バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

天国に国籍を持つ人々

2013-06-30 22:27:18 | 礼拝説教

2013/6/30召天者記念礼拝説教

【説教題】  「天国に国籍をもつ人々」
【聖書箇所】 ピリピ3:20-21
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

○ 村上知子先生が天に帰られて10年が過ぎました。村上知子先生の召天10年を記念してはいますが、天に帰られた一人一人を思い起こすと同時に神様の恵みを思い起こしたいのです。

Ⅰ.死後の世界
  A.扉一枚でつながっている世界
    1.今日、ここに集まられた皆さんは何らかの形で遺族となります。私達はみんなすでに亡くなった先祖がいて、その先祖によって今の自分があるのです。
    2.人は必ず死ぬということは、いまさら言うまでもないことです。また、多くの学者が遺伝子に組み込まれた「死」のDNAを探し、組み替えることで「死」を操作できないだろうかと考えてもいるようです。
    3.しかし、どんなことをしたとしても人は死にます。この肉体の死を遂げなければ次のステージに上がれないのです。村上先生はご自分の死に関して、明るく「扉一枚開けて向こうへ行くだけのことよ」と言われました。
   
  B.祖母の教え・地獄
    1.私の父方の祖母は、私が幼い時に地獄の話をしてくれました。この祖母はクリスチャンではありませんでしたので、どんな地獄の話かと言いますと、人は死ぬと必ずえんま様の前に出るのだと言うのです。そして、うそをついた人はそこで、舌を引っこ抜かれるんだと。子どもの私は恐かったです。絶対に舌を抜かれると思いました。何度も嘘をついていたからです。そして、次に針がいっぱいある山を裸足で歩いて登るんだと言います。話を聞いているだけで痛かったです。その山を越えると向こうにぐらぐらと煮え立った大きな釜があって、そこに放り込まれるのだと言います。「え、そんなとこに入れられたら死ぬやんか」と言って、祖母に笑われました。「あんたもう死んでるんやで」と。不思議な感覚が襲いました。死んで、ぐらぐら煮えたぎっている釜の中に入るということはどうなるんだろう? と。熱くて苦しくてたまらないままずっとそこにいなければならない。それが地獄だと教えられました。
    2.小学生の4年生頃でしょうか、もうその話を信じていませんでした。えんまさんなんかおるはずがない、地獄なんか無い、天国も無い、死んだら終わりや。たかが9歳や10歳でどこからそんな情報を得てきたのでしょうか? 
    3.ところが18歳でクリスチャンになって聖書を読んでいたら、ルカの福音書16章で、愛のない金持ちが死んでから炎の中で苦しんでいる地獄の様子が書かれているところを読みまして、ふと祖母の話を思い出したのです。えんま様も針の山も無いし、釜ゆででも無く、炎の地獄でなのですが、私にはこの聖書の地獄と祖母の地獄の話が妙に同じように感じられたのです。地獄はあるのです。
   
  C.祖母の教え・天国(極楽)
    1.祖母は天国(極楽)の話も一度だけしてくれました。でもあまり感激しなかったのです。「天国はお花がいっぱい咲いているきれいな花畑のようなところだよ」と。子どもの私は別に花畑なんかどうでも良かったのです。花より団子だったのでしょう。ですから、天国の話には感動しなかったのです。
    2.やはり聖書を読んで、黙示録22章に水晶のような美しい川があり、その両岸には美味しい木の実をならせる木がたくさんあり、神様の玉座があって、それは美しく、清らかなところであることが書かれているのを読みました。祖母の言っていた極楽の話と似ているなあと思いました。そして、この聖書に書かれている天国には行ってみたいと思いました。
    3.そして、村上先生も、私の父も、家内の父も、そんなすばらしいところにいるのだと思うと私はホッとするのです。

