バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

法律の裏側にあるもの

2022-06-30 08:29:52 | 礼拝説教
2022/7/3 礼拝説教
【テーマ】  第六戒~八戒・法律違反するな
【説教題】 「法律の裏側にあるもの」
【聖書箇所】 出エジプト記20:13-15
20:13 殺してはならない。
20:14 姦淫してはならない。
20:15 盗んではならない。

○ 今日は十戒の第六戒~八戒を見ましょう。今まで見てきた戒めはいわゆる一般的な法律に触れませんでした。今日の三つの戒めは現代の法律にも触れるものです。
 
Ⅰ.殺してはならない
A.殺すこともある
1.神は 殺してはならない と当たり前のことを言われますが、誰もがご存知のように旧約聖書では神が殺すことを命じておられるところが多々あります。ですから、この 殺してはならない という当たり前の戒めに込められた神の意図が何かを知りたいものです。
2.殺人と言っても故意にでは無く「過失致死」があります。それに対しては 出エジプト記21:13 ただし、彼に殺意がなく神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに、彼が逃れることができる場所を指定する。 と逃れの町を規定し、ヨシュア記で実行されています。
3.罪を犯したアダムとエバを神は殺しはされませんでした。しかし、ノアの時代の大洪水は大変な裁きとなりました。罪が満ちた時には神のこうした裁きもあるようです。それが後の時代にはイスラエル人を通して行われることもあったということです。だからといって神が殺人を認めておられるわけではありません。

B.敵をも愛する愛を!
1.イエスは マタイ5:21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。 と言われました。そうです、兄弟に対して怒る者  兄弟に『ばか者』と言う者 は裁かれるのです。内的殺人と言うか、言葉においてもなのです。誰もが「いじめ」のひどさをご存知ですが、自殺に追いやるような言葉、こころに大きな傷を負わせるような言葉を神は望んでおられません。
2.イエスはまたこうも言われました。 マタイ5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 と。殺してはならないの裏側にあるのは「愛しなさい」なのです。
3. 殺してはならない。 の言葉の裏に神の熱い願いがあることを覚えたいです。いのちはとても大事で人が勝手にそのいのちを左右してはならないのです。神がどれほど人のことを思っておられるか、自分は神に愛されていることを覚えたいですね。

Ⅱ.姦淫してはならない
A.夫婦にしか認められていない関係
1. 箴言6:32 女と姦淫する者は良識がない。自分自身を滅ぼす者がこれを行う。 とあります。男女の性の問題は人を滅ぼすことになりかねません。性の関係は夫婦の間では祝福であり、子孫の繁栄ともなります。しかし、いつの時代にもどこの国でもこの夫婦以外の性の問題は無くなりません。
2.思春期のユース達にとって性に関する関心はすごいものです。しかし、その誘惑にはまり込むと時には一生を無にしてしまいます。それほどこの問題は大きいものです。最近「性教育」が重要視されています。それも幼い内から家庭で始めるべきだというのです。そして、プライベートゾーンを大事にすることを教えて性的被害を防ぐようにも教えるのです。

B.夫婦はしっかり愛し合おう
1. 姦淫してはならない。 の裏には「姦淫さえしなければよろしい」という話では無く、夫婦こそしっかり愛し合って欲しいということがあるのです。結婚式で誓約していただくのは、 あなたは、この結婚が神の御旨によるものであることを確信しますか。あなたは神の教えに従って、夫(妻)としての分を果たし、常に妻(夫)を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健康の時も、病いの時も、富める時も、貧しき時も、いのちの日の限りあなたの妻(夫)に対して堅く節操を守ることを約束いたしますか。 という文面です。これは何があっても伴侶を愛して欲しいという神の思いから来ているのです。
2.イエスは マタイ5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。 と言われました。心の姦淫です。男性は女性よりも何倍も性の誘惑が多いです。サタンはこの用いやすい誘惑を仕掛けてきます。「愛」の本質をしっかり御言葉から学び、御言葉で悪魔の誘惑を退けましょう。

