バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

試練には脱出の道がある

2022-01-29 07:28:21 | 礼拝説教
2022/1/30 礼拝説教
【テーマ】  試練
【説教題】 「試練には脱出の道がある」
【聖書箇所】 創世記22章
22:1 これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
・・・
22:9 神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。
22:10 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」
22:12 御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。
22:14 アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「【主】の山には備えがある」と言われている。
22:15 【主】の使いは再び天からアブラハムを呼んで、
22:16 こう言われた。「わたしは自分にかけて誓う──【主】のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、
22:17 確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。
22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」

○ 子ども殺しのニュースが流れる現代、心痛みます。聖書にも同じような恐ろしい話になりかけたことがあります。有名なアブラハムがその一人息子イサクを生贄として捧げるようにと神から言われた話です。
 
Ⅰ.神の言葉に従うアブラハム
A.神の恐ろしい言葉が来た
1.神から祝福の言葉を何度かいただいたアブラハムは神の声を聞き分けることのできる人です。そのアブラハムに信じられないような神の言葉が来ました。 「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」 
2.今日、神がこのようなことを言われることはありませんが、もし、このように言われたとしたら、私たちはその言葉に従う事はできるでしょうか? 「子どもの代わりに私のいのちをとってください」と言うのが親でしょう。それを親の方から子どものいのちをとるなんて事はできるものではありません。

B.自分勝手に解釈しなかった
1.ところが、アブラハムはその神の言葉に従います。前回語りました、子どもを与えると言う神の言葉に対して、なかなか子どもが与えられなかったので、自分勝手に解釈して、サラの考えに従ってしまい、ハガルから子どもを生ませました。
2.今回、アブラハムはそのような自分勝手な考え方をせず、神の言葉をそのまま受け止めました。

Ⅱ.イサクを捧げる
A.苦しみの歩み
1.3日間の道のりをイサクとしもべを連れて行きました。アブラハムが祭壇を築く人だということはイサクにもしもべにもわかっていたことです。特別な場所に行って祭壇を築き、生贄を捧げることは彼等にとっても普通のことだったでしょう。ただ、生贄の動物がいないことは気になっていたと思います。この時のアブラハムの苦しい心境が伝わってきます。「いつ、神は、『捧げなくてよろしい』と言ってくださるのだろうか?」と待ち望みつつ歩いたのではないでしょうか?
2.イサクが捧げ物の羊はどこにいるのか聞きますがそれに対して心苦しかったと思いますが、アブラハムは 22:8 「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」 と言っています。この発言は預言者アブラハムと言われた彼ならではの聖霊の導きでしょうか?

B.ホッとした瞬間
1.ところが、遂にその場所に来ても彼の言った備えの羊が用意されもしないし、神から『捧げなくてよろしい』の声も聞こえないのです。そして、 アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。 のです。さらに 22:10 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。 のです。
2.私はこの時のイサクが気になって仕方がありません。彼は自分が殺されるということをどのように受け止めたのでしょうか? 「父はおかしくなった」と思わなかったのでしょうか? イサクの従順さにはただただ驚くばかりです。
3.そうしたとき、遂に声がありました。 「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」 アブラハムの信仰、そしてイサクの信仰を神は受け入れられました。

Ⅲ.アドナイ・イルエ
A.イサクの脱出の道
1.私たちもたくさんの試練を受けてきたかと思います。それは私たちの信仰の成長のためであり、その結果神に栄光が帰せられるのです。アブラハムの受けた試練は相当のものだと思いますが、こうして聖書で結末を読めるからホッとします。そして、私たちも アドナイ・イルエ 「【主】の山には備えがある」 と言えるのです。 Ⅰコリ 10:13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。 の御言葉の通りです。
2.イサクも相当の試練を受けたことになります。彼は私たちの姿でもあります。私たちは殺されなければならない存在でしたが、神が用意した 一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた という羊のように、イエス・キリストの身代わりによって救われました。