Ⅱ.聖書が言う天国
  A.天国から来たお方
    1.人は「地上にあっては旅人」と言われたりします。多くの人がこの地上だけで人生は終わらない、何かしら死後の世界を感じています。しかし、現実にはその世界から帰って来た人がいないだけに何ともわからないというわけです。
    2.しかし、イエス様というお方は、その国の玉座におられたお方です。そのお方が地上に来てくださったのです。詳しく天国や地獄を説明されたわけではありませんが、必要なことは全部教えてくださいました。
    3.村上知子先生は18歳で洗礼を受けられましたが、村上先生もこのイエス様のお言葉を信じられたわけです。そして、ずっと信じておられたので、ご自分の地上生涯を閉じる時にも、明るく「扉一枚開けて向こうへ行くだけのことよ」と言い得たわけです。
   
  B.本当に人々の求める世界
    1.今日お読みしたところには 私たちの国籍は天にあります。 とあります。私達は、「天に帰られた」と言っています。それはまさに自分の本来行くべきところだからです。
    2.この地上では自分や家族の身の安全が守られないとなると、他の国の国籍を取得したり、亡命したりもします。太平洋のある島国は海に沈んで無くなりそうになっているために、他の国に移住し始めたそうです。
    3.果たして人々が最も安心できる国はどこでしょうか? 世界一幸せな国は永遠に存続するのでしょうか? 昔から人々はそのような国をつくるために戦争してきたようです。変な話です。
   
  C.完全な体をもつ世界
    1.地上には絶対にあり得ない幸せの国。しかし、神様はその国をこの地上では無いところに用意してくださったのです。天国です。天に国籍を持つことができるというのは最高の幸せなのです。
    2.村上知子先生はじめ天に帰られた方々は、人々が最高の国として望んでいるその天を国籍としてもち、共に生活しているのです。その天国は キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。 とあるように、イエス様と同じようにすばらしい体に変えられているために、痛みや苦しみとは無関係になっています。
    3.このようなところにいることを思うだけでも私達は嬉しくなるではありませんか。体に痛みを抱えていた故人も障害をもって辛い思いをしていた故人も、みんな天国では完璧な体をいただくというのです。

Ⅲ.天に国籍をもつ人々
  A.愛に満ちた天国
    1.もう少し天国をお伝えしますと、天国は「愛」に満ち溢れた国であって、全く憎しみや恨み、悲しみや辛さの無い国です。なぜなら、そうした人間の醜い罪を解決するために、イエス様は十字架にかかって身代わりになってくださったからです。
    2.天に帰られた人々は誰一人として、地上の皆さんに対して恨みも憎しみも持っていません。仮に故人に対して、大変申し訳ないことをしてしまっていたとしても、そのすべてがイエス様の十字架で完全に罪が赦されたように、故人も天国では完全に赦せています。
   
  B.同じ国籍をもつ
    1.パウロが言った 私たちの国籍は天にあります と、私達もしっかりと告白したいものです。同じ天に国籍を持つ私達はその故人と出会えます。それも、最高の「愛」だけの心で出会えるのです。
    2.イエス様とつながっている人はみな同じ天に国籍をもつのです。皆さんの愛する故人は天国にいるのです。天国で皆さんと会えるのを楽しみに待ってくださっています。イエス様と共にです。

 

★ 天に帰った方々は最高に幸せなのです。聖書はそのことを教えています。私達も同じ幸せをいただこうではありませんか。


弱らない信仰

2013-06-23 17:40:42 | 礼拝説教

  2013/6/23礼拝説教
【説教題】  「弱らない信仰」
【聖書箇所】 ローマ4:16-25
4:16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。
4:17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
4:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
4:23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

○ 信仰を持っても生涯信仰を持ち続けるクリスチャンは日本ではどれくらいなのでしょうか? 迫害の無い時代になっていますが、信仰を持ち続けるのは困難なのでしょうか? 今日も登場しますアブラハムは信仰を貫き通した人であったと言えます。