Ⅲ.盗んではならない
A.人間を盗む罪
1.これも当たり前ですが、現代では盗むことにも色々あると思います。間違って自分の口座に多額のお金が振り込まれたのを勝手に使った事件がありましたが、盗んだのでしょうか? この聖書の盗むというのは所有権を犯すことです。泥棒、詐欺、万引きはもちろんで、借りたものを返さない、電車のキセル、脱税、試験のカンニングもこれに当てはまるのです。また、飽食、浪費もぬすんでいることになると言う人もいます。
2.「盗む」はヘブル語で「ガナーブ」と言います。これは「人間を盗む」という意味を持っているそうです。正に誘拐、奴隷です。つまり、人権無視、人格を尊重しないことがこれに当てはまるようなのです。ユダがイエスを銀30枚で売ったのもこれになるのです。

B.神のものを盗む罪
1.さて、私たちは神のものを盗んではいないでしょうか?  マラキ3:8 人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。 という有名な御言葉はどうでしょうか?
2.そして、盗んではならない。 の裏にある神のみこころは神のものは神にお返しし、ザアカイのように心入れ替えたなら、与える人になることではないでしょうか。与えるのはお金やものも大事かも知れませんが、私たちが救われたのは誰かの祈りによってです。そして福音を聞いたからです。私たちはそれを与えないことが盗みですから、積極的に愛をもって祈り、福音を語ることなのです。

★ 「ならない」と続きますが、その裏に神の熱い願いがあることを覚えたいです。正に神と人を愛することが神の願いなのです。

生きることはキリスト

2022-06-25 07:05:59 | 礼拝説教
2022/6/26 礼拝説教
       召天者記念礼拝
【説教題】 「生きることはキリスト」
【聖書箇所】 ピリピ1:21-25
1:21 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
1:22 しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
1:23 私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。
1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。
1:25 このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。

○ 今日の礼拝は召天者記念礼拝としました。昨年、一昨年とコロナで延期しましたので、今日となりました。昨日は村上知子先生の召天19年でした。2003年に70才で亡くなられた村上知子先生、生きておられれば89才です。
 
Ⅰ.死ぬことは益
A.扉一枚開ければ天国よ
1.パウロはなぜ 死ぬことは益です と言うのでしょうか。簡単に言えば、パウロは死ねば天国へ行けることがわかっていたからです。天国ほどすばらしいところはないのですから。
2.村上先生も死を恐れておられませんでした。むしろまるで友達のように思っておられるかのように、「扉一枚開けて向こうに行くだけなのよ」と微笑んで言われるのは天国が見えているかのようでした。

B.死ぬことは益でも・・・
1.パウロは福音のために大変な迫害に遭い、体もボロボロだったと思います。精神的にもきつかったことでしょう。死ぬことはそういう地上の全ての煩わしさから解放されて完全な平安の天国へ行けるのですから 死ぬことは益 なのです。
2.皆さんにとって 死ぬことは益 ですか? 自分が行くべきところがどこかわかっていらっしゃるでしょうか? しかし、だからといって自ら死を早めることは問題です。パウロも 死ぬことは益 でも、それを最優先にはしませんでした。

Ⅱ.生きることはキリスト
A.私の働きは実を結ぶか?
1.皆さんにとって生きることは何ですか? 「生きることは仕事」「生きることは家族」「生きることは趣味」等々。どれも虚しいとは言いませんが、それが最高かどうかということです。
2.パウロが 生きることはキリスト と言うのはどういうことでしょうか? キリストのためにいのちをかけているからです。パウロは 肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになる と言っています。つまり彼の生きることは福音の前進、福音の広がりなのです。村上知子先生も同じだったと思います。
3.私たちはこの地上に生きていて、パウロの言うように 私の働きが実を結ぶことになる と言えるでしょうか。

