バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

正しく生きる人が増えた日

2020-05-30 09:17:23 | 礼拝説教
2020/5/31礼拝説教
【テーマ】  ペンテコステの恵み
【説教題】 「正しく生きる人が増えた日」
【聖書箇所】 使徒2:37-42
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
2:39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
2:40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
2:41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
2:42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。

○ 今日はペンテコステの日です。人類の歴史ですごいことが起こった日です。
 
Ⅰ.一気に信者が増えた
A.神に選ばれた日
1.過越の祭から50日が経って、ペンテコステの祭。ユダヤの人々はエルサレムに集まっています。2000年前のこの日がなぜ選ばれたのでしょうか? 現代に起こったなら、一気に世界中に広まって、あんな大変な目をしなくても世界中の人々にキリストが、聖霊が伝えられたと思うのです。神様は時代を見る目が無かったのでしょうか?
2.しかし、神様はこういう何も無いところから始められるお方のようです。ペンテコステの祭というユダヤ人が集まる日になさるのですから、これもまた神様の不思議なご計画だなあと思います。私たちには神様のご計画、お考えというのはわからないものです。
3.私たちの人生を振り返っても同じようなことがあるのではないでしょうか。神様はすばらしいことをしてくださるかと思えば、なぜこんな事が私の身に起こるのだろうかと思うような辛いことも起こるのです。神様のお考えはわからないですね。

B.イエスがいなくても人は救われる
1.ペンテコステの日からほんの少しで信者の数が一気に増えました。41節には3000人と書いてあります。そして、どんどん増えていきました。聖霊の働きというのはそういう面をもっています。爆発的な働きをなさるのです。
2.この聖霊に燃やされた弟子達に人々の心は打たれました。燃える弟子達の異言を聞き、ペテロの説教を聞いて人々は変わるのです。イエスがそこにおられなくても、イエスの説教を聞いて多くの人達がイエスに着いてきたように、弟子達の言葉で人々は変わったのです。

Ⅱ.どのようにして救われたか
A.間違いに気付くこと
1.ペテロの説教を聞いた人々は心に大きな変化が生じました。自分たちが十字架刑にした、あのイエスがキリストだったということに気付きました。とんでもない間違いをしていたことに気付いたのです。
2.間違いは誰にでもあります。気付かずに過ごしているのは問題です。私はかつてある人の電話番号が-6632なので「ろくろくさんじゅうに」と覚えてしまいました。そのため、計算で大間違いをしました。6×6=32で計算したからです。しかも、なかなか気付かないのです。思い込んでいるからです。友だちから『ろくろくさんじゅうろくだろ」と言われて初めて気付いたのです。テストだからよかったものの、もっと大事な計算だったら命取りになっていたかも知れません。
3.人々は命取りの間違いに気付いたのです。そこで、人々は 「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」 と聞いてきました。まず、間違いに気付くことですが、気付いたら当然どうすればよいのか考えなくてはなりません。

B.悔い改めること
1.ペテロは彼らの間違いに対して実行すべき正しい答えを言います。 「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」 と。
2.このペテロの回答は短い中に全てが語られています。罪が赦されるためには「悔い改める」ことです。間違っていることに気付いてもそこで立ち止まったままではダメです。悔い改めとは、正しい方向に向きを変えて進むことをいうのです。

C.イエスを信じること
1.そして、 イエス・キリストの名によってバプテスマを受け るのです。 そうすれば、賜物として聖霊を受け るのです。当時はイエスを信じるとすぐにバプテスマ(洗礼)を受けていましたから「バプテスマを受ける」と言えば信じることを言い表していました。そして、信じる人は皆聖霊をいただきます。
2.しかもすばらしいことに 2:39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」 とあるように、誰にでも与えられます。信じる人皆聖霊をいただけます。ただ、聖霊に満たされることは求めていかねばなりません。

Ⅲ.曲がった時代から救われよ
A.曲がっていない時代はあったのか
1.ペテロは ほかにも多くのことばをもって証しをし たようです。悔い改めた人々にイエス・キリストのことがよくわかるように証をしたのです。私たちの証がいかに大事かということがわかるではありませんか。
2.そして、 「この曲がった時代から救われなさい」 と言って人々が信じる決心をするよう励ましました。その当時は 曲がった時代 だったようです。では、今の時代は真っ直ぐな時代なのでしょうか? 現代はイエス・キリストを信じなくても救われるのでしょうか? 人類の歴史の中で曲がっていない時代はあったでしょうか? 残念ながらそんな時代はありませんでした。

