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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

私たちは祝福を祈る者

2022-10-19 06:36:51 | 礼拝説教
2022/10/23 礼拝説教
【テーマ】  神の祝福があるように
【説教題】 「私たちは祝福を祈る者」
【聖書箇所】 民数記6:22-27
6:22 【主】はモーセにこう告げられた。
6:23 「アロンとその子らに告げよ。『あなたがたはイスラエルの子らに言って、彼らをこのように祝福しなさい。
6:24 【主】があなたを祝福し、あなたを守られますように。
6:25 【主】が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
6:26 【主】が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』
6:27 アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する。」

○ 牧師は結婚式の司式で二人の祝福を祈ります。神が結び合わせた二人の祝福を祈れるのはやはり嬉しいことです。しかし、祝福を祈るのは牧師だけではないと思います。私たちがお互いに祝福を祈り合うのはすばらしいことだと思います。普段私たちはどれくらい人々の祝福を祈っているのでしょうか? 願いの祈りは多いかも知れませんが、もっと互いのために祝福を祈り合えるといいですね。
 
Ⅰ.優しくも厳しい神
A.優しい神
1.神は優しいお方なのでしょうか? 恐いお方なのでしょうか? イエスを見ると優しさが感じられるかと思います。辛い思いをしている人々に優しく接しておられる姿があちこちに出てきます。一方で律法学者達には厳しい面が見受けられます。
2.今日のテキストでは神がモーセに 6:23 「アロンとその子らに告げよ。『あなたがたはイスラエルの子らに言って、彼らをこのように祝福しなさい。 と、祝福するように言われています。モーセが祝福すれば、神が祝福されるという、優しいお方の姿が見えます。

B.厳しい神
1.一方厳しさを感じさせるところが、この箇所から少し進んだ民数記13章~14章に出てきます。各部族の長12名に約束の地を偵察に行かせた話です。出エジプトしてまだ間の無い頃、彼らは神の数々の奇跡を体験してきました。この12名は全員同じ「約束の地」を見てきたのですが、その捉え方は2種類に分かれました。 13:30 「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」 と言ったヨシュアとカレブ、一方 13:31 「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」 と、10名は無理だと言いました。
2.そして、会衆までもが、エジプトに戻りたいと言いだしたのです。なんと不信仰な言葉、神に対して失礼な言葉でしょうか。そこで神は40年間の荒野の生活を強いられました。ヨシュアとカレブ、次世代は約束の地に入れるけれども、信じなかった前世代は荒野で死に絶えるようにされました。やはり恐ろしい神だと思われるかも知れませんね。

Ⅱ.あなたは神をどう思っているか?
A.恐いと思っていると祈れない
1.神をどのような方だと信じているかで祈り方は変わってきます。恐いと思っていると祈れなくなります。私は高校生の時、英語の先生がとても恐かったのです。いつも怒って授業するので、ピリピリしていました。赤い顔していつも怒っているので、授業中に血圧が上がって倒れてしまったことがあるのです。私は英語の授業で緊張しっぱなしで余計に英語が苦手になりました。しかし、この先生に対するイメージがある時変わるのです。それは私が熱を出して修学旅行に行けなくなった時です。この英語の先生から電話があり、「学校に来れるようだったら来い」と言うのです。先生は血圧が高くて修学旅行の引率ができなかったそうです。熱が下がって学校に行くとその先生が優しく英語を見てくださいました。「英語は苦手か?」と笑いながら聞いてくださったりして、今までにない笑顔と優しさを味わって、その日から、この先生と親しくなったのです。すると色々話ができるようになりました。
2.神も恐いと思っていると自由に話ができません。

B.神はあなたを祝福したいと思っておられる
1.イスラエル人が神を恐く感じるのは、神の言葉に従わないとあのエジプト人にされたような恐ろしい目に遭うと思ったからでしょう。しかし、反面必要なもの全てをくださった神であることも体験しています。優しい神であることを体験しているのです。
2.しかし、いくら体験したといっても神と親しくなったわけではないのです。イスラエル人は度々神に対して不信仰になっています。真に親しくなるというのは真実を尽くすことなのです。結婚すると親しくなるというか真実を尽くす関係になるのです。神との関係はそういう関係だというのです。つまり神は全力を尽くして信じる者を祝福しようとされるのです。

Ⅲ.神は私たちが祝福を祈ることを願っておられる
A.私たちは祝福を受け継ぐ者
1.神に祝福されている私たちは人々の祝福を祈るように願われています。イエスはこう言われました。 マタイ5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 と。敵さえ愛して、迫害する者のためにさえ祈れと言われるのです。
2.また、ペテロはこう言っています。 Ⅰペテ 3:9 悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。 と。神は私たちが祝福を受け継ぐ者としてくださったばかりか、祝福を祈る者にしてくださったのです。

B.イエスの名で祈って祝福する
1.もう一度今日のテキストを見ましょう。 6:24 【主】があなたを祝福し、あなたを守られますように。 6:25 【主】が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。 6:26 【主】が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』 何とすばらしい言葉でしょう。神が祝福されること、守られること、神が好意的に見てくださること、恵んでくださること、平安をくださること。何とすばらしいことでしょう。これを祈るように言われています。
2.このすばらしい祝福には 6:27 アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する。 という条件が付いています。それは契約でもあります。これは直訳に近い訳ですが、前の訳では 【新改訳改訂第3版】 彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」 となっています。イエス・キリストの名で祈るなら神は祝福してくださるというのです。