B.イエスには脱出の道は無かった
1.イエス・キリストには十字架という試練からの脱出の道はありませんでした。ゲツセマネの園で父なる神に「この杯をわたしから取り除けてください」と祈られましたが、その祈りは聞かれませんでした。しかし、そのお陰ですべての人の救いの道が開かれました。
2.時として、私たちの祈りが聞かれない、大きな試練を受けているのに脱出の道が無いと思われる場合もあるかと思います。しかし、神はその試練を通してもっとすばらしい脱出の道を用意されているはずです。それを信じるのです。

★ アブラハムは神の言葉に従った結果、大きな試練を受けましたが、脱出の道を体験させていただきました。これによってアブラハムとイサクの信仰はさらに成長したと言えます。私たちも試練は受けます。しかし、脱出の道が備えられていることを覚えましょう。

100才の父、90才の母

2022-01-22 07:36:51 | 礼拝説教
2022/1/23 礼拝説教
【テーマ】  不可能を可能にする神
【説教題】 「100才の父、90才の母」
【聖書箇所】 創世記21:1-7
21:1 【主】は約束したとおりに、サラを顧みられた。【主】は告げたとおりに、サラのために行われた。
21:2 サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
21:3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。
21:4 そしてアブラハムは、神が命じられたとおり、生後八日になった自分の子イサクに割礼を施した。
21:5 アブラハムは、その子イサクが彼に生まれたとき、百歳であった。
21:6 サラは言った。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」
21:7 また、彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子に乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、主人が年老いてから子を産んだのです。」

○ 初代教会の人たちはイエスの再臨がもうすぐあると信じていました。でもそうではありませんでした。2000年たった今もなお再臨は来ていません。彼等の信じたことは間違いだったのでしょうか? いえ、再臨はあります。いつなのかという点では私たちは勘違いしやすいようですが。現代も「再臨は近い」と言っています。確かに2000年前よりは近いです。アブラハムの子どもを与えると神は言われたのになかなか実現しません。
 
Ⅰ.不可能と思うような神の計画
A.信じられないような神の約束
1.アブラハムが神の言葉をいただいてカランを出たのは75才でした。そして先週語った、15章の神の約束は、アブラハムが思ったしもべが相続人になるのは間違いで、アブラハム自身から子孫が誕生するという約束でした。
2.ですが、おばあちゃんになってしまったサラには子どもが産めないと思うのは普通ではないでしょうか。16章で 16:1 アブラムの妻サライは、アブラムに子を産んでいなかった。 とあるように、かなりの年月が過ぎてもサラ(サライ)は子どもを産めませんでした。まして年月が過ぎて、100才と90才の夫婦に子どもを与えると言う神の約束、誰が信じられるでしょうか? 
3.イエス・キリストを信じるだけで救われるということも、神の約束ですが、とても信じにくい話です。でもそれが神の約束です。

B.人の計画は神の計画と違う
1.相当の年寄りになったサラは若いエジプト人の女奴隷ハガルを連れてきて彼女によって子を得ることにしました。 16:16 ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。 とあります。アブラハムはイシュマエルから子孫が増え広がることを神に願いましたが、これも間違いでした。
2.サラが勧めた女奴隷ハガルによって子どもを得ることが神のみこころと思ってもおかしくないと思います。なにしろ、それでもアブラハムの子ですから。こういうように私たちも自分で信じやすいことを神の計画と思いやすいものです。

Ⅱ.神の言葉は必ず成る
A.必ずアブラハムとサラから跡取りが生まれる
1.しかし、神は90才になろうとしているサラによって子を与えると言われました。 わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える と。イシュマエルはすでに生まれているのです。この子の存在は大きいです。しかし、この子がアブラハムの跡継ぎではないということでした。
2.神はあくまでもアブラハムとサラから子孫が誕生し、繁栄することを語られました。 17:15 また神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライは、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。17:16 わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。 と。