B.人々は真っ直ぐに生きたい
1.「理想は正しく生きることだけれど、そんなことはこんな時代には無理だ。現実を見ろよ。現実を!」などと曲がって生きていくことが現実的だと言う人も多いようです。しかし、そういう人でも「理想」として真っ直ぐ生きる道を知っているとすれば、それを求めて欲しいものです。
2.曲がった時代、曲がった道、決して人は好きでは無いのですが、罪というのはそれを行くしかないように思わせてしまうものです。それがサタンの目的です。そこから悔い改めて正しい道を行くのは正しい道であるイエス・キリストに従うことです。
3.ペテロの説教を聞いて人々はそれを実行しました。 2:41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。2:42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。 というすばらしい教会が誕生したのです。

● 私は新中野教会に来て間の無い頃、自転車で杉並区役所に行きました。行きは青梅街道沿いに走ったのですが、帰りはもっと人通りの少ない道を走りたいと思い、一本南の道を走りました。ところが走っても走っても教会に着きません。ついに方向を間違えていると気付いたのですが、道を知らないし、今みたいにGoogleマップもありません。やっと地図を発見して、確かめてみるとなんと私の走ってきた道は真っ直ぐ東に向かっているのでは無く、どんどん南に曲がっていたのです。

★ 人は自分の考えだけで正しい真っ直ぐな道を進むことはできないものです。イエス・キリストが道です。ペンテコステの日、曲がった時代から救われて真っ直ぐに生きる人達が続出しました。今もそれは起きます。聖霊に満ちて福音を語らせていただきましょう。

キリストってすごい

2020-05-23 06:48:09 | 礼拝説教
2020/5/24 礼拝説教
【テーマ】  キリストは教会の頭
【説教題】 「キリストってすごい」
【聖書箇所】 エペソ1:20-23
1:20 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、
1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。
1:22 また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。
1:23 教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

○ 新型コロナウイルスの問題で私たちは礼拝会を中止しました(礼拝を中止したわけではありませんので、気をつけてください)。そして、皆さんが教会堂に集まることができなくなりました。しかし、教会・エクレシアは成長し続けたと思っています。その証拠に、皆さんが自主的に交わりの方法を考え出してくださいました。電話、メール、zoom、Skypeなどを駆使してくださって、交わりを欠かさないよう励んでくださいました。教会堂はガラーンとしているのですが、教会・エクレシアは活気があったのです。考えさせられるではありませんか。「教会とは何か?」「礼拝とは何か?」そういう中で「エペソ人への手紙」というのは、パウロが教会とはどのようなものかを語っている手紙でもあるので、大変参考になると思います。今日、その3回目です。
 
Ⅰ.全ての上に立つキリスト
A.大能の力をいただいた方
1.皆さんは神の力をどのようなところで感じるでしょうか? この自然界を造られたすごさ、宇宙を考えると気が遠くなるような思いさえする神の力です。あるいは私たちの祈りを聞いて病気を治してくださった経験を持つと奇跡を起こされる神の力を感じるかも知れません。
2.パウロはこの20節で この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ と言って、キリストを復活させた力を讃えます。「死」を克服した人間は一人もいません。神が復活させたのはイエス・キリストだけです。
3.このイエス・キリストをよみがえらせたのは単なる奇跡を見せびらかすためではありません。復活によって、キリストを 天上でご自分の右の座に着かせ とあるように、人としての働きを終えて神の座へと呼び戻されたのです。

B.神の右の座に着いた方
1.この御座に着かれたキリストは教会の頭となられました。頭というのは日本風に言えば「親方」であり、この方が法律です。この方の言うことに完全に従わねばならないのです。皆さんは従っておられますか?
2.教会というのは死に勝利した者の集まりであり、復活されたキリストがその頭としておられるところです。つまりキリストの十字架による救いのわざこそが神の力であり、教会はその神のわざ、神の力を体験した者の集まりです。
3.教会は罪人の集まりに過ぎないのに、神は何とこの教会を愛しておられることでしょうか。詩篇8篇、ダビデの賛歌はそのような神の愛と偉大さを謳っています。詩篇 8:4 人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。8:5 あなたは人を御使いよりわずかに欠けがあるものとしこれに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。8:6 あなたの御手のわざを人に治めさせ万物を彼の足の下に置かれました。

