バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

見えないものを待ち望む

2014-09-28 17:06:57 | 礼拝説教
2014/9/28礼拝説教
【テーマ】  信仰
【説教題】 「見えないものを待ち望む」
【聖書箇所】 ローマ8:18-25
  8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。
8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

○ ヘブル11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 という御言葉は大変有名で、私たちも暗記しておきたい御言葉です。確かに信仰というのは見えない世界と関係が深いです。見えないから「無い」わけではないです。見えないけれども大事なものの存在を信じているのです。そして、私たちはそれを待ち望んでいます。

Ⅰ.私たちは救われている
A.すでに救われている
1.何度も何度も、私たちクリスチャンというのはこの地上にあって葛藤の中に生きていることを語ってきました。完全に救われて、完全な人となっていれば葛藤などあり得ないのです。しかし、現実に葛藤の中を生きているということは、まだ完全ではないわけです。
2.しかし、救いはすでに与えられました。どこかの国の捕虜となり、そのまま死を待つだけだったとしましょう。ところが戦争が終わり、捕虜という立場で無くなったとします。だからといってすぐに母国へ帰れるというわけではなく、まだその国に留まって、帰国できる日を待っているのが、この地上の私たちみたいなものです。
3.ですから、この地上において葛藤を持っていますが、私たちがすでに救われているということは事実なのです。その保障として聖霊が与えられています。

B.完全を待っている
1.イエス様の十字架の契約は人間の契約と違って完全ですから、2000年前にイエス様の十字架で、全ての人の罪の身代わりとなったことは完璧です。
2.そのことを信じるだけで私たちは誰でも救われます。そのことも完璧です。ですから、時間・空間を超えた神様の世界では私たちは完全に救われているのです。
3.しかし、私たちのこの次元では時間の支配があるため、「その時」を待たねばなりません。

Ⅱ.被造物全体が変えられる
A.罪は自然界をも破壊した
1.被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。 と、被造物も待っています。創世記を見ますと、アダムとエバが罪を犯してから、自然界も様子が変わってしまったことわかります。 創世記3:17 また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。 と。
2.また、ノアの箱舟以降はさらに変わります。ここで神様は動物を食べることを許可されるのです。 創世記9:3 生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。 とあります。
3.神様は自然界を人間のためにお造りになりました。人間は自然界を正しく支配すべきだったのに、罪により、自分勝手な支配になってしまいました。自然破壊を見ればそれがよくわかります。

B.教会ができても完全にはならない
1.また、人間は人間同士でも大変なことをしでかしてしまいました。戦争を生み出し、差別を生み出しました。イエス様が預言された マタイ24:12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。 という状態にどんどんなっていっています。
2.現代は確かにクリスチャンも増え、教会も増えましたが、世の中の崩壊は自然界に留まらず、人間界に、精神界にもしっかり入り込んでいます。救いの完成がまだ先にあるように、教会ができても完成はまだ先にあるのです。
3.神様は救いの完成形を、多くの預言者を通して、またパウロを通して教えてくださいました。ユダヤ人が望んだこの地上では無いけれど、必ずやってくる天国を約束されたのです。

Ⅲ.この望みによって救われている
A.待つ
1.子育てのポイント、教育のポイント、カウンセリングのポイントは「待つ」ということだとよく言われます。ところが私はなかなか待てなくて、子どもたちによく「早く」と言ってしまいました。何しろ、学校では時間の制限があるからです。
2.お母さん方にも子どもに「早くしなさい!」は禁句だと言われます。どうしても現代の忙しい社会の中では「早く」が先行し、「待つ」ことができないのです。
3.しかし、子育て・教育の世界というのは、教え込んだり、子どもの中にあるものを引き出すと同時に、子ども自身が成長するのを待つことも大事なのです。

B.待つ信仰
1.信仰の世界はそれ以上に待ち望むことが大事なのです。しかも、それはどうなるかわからないものを待っているのではなく、すでに完成形があるということです。
2.待つことと信じることは「愛」に通じるのです。神様を信じて待ち、日々、神様を愛して礼拝して待つのです。

● 苦しんでいる人が解き放たれ、喜びに満ち、体の不自由な人が自由になるそういう日が来ることを信じるのがクリスチャンです。

★ 8:25 私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
  ヘブル11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
  のとおり、私たちは信じて待ちましょう。その時、私たちはすばらしいものを見るのです。