B.他の人の信仰の前進と喜びのため生きる
1. 生きることはキリスト と言ったパウロは、天国のすばらしさを思いつつも、 1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。1:25 このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。 と言うのです。パウロが生きていることで信徒の信仰の前進と喜びになるというのです。私たちの周りにもそういう方がおられます。
2.年配の方の信仰を知ることは大変な励みになるものです。もし村上知子先生が今も生きておられたら、「生きることはキリストよ!」と言って、私たちを励ましてくださったのではないでしょうか。

Ⅲ.必ず会えるという希望
A.短いこの世の人生の人たちも
1.死というのは何も年をとって死ぬ人ばかりではありません。赤ちゃんで亡くなった人を何人見てきたでしょうか。やはり辛いものです。
2.しかし、私たちが平安をいただけるのは必ず天国で会えるという希望があるからです。0才、1才、2才で死んでしまった子、7年前に14才で死んでしまったA君、本当に辛いですが、みんな天国で平安の中を生きていると知っているので、私たちは慰められるのです。そして、この子達の短い人生から多くのことを感じさせられ、学ばせられるのは、短くても 生きることはキリスト だったからです。

B.故人を思い起こすことで
1.「召天者記念礼拝とは何だろう?」と、何度も考えましたが、私たちは亡くなった方を崇めたりはしません。しかし、故人との様々な関わりを思い起こして改めて感謝する時かと思います。また、故人を思い起こすことで、その方を愛してくださった神の愛を思う時でもあると思います。
2.その神に喜ばれる生き方をするのはパウロや村上知子先生の思いと一緒ではないでしょうか。

★ 人は必ず死ぬわけですから 死ぬことは益です と言える死に方をしたいものです。そのためにはこの地上での生きることは大変でも 私にとって生きることはキリスト と生きることです。

生きることはキリスト

2022-06-23 07:40:33 | 礼拝説教
2022/6/26 礼拝説教
       召天者記念礼拝
【説教題】 「生きることはキリスト」
【聖書箇所】 ピリピ1:21-25
1:21 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
1:22 しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
1:23 私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。
1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。
1:25 このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。

○ 今日の礼拝は召天者記念礼拝としました。昨年、一昨年とコロナで延期しましたので、今日となりました。昨日は村上知子先生の召天19年でした。2003年に70才で亡くなられた村上知子先生、生きておられれば89才です。
 
Ⅰ.死ぬことは益
A.扉一枚開ければ天国よ
1.パウロはなぜ 死ぬことは益です と言うのでしょうか。簡単に言えば、パウロは死ねば天国へ行けることがわかっていたからです。天国ほどすばらしいところはないのですから。
2.村上先生も死を恐れておられませんでした。むしろまるで友達のように思っておられるかのように、「扉一枚開けて向こうに行くだけなのよ」と微笑んで言われるのは天国が見えているかのようでした。

B.死ぬことは益でも・・・
1.パウロは福音のために大変な迫害に遭い、体もボロボロだったと思います。精神的にもきつかったことでしょう。死ぬことはそういう地上の全ての煩わしさから解放されて完全な平安の天国へ行けるのですから 死ぬことは益 なのです。
2.皆さんにとって 死ぬことは益 ですか? 自分が行くべきところがどこかわかっていらっしゃるでしょうか? しかし、だからといって自ら死を早めることは問題です。パウロも 死ぬことは益 でも、それを最優先にはしませんでした。

Ⅱ.生きることはキリスト
A.私の働きは実を結ぶか?
1.皆さんにとって生きることは何ですか? 「生きることは仕事」「生きることは家族」「生きることは趣味」等々。どれも虚しいとは言いませんが、それが最高かどうかということです。
2.パウロが 生きることはキリスト と言うのはどういうことでしょうか? キリストのためにいのちをかけているからです。パウロは 肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになる と言っています。つまり彼の生きることは福音の前進、福音の広がりなのです。村上知子先生も同じだったと思います。
3.私たちはこの地上に生きていて、パウロの言うように 私の働きが実を結ぶことになる と言えるでしょうか。