C.全ての上に立つ方
1.教会の頭であるキリストはただ単に教会だけの頭なのでしょうか? 誰もがわかっていることですが、全宇宙、全被造物の頭です。キリストの権威、権力の中で全ての被造物は生かされ、また動いています。 1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。 
2.かつてそれぞれの国を王が支配していましたが、その支配力はその国の中だけです。他の国にあっては何の権威も無くなり、むしろ敵とみなされてしまうのです。しかし、キリストは全ての頭なのです。このお方の配下に私たちはいるということを忘れてはならないのです。

Ⅱ.キリストと教会
A.教会の頭であるキリスト
1.教会は「エクレシア」つまり、「神に召し集められた者」です。旧約でイスラエル民族はアブラハムを頭とした神の民でした。それは神の計画を実行するために召し集められた民族だったのです。新約ではこの「集団」を「エクレシア」と呼びました。
2.福音書に「教会」という言葉が出てくるのは2箇所だけだと思います。ペンテコステ以後までキリストの教会というのは存在しなかったからです。ですからイエスはペテロの信仰告白に対して マタイ16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。 と、言われたのです。
3.イエスが わたしの教会・エクレシア(集まり、集会、議会) と言われたのですから、教会はイエスのものなのです。

B.教会はキリストのからだ
1.キリストは教会の頭ですが、教会だけでなく万物を従わせられました。それは私たちの主であり、私たちのために万物を用いてくださると言うことでもあります。カルヴァンは「我々が弱い時には、キリストの力を頼めばいいし、我々に恵みが欠けているならば、必要であると思うものを与えてください、とお願いすればいいのです」と言っています。それがキリストが万物の主となられた、ということの意味なのです。
2. 1:23 教会はキリストのからだであり、 とありますが、私たちはどこまでキリストと教会の関係を知っているでしょうか? 口では「キリストは教会の頭です」というかも知れませんが、脳の指令で動く体の各器官のように従っているでしょうか? からだと頭の関係をパウロはコリント教会への第一の手紙12章で詳しく語っています。

C.教会はキリストで満ちている
1.さらに、 1:23 教会は・・・、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。 と書いてあるのです。つまり、教会にはキリストが満ちているということです。教会はキリストのなさることが満ち満ちているということではないですか。
2.世の中に神の思いを実行する集団・エクレシアは教会以外に無いのです。教会・キリストのエクレシアだけがキリストの満ち満ちているところだからです。真の救いをどの団体が語ってくれるでしょうか? 教会だけです。教会が黙れば救いは語られなくなります。

★ 神は私たちのような不完全な者を召し集めてくださって(エクレシアです)、その親方・頭としてキリストをくださいました。キリストは万物の上に立つお方です。全世界の王なるキリストを頭とした私たちは何と幸せ者なのでしょう。私たちは幸せ者なのです。


聖霊ってすごい

2020-05-16 06:49:56 | 礼拝説教
2020/5/17礼拝説教
【テーマ】  救いの保証
【説教題】 「聖霊ってすごい」
【聖書箇所】 エペソ1:13-19
1:13 このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。
1:15 こういうわけで私も、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛を聞いているので、
1:16 祈るときには、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています。
1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、
1:19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

○ あと2週間でペンテコステです。今年は5月31日です。すごいことが起こった日ですが、その張本人、聖霊はすごいお方なのです。その一端を見ていくことにしましょう。
 
Ⅰ.聖霊による証印と保証
A.聖霊の証印
1.私たちアッセンブリー教団の教会教育部(CE部)というのは理事会の承認の元で活動をしているのですが、その活動のためにCE部は話し合いをしてこれでいこうなどと決めて会議の報告書を提出します。そこに承認印が押されないとその会議でしたことは認められていないことになります。同じく、契約書でも証印がなければただの紙切れでしょう。
2.「証印」というのは、当時手紙などに用いられた封印の印章です。それが押されていることで文書の内容の真正性を証明していたのです。私たちもハンコをつきますが、それはその内容が正しいということの証明のためです。
3.今日のテキストでは 約束の聖霊によって証印を押されました とあります。私たちには「聖霊」という証印があるということです。これは天国で認められるために必要なもので、聖霊無しにはどんなに立派な人であっても天国に入れないということになります。