病を担ったキリスト(岡山志伸師)

2014-09-14 18:21:38 | 礼拝説教

20149/14 礼拝説教
■テーマ:メシヤの奇跡と権威
■説教題:病を担ったキリスト
■聖書箇所:マタイ8:14~17

8:14 それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。
8:15 イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。
8:16 夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。
8:17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

<はじめに>
 このマタイの福音書8章には、三つの癒しがあると前回のときにお話ししました。ツァラアトという皮膚病の男性を癒し、百人隊長のしもべの癒し、そして、三つ目がペテロのお姑さんに起こった癒しの話しです。今日は、ちょうど、シルバー祝福式ということで、ちょうどペテロのお姑さんが癒される箇所でイエス様が年配者への愛と憐れみを表される箇所となり、神様のみ言葉の備えに感謝致します。

 
<Ⅰペテロの姑の癒し>
1.弱者への憐れみの心
山上での説教を終えて、山から降りて来られたイエス様は神の霊、神の権威に満ちていました。そして、この8章では神の霊と権威に満ちていたイエス様が三人の人を癒されました。この三人には共通点があります。ツアラアトの病や百人隊長のしもべというと、ユダヤ人社会では、拒絶されていたような人々でしたが、イエス様はこういった人々への憐れみの心をもって癒されました。そして、今回のペテロの姑もまた、この当時の女性という立場の弱い存在でした。しかも年齢的にも高齢です。聖書では、年配者に対する愛と思いやり、尊敬の心を持たなければならないと教えています。(レビ記19:32)そしてイエス様は、このお姑さんのような弱者に対する憐れみの心を表して、癒されたのです。

2.近親者への重荷
 (8:14)イエス様の弟子たちの家庭生活のここは貴重な箇所です。彼は妻がいたというわけです。後には夫婦同伴で各地に伝道旅行をしておりますこのペテロの奥さんのお母さんが熱病にかかってしまいました。この熱病、マラリヤではないかと言われています。高熱が続く、重い熱病でした。これはお年寄りにとって大変な辛さです。さぞかし、ペテロたちは心配だったことでしょう。そんな彼らの心配の内に、イエス様は応えてあげたいと思ったのでしょう。
 私のクリスチャンの友人のご主人は、自分の義理のお母さん、お姑さんをとても大事にした人でした。自分の親ように一生懸命に義理のお母さんに尽くされた人でした。旧約聖書では、お姑さんを大事にした「ルツ」という女性が出てきますが、ペテロも「ルツ」ならぬ「ルツオ」さんだったのでしょう。私たちは、近親者が病気になったというと、特別な思いを持って祈ります。教会でも神の家族として、自分の親や兄弟のように愛の実践を行いたいと思います。

3.神による超自然的な癒し
同じ箇所のルカの福音書では、熱をしかりつけられたとあります。(ルカ4:38-39)イエス様は、このペテロの姑の癒しも、熱をしかりつけるという、百人隊長のしもべのときと同じように、ご自分のことばで神の力を示されました。この「しかる」という意味には、悪しき力に対する神の力を表すということだそうです。熱病の背後に悪魔の働きを見たための行為なのです。
そして、神様による癒し、これは、現代の文明社会に生きる私たちにとっては、なかなか信じられないことですが、当時の人々にとっても信じられないことでもありました。神の癒しについて、私が信じることが出来たのは、やはり聖書そのものの存在を信じることが出来たためです。この聖書は全て神の誤りなき言葉が書かれているわけです。愛であり、全知全能なる神創造主なる神は確かにいる!聖書はそのことを紹介しているのです。
アメリカである日本人のクリスチャンで婦人科のお医者さんがおられます。この方は、アメリカで優秀なお医者さんとして認められているそうです。ある大変難しい手術のとき、イエス様がそばにいて導かれながら手術をする体験をして、神様によって手術が成功に導かれたと証しされていました。時には、こういった神の直接の癒しの奇跡というものを多くのクリスチャン医師たち、またクリスチャンでないお医者さんも時々体験して、奇跡や癒しを行う神の素晴らしさに驚嘆しています。