Ⅰ.体が死んだも同然
  A.アブラハムも人間
    1.アブラハムが「全て神を信じる者の父」と呼ばれるのは実に素晴らしいことです。私達はその生涯において「彼の(彼女の)信仰生活はすばらしい」と言われるでしょうか? あるいは人生を終えて天に帰る時、地上におけるお別れの時、葬儀の場で何と言われるでしょうか? 私は私の信仰生活を人々からほめたたえて欲しいとは思いません。でも、私の恥ずかしいような生き方でも、もし神様のすばらしさが表されるのなら嬉しいです。
    2.アブラハムがその信仰において誉め讃えられるのは、彼が信仰を守り通したからではないでしょうか? 彼がサラを妹という箇所や、ハガルによって子を得ることなどは信仰的な話ではありません。こういうところがもし全くなければ彼は完全で、救い主になっていたかも知れません。彼が完璧な人ならイエス様と同じだったと言うことです。
    3.しかし、彼が素晴らしい信仰者であってもイエス様とは違い、私達と同じ罪人に過ぎなかったのです。ですから彼の信仰が神様に誉められるのはすごいことだと思います。そういう信仰を私達も持てるということなのです。
   
  B.年をとっても
    1.19節に アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。 とあります。ここで 、自分のからだが死んだも同然 というのは子どもをつくる事ができないという意味です。それはサラも同じでした。
    2.アブラハムは年をとって死ぬのを待つだけだったのでしょうか?聖書はそうは言っていません。むしろ、彼が年をとってから、さらに信仰に磨きがかかっていると言うのです。しかも、こんな年寄りになって信仰の訓練があり、試練があるのです。
    3.時々、年配のクリスチャンで「この年になって教会のために何もできなくて、早く天に召して欲しいです」と言われる方がおられます。しかし、アブラハムと同じように、その年になっても試練を受けながらも、神様を信じる姿は次世代への大きなお手本なのです。

Ⅱ.望みえないときに望みを抱いた
  A.お言葉だから信じる
    1.アブラハムは自分が死んだも同然であることを知っているわけで、いくら神様から子孫を約束されても、あり得ないと思えることでした。しかし、彼はそういう中で訓練を受けたのです。信仰の訓練でした。
    2.人間的に望みえないことでしたが、神様の御言葉だから信じるのです。「お言葉の通りになりますように」と言ったマリヤのように神様の言葉を信じるのです。
    3.アブラハムは自分の思いを超えたところで神様の言葉を信じたのです。
   
  B.ますます強くなる信仰
    1. アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。 と言われるのは何とすばらしいことでしょう。弱らない信仰が欲しいものです。
    2.それは神様からの訓練でいただくのです。信仰自体、自分で作ったわけでもなく、神様からいただいたものです。神様はその信仰にさらに磨きをかけてくださるのです。
    3.4:20-22 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。 と、ますます信仰が強くなっていくのです。何処かでこんな人になりたいと思いながらも、なかなか試練を感謝できないのも私達の姿です。


   
Ⅲ.私達の信仰も義と認められる
  A.復活のイエス様を信じる信仰
    1.アブラハムがこうして信仰が強められ、神に栄光を帰している姿は私達の模範なのです。普通では信じられないような時にアブラハムが神を信じたように、普通では信じられないイエス様の復活を信じる私達の信仰もまた、アブラハム同様、義とされるのです。
    2.私達は決して自分の信仰を卑下する必要はありません。中には聖霊のバプテスマを受けていない、異言で祈れない、聖書をまだよく知らない、何の奉仕も出来ていない、等々そうしたことで自分の救いさえ不明確になっている方があるとすればそれは本当に残念なことです。
    3.神様は 私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。 と、信じる信仰を喜んでくださっているのです。この復活のイエス様を信じる信仰によって義と認められるのです。
   
  B.堅く信じる信仰
    1.主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 とあるように、イエス様の復活はまさしく私達が義と認められることの証拠です。
    2.ペンテコステ以後、約束の聖霊が私達の内に住んでくださるというすばらしい恵みが全てのクリスチャンに与えられたのです。この聖霊は私たちの信仰を助けてくださる助け主です。聖霊は私たちに固く信じる力をくださいます。
    3.「聖霊に満たしてください」と願うのはまさに、イエス様を、神のお言葉をストレートに信じていく力を私達もいただきたいという願いなのです。

● 三浦綾子さんは死なれましたが今なお影響力のある方です。晩年、多くの病気の中にありながら、神様を信じ続けられた姿がどれほど多くの人の信仰を励ましたことでしょう。いや、ますます信仰は強まっていたのではないでしょうか。

★ 私達も年をとっていってもますます強まっていく信仰をいただきたいものです。神様によって信仰に磨きをかけていただく事を感謝しようではありませんか。


神にならう者(岡山伝道師)