B.聖霊は保証
1.そして4節に 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です とあります。聖霊による証印が押されている人は契約が成立しているので、天国入れるだけでなく、天国を受け継ぐのです。
2.ここでいう「保証」は「手付金」を意味する言葉であったそうです。手付け金によって取引が成立し、後に全額が支払われてその契約が果たされることになります。同じように私たちはこの地上で聖霊を受けることによって、後に行く天国が保証されているのです。
3.ローマ書にこんな御言葉があります。 ローマ8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。 聖霊によって私たちは神様を「父」と呼べる関係にしていただけたのです。天国という実家に帰れるのです。なんと聖霊はすごいのでしょう。

Ⅱ.パウロの願い
A.知恵と啓示の御霊をくださるように
1.このすごい聖霊はただ天国へ入るために必要な神様というのではありません。さらにすごいお方なのです。パウロはこう言います。 1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。 と。
2.私たちは救われたからといって、神をしっかりと知ったわけではありません。それでも喜びや感謝は今までとは違って大きくなっているのですが、神を知るともっと大きな変化へとなっていきます。人生が変わります。

B.心の目がはっきり見えるように
1.そのためにパウロは 1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、 と、心の目がはっきり見えるようになることを祈っています。心の目がはっきり見えないと信仰もおかしくなります。黙示録3:14-21に書かれているラオデキヤの教会はその心の目がよく見えなくなっていました。そこで神は 黙示録3:18目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい と言われるのです。
2.そして何を見るべきなのでしょうか?  神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、 とパウロは言っています。天国がどれほどすばらしいかということを見なければなりません。厭世的になる必要はありませんが、天国に魅力を感じないでこの地上にばかり目が行くのはどうかと思います。

C.神の優れた力を知ることができるように
1.さらにパウロは 1:19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。 と願っています。新共同訳では 1:19 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。 と訳しています。まず、神の力はものすごいのだということです。ここにはダイナマイトの語源である「デュナミス」、エネルギーの語源である「エネルゲイア」が使われるほどにそのすごさを強調しています。
2.そのすごい力を神はお持ちなのですが、その力がクリスチャンには働くというのです。ハンドパワーでしょうか? 祈りの力でしょうか? 賛美の力でしょうか? 確かに使徒3章に出てくる足の不自由だった人はペテロの言葉で癒やされました。16章ではパウロとシラスは牢獄に入れられましたが、賛美と祈りの内に地震が起こり、獄の戸が開かれました。まだまだあります。
3.そうした力もそうですが、ステパノが死を前にしてイエスのように天を見上げることができたような力もあります。平安を持つ力、神と人を愛する力もそうではないでしょうか。こうした力を知って欲しいとパウロは祈るのです。つまり、私たちもそれを受けるように祈るべきではないでしょうか。

★ この地上では私たちは寄留者ですね。だからといって国籍を持たないのではありません。天に国籍をいただいています。聖霊はその証印がであり、保証です。このお方は私たちに父なる神がどのようにすごいお方かを示し、その力をも体験させてくださるお方です。本当に聖霊はすごいお方です。

パウロの挨拶文がすごい

2020-05-09 07:43:51 | 礼拝説教
2020/5/10礼拝説教
【テーマ】  神の選び
【説教題】 「パウロの挨拶文がすごい」
【聖書箇所】 エペソ1:1-12
1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。
1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
1:4 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
1:5 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
1:6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
1:7 このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
1:8 この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、
1:9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、
1:10 時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。
1:11 またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。
1:12 それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。

○ 今日から観ていきます「エペソ人への手紙」は、パウロがローマで投獄されていた時に書いた手紙なので、獄中書簡と呼ばれます。獄中書簡は四つあって、後の三つはピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙です。
 