B.神の言葉に間違いは無い
1.そして、遂に90歳になったサラが男の子を産むのです。神の約束が実現しました。なんと長い年月待たされたことでしょう。しかし、神はご自分の言われたことは必ず実現されるのです。それが人にとっては不可能に見えることであっても、神にはできるのです。
2.アブラハムはまだ十分に神を信じ切っていない状態でしたが、こうしたことを通して信仰が成長させられていくのです。サラが妊娠したことを知ったとき、アブラハムはどれほど驚いたでしょうか。そして、神の言葉は間違いないということを確信し、喜びに満ちるのです。
3.私たちはその神の言葉を「聖書」という書物でいただいています。ここには私たちが救われるという約束があるのです。それは間違いない事実です。

Ⅲ.不可能を可能にされる神
A.信じたからこそ信仰は成長する
1.聖書には不可能を可能にする神を信じた人が次々登場します。クリスマスは1ヶ月前でしたが、マリアもその一人です。マリアは天使から ルカ1:37 神にとって不可能なことは何もありません。 と言われたことを信じたのです。そして、私たちも処女マリアからイエスが誕生するという不可解な話を信じているのではないですか。
2.アブラハムとサラは彼等をこの地に導いた神は「不可能を可能にする神」だということを知りました。だからアブラハムは信仰の父と呼ばれたのです。しかし、誰も最初から素晴らしい信仰者であったとは思いません。しかし、確実に信仰は成長していくのです。信仰が成長するというのはこの不可能を可能にされる神に近づくことです。

B.イエスは不可能を可能にした神
1.イエスは伝道活動されるようになって人々が信じられないようなことを次々なさいました。ヨハネはイエスがなさった不思議をそれこそ7種類集めて福音書に記しました。①水をぶどう酒に変える(2章)、②役人の子を会わずに癒す(4章)、③38年病気だった人の癒し(5章)、④5000人の給食(6章)、⑤水の上を歩く(6章)、⑥生まれつきの盲人の癒し(9章)、⑦ラザロのよみがえり(12章)。これは人には不可能です。なのに人となられたイエスはこの不可能を可能にされたのです。
2.私たちはどうでしょうか? 不可能を可能にする神であることを信じているでしょうか? 私たちの願っていることを実現してくれる神ではありません。神の願いを私たちが実現していくために神は不可能を可能にもされるのです。神のなさるわざを見てわくわくしようではありませんか。

★ 不可能を可能にするのは神です。あなたはそれを信じますか? あなたの救われていない家族を救うことができるのは神であることを信じますか? 


主を信じることで義と認められる

2022-01-15 08:13:51 | 礼拝説教
2022/1/16 礼拝説教
【テーマ】  信仰による義
【説教題】 「主を信じることで義と認められる」
【聖書箇所】 創世記15:1-6
15:1 これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」
15:2 アブラムは言った。「【神】、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」
15:3 さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」
15:4 すると見よ、【主】のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」
15:5 そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」
15:6 アブラムは【主】を信じた。それで、それが彼の義と認められた。

○ 「イエス・キリストを信じるだけで救われる」というのは簡単なことなのですが、実はどうしてそうなのかと理屈を問われるとそれがなかなか難しい問題となるのです。知的になった現代人は「信じる」ということでは納得できず、「理解できる」を求めているのかと思います。しかし、今日の話では アブラムは【主】を信じた。それで、それが彼の義と認められた。 とあるのです。アブラムはどのように信じたのでしょうか。
 
Ⅰ.アブラムは信じた
A.アブラムの考えた跡取り
1.当時の人々にとって「跡取り」は大事な問題でした。神はアブラムに跡取りを与えると言われたのです。しかもその跡取りから空の星のように増え広がると言われました。しかし、アブラムは3節で あなたが子孫を私に下さらなかった と言っています。かなりのおじいさんになってしまったアブラム。未だに神は子どもをくださらないので、もう自分とサライから子どもは望めないと思っていました。
2.となると、神は他の方法で子孫をくださるのかと考えるのは当然でしょう。アブラムは 私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう と言いましたが、それは当時、直接の相続人がいない場合、傍系の親族または奴隷の中からでも相続人が選ばれることが法的に認められていたからでしょう。