2013-06-17 11:54:27 | 礼拝説教

2013年6月16日

■ テーマ: 神にならう者
■ 説教題:神にある愛と光、賢さを!
■ 聖書箇所:エペソ5:1~ 21

5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。
5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
5:3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。
5:4 また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。
5:5 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者──これが偶像礼拝者です、──こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
5:6 むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。
5:7 ですから、彼らの仲間になってはいけません。
5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
5:9 ──光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです──
5:10 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
5:11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
5:12 なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
5:13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
5:14 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。
  「眠っている人よ。目をさませ。
   死者の中から起き上がれ。
   そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
5:15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、
5:16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
5:17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
5:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
5:19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
5:20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
5:21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

<はじめに>
 今日は、エペソ書5:1~21のところからです。今回は、5章から「神にならう者」というテーマで、三つの観点を「神様の愛のうちに歩む」こと、「光の子どもとして歩む」こと、「賢い人として歩む」ことについて、語りたいと思います。

<Ⅰ:愛のうちに歩む>
1.愛の神にならう者となる
(5:1)パウロはここで、エペソの信徒たちが「神にならう者」となることを願っています。ここでの「ならう」は、ギリシヤ語では、「模倣する」とか「真似をする」という意味です。有名なモナリザの絵には沢山の模写があります。同時代の画家、ラファエロもモナリザを見て描きました。ラファエロは、ダヴィンチが描いたモナリザから何かを得ようとして、真似て描いたのでしょう。ラファエロの絵は、そっくりの模写ではありませんが、ラファエロ自身の個性が生きた画風です。そのように、私たちも、与えられた一人一人の個性が生かされつつ、本来、神のかたちに造られた者として、神様を真似て、変えられる必要があります。イエス様を信じて神様の愛を知ったならば、神の似姿へと変えられていくのです。期待しましょう。

2.キリストは犠牲の愛を示された
 (5:2)この箇所は、「神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおり」とあり、これは、十字架における死を指しています。これは旧約時代においては、生贄である動物が祭壇で焼かれる匂いです。(レビ1:9)イエス様ご自身が、生贄の動物のように、十字架の上で奉げられたのです。昔、私は「愛」について考えたことがありました。テレビである男性俳優が、「愛とは、無償の行為ですね。」と言っているのを聞いて、いいことを言うな~と思いました。聖書が語る愛とは、何でしょうか?イエス様が捧げられたいのち、これが私たちが知らなければならない「愛」です。聖書の「神の愛」を知って、私は初めて、「愛」について語ることが出来ると思いました。イエス様のこの愛を心に焼き付けていますか?このキリストの犠牲の愛を魂のうちに焼き付けなければ、私たちは、根本的に本当の愛のうちを歩めないと言えるでしょう。

3.この神の愛に応えよう
そして、この愛に応えていけるようになりたいと思います。1954年に、青森、函館間を渡る、同爺丸(どうやまる)という連絡船で起こった大参事の話しをします。この船は、台風による暴風と荒波に巻き込まれて、ついに座礁転覆してしまいました。犠牲者に二人の外国人がいたと言います。カナダの宣教師と、アメリカYMCAの宣教師です。千人を超える犠牲者の中で、多くの人は、救命胴衣を着けていましたが、この二人は救命胴衣を身に着けていませんでした。二人とも自分の救命胴衣を日本人に手渡して死んでいったのです。この二人の宣教師から救命胴衣をもらった日本人は無事に生還しました。親族が新聞社に伝えたことによって、「北海に散った使徒たち」と報道されました。イエス様の十字架における犠牲の愛の姿とは、このように自分の命をささげて、人を救うものなのです。この二人の宣教師は、イエス様の犠牲の愛の内を生き抜いた人たちでした。この宣教師たちのこの行動は、イエス様の十字架上での犠牲の愛を人々に示した、究極的な愛の姿でした。今、私たちにこの二人の宣教師のような愛を示せる場面も勇気もないかもしれません。しかし、イエス様の十字架の犠牲の愛をいつも、自分たちの心に、そして身に帯びる者でありたいと思います。そして、神様の愛に応える者となっていきましょう。