Ⅰ.私たちは選ばれていた
A.パウロは神に選ばれていた
1.最初の挨拶文の中で差出人であるパウロが自分のことを 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒 と言っています。「みこころ」ということば、原語の「セレーマ」θελήμαには、「喜んで」というニュアンスが含まれていますので、パウロは神に喜ばれているということを表しています。
2.パウロの召命を思い起こしましょう。使徒9章のところで彼は突然ら目が見えなくされてイエスから声をかけられます。クリスチャンを迫害していたパウロがイエスに出会い悔い改めてクリスチャンになります。しかも伝道者になるのです。そのような自分の体験から、彼は神に選ばれている、喜ばれていることを確信していました。

B.私たちも選ばれていた
1.パウロはこの挨拶文で宛先を キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ としています。これはまたエペソ教会のクリスチャン達が神に喜ばれているからこそ言える言葉でしょう。彼らも神に選ばれている人達でした。
2.同じく私たちも神に喜ばれています。選ばれているのです。その確信がある人とない人があったとしてもです。そのことは5節にあるとおりです。 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました と。

C.選ばれていることの恵み
1. 神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました とあるように、選ばれている私たちはパウロと同じ霊的祝福をいただいています。霊的祝福とはこの地上の得と思えるものとは違います。それは永遠の命であって「救い」です。まさに福音です。それは7節に出てきます。 このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。 と。
2.私たちの選びというのは生まれてから選ばれたというのではなく、 1:4 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、 という選びです。時間を超越した神の選びなのです。

Ⅱ.選ばれた目的とは
A.聖い者とするため
1.病院に行くのは病気を治すためという目的があります。そのためには医師の指示に従い、薬を飲んだり、生活習慣を改めたり、時には手術もあります。神が私たちをクリスチャンにされたのも目的があります。
2.それは世の人とは違うことを示すためです。 この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。 とあるように、私たちを世には無い聖い人間にしようとされたということです。
3.クリスチャンになる前は、私たちも世の人でしたから汚れのまま生きていました。しかし、クリスチャンになったということは世には無い新しい命をいただいたので、新しく生きていることを世が知るのです。

B.神の栄光をほめたたえるため
1.パウロや私たちが選ばれたのは、6節にあるように それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。 とあるように、神の栄光が讃えられるためです。
2.私たちは恵みによって救われましたが、決して聖書は恵みに留まっていて良いとは言っていません。恵みをほめたたえる者となることを要求しているのです。
3.私たちを聖い者にされたのは、いかに福音がすばらしいかということを示すためです。私たちの罪・汚れがいかに醜いものであるかを激烈に覚え、そこから離れたいという強い意志を持たせてくださって、神の栄光をほめたたえる者とされたことを示すためです。

C.一つに集められるため
1.キリスト教用語で「贖い」というのがありますが、一般的に使わない言葉だけにその意味がわからない人も多いです。これは信仰によってその意味がより深くわかる言葉です。「贖い」の一つの面はリデンプション(Redemption)「買い戻す」こと、そして権利を回復するという面です。
2.もう一つは「アトーンメント」(Atonement)で、キリストにあって、すべてのものがひとつにされ、いやされ、回復し、調和と平和を取り戻すことを意味しています。
3.神は最初イスラエルを通して全ての人に神への立ち返りを計画されましたが、失敗したイスラエルに代えてクリスチャン、教会をその働きのために用いられています。私たちは人々を一つ福音の中に集める仕事をしているのです。

★ エペソ人への手紙の挨拶文はこれだけで私たちがどれほど神に愛されているのか、しかもただ愛されているだけでは無く、神の私たちに対する期待が感じられる文なのです。



ここに愛があるのです

2020-05-03 06:36:37 | 礼拝説教
2020/5/3 礼拝説教
【テーマ】  神は愛のお方
【説教題】 「ここに愛があるのです」
【聖書箇所】 Ⅰヨハネ4:7-11
4:7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

○ 聖書で基本的に愛という言葉は「アガペー」というギリシャ語です。ギリシャ語には日本語に「愛」と訳される言葉が4つありますが、その中で一番高尚とされる愛が「アガペー」です。神の愛を表すにはこれが一番適当だったということでしょう。実はこの「アガペー」という言葉が台座に刻まれた彫像が東京駅南側の広場にあるらしいです。
 