B.他の人の信仰の前進と喜びのため生きる
1. 生きることはキリスト と言ったパウロは、天国のすばらしさを思いつつも、 1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。1:25 このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。 と言うのです。パウロが生きていることで信徒の信仰の前進と喜びになるというのです。私たちの周りにもそういう方がおられます。
2.年配の方の信仰を知ることは大変な励みになるものです。もし村上知子先生が今も生きておられたら、「生きることはキリストよ!」と言って、私たちを励ましてくださったのではないでしょうか。

Ⅲ.必ず会えるという希望
A.短いこの世の人生の人たちも
1.死というのは何も年をとって死ぬ人ばかりではありません。赤ちゃんで亡くなった人を何人見てきたでしょうか。やはり辛いものです。
2.しかし、私たちが平安をいただけるのは必ず天国で会えるという希望があるからです。0才、1才、2才で死んでしまった子、7年前に14才で死んでしまったA君、本当に辛いですが、みんな天国で平安の中を生きていると知っているので、私たちは慰められるのです。そして、この子達の短い人生から多くのことを感じさせられ、学ばせられるのは、短くても 生きることはキリスト だったからです。

B.故人を思い起こすことで
1.「召天者記念礼拝とは何だろう?」と、何度も考えましたが、私たちは亡くなった方を崇めたりはしません。しかし、故人との様々な関わりを思い起こして改めて感謝する時かと思います。また、故人を思い起こすことで、その方を愛してくださった神の愛を思う時でもあると思います。
2.その神に喜ばれる生き方をするのはパウロや村上知子先生の思いと一緒ではないでしょうか。

★ 人は必ず死ぬわけですから 死ぬことは益です と言える死に方をしたいものです。そのためにはこの地上での生きることは大変でも 私にとって生きることはキリスト と生きることです。

親を敬う人は神を敬う人だ

2022-06-09 08:23:43 | 礼拝説教
2022/6/12 礼拝説教
【テーマ】  第五戒・父母を敬え
【説教題】 「親を敬う人は神を敬う人だ」
【聖書箇所】 出エジプト記20:12
20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、【主】が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。

○ 来週は「父の日」です。今日は十戒の第五戒「あなたの父と母を敬え」を見ることにします。親を尊敬しているかを20代の人に聞いた調査では「父親を尊敬している」人74%、「母親を尊敬している」人87%だったそうです。今さら「あなたの父と母を敬え」という教えをしなくても良さそうな数値です。親を敬うように教えるのは何も聖書だけでも、キリスト教だけでもありません。むしろ一般的と言えるのかも知れません。しかし、聖書が、十戒を通してでも命じるには大事な意味があるように思えます。
 
Ⅰ.なぜ父と母を敬うのか?
A.幸せになると言う約束だから
1.今日の御言葉、十戒の第五戒は短いです。 あなたの父と母を敬え という命令に続いて、その理由が書かれています。 あなたの神、【主】が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである と、命令を守るなら幸せに過ごすことができるという、理由は実に明解です。敬うというのは尊敬の念を持つことだけでなく、従う事も意味します。
2.なぜ父と母を敬えば幸せになるのか? それは神のお考えだからです。というのは親は愛をもって子どもを育てます。赤ちゃんは愛されないと生きていけません。私たちが今あるのは親に愛されたからです。特に母親は赤ちゃんがお腹にできたときから「いとおしくてたまらない」というホルモンが出るようになっています。出産時にはそのホルモンが爆発的に出てくるのだそうです。

B.親は神の代理人だから
1.本当の幸せというのは新中野キリスト教会の今年の標語にあるように「神と共に歩む」ことです。この見えない神を子どもにわからせるのが親なのです。親の愛は神の愛に近いからで、子どもにとって親は神の代理人なのです。親の権威から、神の権威を学び、社会の規律、権威を学びます。それは社会的にも幸せな生き方ができるためです。
2.また、親はその信仰生活において大先輩です。子どもは親の信仰から学ぶことが出来るからです。そして、子どもにとって親は神の代理人だからです。ということは親は神のように子どもを愛さねばならないということでもあります。

Ⅱ.父と母を敬うだけで良いのか?
A.神にこそ従うべき
1.イエスは地上の両親に従われました。もちろん天の父にも従われました。私たちにとってもそのことはとても大事なことです。神の代理人である親ですから、親から神を敬うことを学ぶわけです。つまり神を礼拝することを学ぶのです。
2.イエスを語ってはならないと言われた弟子達が何と言ったでしょうか。 使徒5:29 ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。 と。地上の権威は大事なのですが、最大の権威者である神にこそ従うべきなのです。私たちは日々、このお方を敬って生活しているでしょうか?

