識が無ければしなかったことを、知ったがためにしてしまうのです。律法自体は良いものですが、その知識を知ることで罪を犯してしまうことがあるというわけです。
   
  B.律法主義という罪がある
    1.また、律法は良いものですから、それを守ることで、自分は律法を守っているという自尊心がさらに大きくなってしまう罪が発生するのです。
    2.マタイ19:16-22の金持ちの青年の話は有名です。 19:16-22 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」  彼は「どの戒めですか」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」  この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」  イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」  ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。  この話の大事な点は、この青年の罪です。彼は自分は律法を守っており罪は無いと言うのです。しかし、おわかりのように、その自尊心が罪だったのです。
    3.律法を愛の心からでは無く、形式的に守り行うと、それがまさに律法主義になってしまうのです。律法主義も罪なのです。

Ⅲ.恵みが来た
  A.律法では救われない
    1.律法は本来良いものなのですが、実行しきれない私たちには大きな枷となりました。そこで、律法によって義とされることは人間にはできないので、神様はただ一人の人の義によって全ての人を義と認める計画を立ててくださいました。だからこれを「恵み」と呼ぶのです。「恵み」以外の何ものでも無いのです。
    2.ガラ 3:25 しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。  のとおり、律法で私たちは自分がどうしても救われない罪人であることを知らされ、救いはただ、神様のあわれみ、恵みによるしか無いことも知ったのです。律法が与えられたからこそ、私たちはイエス様の恵みがわかるのです。
   
  B.イエス様によって解放される
    1.よく罪がわからないと、悔い改めがはっきりしないし、救いが明確にならないと言います。確かにその通りなのです。ただ、あまり罪を強調しすぎると、その人の性格によっては、落ち込んでしまい大変になることがあります。
    2.知っていただきたいのは、イエス様はあなたを救いたくて、十字架にかかり、ご自身の義と愛を示し、罪と死、サタンの支配から私たちを解放してくださったことです。

★ 私たちは律法によって罪を認識しましたが、知識は時として恐ろしいもので、文字通りにそれを守らないといけないかのようにして人を殺してしまうことがあるのです。イエス様は、私たちが正しく守れない律法を完全に守り、その結果、ご自身が身代わりの死を遂げてくださったのです。私たちはただイエス様を信じるだけで救われるという、恵みによって救われるのです。


満ち足りる秘訣

2014-03-02 19:23:02 | 礼拝説教

  2014/3/2WS礼拝説教
【テーマ】  真の豊かさ
【説教題】  「満ち足りる秘訣」
【聖書箇所】 マタイ5:6
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

○ マザー・テレサが初めて日本に来られた時、一番ビックリされたのは、「きれいさ」だったということです。町並み、建物、服装のすべてがきれいで驚かれたそうです。しかし、こうも言われたのです。「きれいな家の中に、親子の会話、夫婦のいたわり合い、ほほえみがないとしたら、インドの小屋の中で仲睦まじく暮らす家族の方が豊かです」と。豊かさ、満ち足りた生活・生き方とは何でしょうか?

Ⅰ.飢え乾くこと
  A.どれくらい求めるのか
    1.山上の説教「幸い」のお話の四つ目は 義に飢え渇く者は幸いです。 です。「義」とは正しいことであり、何に対して正しいことなのかというと、神様との関係が正しいことをいいます。神様との関係が正しくないと真の幸福は無いのです。
    2.皆さんは神様との正しい関係を求めているでしょうか? それも 飢え渇く者は幸いです。 というほどです。飢え乾くほどに求めているでしょうか?
   
  B.飢える経験
    1.現代は飽食の時代で、飢える経験が無いです。私たちが自主的に断食でもしないとお腹が空いてたまらないという経験はなかなかできません。
    2.戦時中の話をお聞きすると、それは悲惨で、食べられそうも無いものさえ食べて飢えを凌いでこられましたので、そういう年配の方々には「飢え」がわかるかも知れません。
   
  C.渇く経験
    1.「渇く」という方は、私の場合、陸上部で夏の昼間に練習を指導していた時などには感じました。口の中がくっつくのです。早く水道の所に走って行きたいと。その時に飲む水はどんな飲み物よりも美味しかったです。
    2.そのように神を求めるというわけです。聖書にも美しい歌があります。 詩篇42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。 です。

Ⅱ.聖書に従うこと
  A.人の基準は変わる
    1.神との正しい関係が大事といっても、その正しさは何によって知るのでしょうか? 私たちは往々にして自分が判断基準になっています。
    2.かつてのオウム真理教の大問題。間違った教えを信じ込んで殺人を犯してしまいました。死刑囚の中には当時の自分が正しい判断ができなかったことを認めています。
    3.どんなに正しいと思い込んでも人間は完璧では無いので、人間の基準というのは気をつけなくてはなりません。
   
  B.聖書は変わらない
    1.人の判断は変わりますが、変わらないのは聖書です。聖書は神との正しい関係を教えてくれています。単純に戒律が書いてあるだけでなく、人と神様とのやりとり、歴史も書かれていて、それを通して神様のお気持ち、お考えがわかります。
    2.聖書だけが正しいからといって律法主義になっては間違いを犯すのです。文字・言葉というのはその背後にあるその方の気持ちを知る必要があります。そうで無いと、正しい言葉は人を殺します。
    3.入ってはいけない池があったとして、そこにもし幼子がはまり込んだら、助けに入ると思います。聖書は人を救いたい神様の気持ちが溢れた書物です。つまり、神様の変わらない愛が書かれています。

Ⅲ.神様に照準をあわせること
  A.何を切に求めるのか
    1.イエス様は 飢え渇く者は幸い と言われたのですが、人は満ち足りたいのです。飢え乾きとは反対なのですが、飢え乾くことで満ち足りるようなのです。またも逆説的な言い方をされるイエス様です。
    2.水道の無い国の方が日本に来て、水道を見て驚かれたのです。そして、蛇口を買って帰られたのです。「これをひねると水がどんどん出てくるのですよ」と壁に取り付けたものの、一滴も水は出てきません。あたりまえのことですが、このようなことをしている人は結構いるのです。これを持っていると幸せになるとか言って、お守りだとか・・・
    3.飢え乾くことはあり、それが宗教心を呼び覚ますこともあります。しかし、その時に何を求めるかです。蛇口では無く「水」です。私たちは神様との正しい関係「義」を飢え乾くほどに求めるのです。
   
  B.止まることの無い水
    1. ヨハネ4:13-14 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」 とイエス様は聖霊のことをこのように言われました。
    2.「義」というのはこの世から得ることのできないものです。神様との正しい関係ですから。求める方向を世では無く、神にあわせる、天にあわせることで、不思議な満ち足りる体験をします。
    3.金庫のダイヤルがピタッと合った時、扉は大きく開くのです。いくらダイヤルを回しても合わない限り開きはしません。神様にダイヤルが合うと生ける水が溢れ出てくるのです。これが満ち足りるという体験です。

● 相田みつおさんは「うばい合えば足らぬ。わけ合えばあまる」と書いておられます。人間は満ち足りたくて奪い合うのですが、それはまた欲を湧き起こすだけです。逆説的かも知れませんが、分け合うと余るのです。

★ 満ち足りることとは反対に思える、義に飢え渇くということが、天の門を開いて私たちに真の満たしを与えるのです。