B.神の言う跡取りを信じる
1.しかし、神は 15:4「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」 と言われたのです。アブラムから生まれることをどこまでも言われました。そして、アブラムはその言葉を信じました。とても理解できたと思いません。神が言われたので信じたのです。
2.アブラムは自分なりに子どもを得る方法を考えました。それは常識的に考えてこんな年寄りに子どもが生まれるはずがないという、ごく普通の考えからです。しかし、神はその常識をひっくり返して、アブラムとサライから生まれると言われました。これを信じたのです。

Ⅱ.マリアは信じた
A.神の言葉を信じるマリア
1.クリスマスの時のお話でもマリアは自分から救い主イエス・キリストが誕生するということを理解できたのでしょうか? しかし、彼女は信じました。ヨセフはなかなかマリアの言葉が信じられなかったのです。しかし、神から言われて信じました。彼等も信じて救われているのです。
2.「信じる」というのはこのように「理解」という私たちの頭の領域を超えるものです。かといって、やみくもに信じているのではありません。「聖書」という根拠に基づいています。

B.神の声を聞き分ける
1.聖書の無かったアブラムの時代にはそれこそ神が人の耳なのか、心になのか語りかけてくださったのです。アブラムはその声を神の声と聞き分けることができたのです。どうして聞き分けることができたのかと言われると答えるのは難しいですね。信仰によってわかるのです。
2.マリアの前に現れたのは御使いガブリエルです。「天使が現れたら誰だって信じるよ」と言う人がいますが、果たしてそうなのでしょうか? 聖画に出てくるような羽のある天使ならわかりやすいのかも知れませんが、例えば創世記19章に出てくる御使いをロトたちは見ました。また、創世記32:22~のヤコブと格闘した人?は天使と考えられています。見たときに天使だとすぐにはわからないのです。信仰と聖霊によってわかる世界があるのです。

Ⅲ.私は信じる
A.昔からクリスチャンは信じてきた
1.使徒信条を見てみましょう。 われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン ここに「信ず」「信ず」と出てきます。これを「理解した」と置き換えることは可能ですか? できません。
2.私たちの頭脳をはるかに超えた世界なのです。でも、私たちは「信ず」と言って問題視しません。なぜか? 本当に神がおられてその神は愛のお方で、イエス・キリストは目には見えなくても本当に私たちのそばにいてくださるお方だからです。私たちにはそのことが聖書を通して教えられています。

B.信じるために
1.信じるためにもちろんいくらかの知識を必要とします。マリアも天使と話し合っていくらかの知識を得ています。しかし、おわかりのように彼女は理解できたから信じたのではないのです。理解を超えているけれど神が言われるから信じているのです。
2.私たちも神の声を聞き分ける能力があるといいのでしょうけれど、今はまず聖書が神の声ですから、誰もが聞くことができると言えます。ただ、自分勝手な解釈をしてしまう人も多いのでそこが問題でしょう。 Ⅱペテロ1:20 ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。 とあるとおりです。
3.聖書を読み解く力が必要なのでは無いでしょうか? そのためには何といっても聖書を読むことですし、見えない神と祈りによって交わりを深めることです。聖霊が働かれてこそ私たちは信じる事ができるのです。

● 私がイエス・キリストを救い主と信じた日を振り返ると、「神なんているわけがない」と言い張っていた私がスッと信じることができました。理解できたから信じたのではありません。もし理解できたから信じたというなら相当聖書を勉強しなければならなかったと思います。しかし、友達に「お前どうしてクリスチャンになんかなったんだよ?」と問われても、どう答えていいのか説明には困りました。何しろ、理解したからではないのです。信じたのです。まさに聖霊が働いてくださったとしかいいようがありません。