B.教会を大事にすること
1.自分の教会を母教会と言いますね。そして、神のことを「天のお父様」とも言います。私たちは天の父と地上の教会を母として生まれた神の子と言えるのです。
2.ですから単に親孝行するというだけの話ではなく、信仰の先輩達を敬うということが大事です。パウロはテモテに Ⅰテモテ5:1 年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人には兄弟に対するように、5:2 年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように、真に純粋な心で勧めなさい。 と、教えているように、教会は大事な家族なのです。もちろん、神より教会を大事にするのは問題です。

Ⅲ.敬えない親のためにできることは?
A.問題のある親がいる
1.親の愛は神の愛に近いと言いましたが、現代の虐待に見られるように子どもを正しく愛さない親もいます。その親を敬い・従う事はできないかも知れません。親は神の代理人ですから、神の愛で子どもを愛してこそ子どもから敬われるのでしょう。
2.しかし、いくら酷い親であっても産み育ててくれたのですから、その親のために祈ることは大事なことなのです。救いを祈るべきなのです。祈りは愛ですから、祈ることを通して敬うこともできます。

B.聖霊の愛で愛し、祈る
1.しかし、酷い親だと祈ることもできないと思うかも知れません。その通りです。人間的な愛だけではできないのです。イエスが単なる人間なら私たちの身代わりに十字架にかかるような愛は持てなかったでしょう。それができたのはイエスが神であるからですが、聖霊の愛がそうされたのです。
2.私たちも人間的な愛を越える聖霊の愛が満ちると愛することができるようになります。また、普通に敬うことのできる親であっても、やはり聖霊の愛で愛し、祈ることが大事なのです。

★ 父と母を敬うのは、私たち自身の幸せのためですが、それは愛の祈りによって親も幸せになるからです。そして、愛は膨らみますから、親だけを愛して留まらず、教会のみんなを愛し、人々を愛していくように祈りが深まるのです。


安息日は礼拝する日です

2022-06-02 07:36:35 | 礼拝説教
2022/6/5 礼拝説教
【テーマ】  第四戒・安息日を守る
【説教題】 「安息日は礼拝する日です」
【聖書箇所】 出エジプト記20:8-11
20:8 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
20:9 六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。
20:10 七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。
20:11 それは【主】が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

○ 今日はウエルカムサンデーです。私たちキリスト教会は日曜日に礼拝しています。現代は日曜日も休みでないところが増えましたし、夜間の仕事も増え、仕事を休みにできる日はそれぞれ違う形になってきました。とは言え、基本的に日曜日は休みです。これはキリスト教のお陰だと言う人もいます。そんなに昔でない日本では、週休という考えはなかったようです。それこそ「丁稚奉公」があった頃、貧しい農村の子どもは小学校を出ると5年契約くらいの年期奉公に出されたのです。5年間働いて200-300円位(現在の300-500万円位)のお金が大体前金で親に渡されて、本人は毎月ほんのわずかな小遣いをもらう程度で5年間住み込みで働いていました。年に2回「藪入り」の時だけ数日間休めたのです。
 
Ⅰ.安息日はどんな日?
A.神の安息の日
1.なぜ安息日ができたのかというと、この十戒で神がそのように命じられたからですが、その理由として挙げられているのが、神が天地創造を6日間でなさって、 七日目に休んだからである とあります。そして、 七日目は、あなたの神、【主】の安息である と言われているのが目に留まります。
2.しかし、神は聖書の至る所でわかるように寝ることも休むこともしないお方です。とすればこの安息日や休むということについて考える必要があると思います。神は6日間の創造の最後に創られたアダムとエバと親しい交わりをもたれました。それは安息日であったかも知れません。安息日は仕事などを休み、神と過ごす日であって、自分勝手な休日ではないということでしょう。