<Ⅱ 悪霊を追い出すイエス様>
1.安息日は明けた!
マルコの福音書にも同じ箇所があります。(マルコ1:29~34)夕方になると、人々は多くの弱り切った人を主イエスのみ許に連れてきました。ユダヤでは毎週金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日と呼び、この日は会堂礼拝に出席することの他は一切の勤労も娯楽も禁じていました。ですから人々は安息日が終わった時、待ち構えたようにイエス様のところに来られたのです。
イスラエルに旅行した時、安息日が終わりかけにホテルに到着しました。まだ安息日が終わっていないため、部屋から出られないユダヤ人たちがいるので、私たちは、部屋には入れませんでした。それくらい彼らは、安息日の掟を守ります。しかし、イエス様はすでに安息日にも癒しなどの働きをされて、ご自分が来られたことの意味を実践されていたわけです。今日のみ言葉のユダヤ人たちも、イエス様のところに行くのに、日にちや時間の制限の中にいました。しかし、私たちの主は、24時間、私たちの訴えに耳を傾けて下さり、24時間いつでも私たちと語り合い、神のわざをもなさるのです!

2.イエスの権威による祈り
 8:16から、イエス様は悪霊に悩まされている人々から多くの悪霊を追い出し、解放されました。「悪魔」や「悪霊」という言葉を一般的に聞きますと、まず、漫画やホラー映画を思い起こします。しかし、聖書が語る悪霊の存在は、もっと人格的、霊的に私たちの心などに悪しきことを語りかけ、働きかける存在であり、悪霊の影響が大きいとひどい状況に陥ることがあります。
イエス様は、ご自分に与えられた権威により、命じるということをなされました。ツァラアトに冒された人に向かって「きよくなれ」と命じられたり、自然界においては、荒れ狂っていた波に向かっても「静まれ」と命じられて、波は静かになりました。それは、イエス様が一切の権威を与えられているからです。そして、イエス様を信じる民は、イエスの御名によって悪霊を追い出し、戦う権威を与えられています。使徒たちもイエスの御名によって「信仰による命令の祈り」をなさっています。ペテロは生まれつき足の不自由な人に向かって「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(使徒3:6)と命じて、男の右手を取って立たせています。イエスの御名を用いることは、しばしば「信仰の命令」として、聖書的な祈りであり、とりなしの働きにおいて重要な武器となります。悪霊たちは、イエスの御名の権威によって命じられた時、その命令に従わなければならないからなのです。神の御子として信じる者に委ねられている素晴らしい特権なのです。

3.人の病と神の癒しの関係
 聖書を読むと、人の病と神様の癒しのいろいろな関係を見ることが出来ます。①罪の結果 /中風の病を患った男は、罪が赦され、また病が癒されました。イエス様は病の癒し以上に罪の赦しの大切さを語りました。(マルコ2:1~12)では、今の自分の病気が全て罪の結果かというとそうではありません。②神の栄光のため/盲目に生まれたこの男性は、自分の罪でも両親の罪でもなく、神の栄光を現すためであったと聖書は記します。(ヨハネ9:1~3)また、③神の許容や試み/ヨブは、義人という点で、悪魔の訴えを神が聞かれ、信仰の試みを受けました。全財産を失ったり、子どもを亡くしたり、自分自身も皮膚に重い腫物を患いました。しかし、大きな祝福を得たのです。(ヨブ記)④悪魔の攻撃/パウロは肉体にトゲを与えられたとき、「私を打つためのサタンの使い」だと言いました。(Ⅱコリ12:7~10)では、癒されないのは、自分の信仰が足りないからでしょうか?しかし、聖書はそう単純には語りません。大使徒パウロは多くの人々を癒す器として用いられましたが、自分の肉体の癒しは願っても癒されず、神様から「あなたへのわたしの恵みは十分である。」と語られたのです。パウロはこの神の言葉を聞いた時、癒しよりも心の内に大きな主の祝福を頂いき、力を受けたことでしょう。ある人は、自分が病気になったが故に、それまで仲の悪かった家族の仲が逆に良くなり、病気であることさえ感謝したのです。つまるところ私たちは、肉体の癒しと共に、いえそれ以上に根本的な魂の癒しと幸いが必要な者です。