<Ⅱ:光の子として歩む>
1.暗闇から光へ移されて
イエス様のご愛を知った者は、光の子どもとして歩むことが、まず、神の愛に応えて歩むことです。(5:8)先月、うちの姉が上京して、一緒にあるミュージシャンのコンサートに行くことになりました。行ってみて、会場の照明のレベルの高さに驚きました。暗闇の美しいショーの連続でした。後半で、この暗闇の光の数々が全てなくなって、ただ真っ白い大きな光に会場が全て包まれた一瞬がありました。まるで、神様の光に包まれたようでした。神様の光が、世のいろいろな闇を包んだようで、会場全体が、平安と聖さの中に入れられたみたいでした。闇というものは、いくら手を加えても、どこか人間の心の奥底の不安に触れるようなものがあります。闇から神様の光の中に移されるってこんな感じだと思いました。私たちは、このような平安なる神の光の中へと入れられた者です。人間が神に背き、神に従わない人生を歩んでいること自体が闇です。自分たちでも気付かないほど、闇なる部分を好んでいて、霊的な汚れにも鈍い者でありましたが、光の子どもとしての歩みを喜びましょう。

2.汚れを離れ、聖さに生きる
光の子どもとして歩むときに、神の聖さを尊ぶようになります。(5:3~5:5)罪を知らない世界というものは、「愛」一つとっても聖さを知らないものです。ドラマや映画、小説などでは、男女の愛の不品行が美しいように語られます。しかし、「愛」を履き違えてはならないのです。聖書の愛は聖い愛の実践を語ります。聖い愛と汚れに満ちた偽物の愛は両立しません。また、男女の偽物の愛だけではありません。愚かな話しや下品な冗談さえも避けなさいと言っています。光の子として歩むとは、汚れから離れて神の与える聖い道を選ぶことです。神を悲しませるような思いや行動は、結局、神の御国を遠ざけてしまう要因となってきますし、自らの人生に闇と破滅を投じてしまうのです。不品行な汚れた人間の闇なる部分から、脱出しなければならないのです。「神は光であって、」と聖書は語りますが、神様の完全な聖さである光にならう者として歩んでいきましょう。

3.光の結ぶ実
 世の闇である汚れから離れていくときに、結果的に光の実を結ぶようになるのだと語ります。(5:9)「光の結ぶ実」これは、「聖霊の実」でもあります。私たちの内側も行いもどんどん変えられていっているということです。皆さんは変えられたいですか?このような実は、単に結果を出したということではありません。私たちの内側が変えられて初めて、周りに良い影響を与えていくのです。光なる種は、イエス様に従う時、善意と正義と真実という実を結ぶのです。闇は悪い実しか付けませんが、神様にならって、光の側をいつも選び取っていくと自然と、光の実を結ぶようになります。神様に繋がる者は良き実を実らせることが出来るのです。

4.明らかにする光
 5:11には、「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。・・」とあります。悪魔の暗やみのわざを明らかにすると、人は光のところに来るようになります。悪魔の暗闇のわざを明らかにされた牧師の話しを動画で見ました。この先生は、やくざからイエス様を信じて、牧師の道へ入れられました。ご両親が離婚して、不良仲間と付き合ううちに、悪いことから抜け出られずに、とうとうやくざになりました。刑務所生活を何度も送りました。しかし、福音を知って、イエス様を受け入れます。策略がひとたび明るみに出され、キリストという光を少しでも受け入れるとき、そのわずかな光は、巨大な悪魔の闇を制することが出来るのです。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」(5:14)なんと、力強い言葉でしょう。イエス様をまだ、受け入れていないという方は、どうぞ、イエス様に対して目を覚まして頂きたいと思います。