B.救い出されたことを思い起こす日
1.さらに安息日は 申命記5:15 あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は安息日を守るよう、あなたに命じたのである というように奴隷から救い出されたことを思い起こし、感謝する日と定められました。
2.今は私たちが罪の奴隷から救い出されたことを思い起こす日ということも言えるでしょう。

Ⅱ.安息日はとても大事な日
A.安息日は礼拝する日
1. 安息日 のヘブル語「シャバート」は「休む」「中止する」という意味で、 安息日 は休みの日ということです。そして 聖なるものとせよ は、区別することを意味しています。ですから 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ というのは「休みの日を思い起こして、これを他の日と区別しなさい」という意味になります。
2.そこで、この日は「聖日」とも呼ばれ、礼拝する日なのです。 エゼキエル46:3 民衆も、安息日と新月の祭りの日には、その門の入り口で【主】の前に礼拝をする。 と言われています。この日は他の日とは違うのです。ですから、 イザヤ56:2 幸いなことよ。安息日を守って、これを汚さず、どんな悪事からもその手を守る人は。 と、守る者は祝福されます。

B.守らなければ殺される
1.そして安息日を守らないならどうなるのかも書かれています。 出エジプト31:14 あなたがたは、この安息を守らなければならない。これは、あなたがたにとって聖なるものだからである。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者はだれでも、自分の民の間から断ち切られる。31:15 六日間は仕事をする。 しかし、 七日目は【主】の聖なる全き安息である。 安息日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。 と守らなければ殺されたのです。
2.今、私たちはそのような律法に縛られていません。土曜日安息日ではなく、イエス様の復活を思い起こして日曜日に礼拝します。かといって、日曜日に仕事をしたら殺されるわけではありません。イエス様によって真の自由を得たからです。私たちは自分の自由意志で神を礼拝するようにされたのです。

Ⅲ.安息日はイエスと私たちの日
A.安息日とイエス様
1.イエス様は安息日に病人を癒されています。それがために律法学者達から責められました。なぜかというと学者達が安息日の守り方を考えて自分たちで考え出した決まりごとがあったからです。イエスの行為はその決まりごとに反するということで責めました。しかしイエスは マルコ3:4 それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」 と言って、癒されるのです。
2.その前の章の最後ではイエスは マルコ2:27 そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。2:28 ですから、人の子は安息日にも主です。」 と言われています。安息日の積極的な捉え方を言われています。律法学者達が「安息日には〇〇をしてはならない」と言って人を苦しめましたが、イエスは人のために真の安息を与えられました。

B.日曜日の過ごし方
1.現代はユダヤ人の守る土曜日安息日と私たちの休みとする日曜日が同じとは言えませんが、この日は主の安息であり、私たちのためにもあるとすれば神と親しく過ごし、エネルギーを回復するときであり、神のみこころを思う時でもあるのです。
2.聖日ですから礼拝すべきです。何にもまして私たちのすべきは礼拝です。ただ、礼拝は聖日礼拝に留まらず、今や私たちは毎日個人的な礼拝ができます。できることなら仕事や学校に出かける前に短い時間でも静まって御言葉と祈りの時間を持つといいですね。

● 休むということはとても大事です。私は教会に2年間行かなかったことがあります。どんどん信仰は消えていきました。本当に飢え渇いてアッセンブリーの高槻キリスト教会に行った時、私は水を得た魚のようでした。聖日礼拝しないと私はダメでした。

★ 神は神が私たちと心身霊共にエネルギーを回復するように安息日を設けてくださいました。そして神は積極的に私たちと交わりを持ってくださいます。私たちも積極的に聖日礼拝を守りましょう。