<Ⅲ 十字架の恵みの予表>
1.イザヤ書の成就
イエス様の癒しによる宣教は、旧約聖書の預言の成就でした。救い主なる方の特徴は、数百年も前から約束されています。この預言に注目すると、イエス様がどのようにして人々を癒されたが書かれています。患いを身に引き受け、病を背負ったとあります。(イザヤ書53:4)「苦難のしもべ」として来られた主の姿です。イエス様が、私たちの罪のために身代わりになって死なれたということは、よく知っている事ですが、実は病をも身代わりに受けられていたのです。メシヤである方は、癒しや奇跡を行うメシヤとしてのしるしがあります。イエス様は使命を持って来られ、そのメシヤとしての神のわざは、神の深い愛の心がそれほどまでに人々に向けられているためです。

2.十字架で病を背負われた主
イエス様は、十字架につけられる前に、鞭を受けられました。39回が鞭打ちの刑罰とされていましたが、鞭の先端には鉛や青銅の破片などが付けてあり、一度打つと、打たれた背中の肉が裂かれてしまいます。イエス様はこのような異常とも言える鞭打ちの苦しみをも通られたのです。ですから、私たちが人々のいやしのために祈る時、イエス様のこの身代わりの業の故に、癒しを体験することが出来るのです。主は、私たちの病を引き受けられたのです。
キリストは十字架上で、4つの血を流されたと言われます。それは「いばらによる血」「釘による血」「鞭の傷による血」「やりによる血」です。全身が血潮です。全身全霊で神を礼拝せよ、とか全身全霊で主の働きをせよという理由も理解できます。これら4つの尊い血潮が、私たちを「霊的な死」、「永遠の刑罰」、そして「罪の呪い」に関わる「病」などを癒し解放し、神の偉大なるわざによって「解放」を告げ知らせているのです。

<結び>
 私たちの神による癒しの信仰は、なかなか引き上げられないかもしれません。十字架上で神ご自身が、私たちの病を担って下さって流された、主の罪なき尊い血潮は、私たちが永遠に神と共に生きるためであり、この地上において神の御国の恵みと祝福を告げ知らせるものです。悪魔に打ち勝った勝利の十字架を称えて、イエス様への感謝の思いを新たにして頂き、癒しに対する祈りのいろいろな学びと実践を行って、共に信仰がより引き上げられながら、お互いの病や必要のために一緒に祈って乗り越えていきたいと思います。


あなたがたは地の塩です

2014-09-07 18:16:34 | 礼拝説教

2014/9/7礼拝説教
【テーマ】  クリスチャンとは?
【説教題】 「あなたがたは地の塩です」
【聖書箇所】 マタイ5:13
5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

○ 皆さんは「塩」から何を連想されますか? 梅干し、海、死海・・・

Ⅰ.塩は私たちに不可欠なもの
  A.甘く感じる塩
    1.塩をNaCL(塩化ナトリウム)として覚えた高校生の時の私。大人になって天塩を舐めたときに天塩ならぬ「甘塩」と感じたのです。もちろん塩辛いのですが、複雑な味があり、甘さまで感じ、とても美味しかったのです。その塩で握られた「塩むすび」がとても美味しく、ご飯をより美味しくしているのです。なんと塩の深みを感じた時だったでしょうか。
    2.イエス様の時代の塩はもちろん化学合成されたNaCL(塩化ナトリウム)では無く、色々なミネラルが含まれた天然の塩です。単に塩分というだけで無く、多くの栄養を含んだ塩だったと思います。
    3. あなたがたは、地の塩です と言われたイエス様。弟子たちには塩辛さだけでは無く、多くの栄養素を含んだ「塩」としてこの言葉を言われたのかも知れません。
   
  B.無くてはならない存在
    1.天ぷらを食べる時に塩をつけたら「通だね」と言われました。スイカには塩派、砂糖派、何もつけない派があるようです。ゆで卵はやはり塩ですね。塩は食事に欠かせないばかりか、塩分が不足すると体調が悪くなります。熱中症対策でも「水分だけでなく、塩分も摂取してください」と言われていました。
    2.塩は人間にとって無くてはならないもので、塩の無い地域はそれをはるばる遠くまで買い求めに行ったのです。イエス様は塩が人にとって大事なものであることを意識して、イエス様に従って来た弟子たちに言われたと思われます。
    3.あなたがたは、地の塩です というのは、イエス様に従う弟子たちは、この世に無くてはならない存在であるということを意味していたのではないでしょうか。