★ 神はあなたを祝福したいのです。そして、あなたが祈る人を祝福したいのです。私たちは大いにお互いの祝福を祈り合おうではありませんか。


神はあなたに聖さを求められる

2022-10-05 08:28:15 | 礼拝説教
2022/10/9 礼拝説教
【テーマ】  聖くなるために
【説教題】 「神はあなたに聖さを求められる」
【聖書箇所】 レビ記19:1-2
19:1 【主】はモーセにこう告げられた。
19:2 「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、【主】であるわたしが聖だからである。


○ 先週レビ記の1章を見ました。創世記、出エジプトと時間をかけて見てきて、いよいよレビ記まで来たわけですが、レビ記は先週と今日の2回で終わります。ここには、生贄についての律法、祭司の律法、汚れと聖めについて、聖い生活について書かれていますが、私たち新約時代のクリスチャンには直接的な関係が薄いです。ですから、大事な点だけ抑えたいと思います。

Ⅰ.レビ記を知るために
A.レビ記ほど神が直接語っている書はない
1.「レビ記」と訳された語は、「レビ人について、レビ人に関する」という意味です。レビ記の著者はモーセですが、もちろん真の著者は神です。モーセはイスラエルの歴史、出エジプトの歴史を知らないイスラエル人のためにモーセ五書を書いています。
2.カナンの地は神が与えた約束の地で、そこで何のために生きるかを知らせるために書きました。出エジプト記の末尾で、どこで神を礼拝するかが明らかにされ、レビ記ではどのように神を礼拝するかが語られています。レビ記ほど神が直接語っておられる書は他にありません。

B.イスラエルは祭司の王国、聖なる国民
1.レビ人とは12部族の一つであるレビ族全員のことです。レビ族のうち、アロンの一家が祭司として取り分けられました。アロンの一家以外は祭司の補助者となったのです。彼らの働きは幕屋の管理運営です。
2.イスラエルは 出エジプト19:6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 と言われているように、その存在自体が祭司的なのです。ということは、イスラエルは聖なる国民として生活しなければならないのです。レビ記はその聖なる生き方を教えています。

Ⅱ.レビ記の中心は
A.神と出会えない人が神に出会える方法
1.レビ記は罪に汚れた人、つまり神と遠く離れた人がどうすれば神と近しく過ごせるかを教えている書なのです。出エジプト記は最後に幕屋を造ったことが記されていて、幕屋に神がお住まいになることを教えてくださいました。レビ記はその続きで、1章~10章は、聖なる神に近づく方法を教えています。そのために生贄を献げる必要とその働きのために祭司の職が重要であることを記しています。
2.11章からは、人が外的にも内的にも聖さに至るための道を教え、どのように神を礼拝すべきかを教えています。それは 19:2 「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、【主】であるわたしが聖だからである。 と言われたように、神が聖なる方だから、神に近づく者も聖なる者で無ければならないということです。

B.聖なる者と認めていただくために
1.その聖なる者となるのはもちろん、罪を犯さないことなのですが、人間は罪人です。罪を犯したものは償いをして、相手に赦していただくしか無いのです。それで償いとしての生贄を献げて赦しを願ったのです。
2.イエスは姦淫の現場で捕らえられた女が連れて来られて石打にされそうになったとき、イエスは ヨハネ8:7 「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」 と言われ、人が次々その場を去って行くと、女に向かって ヨハネ8:11 「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」 と言われました。罪を犯さないようにと。

Ⅲ.レビ記と新約聖書の関係
A.イエスの血が完全な赦しの血となった
1.旧約時代は罪の代償として様々な生贄が必要でした。  レビ17:11 実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。 と、神は血による身代わりを決められたのです。自分の飼っている家畜を自分の罪の身代わりとして献げるのですから、大きな痛みです。
2.今の時代はなぜ生贄を必要としないのでしょうか。罪人という点では旧約時代の人々と変わりは無いと思います。私たちの罪も血による代償が必要だったのですが、それをイエスが完璧な生贄として献げてくださったのです。完璧ですからもう生贄はいらないし、私たちの罪は赦されたのです。

B.イエスの血によって私たちは聖いものとされた
1.ヘブル書はこう言っています。
ヘブル10:1 律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。
10:2 それができたのなら、礼拝する人たちは一度できよめられて、もはや罪を意識することがなくなるので、いけにえを献げることは終わったはずです。
10:3 ところがむしろ、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されるのです。
10:4 雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。


10:10 このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。
2.私たちが聖なる者とされたということは、幕屋ではなく、直に神と交われる関係に入ったということです。そういう関係に入ったから罪を犯さないというのではありません。罪を犯さないでいられる人にしていただいたので、聖い生き方を心がけることは必要なのです。

● 車の免許が取れる年齢になり、自動車学校にも通い、テストにも合格し、免許をいただいたからといって、交通違反しない人になったわけではありません。あおり運転する人、信号無視する人、駐車違反する人等々たくさんいます。資格が与えられたから常に安全運転できるわけではなくて、安全運転を意識しているからできるのです。

★ 神は私たちと親しい交わりができる道を用意してくださいました。私たちはイエス・キリストを信じるだけで罪赦され、天国が保証されるというすばらしい命をいただきましたが、罪を犯さなくなったわけではないので、聖い生き方を心がけることは大事なのです。それは神礼拝、聖書、祈り等々の基本的な生活の中にあるのです。