<Ⅲ:賢い人のように歩む>
1.神にある賢い人
このように、神の愛に生き、神の光の中を歩むことは、賢い生き方であると聖書は語ります。(5:15~17)いつの時代も悪い時代という意識を私たちは持つものですが、そんな悪い時代こそ、賢さを持ちなさいというわけです。ここで言う賢さとは、何でしょうか?学歴優秀で、勉強がよく出来ることでしょうか?処世術をいろいろと知っている人でしょうか?そうではありません。聖書の語る賢さとは、神の知恵に満ちていることです。聖書にある神の原則に立ちなさいという勧めなのです。ヤコブ書では、「上からの知恵」と「地に属する知恵」が書かれています。(ヤコブ3:14-16)「上からの知恵」とは、神さまから来るもので、平和で、寛容で、素晴らしいもので満たされています。神様は知恵に満ちた方です。この神の知恵を受け取り、神にならう者でありたいと思います。

2.神のみこころを求める
神様のみこころが何であるかをいつも悟る心を頂きたいと思います。神様の思いで満たされたいと思います。私たちが自分たちのやりたい放題だけを願って、神様のみ心が何であるかを求めないならば、肉の思いに振り回されてしまいます。イスラエルの民が、長い荒野での生活でマナに食べ飽きて、肉が食べたいと不平を言いだします。肉を食べたものの結果的に多くの民が神の怒りによって死んでしまいました。神様はこのような、不平に満ちた肉の願いにも応える方ですが、しかし、みこころを求めない生き方は結果的に、神様に喜ばれない、神様の用意した計画のうちを歩めなくなります。ですから、聖霊を求めて、神様の教えにしっかりと結びついて、神の知恵ある賢い歩み方を一緒に求めていきましょう。

<結び:御霊に満たされなさい>
(5:18~19)御霊に満たされて歩む、これは、「神の知恵の極致」であると語られます。神様のご愛を知り、光の子どもとして歩み、神の賢さを知ることは、神の知恵に満ちた歩み方です。聖霊は神の知恵の全てをお持ちなのです。ですから、聖霊と共に歩んで、聖霊の大きな助けが私たちには必要です。私たちの力は全く当てにならないからです。神様にならう生き方をして、今の時代を生き抜く神様の愛と知恵、神の一切の良きもの満たされたいと思います。


ノアの箱舟 扉を閉めたのは誰

2013-06-02 19:28:54 | 礼拝説教

2013/6/2礼拝説教
【説教題】  「箱舟の扉を閉めたのは・・」
【聖書箇所】 創世記7:1-5、15-16
  7:1 【主】はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。
7:2 あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、
7:3 また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。
7:4 それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。」
7:5 ノアは、すべて【主】が命じられたとおりにした。

7:15 こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところに入った。
7:16 入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、【主】は、彼のうしろの戸を閉ざされた。

○ 私は4歳頃のこと、どんな悪いことをしたのか覚えが無いのですが、夜に縁側の雨戸を開けて外に放り出された経験があります。雨戸が閉じられ、どこからも家に入れなくて、泣きながら「あけてー」と叫んだことだけ覚えています。扉が閉じられるというのは恐ろしいことです。ノアの時代に、彼が造った箱船も多くの人々に対して、その扉は閉じられてしまいました。

Ⅰ.なぜノアは箱船を造ったのか?
  A.本当にノアの箱舟は存在した
    1.ノアの箱舟は本当に存在したのかということはいつの時代にも話題になるようで、その残骸でも発見されれば世界的な大発見でになります。ある学者達はロシア領のある山地にそれらしきものがあると見て研究しています。
    2.単なる神話だと言う人たちは、その理由を次のように挙げています。ノアとその家族だけでそんなにも大きな船を造ることができなかったということ、あらゆる動物を入れるのは不可能だということ、そんな世界規模の大洪水はあり得ないということなどです。
    3.しかし、科学の進歩によって、返って箱船が造り得たことや、動物も種類に従って増えていくので箱船に入った動物で現在の世界中の動物の存在も可能だということ、大洪水は世界中に起こった痕跡が見つけられるということなどから、聖書の話は正しいと言われるようになりました。
   
  B.箱船の目的
    1.では、こんな巨大な箱船が何の目的で造られたのでしょうか? それは当時の人間は大変罪深く完全に神を離れて、子々孫々にまで悪影響を与えるから、神様はこの段階で裁きを行い、罪深い人間を絶やすためでした。
    2.しかし、地上には正しいと言える人がいました。ノアとその家族合計8人です。神様はこの8人は滅ぼすことを避け、彼らから新しく信仰の人々を生み出すことを計画されました。
    3.この8名と動物を残すために神様は見事な計算の上で、サイズを指定してノア達に造らせたのです。この箱船の縦・横・高さの比率は現在のタンカーにも応用されている安定した舟のサイズです。
   