Ⅰ.人は愛を必要としている
A.人に必要なもの
1.人は生きていく上で空気や水が必要なことは言うまでも無いことだと思います。もう少し付け加えるならば、より健康的に生きるためにはバランスの良い栄養を必要としていますし、良い睡眠も必要です。また、からだを動かすことも必要でしょう。
2.一方、心も必要としているものがあります。聖書の中には 箴言4:23 何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。 という御言葉があります。心を守ることはとても大切なことです。あなたは心を見守っていますか? 心にも健康になるものを与えなくてはなりません。

B.あなたの心はきれいですか?
1.家の中はきれいであっても、心の部屋がねたみや憎しみなどが満ちていて汚いままの人がおられます。罪に汚れたままの心では幸福にはなれません。きれいな心になるには愛が必要なのです。愛が無くては幸福にはなれません。
2.ある金持ちのお嬢さんが小児麻痺で入院したのだそうです。その女の子の誕生日、外国から誕生日プレゼントが届いたそうです。旅行中の母親からです。看護師さんはその箱を開けて「何と素敵なプレゼントでしょう」と言ったのですが、女の子は泣き出しました。「こんなプレゼントなんか欲しくない。お母さんにいて欲しかった」と言ったのです。

Ⅱ.人の幸福を奪った罪
A.幸せにしてくれると思った勘違い
1.人がどうして愛を求めているのかというと、愛がいのちの力だからです。現代の物質中心主義、科学万能、というような時代にあっても金や物で満たされないところがあるではありませんか。何億円も儲けたから妻を愛することができるようになったという話は聞いたことが無いです。
2.また、どんどん知識が入り込み、パソコン、スマホで何でもできるかのようになってきていますが、それが本当に人を幸福にしているでしょうか? ノーベルがダイナマイトを発明した時も「これで鉱山を掘り進めることが楽になった」と喜んだのも束の間、ダイナマイトは戦争に使われるようになってしまいました。

B.幸福を奪ったもの
1.本当に人を幸福にするのは愛です。色々な悩みがあると思います。夫婦の悩み、家族の悩み、学校・職場の悩み、経済的悩み、病気の悩み、等々。しかし、それらにも答えてくれるのがキリストの愛です。
2.私たちが悩むのは、私たちが罪人だからなのです。世の法律に対する罪人というのではなく、神に対する罪人ということです。そのために神からの祝福や恵みは十分受け取れなくなってしまったのです。
3.この人間に染みついている罪。長い人類の歴史で解決できないでいる罪。これが人から幸福を奪いました。この解決は「愛」にあるということも感じている人はたくさんおられるのですが、その愛をどうすれば自分のものにすることができるかがわからないのです。

Ⅲ.幸福を取り戻す愛
A.イエス様に愛がある
1.聖書がその答えを教えてくれます。聖書に ここに愛があるのです と書いてある愛は、どこにあるのでしょうか? イエス様にあるのです。どんな愛かというと 4:9-10 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 です。
2.イエス様を知ることで愛がわかるのです。それはイエス様が私たちのためにどんなことをしてくださったかを知ることです。私たちから幸福を奪った罪を解決するために身代わりに十字架にかかってくださったイエス様です。このイエス様にこそ愛があります。

B.イエス様を心に迎える
1.私たちは十分人を幸福にできるような愛をもっていません。しかし、 4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。 と言われているように互いに愛し合うことができたなら、幸福が満ち溢れます。互いに愛し合うためには、神の愛をいただく必要があります。
2.その愛は求めれば与えられます。「愛」そのものを求めるのですが、愛は神様にあるのです。イエス様にあるのです。このお方を求めるのです。イエス様を心にお迎えすることで私たちも愛をもつことができ、互いに愛することができるようになります。
3.ただ、 互いに愛し合うべきです という命令形ですので、私たちも全力を付くす必要があります。イエス様は私たちを幸福にするために命をかけてくださったのですから。

★ 神はあなたを、そしてあなたの家族も幸福にしたいと願っておられます。その秘訣は愛です。それはイエスを迎えることから始まります。あなたもイエス様を心に迎えませんか。