Ⅱ.塩は腐れを止める
  A.塩の働き:触媒として
    1.小学生の時、「科学」という本で紹介された「アイスキャンデーの作り方」に、氷に塩を入れると温度が下がり、試験管の中の水が凍ると書いてあり、その通りにしてみたら試験管の中の水が凍ったので、びっくりした思い出があります。塩はそれだけでは大した仕事をしないのかも知れませんが、氷に入れると一気に温度を下げるような不思議な働きをするのです。
    2.あなたがたは、地の塩です と言われたイエス様。クリスチャンが人々の中に溶け込むと不思議な働きが起こる、雰囲気が清くなるという働きをすることを言われたのでは無いでしょうか?
    3.この人がいると雰囲気が冷たくなるというのでは良く無いですが、イエス様はクリスチャンがその地域、職場、学校などでその空気を良くする存在としてくださったのです。
   
  B.塩の働き:腐れを止める
    1.さらに不思議だったのは、ナメクジに塩をかけるとナメクジが消えるのです。だからといって、点数の悪いテスト用紙に塩を振りかけても消えないのです。ナメクジも消えるのでは無く、縮むのですが・・・。そういう働きの他に食べ物を塩漬けにすると長持ちするように、腐敗菌の働きを抑えます。
    2.イエス様はこの地上を上から目線で支配しようとして来られた神様ではありません。この世に塩のように溶け込み、ナメクジを無くすように私たちの罪を消し去ってくださいました。そして、世の腐敗を止めてこられました。
    3.イエス様はご自身の塩の働きを、イエス様に従う人々に託されました。弟子たちには人を救う力はありませんが、世の腐れを止める力があることを言われたと思われます。

Ⅲ.私たちは地の塩
  A.塩けの無い塩は役に立たない
    1.しかし、イエス様が もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。 と言われたように、塩が塩けを失ったら、確かに困ります。ゆで卵に、小麦粉のような塩では美味しくないです。また、ナメクジにかけるとナメクジが大きくなるのでは困ります。腐れも止めないなら塩漬けの意味が無いです。
    2.死海は塩の湖ですが、その周辺は塩だらけだそうです。でも、美味しい塩だけで無く、食べられなくなった塩があるそうです。苦くて食べられないのです。人々は役に立たないので、道に放り出します。人に踏みつけられるだけで役に立たない塩です。イエス様はこういう塩のことを言われたのではないかと思われます。
    3.イエス様は全ての人が塩けのある塩であることを願われました。塩は少なくても、溶けて姿が消えるようなものであっても、その存在は人々に無くてはならないものです。
   
  B.「地の塩になりなさい」では無い
    1.そして、すごく大事な事は、イエス様は あなたがたは、地の塩です と断言なさったことです。決して「地の塩になりなさい」と言われたのではありません。クリスチャンというのはみんな「地の塩」なのです。
    2.地の塩になろうとしているクリスチャンが結構多いのです。それがため、やたらNaCLの辛さしかなく、あるいは苦くなって、人々から捨てられるのです。
    3.神様はイエス様を信じる人をすでに「地の塩」としておられるのです。イエス様にある人はその自然体が「地の塩」なのです。イエス様に信じ切っている人、委ねきっている人です。

● イエス様を信じる信仰にいのちをかけた「地の塩」としての先輩クリスチャンのお陰で今があるのかと思います。厳しい時代には、いのちをかけて信仰を告白したのですが、現代も「地の塩」としてのクリスチャンはたくさんいます。その人たちのお陰で職場が、学校が腐らずにいるのです。その存在自体が「地の塩」だからです。

★ この世は塩を必要としています。あなたも「地の塩」にしていただきませんか? イエス様を信じるだけで救われ、「あなたがたは、地の塩です」と言っていただけるのです。自分の努力でなるのではなく、イエス様の十字架の力がそうするのです。
  神様はあなたを「地の塩」としてこの世の中で有益な働き人となることを願っておられるのです。

● イエス様をご自分の神、救い主として信じる決心をなさいませんか?