  C.ノアは命じられたとおりに造った
    1.ノアは神様に命じられたとおりに造りました。箱船はどれくらいの年月かけてつくられたのでしょうか? とても長かったと思います。天地を創造された神様ですから、神様が箱船を瞬時に造って、ノアに与えることが出来たのに、神様はノアに造らせたのです。
    2.ノアが神様を信じていたことはこの箱船の建造ということからみてもわかることです。信じるというのは神の言葉に従うと言うことなのです。そして、従う時には決して楽なことばかりでは無いということです。
    3.しかし、救われるためには命がけですべきこともあるのです。どんなに悪いことをしていてもイエス様の十字架で救ってもらえるからとあまりに軽いのは問題ですね。

Ⅱ.箱船に入ったのは誰?
  A.神の言葉を信じる人は皆入ることができた
    1.箱船が完成するまで、人々はこんな山の上に大きな船を造っているノアを見てバカにしていました。誰も大雨が降るなんて信じていません。ところが、そんな人々の嘲笑をものともせず、箱船を完成させた時には、さすがに人々も笑ってはおれなかったのでは無いでしょうか?
    2.長い年月かかったのですから、他の人々にも悔い改めるチャンスはたっぷりあったということなのです。しかし、結果的に箱船にノアの家族しか入っていないことを見るとやはり誰も悔い改めなかったということです。
   
  B.入ったのは結局8人と動物
    1.7:1 【主】はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。 と、神様はノア達だけを認められ、箱船に入るように言われたのです。人間の代表はノアとその家族の8名でした。船という字が「舟」に「八」と「口」と書くのはここから来ているという人がいます。
    2.この大きな箱船に8人だけではありませんでした。色々な動物がつがいで入れられました。その動物たちはノアがあちこちから集めるのではなく、自分たちでやって来たのです。

Ⅲ.箱船の扉を閉めたのは誰?
  A.遂に時は来た!
    1.全ての準備が整って、ついに時が来ました。箱船の扉が閉まりました。これはノアが閉めたのではなく、神様が閉められたのです。扉の開け閉めの責任者は神様であって、ノアではなかったのです。
    2.洪水になって初めて命の危険を感じた人々は箱船のところに来て「開けてくれー」と叫びましたが、ノアには開けることができませんでした。それは神の許し無しには開かない扉なのです。
   
  B.終わりの時は必ず来る
    1.やがてこの地球に終わりが来ます。それが早いのか、私達の寿命がさきなのかわかりませんが、いずれにしても私達は人生を閉じなければなりません。その扉の責任者はあなたではなく、神様です。
    2.人は必ず死にますが、この地も終わりを迎える時が来ます。地球の誕生は46億年前などと気の遠くなるような年数が言われ、地球が滅ぶのも何億年も後と言われるので、私達は「自分は大丈夫」と思い込みやすいのです。
    3.しかし、ノアの時代、私達と同じように思った人たちが、箱船の扉が閉められて入れなかったのです。今度は大洪水では無い、終わりが来るようです。
   
  C.イエス様を信じるだけ!
    1.神様はイエス様を箱船の代わりとされました。イエス様を信じる者はみんな救われます。箱船を造れとは言われません。「イエス様を信じなさい」だけです。
    2.神様はイエス様の十字架ですべて私達の罪の問題を片付けてくださっていますから、このイエス様が私の救い主だと信じるだけで良いのです。

● 死海は塩分濃度が28%もあるそうで、魚が住めません。ところが、一カ所だけ魚が普通に住んでいるところがあるというのです。一か所だけ真水がすごい勢いで湧き出しているので、そこに住む魚は生きていられるらしいのです。回りは死の海なのに、そこだけ守られているのです。大洪水の時、全てが死の海と化しましたが、一カ所だけ箱船だけは命の場所となったのです。

★ イエス様の十字架という箱船に入ると生きるのです。
 あなたもイエス様をあなたの救い主と信じませんか?