★ 私たちも十分な知識が無くても、主を信じるだけで救われます。義と認められるのです。 アブラムは【主】を信じた。それで、それが彼の義と認められた。 と同じく、あなたがイエス・キリストを信じる。それがあなたを義と認めるのです。


人生の分かれ道でどちらを選ぶか

2022-01-08 07:24:49 | 礼拝説教
2022/1/9 礼拝説教
【テーマ】  人生の土台はイエス・キリスト
【説教題】 「人生の分かれ道でどちらを選ぶか」
【聖書箇所】 創世記13章
13:8 アブラムはロトに言った。「私とあなたの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちの間に、争いがないようにしよう。私たちは親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れて行ってくれないか。あなたが左なら、私は右に行こう。あなたが右なら、私は左に行こう。」
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので、その地はツォアルに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11 ロトは、自分のためにヨルダンの低地全体を選んだ。そしてロトは東へ移動した。こうして彼らは互いに別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだ。一方、ロトは低地の町々に住み、ソドムに天幕を移した。
13:13 ところが、ソドムの人々は邪悪で、【主】に対して甚だしく罪深い者たちであった。
13:14 ロトがアブラムから別れて行った後、【主】はアブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。
13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる。
13:17 立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」
13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに【主】のための祭壇を築いた。

○ イエスのたとえ話に砂地に家を建てる人と岩地に家を建てる人の話があります。当然岩地に建てる方が良いに決まっています。現代でも土台が軟弱な土地に建てられたマンションなどが訴訟事件になっていたりします。私たちの人生こそ何を土台としているかはとても大事なことです。
 
Ⅰ.ロトの土台は「自分」
A.ロトが先に選んだ
1.信仰者アブラムについてきたロトでしたが、今度は自分で決めなければならない場面がやってきました。今まではアブラムおじさんの信仰で導かれてきたのですが、ロトも独り立ちです。その事情は家畜が増えて牧者に争いが出始めたからでした。アブラム一家とロト一家が別れて家畜の飼料が十分あるところへ行く必要ができました。
2.そこで、アブラムの提案したことは あなたが左なら、私は右に行こう。あなたが右なら、私は左に行こう。 と、年下のロトに優先権を与えたことでした。本来なら年長者であるアブラムに優先権があるのです。しかし、ここにアブラムの謙遜さが見えます。
3.そして、ロトはアブラムおじさんに優先権を与えず、 13:11 ロトは、自分のためにヨルダンの低地全体を選んだ。 と、潤っている土地を選びました。たぶん誰が見てもその土地の方が良かったのでしょう。実は ロトは低地の町々に住み、ソドムに天幕を移した。13:13 ところが、ソドムの人々は邪悪で、【主】に対して甚だしく罪深い者たちであった。 と、見た目にはよくても信仰的には良くない場所だったのです。

B.ロトは自己中心の人生を歩んでいた
1.ロトはアブラムおじさんに着いてきたことで財産が増えたわけです。移動してくるという大変さはあったもののおじさんのお陰であるのに彼は 自分のために 土地を選びました。「おじさんのために」自分は悪い土地を選んだのではありません。
2.この後、ロトは大変なことになるのですが、この時点では彼は目先の良さに釣られてしまいました。ここでエバの記事を思い出します。 3:6 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。 神の言葉よりも自分の目にしたがった話です。

Ⅱ.アブラムの土台は「神」
A.アブラムの愛
1.一方アブラムはロトに優先権を与え、残された土地に神は祝福をくださることを信じていました。「残り物に福がある」ということを信じたのではないと思います(笑)。ロトとの間に問題を起こしたくないという配慮から身を引いたのでしょう。ロトに良い土地を譲ったことはアブラムの愛でしょう。かわいい甥に苦しい思いをさせたくないというアブラムの愛かと思います。
2.しかし、それによってアブラム一家は決して楽ではない土地へ行くのですから、彼の牧者たちは「なぜ、俺たちが良くない土地に行かねばならないんだ」と思ったのではないでしょうか。アブラムの決めたことが身内には辛いことになるのです。

B.アブラムの生き方は信仰
1.ロトがアブラムを離れて行った時に神から声がありました。 13:14 「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる。13:17 立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」 と、祝福の言葉でした。この祝福がはっきりするのはかなり後になるのですが・・・
2.そしてアブラムのしたことは礼拝です。 13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに【主】のための祭壇を築いた。 と。人生で大事なのは礼拝です。アブラムは常に祭壇を築いています。前にも語りましたが、祭壇を築く人生こそが神に喜ばれる人生です。神が喜ばれるのは神への信仰です。

Ⅲ.私たちの土台は?
A.神に聴く人生であること
1.人生には何らかの問題、危機が訪れるものです。その時、その人が何を土台としているかでその後の歩みが決まります。ロトは見えるもの、財産といった、いわゆる世的なものを土台にしていたことがわかります。私たちの人生にも分かれ道があります。その先は見えません。現代ではその判断を様々な情報に頼るのかも知れませんし、色々な専門家という人の意見を聞いて判断するのかも知れません。それが悪いわけではありません。ただ、神に聴くことを忘れてはならないということです。
2.今月の教会会議で大事な議決をしようとしています。このことも私たちの目先だけの判断ではいけないので、みんなで祈っているわけです。これが将来を決めることになるのですから。

B.イエス・キリストを告白する人生であること
1.イエスが弟子達に質問したのは何でしたか? マタイ16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 でした。それに対してペテロが言ったのは、 16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」 でした。この告白をイエスは喜ばれました。私たちも同じ告白をしているのです。
2.そしてその告白をするということはイエス・キリストに従順であるということです。アブラムがロトに優先権を与えた時、ロトの決定が、アブラムをも祝してくださることを信じたのです。私たちも人生の分かれ道でどの道を選ぶか、何を選ぶかは自由です。しかし、愛と信仰によって神に委ねるべきではないでしょうか。イエスを生ける神の子キリストと信じた者としての決断です。

★ あなたの人生の土台は何になさいましたか? イエス・キリストを人生の土台にしていただきたいです。あなたの人生のすべてにイエス・キリストがおられることを願います。


どんな時でも主と共に歩もう

2022-01-01 07:31:59 | 礼拝説教
2022/1/2 礼拝説教
【テーマ】  福音は留まらない
【説教題】 「どんな時でも主と共に歩もう」
【聖書箇所】 Ⅱテモテ4:2
 4:2みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

○ 今年もよろしくお願いいたします。2020年、2021年と思わぬ出来事に見舞われました。告別式でよく歌います聖歌348、この聖歌は本来「送別会」の歌ですが。この3節に「おもわぬできごとに みまわるるときも ちからのみうでは いちはやくのばされん」とあります。不安に満ちた方々もあったかと思いますが、今年もこの「力の御腕」が私たちに伸ばされることを信じて歩んで参りましょう。
 
Ⅰ.コロナの今は時が悪いのか
A.オンライン礼拝・伝道が一気に増えた
1.多くの教会が、私たちと同じように みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。 の御言葉が迫ってきたようです。コロナで思うような伝道ができなくなって、困惑した教会が多かったのです。
2.しかし、多くの教会がオンライン礼拝を実行し、新たな礼拝に踏み出しました。同時にオンライン伝道にも踏み出した教会がたくさんあります。しかし、それはまたネット上のトラブルも発生しました。とは言え、新しい伝道が考えられたと言えます。

B.神を考える機会も増えた
1.コロナ問題は長い期間人々を悩ませ、世界的には多くの人を死に追いやりました。また、感染した人たちが後遺症で悩まれたり、大変でした。仕事を失った人も多くおられます。また、学生たちも大学に入学したものの授業がオンラインになって大学に行けなかったりしました。子どもたちも学校に行けなかったりで不登校になったり、心の病にかかる者も多くありました。
2.こうしたことで即座に悩める人たちに伝道ができたかどうかはわかりませんが、このことで教会を訪ねる人があったことは事実です。世の中的に時が悪くても神はその時を有益にしてくださるお方です。

Ⅱ.伝え続けると人は救われる
A.若い伝道者テモテを励ますパウロ
1.テモテという若い牧師が教会の伝道・牧会において苦労をしていました。いつの時代も伝道・牧会は楽ではないようです。だから牧師になるというのを「献身」と言うのかも知れません。しかし、本来「献身」というのはすべてのクリスチャンがすることです。
2.パウロも当然ながら大変な苦労をしました。命の危険が何度もありました。そこで、自分の経験からもこの若い伝道者テモテを励まそうとしているのです。テモテにとっては大先生パウロから励ましていただくのは本当に嬉しかったと思います。私たちも励ましていただけるとありがたいものです。
3.パウロは聖書を読んでどなたも恐ろしいほどに伝道に励んだ人だとわかると思います。 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。 というのは正に自分の経験からも言えたことでしょう。パウロは大変な迫害の中、命の危険も味わいながら、投獄されたときにも、とても悪いと思えるときにも彼はしっかりやった人でしょう。

B.悪い時代だからこそ福音を語り続ける必要がある
1.時が良いとか悪いとかは私たちが勝手に思う事だと思います。よく言われることですが、晴れると良い天気だ、雨だと悪い天気だと言いやすいですが、傘屋さんは雨が良い天気だと。また、田植えの時期は雨が望ましいと。ということは神には悪いときは無いのかも知れません。ですから、私たちが考える時がよくても悪くてもは、神にとってはすべて伝道に最善の時なのかも知れないということです。
2.パウロはこう続けています。 Ⅱテモテ4:3-5 というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、 真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。 けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。 人々は自分に都合の良いことだけ聞こうとするものです。現代もネットから自分の好きな情報だけを集める人たちがいます。
3.自分勝手なこの時代、とても悪い時代です。時が悪いと言えます。異端がはびこり、新しい宗教も次々起こってきて、何が本当の神かわからなくさせる時代です。時は悪いでしょう。しかし、それは同時に人々が本物を求めているからかも知れません。イエス・キリスト以外に救いがないということに人々が気づくために私たちはひたすら伝え続ける必要があるのです。

Ⅲ.聖霊はコロナ以上の感染力をもつ
A.クリスチャンは感染力をもっている
1.使徒行伝を見ると、聖霊を受けた弟子達の伝道は爆発的で、しかもコロナのように凄い感染力を持っていました。パウロに至ってはペストのような人間だと言われました 使徒24:5 この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人という一派の首領でございます。(新改訳2017では「疫病」と訳されています)。これはパウロが感染力の強い人間だという言い方なのでしょう。
2.これは初代教会だけではありません。その後も教会は増え続けました。キリスト教を排除しようという国でも、地下教会、家の教会など国家の手を逃れて人々は救いに入れられました。福音は留まることを知らないのです。いつの時代にもパウロのように感染力の強いクリスチャンがいたのです。

B.聖霊が励ましてくれる
1.私たちの内にあるのは初代教会のクリスチャンたちが持っていた同じ聖霊です。聖霊は福音を全世界に広げる働きを私たちにさせます。しかし、それは強制的に奴隷を扱うように働きかけているのではなく、励ましという形でしてくださいます。私たちにも、パウロは みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。 と、聖霊を通して励ましているわけです。
2.イエスの大宣教命令は マタイ28:18-20 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」 でした。これは私たちの力でできるものではありません。なぜ福音書の最後にあるのでしょうか。使徒行伝で本格的に宣教が始まるからです。その時、弟子達は聖霊を受けたからです。私たちも聖霊を受けて伝道するのです。それはイエス・キリストと共に伝道するということです。

★ 私たちはどんな時もイエス・キリストと共と共に生活し、イエス・キリストの望まれる生き方をしようではありませんか。